権力を固めた北条時頼と、待望の男児・時宗の誕生
前回まではモンゴルの話が続いていましたが、今回は目線を日本に戻します。舞台は鎌倉、北条得宗家の物語です。
父にあたる北条時頼は、若いうちから自分の対抗勢力になりそうな人物を、反乱を起こす前の段階で潰していました。難癖をつけて殺したり追放したりして、権力を固めつつあった人物です。
そんな時頼の正室が男子を産みます。幼名は聖寿、これがのちの北条時宗です。1251年5月15日の誕生でした。
クビライが高麗を従えていた頃、時宗はまだ10歳ほど。モンゴルの動きと時宗の成長が、少しずつ同じ時間軸に近づいていきます。
血の濃いサラブレッド、時宗の出自と名前の序列
時宗はまさにサラブレッドの家系でした。母は北条重時 ── 北条泰時の弟。時頼を連署として支えた人物で、時宗の母方の祖父にあたりますの娘で、重時は父方の祖父・泰時の弟にあたります。
つまり時宗は、父方が北条得宗家の嫡流、母方も北条一門の傍流という、北条の血が非常に濃い生まれでした。
しかも北条やし。
大丈夫かっていうぐらい血が濃いですけど。
時宗には側室の子である兄・北条丸がいました。しかし正室の子として初めての男児だったため、最初に生まれた男児ではないのに、家柄的な序列は時宗が一番だったのです。
楊さんは、当時の武士の家の男の子の名前について補足します。生まれた時は幼名で呼ばれ、元服 ── 男子が成人したことを示す儀式。時宗は7歳で元服しましたを経ると仮名と実名が与えられました。
実名で自分を呼んでいいのは目上の人とか上司とか、そういったものですね。
時宗の仮名は「相模太郎」でした。兄がいるのに太郎、つまり長男を意味する名がついているところに、家柄的な序列が表れています。
一方、兄の北条丸は元服後に北条時資となり、仮名は「三郎」でした。名前は生まれた順ではなく、家柄と生まれ順の両方で決まっていたのです。
弟たちも、宗政が四郎、宗頼が七郎で、番号は三、一、四、七という並びになりました。二郎や五郎などは飛ばされています。
二郎とか五郎とかどこ行った?
なんか飛ばしたっぽい。
深井さんによれば、兄が三郎で時宗が太郎なのは、あえて二郎を空けることで、序列に相当な差があることを見せているらしいといいます。相模太郎の「相模」は、時頼が治めていた今の神奈川県のエリアにちなむ地名です。
跡目争いを防ぐための序列づけと、生まれる前からの期待
こうした番号による序列づけは、跡目争いが起きないように時頼が気を配った結果でした。もっとも、それでも争いは絶えず起きていくことになります。
跡目争いが発生しないようにしたのに、バチバチで争います。
時宗はサラブレッドだけあって、その出生は非常に期待されていました。その期待ぶりは、かなりのボリュームで記録に残っているといいます。
母の妊娠がわかると一大騒動が起きました。殺生を禁ずる命令が出され、仏像を作らせて供養も行われました。
さらに陰陽師も動員され、泰山府君の祭り ── 陰陽道で最高クラスとされる、健康長寿を祈る儀式も催されました。大般若経を最初から最後まで読み通すなど、神と仏の力を総動員して無事な誕生が祈られたのです。
誕生の時も大盛り上がりで、北条一門の年寄も若者も数え切れないほど参上したと伝わります。まさに待望の男児でした。
7歳で元服、11歳で結婚、着実に進むエリート街道
サラブレッドとして生まれた時宗は、着実に執権への道を歩みます。6歳で家督を継承し、翌年7歳で元服しました。
もう社会人ってことだもんね。
元服の際に烏帽子親 ── 元服する者に烏帽子を被せる後見人で、もう一人の父親のような立場。仮名と実名を与える役目も担いましたを務めたのは、当時の将軍・宗尊親王でした。
宗尊親王は皇族です。番組ではここで、鎌倉の将軍の変遷が説明されます。トップ5の貴族から連れてきた摂関将軍が二代で終わり、その後は天皇家というさらに上の血筋から将軍を迎えるようになっていました。
すげえな。天皇家が将軍し出したらわけわからん。
時宗の「宗」は、この烏帽子親である宗尊親王の「宗」から取られています。烏帽子親は仮名と実名を与える、父代わりの重い役割でした。
1261年、時宗は11歳で結婚します。相手は、時頼の時代に他の有力御家人を倒す際に協力した、北条家と親しい安達家の娘・堀内殿で、当時10歳でした。
初恋ぐらいの年齢やん。
この結婚によって、北条得宗家と安達氏の結びつきはますます強固になりました。北条家と安達家が、鎌倉幕府の中で極めて強い力を持つ状態になっていきます。
結婚の翌日、将軍の前で成果を出した傘懸のエピソード
結婚にまつわる印象的な逸話が、傘懸のエピソードです。結婚の翌日、将軍・宗尊親王が見ている中で、傘懸が行われました。
傘懸は、いわば流鏑馬 ── 馬に乗りながら走行中に的へ弓を射る武芸の的をずっと遠くにしたようなもので、走る馬から遠い的を射る、武士の技量が強く試される競技でした。
当時は娯楽が少なく、こうした競技はみなの楽しみでした。武芸を披露する場であり、勝つことは大きな名誉です。将軍と執権である時頼がそろう、幕府の最も偉い人たちが集う場でもありました。
その場で、的が近い「小傘懸」を時宗にやらせようという話になります。結婚の翌日、偉い人が全員そろう大会に、いきなり呼び出されたのです。ここで的を外せば大きな恥になります。
もう恥なんですよ。
時宗は一度目は外したものの、二度目でしっかり的に当てました。すると場は大いに沸き、時頼は自分の家を継ぐべき器だと親バカのように語り、烏帽子親の宗尊親王も感動したといいます。
ホープやん。
将軍と、烏帽子親であり父でもある人物が見守る前で、いきなり成果を出してみせる。時宗は、日本のエリート中のエリートといえる存在でした。
10歳で長官職、そして父・時頼の早すぎる死
時宗は幼い頃から要職に就いていました。おそらく10歳以下の頃には小侍所 ── 御所の警護や、将軍のそばに仕える射手の選定などを担った部署の別当、つまり長官を務めています。
10歳の頃には政所の上首別当にもなりました。政所は行政や裁判を担ってきた組織で、決して軽い仕事ではありません。それを10歳で担っていたのです。
へー。まあもうエリートやね、これ。
そんな中、父・時頼が37歳の若さで亡くなります。時頼は19歳で執権となり、18〜19年ほど執権を務めた人物でした。
その在任中、時頼はライバルを殺し、前の将軍を追放し、自分の思い通りに動く将軍を据えるなどして、北条得宗家の権力を大きく強めました。トップ5貴族から来ていた摂関将軍を追放したのも、力をつけて発言し始めたのが邪魔になったからです。
早く亡くなったが、時頼はかなり自分の家に対して成果を出してると。
その時頼が37歳で世を去った時、時宗はまだ14歳でした。
14歳では早すぎた、連署からの執権就任
さすがに14歳での執権就任は早すぎたため、親戚の北条政村が執権に就任しました。政村はもともと連署、つまり副執権を務めていた人物です。
時宗は連署、つまり副執権に就きました。本来は若い者が執権、年長の親戚が連署というのがスタンダードですが、時宗があまりにも若かったため、この時は逆の形になったのです。
楊さんによると、時宗が15歳の時にもう一つのポジションが与えられます。それが相模守 ── 相模の国を治める長官職。歴代の執権が執権就任前に必ず任じられたポストでした。
相模守は元々、父・時頼が務めていたポストでした。歴代の執権が執権になる前に必ず任じられるポストであり、これに就いた時宗が、いずれ執権になることを示していたのです。
これがまだ相模の守になってなかったから執権になれなかったとも言えるんだろうね。
そして3年後、時宗は18〜19歳ほどで執権に就任します。この時、執権だった政村がふたたび連署に回り、役職が入れ替わりました。想定通りに事が進んでいきます。
評定衆と引付の弱体化、得宗の力を高める組織改編
時宗は若い頃から、フルアクセルで自分たちの権益と権力を固めていきます。その一つが、泰時が作った評定衆 ── 鎌倉幕府の合議機関。「鎌倉殿の十三人」の後継的な組織として泰時が正式に設けたものの権限を弱める動きでした。
時宗は評定衆のメンバーを固定制ではなく、番編成という入れ替わり制にしました。これによって権限が一人に集中せず、分散するようにしたのです。
さらに、同じ北条家の中でも得宗の力を高めるために、引付 ── 幕府への訴訟を円滑に処理するために設けられた役職。時頼の時代に設置されましたを廃止していきます。
引付はもともと裁判の迅速化のために作られましたが、得宗以外の北条氏に独占され、しかも彼らは若年でした。裁判の役割よりも、北条氏の出世の一階段という意味合いが強くなっていたのです。
引付を廃止することは、得宗以外の北条家の出世街道を潰すことでもありました。有名無実化していた役職をなくす形で、得宗の力が強められていきます。
役職に人ではなく、人に役職を当てる属人的な組織
深井さんは、こうした改編の速さに、鎌倉幕府の組織としての脆さを感じてほしいと語ります。評定衆も設置してすぐこうなり、引付も父の代で作ったものが時宗の代で有名無実化して廃止されているからです。
この時代の組織は、役職があってそこに人が任命されるのではなく、人間に役職を当て込んでいく感覚で、いまだ属人的だったといいます。
人間っていうのがまず先にいて。その人がいる間は処理できるし、その人のために役職を作ったんだけど、そこから先が続いてない。
深井さんは、これを現代のスタートアップにたとえます。同じCOOでも会社によって仕事内容がまるで違い、権限や範囲がその人の能力に合わせて決まる状態に近いというのです。
赤ちゃん的な組織、成熟してない組織っていうことを常に意識しておいてください。
一方で、深井さんはこれを一概に悪いとも言い切りません。現代人の多くは組織として脆弱だと感じるでしょうが、ほぼすべてのスタートアップがこの状態であり、柔軟性が高いという良さもあると指摘します。
柔軟性が高いという見え方もできる。
人がまず先にいて、その人のために役職を作る。柔軟だが、次の代へ続かず脆い
役職が先にあり、教育された人が代々当て込まれる。老練だが、成熟しすぎて動きにくい面もある
烏帽子親の将軍まで追放、親子で繰り返す排除
こうして得宗専制体制が整えられていく中で、時宗はなんと烏帽子親であった宗尊親王までも追放します。
はー、あらら。
この時、父の時代にも登場した名越氏 ── 北条氏の一族。時頼の時代にも反乱の疑いで追放された、得宗家に対抗しうる勢力がふたたび出てきます。父・時頼が追放しきれなかった名越氏を、時宗が自分の代で将軍とセットで追放したのです。
親子二代にわたって、将軍と名越氏を追放するという、まったく同じようなことが繰り返されました。
勉強しながら混乱したもん。あれ、これお父さんもやってなかった?と思って。やっぱりしてるんだよね。
追放の理由も強引でした。将軍が追放されたのは、その正室が浮気をしたからだといいます。家父長制の時代に、妻の浮気を理由に夫が職を追われるのは通常ありえないことでした。
実際には、名越氏が将軍と結びつき、北条得宗家を脅かす存在と見なされたため、難癖をつけて追放されたのです。行動原理は一貫していました。
もうリスクヘッジとしてとりあえず先手を打って、パパッと排除していくっていうね。
3歳の将軍・惟康親王を据える傀儡政権と、その維持コスト
時宗は、追放した将軍の代わりに惟康親王を将軍に迎えます。その年齢はなんと3歳でした。
これほど幼ければ将軍が発言することはできず、時宗は思うように政治を動かせます。深井さんは、幼い子どもには中長期の合理性を判断する力がまだないと、自分の娘とのやり取りを例に語ります。
20分後ぐらいの合理性を、まだ判断できないんですよ。
こうして時宗は、幼い将軍を担ぐ傀儡政権を作り、自分の好きなように政治を進められる状態を築きました。ライバルは前の将軍とともに追放済みです。
ただし楊さんは、権威として将軍を担ぐことには難しい事情もあると補足します。お飾りの将軍でも、維持するには相当なお金がかかるのです。
将軍は皇族であるため、お出かけや行事にはそれにふさわしい人員や装い、物品が必要で、その費用を幕府が負担しなければなりませんでした。これが幕府の財政をかなり圧迫したといいます。
負担は御家人にも及びました。将軍のお供をする御家人は、高価な装飾を身につけ、鎌倉への滞在費や移動費も自前で用意しなければならず、中にはお供をサボタージュする者も出てきたのです。
一方その頃、モンゴルからの使者が到来
烏帽子親であった将軍を追放していたちょうどその頃、モンゴルから使者が来ます。まさに「一方その頃」という展開です。
モンゴルから使者が来るっていうので、次回、それに幕府はどうするのかって話をしましょうか。
日本側はこの時点で、海の向こうのモンゴルをほとんど意識すらしていない状態でした。これまで別々に見てきたモンゴルと鎌倉の物語が、いよいよ次回で交差します。
まとめ
待望の男児として生まれた北条時宗は、7歳で元服、11歳で結婚と、着実にエリート街道を進み、評定衆や引付の改編、将軍やライバルの追放を通じて得宗専制を強めていきました。そして烏帽子親の将軍を追放していたその頃、モンゴルの使者が日本に迫ります。
- 北条時宗は正室の子として、生まれる前から後継者として期待され育てられた
- 名前の序列や相模守就任など、随所に「いずれ執権になる」ことが示されていた
- 時宗は評定衆の入れ替わり制化や引付廃止で、得宗以外の北条氏の力を削いだ
- この時代の組織は役職より人が先にある属人的なもので、柔軟だが脆いという両面を持つ
- 親子二代で将軍と名越氏の追放を繰り返し、幼い将軍を担ぐ傀儡政権が築かれた





