インドア派の子どもがコントラバスに出会うまで
番組パーソナリティのクワエリョウさんが、神奈川県鎌倉の自宅スタジオからお届けする「Watta! Itta!」。第207回のゲストは、声優・ナレーターの上原達裕さんです。
上原さんは那覇市の出身で、天久小学校、安里中学校へと進みました。子どもの頃は、どんなタイプだったのでしょうか。
そんなに活発な子供ではなかったんですけど、お兄ちゃんが運動部やってたり、お父さんが運動やらせたいみたいなので、空手やったり水泳やったりはしてたんですけど、どれもあんまり体動かすの好きじゃなくて。
結構、文化系のアニメ、ゲームが大好きなそういう子でしたね。
運動よりもアニメやゲームに親しむインドア派だった上原さんが、中学で出会ったのがコントラバスでした。もともとは吹奏楽部でドラムを担当していたといいます。
習い事でピアノを習い始めて、そこのピアノの先生がコントラバスやってみないかっていうことで、コントラバスを始めて。吹奏楽部に偶然コントラバスがあったので、触らせてもらおうと思って始めましたね。
コントラバスは、バイオリンの仲間で最も大きな弦楽器です。吹奏楽部では立って演奏するため、体力のない上原さんには大変な楽器だったと振り返ります。
僕、身長が今で159センチとかでちょっとちっちゃいんですけど、当時もかなりちっちゃくて。自分の身長より高い楽器をやらなきゃいけないので、運動も何もやってなかった自分には本当に体力のいる楽器でしたね。
合唱コンクールで芽生えた「みんなで音楽を作る楽しさ」
コントラバスを始めた上原さんが、音楽をプロの職業にしたいと思うようになったきっかけは何だったのでしょうか。
そのひとつが、テレビアニメ「響け!ユーフォニアム」でした。ただ、上原さんには就職への漠然とした不安もあったといいます。
音楽を普通に就職するの厳しいなってずっと思ってたんですよ。毎日同じところに行くの厳しいなって思ってたりもして。
自分がやりたいこと、すごい楽しいと思うことにはガーって打ち込めるんですけど、当時いらないなと思ってたことには打ち込めないことがあったので、音楽を職業にするって毎日違う風景を見れますし、自分で極めていくことができる。最高の職業だなと思いました。
決定的だったのは、転校した安岡中学校での合唱コンクールでした。転校してすぐに指揮者に立候補し、大きな成果を収めます。
転校してどこの馬の骨かもわからないやつが指揮者やりたいですって言って、合唱コンクールで指揮者やって、金賞、指揮者賞、ピアニスト賞、三冠を取ったんですけど。
そのみんなで音楽をやるっていう楽しさが、吹奏楽部と合唱コンクールで完全に固まった気がして。うわ、音楽ってこんな楽しいんだって。これを職業にしたいって思ったのはもう強くあったかもしれないですね。
16歳で単身上京、天才たちの中で味わった挫折
プロの音楽家を目指した上原さんは、国立音楽大学の付属高校の音楽科へ進むため、上京を決意します。中学2年から始めたばかりのコントラバスで、いきなり全国レベルの世界に飛び込むことになりました。
みんなガチでプロになりに来てるんだっていうのを感じて、すごい燃えたり、自分は耳もあんまり良くないし、始めたのも遅いしで、食らいついていけるのかなみたいな不安も同時にありましたね。レベルが高かったので。
クワエリョウさんが指摘したのは、その時点で上原さんのキャリアがまだ2年ほどしかなかったという事実です。
実質まだキャリア2年なので、中2からですから。
今考えたら、いい意味なのか無謀なのかわかんないですけど、すごいですね。
受験には実技テストもありましたが、上原さんはほぼ1年ほどしか演奏経験がない状態で臨みました。沖縄に移住してきたコントラバスの先生に教わり、学校もぎりぎりで通いながら練習を重ねたといいます。
名門・桐朋学園大学で抱いた「ソリスト」への葛藤
受験を突破した上原さんは、音楽の名門である桐朋学園大学へと進みます。しかし、そこでコントラバスとの向き合い方に迷いが生まれます。
コントラバスでプロになるには、オーケストラよりもソリスト、つまり一人で演奏する道を意識するようになっていったといいます。
コントラバスは僕は大好きですし、これだけ一生やるっていうのはできるなと思ったんですけど、プロになろうと思ったら、どっちかっていうとソロに、ソリストになろうっていう感じに意識が変わっていったんですけど。
ソリストになるのであれば、僕が思ってたピュアな、純粋にみんなで頑張っていこうっていう音楽とはちょっと違うかもしれないなって、高校に入った時点でなんとなく思ってたんですけど。
その違和感は、音大に入ってから確信に近づいていきます。中学時代に感じた「みんなで音楽を作る楽しさ」と、ソリストの道には隔たりがあったのです。
音大に入って1年半ぐらいやった時に、この業界で人生終わらせるのは僕は今違うかもしれないなとはなんとなく思い始めてましたね。
コロナ禍の没頭力が生んだプロゲーマーという肩書き
大学時代の迷いの中で、上原さんはもうひとつの顔を持ちます。人気ゲーム「大乱闘スマッシュブラザーズ」のスポンサー付きプロゲーマーとしての活動です。
きっかけは、高校3年から大学1年ごろのコロナ禍でした。外出も楽器の練習もままならない中で、もともと好きだったゲームに没頭します。
好きなことだったら無限にできるんですよね。だから1日、2日とかもうぶっ通しで、外にも出ないでご飯も食べないでぐらいやってたら、なんか上手くなり始めてしまって。
オンラインの大会に出るうちに声がかかり、個人スポンサーがつく形でチームに所属することになりました。
とある方にお声がけいただいて、個人でですけど、スポンサードするので、他にもこういう選手がいますけどどうですか?っていうお話をいただいて。じゃあちょっとやってみますっていうので、一応チームに入って。
使っていたのは、スマブラのトゥーンリンクというキャラクター。配信や解説動画も手がけていたといいます。好きなことには無限に没頭できるという上原さんの特性が、ここでも力を発揮しました。
チョーさんの舞台が呼び覚ました「音声表現」への情熱
スポンサー付きプロゲーマーになった上原さんですが、その道で食べていく難しさにも直面します。スマブラは任天堂の作品のため、大会で勝っても賞金を受け取ることができないという事情がありました。
専業スマブラプロゲーマーで食べていくっていうのはなかなか厳しいなと思っていたところもあったのと、やっぱ僕は人生がすごい楽しくなるのが一番だなと思ったので、何か自分が向いてて楽しく思えて、人生豊かにできる職業ないかなってずっと思ってたんですけど。
そんなときに出会ったのが、大先輩声優・チョーさんの舞台芝居でした。チョーさんは、上原さんがのちに所属する事務所・俳協の先輩でもあります。
チョーさんのお芝居を見て、声優さんってこんなに人の心を響かせて、お芝居で人の暗い部分も美しいものに見せることができる。かつ僕はずっと音が好きで、音楽もやってた中で、音声表現としてそれをしてる職業って他にないなと思って。
うわ、声優になりたいと思って。これは声優にならないといけないと思いましたね。
マスクを外せなかった人見知りが舞台芝居に目覚めるまで
後半では、沖縄でのお気に入りの場所から話が始まります。上原さんが必ず母親と訪れるのが、そば屋の「てんtoてん」と、レコードバー「バンビ」です。歌謡曲、とりわけTHE ALFEEが大好きだといいます。
話を声優への道に戻すと、上原さんはチョーさんに憧れて声優養成所に入ります。しかし、そこで待っていたのは、自分にとって意外な体験でした。
最初、舞台のお芝居をするので、養成所で。それが結構自分では意外だったというか。元々引っ込み思案な子でもあったので、ずっとマスクを僕つけて、人前でマスク取らないで生活してたので。
上原さんのマスク生活は、コロナ以前から続いていたといいます。人の目を見て話すことも苦手だった中で、舞台芝居という壁に直面します。
行事ごととか絶対外さないといけない時以外は、毎日ご飯食べる時もしてたぐらいなんですけど。
そんな自分が、いきなり舞台芝居をしなさいって言われた時に、体も動かないですし、目もなかなか見れないですし、相当ガチガチで、今これどうすればいいんだ?みたいなのはあったんですけど。
自分で他の人のお芝居を見て、自分でやってっていうのを繰り返していくうちに、だんだんそれも溶けていって、これやってくのすごい楽しいっていう風に心変わりしてきましたね。
俳協でナレーターとして得た評価と芽生えた責任
2年間の養成を経て、上原さんは憧れのチョーさんと同じ事務所・俳協にナレーターとして所属します。入った時点で、プロとしての自覚を強く求められたといいます。
入った時点で、君は養成所生ではなくプロだよっていう風にいろんな方に言われて。周りの方も勉強会でプロの方しかいないので、すごい読みが皆さん綺麗で、声も良くて、街から流れてきてもおかしくないっていうお声と読みで。
プロとしてお金をいただくことへの責任が芽生える一方で、上原さんは自分の声や読みに悩むようにもなります。声優はしばしば声色を大きく変えるからです。
自分の声って何なんだろうとか、自分の読みって一体何が自然なんだろうみたいなのに、今も悩んではいるんですけど、もちろん当時はさらに悩んでましたね。
そんな悩みに対して、上原さんは先輩から印象的な言葉を受け取ります。
声は変えるものではなく変わるものなんだよって。体が勝手に変わっていって、お芝居として成立するんだよっていうのをお聞きして、なるほどなって思ったりはすごいしますね。
クワエリョウさんも、シャア役の池田秀一さんとララァ役の坂本千夏さんと食事をした経験を挙げ、実際に会うと普通に話す姿に驚いたと語り、声のプロのすごさに二人で共感していました。
ナレーターとして評価されても手放せなかった「セリフ」への夢
上原さんが手がけていたのは、訪問ペット火葬のウェブCMなど、しっとりと寄り添うようなナレーションの仕事でした。しかし、本当にやりたいことは別にありました。
ナレーションも大好きですし、音声表現をするのも大好きなんですけど、やっぱり一番にやりたいのはお芝居で、セリフとしてアニメやゲームに出てお芝居をするっていうのが一番やりたいことではありますね。
なぜ俳協は上原さんをナレーターとして評価したのでしょうか。その理由は、彼の読みの特徴にありました。
僕の読みが割とストレートな読みをするっていう。ナレーションをやる時って、縁の下の力持ち的な、しっかりとした読み、説得力を求められるので、ストレートな読みができるのが大前提だよねっていうところで、ナレーターに向いてるんじゃないかなっていう。
事務所を退所しフリーへ。仲間の反対を押し切った一念発起
ナレーターとして評価された上原さんですが、セリフの仕事、つまり声優としての活動への思いを抑えきれず、今年4月に俳協を退所してフリーランスの道を選びました。
お芝居、セリフをやることに人生の喜びを今見出してるので、人生の軸としているのであれば、自分がやるのであれば、アニメ、ゲームをやっていきたいなっていうふうに思ってます。
声優が飽和状態と言われる世界で、安定した事務所を離れるのは思い切った決断でした。周囲の反応も一様ではありませんでした。
背中を押してくれる先輩ももちろんいましたけど、養成所の仲間とかからは、やめない方が絶対いいよっていう感じだったり、なんで辞めるの?みたいなのはあったんですけど。もう一念発起というか、思い切ってですね。
人生のバイブル『ダンガンロンパ』と沖縄への誇り
フリーとしてオーディションに挑む上原さんが掲げる大きな夢は、人気ゲーム「ダンガンロンパ」への出演です。
ダンガンロンパっていうゲームが人生のバイブルで、もうそのダンガンロンパに出れなきゃ死ねないとずっと思ってるので、ダンガンロンパに出るために有名な声優さんになりたいっていう気持ちが強いので、ダンガンロンパに出演するが僕の人生の大きな夢ですね。
もうひとつ楽しみにしているのが、クワエリョウさんが温めている沖縄のラジオドラマ企画への参加です。せっかちな性格だという上原さんは、沖縄のゆったりした空気に自分を変える手がかりを見いだしています。
沖縄のラジオドラマってお聞きした時に、皆さんゆったりされて、沖縄だ、いい空気だっていう感じがするので、そこで自分も参加していけたら、また自分の空気も一個変わるんじゃないかなと思ってすごい楽しみにしてますね。
最後に、上原さんはリスナーへ向けて、沖縄出身の声優としての誇りと覚悟を語りました。
まとめ
那覇市で生まれた上原達裕さんは、コントラバス、プロゲーマー、ナレーターと幾度もの転機を経て、今は声優としてフリーランスの道を歩んでいます。挫折や葛藤を抱えながらも、好きなことに没頭する力と「セリフで喜びを見出す」という軸を頼りに、夢に向かって挑戦を続けています。
- インドア派だった上原さんは、中学でコントラバスと出会い、合唱コンクールで「みんなで音楽を作る楽しさ」に目覚めた
- 16歳で単身上京し名門・桐朋学園大学へ進むも、ソリストへの道に葛藤を抱いて退学した
- コロナ禍にはスマブラのスポンサー付きプロゲーマーとして活躍し、その没頭力を発揮した
- 大先輩声優チョーさんの舞台に触れて声優を志し、極度の人見知りを乗り越えて俳協にナレーターとして所属した
- セリフの仕事への情熱から今年4月に退所し、ダンガンロンパ出演と「沖縄発の売れっ子声優」という夢に挑んでいる







