自ら「僕出ます」と手を挙げた、10X矢本真丈という人物
今回のゲストは、10Xの代表を務める矢本真丈さんです。手嶋浩己さんによれば、番組で初めて「僕出ます」と自ら手を挙げてくれたスペシャルゲストとのこと。
手嶋さんと矢本さんは、共通の友人知人が多く、お互い格闘技好きということもあってTwitter上でやりとりする間柄でした。ただ、ちゃんと話すのは今回が初めてだそうです。
矢本さんはまず、10Xの事業を紹介します。小売にネットスーパーのための基幹システムやプラットフォームを提供し、プロフェッショナルサービスをくっつけて小売をイネーブルングしていく事業だと話します。
創業は5年前で、今は6年目に入ったところ。この事業に変わったのがちょうどコロナの直前ぐらいで、そこから事業と会社が一気に伸びてきたと振り返ります。
なんか小売さんにネットスーパーのための基幹システムとか、プラットフォームだったり、プロフェッショナルサービスをくっつけて、彼らをイネーブルングしていくっていうような事業をやってます。
(事業が)変わったのがちょうどコロナの直前ぐらいで、そこから事業と会社が一気にごーっと伸びてきて、それに合わせて自分自身もいろんなマインドを変えさせてもらってるなっていう感じで今やらせてもらってます。
ラグビーからアメフトへ、アスリートへの憧れが原点
今回のエピソードのテーマは、ポッドキャストやブログではあまり出てこない、矢本さんの昔の話です。青森生まれの矢本さんは、東北大学でアメフトをやっていました。
ただ、大学に入る前からアメフトだったわけではありません。高校ではラグビーをやっていて、入った東北大学のラグビー部が弱かったのが転機でした。
(東北大学の)ラグビー部弱かったんですよ。だけどアメフトって大学から始める人が結構多い競技で。国立大なんだけどちょっと強かったんですよね。そこに惹かれて鞍替えしてやり直したっていう感じですね。
なぜラグビーやアメフトのような競技を選んできたのか。その根っこには、アスリートへの憧れがあったと矢本さんは語ります。
矢本さんは、青森で暮らしていた頃は本当はアスリートになりたかったと話します。ただ、身長も大きくなく体格に恵まれていなかったため、東北レベルには行けても全国には行けないという上限がありました。
その限界を超えて、一個活躍できる環境に鞍替えしてってるのは、どっかでやっぱりアスリート的なものへの憧れが一番強かったんじゃないかな。割と今もそれ引きずってる感はありますよね。
プレイヤーからコーチへ、才能が開花した大学院時代
矢本さんはアメフトを大学院まで続け、マスターまで出ています。ただ、修士の2年間はプレイヤーではなくコーチ業をやっていました。
コーチ業では、相手のスカウティング、作戦立案、練習メニューの作成、試合での指揮までを担当。矢本さんは、プレイヤー時代よりコーチのほうが自分は才能があると感じたと言います。
ビデオを撮ってスカウティングして、作戦立てて、選手がそれを遂行できるようにメニュー考えて、試合で指揮執るみたいな。個人的にはこっちのほうが自分は才能があるなっていう感じでしたね。
プレイヤー時代は副将を務めていた矢本さん。当時からリーダーシップがあったのか聞かれると、少し独特なタイプだったと明かします。
チームが忖度してる時に、一言ビシャって言って場が凍るみたいなのがよくあるタイプのリーダーシップでしたね。
手嶋さんは、その「忖度しないヤモト」は今も健在だと指摘します。矢本さんを最初に認識したのも、起業直前ぐらいのTwitterで、めっちゃ尖った発言をしている人だという印象だったそうです。
もう生まれた時からそういう性質は、多分その遺伝子の中にあったんだと思います。
無思考で進んだ大学院と、震災に揺れた就職活動
矢本さんはこの頃、ビジネスや起業とはほぼ無縁でした。その理由を「東北って結界が張られてるんで、そういう情報は入ってこない」とユーモアを交えて語ります。
東北って結界が張られてるんで、そういう情報は入ってこないんですよ。(学生時代は)アメフトのことしか知らなかったですね。
大学院に進んだのも、明確な意志があったわけではありませんでした。研究室の同期はほぼ理系で、98パーセントが院に進むため、自分も流されるように院試を受けて進学したと振り返ります。
就職活動がなんとなくもう分かってないんで、普通に流されて院試ってやつを受けて大学院に行くっていうので、やっぱ無思考でしたね。思考停止してそのまま上がってた感じですね。
その大学院時代、就職活動のタイミングで大きな出来事が起きます。マスター1年目の終わりの3月11日、矢本さんは仙台市で東日本大震災に遭いました。
一番早く内定を出したのが丸紅、無敵だった就職活動
震災の直前まで、矢本さんはボストンコンサルティングやNRIといったコンサル・シンクタンク系のインターンを受けていました。日本にはいろんな仕事があるらしいと知ったのもこの時期です。
コンサルと商社を受けておこうと考えていた矢本さんですが、地震で就職活動が全部止まり、もらっていた内定も一つ流れてしまいます。そこで、一番早く内定が出たところに行こうと決めました。
丸紅と、これ今だから言えるんですけど三菱商事と、これが最終面接の日程調整が同じ日に入ってて、このうちのどっちかが内定を先に出したほうに行こうって決めてたんですよ。
結果は、最終面接を終えたその日の夜に内定オファーが来た丸紅の勝ち。後から三菱商事からも内定の連絡があったものの、すでに承諾していたため断ったそうです。
手嶋さんは、この雑な就活で丸紅・三菱商事から即内定を得るのは相当すごいと驚きます。矢本さんは、自分は面接に強かったと分析します。
僕だって体育会系の副将でコーチもやってますから。理系の院生じゃないですか。こうタグがいっぱいついてるんですよ、自分に。
面接官のプロパティに合わせて話すことを変えれば、彼らにとって親和性が高いものが言えるみたいな状況だったなって当時は思ってましたね。
ウラン担当で感じた違和感、丸紅を1年で辞めた理由
丸紅で矢本さんが配属されたのは、エネルギー開発本部でした。担当は石油やガスではなくウラン。死ぬまでウランの可能性もある、本丸の部署でした。
ただ、時代の巡り合わせは厳しいものでした。入社は震災の直後で、世界中で原発が止まり、開発していたウランの売り先がなくなっていったのです。
地震の直後じゃないですか。なんで世界中で原発止まったんですよ。だからそこで開発してるウランを売る先がなくなったっていう。
キラキラした重要プロジェクトが、入社したタイミングでは減損プロジェクトへと変わっていく。矢本さんの中には、この仕事は誰のためにやっているのかという疑念が募っていきます。
この仕事って誰のためにやってるんだろうみたいな。地震で死にかけてるのに、死にかけた経験がある僕がなぜウランなんだみたいな。
自分が納得できないという思いから、矢本さんは「ちょっと申し訳ないけど辞めよう」と決断。半年目で転職活動を始め、ちょうど1年で丸紅を辞めました。
働いて初めて気づいた、自分の中のイデオロギー
手嶋さんは、就活の時点ではあまりイデオロギーを感じないのに、いざ毎日働いてみた瞬間に、矢本さんの中からイデオロギーが出てきたのではと問いかけます。
いざ働くってことを現実化した瞬間に、イデオロギーが自分の中から出てきたみたいな感じだったんでしょうか。
手嶋浩己 さんからの質問
矢本さんは、それはとてもいい表現だと同意します。自分が大事にしているものは、実際に働いてみて初めてわかったという感覚だといいます。
自分が大事なものって、働いてみてわかったんだなっていう感じだと思いますね。
その大事なものとは、社会に役立ちたいのにどう役立てばいいかわからない、役に立っている実感を感じられないという、丸紅で感じた折り合いのつかなさの裏返しでした。
NPOへの転職と、キャリアより納得を選んだ判断
丸紅を1年で辞めた矢本さんの次の転職先は、なんとNPO法人でした。手嶋さんは、ここから急にイデオロギーが強く出てくると指摘します。
自分が納得できるものを探そうと、矢本さんは業務中にもデスクトップリサーチを重ね、人に会いに行きました。当時のライフネット生命では、本社前で出待ちして新入社員に話を聞かせてもらうようなこともしたそうです。
いろいろな選択肢を探る中で、NPOという働き方と、自分が暮らした東北に貢献できる復興支援チームの存在を知り、矢本さんは「ピッと来て」すぐに応募しました。
一方で、1年目で東京に出て周りもキャリアを考える人だらけの中、給料や先のキャリアアップを考えなかったのか、と手嶋さんは尋ねます。矢本さんの答えは、先の背中に魅力を感じられなかったというものでした。
丸紅とかに行って、課長が40歳、部長が50歳で、自分のキャリアの先にあるのがこういう人たちの背中かって見た時に、あんまワクワクせんなって思ったんですよね。
最後はインディペンデントでもいいから、一人で独立しちゃってもいいから、そういう形で仕事ができるんだったら、今こっちのリスクを取ったほうがいいなっていう風に整理をして飛び込んだ感じでしたね。
手嶋さんは、この1年での意識の変化に、アントレプレナーシップを感じるエピソードだと評します。矢本さん自身も、大きな転機だったと振り返りました。
Googleと働いて芽生えた「プロダクトを作りたい」という自我
NPOでの活動は1年半ほど。この期間に矢本さんは、Googleの社員と一緒に仕事をする機会を得ます。矢本さんはこれを、めちゃくちゃラッキーな大きい転機だったと語ります。
Googleからファンドレイズし、オフィスも借り、社員と一緒に働く中で、矢本さんはプロダクトが世の中に与えるポジティブな影響の甚大さに当てられたといいます。
彼らの文化とか、プロダクトが世の中に与えるポジティブな影響みたいなものを生々しく感じられて。この時プロダクト作るようになりたいっていう自我が芽生えましたね。
具体的なエピソードとして、矢本さんは福島県のストリートビュー案件を挙げます。人が入れなくなったエリアの町長や県庁、復興庁と調整し、ストリートビューを走らせるビズデブ的な立ち回りを担いました。
その映像や画像を特設サイトで世界に発信すると、避難を強いられた住民や世界中の人々から、温かいメッセージが寄せられました。
その街に住みたいけど今避難しなきゃいけない人たちからも、今の街の姿を見せてくれてありがとうみたいなメッセージもいただいたし、世界の人たちからもいろんなメッセージが寄せられて。
ただ情報を発信するだけでなく、人にありのままを伝えることで価値を生み出す。Googleのプロダクトを使って東北の町に貢献する経験が、矢本さんにとって強烈な原体験になりました。
スマービーへ、プロダクトを作れる人になるための修業
プロダクトを作れる人になりたいと思った矢本さんですが、どうすればいいかはわかりませんでした。そんな中、Googleのプロジェクトで出会ったアクセラレーターの人から、ある人物を紹介されます。
紹介されたのが、スマービーを創業しようとしていた遠藤さんです。会社の登記は終わり、これから始めるというタイミングで、矢本さんはまずボランティアとして関わり始めました。
遠藤さんを選んだ理由の一つに、同じ東北出身という縁がありました。遠藤さんは山形県出身の東北大学の先輩で、矢本さんの復興支援NPOの活動にもリスペクトを持ってくれたといいます。
東北人ってこう土着があるというか、結界が張られてるぐらいなので、東京で会うとちょっと仲間意識があるというか、そういうところは結構あったなと思いますね。
当初、プロダクト作りは難航しました。エンジニアは2人だけで、毎日深夜からExcelに商品データを打ち込み、管理画面に手作業で入れ直すようなオペレーションが続いていました。
矢本さんはGoogle Apps ScriptのようなJavaScriptを学び、オペレーションの自動化を自ら手がけます。同時にユーザー獲得の現場にも立ち、顧客のインサイトを高い解像度で持つようになりました。
ママさんが集まるようなところに行ってブース出して事前会員登録つなぐとかやってたんで、どういう人が使うのか、どういう人に刺さるのかっていう顧客のインサイトも自分で解像度を持ってたんですね。
その積み重ねが認められ、2015年からは遠藤さんにプロダクトを任され、プロダクトマネジメントをゼロから学びながら実践していく機会を得ました。
上場前のメルカリへ、自分の再現性を確かめるための転職
スマービーはストライプインターナショナルにEXITし、矢本さん自身は上場前のメルカリに入社します。その理由は、自分の実力の再現性を確かめたいというものでした。
同じECでも、スマービーの月商が最も伸びた時で3000万ほどだったのに対し、メルカリは何ヶ月目かでGMV月次数十億という数字を出していました。この次元の違いはどこから来るのか、と矢本さんは強く知りたくなったのです。
これなんか僕ら的にはすごい地道に頑張って積み上げて3000万もできたって思いもあったんですけど、横見てみたらメルカリなんか何ヶ月目かでGMV月次数十億みたいなものをプレスで出されてたりして。この次元の違いは何で生まれてんのっていうのを知りたくなった。
スマービーの頃から次に起業したいという思いはあったものの、このまま進んで本当に成功できるのか不安もあった矢本さん。自分の現在地を確認し、ギャップを埋めるためにメルカリに入ったといいます。
4万枚のチケットから見えた、山田進太郎のコミットメント
メルカリでは、新規事業を数多く手がける部署に所属した矢本さん。中から見て何がすごかったのか、手嶋さんが尋ねます。矢本さんが挙げたのは、創業者のコミットメントでした。
矢本さんは、社長の器が企業の器だという話を、なんとなく本当なのではと感じていました。山田進太郎さんがどう会社に影響を与えているのかが、一番大きな発見だったといいます。
入社して初めの週、矢本さんは自作のウェブクローラーで、社内のチケット管理ツールRedmineから約4万枚のチケットを取得。番号順に見ていったそうです。
ナンバー1からちくちく見てくみたいなのをやってたら、一万何枚目ぐらいまで山田進太郎さんがコメントとかに出てきていて。(メルカリが)結構な規模になってマネタイズも始まってるぐらいまで出てくるんですよね。
そこで山田さんが語っていたのは、プッシュ通知キャンペーンの文言についての細かな指摘でした。矢本さんは、この人は一つも手を抜いていないのだと感じたと語ります。
会社を営んでいく上でいろんなたくさんのアジェンダがあるけど、この人はきっと一個も手抜いてないんだろうな。全部を握って、覚悟を持ってやってるんだろうなっていうのが垣間見えて。
なお矢本さんは、山田進太郎さんと直接話したことはありません。あくまで画面越しのアウトプットだけを見て、自分も覚悟を持ってやろうと起業を決めたといいます。
不安の塊の中での起業と、バーニングニーズハンティング
メルカリに1年弱在籍した矢本さんは、いよいよ起業へ向かいます。ただ、その心境は「全然不安の塊」だったといいます。
小さい子供がいて、二人目も生まれるタイミング。起業していいのか、キャッシュフローはやっていけるのか、みみっちいと言いつつも現実的な不安があったと明かします。
それでも、やらない後悔のほうが圧倒的に大きく見えた矢本さん。まず起業することだけを決め、その上でYコンビネーター的に「人が欲しがるものを作る」プロセスをちゃんと踏みたいと考えました。
本当にバーニングニーズというか、顧客の頭に火がついているような問題、実際に人間が抱えているような問題をハンティングするところからスタートしようって思って。
共同創業者となるCTOの石川さんとは、メルカリ在籍中からよくコーヒーを飲む仲でした。アイデアの壁打ちを重ねる中で、食の領域が石川さんの琴線にも触れ、なし崩し的に誘っていったといいます。
制限時間を逆算する、お金にならない事業との向き合い方
最初の事業は、献立が作れるアプリ「タベリー」でした。バーニングニーズがあり大きくなる事業を狙う一方で、短期的にはお金になりにくい。その不安をどう乗り越えたのか、手嶋さんが核心を突きます。
短期的に金を稼がなきゃいけないみたいなプレッシャーって、どういうふうに払拭してたんですか。
手嶋浩己 さんから
矢本さんの答えは「制限時間を決める」というものでした。まず自分が生きられること、次に会社が生きられることを分けて考えたといいます。
自分については、役員報酬を月30万円に設定し、その報酬で何ヶ月で家計がショートするのかを計算。お金を稼ぎ始めなければならない自分の制限時間を明確に引きました。
30万円でやっていった場合、何ヶ月で家がショートするのかを計算して、要は自分の制限時間みたいなのを決めたんですよ。
会社については、資金調達でキャッシュを増やせるのが大きな違いでした。創業融資に加え、エンジェル出資の1回目で1800万を調達します。
プロダクトを作るのが早かったこともあり、2回目のエンジェル出資では5000万が集まりました。潤沢なキャッシュを早期に作れたことで、意思決定までの期間を大きく伸ばせたといいます。
いつまでに前もって意思決定しなきゃいけないかってのは自分の中で明確に常に引いてて、そこのデッドに幸い今のところ引っかからずにこれたっていう感じですね。
誘惑を断てた理由と、掲げたビジョンが自分に跳ね返る
想定通りにいかないのがスタートアップです。手嶋さんは、機能を入れては外す試行錯誤の中で、短期的にお金を稼ぐ事業を作りたくならなかったのかと尋ねます。
全然あります。めちゃめちゃあります。めちゃくちゃあります。
その誘惑を断てたのは、やはり資金調達ができていたからだと矢本さんは振り返ります。VCから調達する手前までは、いらないプロダクトを作って出してみるような、うじうじした時期もあったといいます。
実際に作ったものの一つが「スクショ消し」でした。これはビジネスというより日曜大工の趣味で作ったもので、忘れてもらって構わないと矢本さんは笑います。
大きなビジョンを掲げてメンバーを集めた以上、カッコつかないことはできないという言霊も、自分に跳ね返ってきたと手嶋さんは指摘します。矢本さんも間違いなくあると同意しました。
何より、生鮮食品やスーパーマーケットのECという市場をどう爆発的に伸ばすかは、創業時からずっと同じ問いでした。その問いに集中できたことが、雑念を取り払う支えになっていました。
タベリーからStailerへ、思ってもみない形で見えたPMF
タベリーは、献立から買い物リストを作り、ワンクリックでネットスーパーに発注できる画期的なプロダクトでした。この機能から、Stailerの原型となるアイデアが生まれていきます。
当時、ネットスーパー側にはAPIがまったく用意されていませんでしたが、10Xは頑張って作ったシステムで注文をうまく通していました。手嶋さんが提携目的の商談だったのかと問うと、矢本さんは意外な展開を語ります。
思ってもみない形でPMFが見えてきたっていうのが結構実態には近くてですね。
10Xは、注文経由の売上の何パーセントかをアフィリエイトのように受け取る契約を、ネットスーパー各社と一社ずつ結びに行きました。ところが、思ってもみないカウンターオファーが返ってきます。
このネットスーパーの仕組みなんて僕らでもほとんど触れないのに、なんでこんなもん作れるの、これくれみたいな。契約してくださいって持ってった先全員から言われたんですよ。
BtoCのECとして広告費の掛け算のゲームを戦うつもりだった矢本さんにとって、これは大きな転機でした。問題はむしろ小売側にあり、そこに強いバーニングニーズがあると気づいたのです。
BtoBへの転換、ワクワクが不安を上回った瞬間
C向けをやってきた矢本さんにとって、BtoB(実態はBtoBtoC)への転換は葛藤があったはずだと手嶋さんは踏み込みます。営業や顧客との対話が必要な世界に、本当に踏み込むのか、と。
しかし矢本さんは、あまり葛藤を覚えていないと答えます。相手にする会社が、当時のTheSaaS的な企業とは毛色が違ったことが理由でした。
当時BtoBの代表格って言ったらFreee、Sansan、SmartHRだったんですけど、僕らが相手にしてる会社はちょっと毛色が違うぞと。セブン&アイ・ホールディングスとかイオンさんとか、ウォルマートとか、サイズが全然違うなと思って。
エンドユーザーであるカスタマーに向き合う軸はずらさない。それでいて、事業開発的な要素がなければ参入できない。矢本さんは、そこにワクワクしたと語ります。
これってすごい参入障壁が高いんじゃないかな、自分しか今んとこ世の中にできないんじゃないかなっていうのに、ちょっとワクワクしちゃったっていうのが当時の心情としては近いなと思います。
手嶋さんが挙げたような短期的な不安より、上位概念の動機が出てきたことで、そんなことすら考えなかった。前半戦は、こうしてStailerが生まれるまでの道のりで締めくくられました。
まとめ
アメフトに明け暮れた東北の学生が、震災と丸紅・NPO・メルカリを経てStailerにたどり着くまで。矢本真丈さんのキャリアは、アスリートへの憧れから始まり、働いて初めて気づいた「納得」への軸と、バーニングニーズを探し続ける姿勢で貫かれていました。
- アスリートへの憧れと「限界を超えて活躍できる環境へ鞍替えする」感覚が、矢本さんの原点になっている
- 丸紅で働いて初めて、社会に役立ちたいという自分のイデオロギーに気づき、キャリアより納得を選んでNPOへ転職した
- Googleとの協働で「プロダクトを作りたい」という自我が芽生え、スマービーで実践的にプロダクトを学んだ
- メルカリで山田進太郎さんの徹底したコミットメントに触れ、自分も覚悟を持って起業すると決めた
- 自分と会社それぞれの制限時間を逆算し、バーニングニーズを探す中で、タベリーからStailerへとピボットしていった







