野球とオンラインゲームに熱中した首里の少年時代
知念裕也さんは那覇市首里の出身で、上棟小学校、首里中学校、首里高校を経て、慶應義塾大学への進学を機に上京した人物です。番組では、その歩みを子供時代からたどっていきます。
小学校時代は少年野球に打ち込んでいましたが、中学からはテニスに転向します。きっかけは野球肘でした。
野球肘で当時キャプテンだったのに、投げれなくなって。投げ方が悪すぎただけです。
学生生活そのものは、本人いわく「何の変哲もない感じ」だったといいます。ただ、部活以外の時間はオンラインゲームに費やしていました。
中三のもう夏休みぐらいまではもう一切勉強もせず、もうフラフラ。もうオンラインゲーム中毒者だったんで。
当時のオンラインゲームはまだ黎明期で、野球ゲームや韓国発のハンゲームなどに熱中していたと振り返ります。
部活以外はもうずっとゲームしてましたね。
「ただ東京に行きたかった」慶應進学とITベンチャーとの出会い
首里高校を卒業後、知念さんは1年の浪人を経て慶應義塾大学に進学します。ただ、その動機は大学名そのものではありませんでした。
慶応というよりかは東京に行きたいっていう願望があってですね。
その時は「学歴厨」だったこともあり、上から見ていって、たまたまその選定になったと語ります。首里高校では東京に出たい人が多いという話も出ました。
大学生活は、浪人の反動で最初は遊びすぎたといいます。転機は、両親に申し訳なくなり「何のために東京に出てきたのか」を自問したことでした。
知念さんはとりあえずアメリカを1か月ほど縦断する旅に出ます。帰国後、起業していた大学の友人に相談したことが、ITベンチャーとの出会いにつながりました。
たまたま起業していた大学の友達がいたので、何かないかと質問したところ、そこで出会った経営者がたまたまインターン募集してたんで、そこもう流れに乗って突っ込んでみたっていう感じ。
クワエリョウさんは、遊ぶ時は徹底的に遊び、頑張る時は一気に頑張るその極端さを指摘します。本人もそれを認めています。
ゼロ百型かもしれません。
この時にできた縁が、その後の人生を大きく決めたと知念さんは振り返ります。
本当にあそこでLINEしてなかったら今の自分はいないんで。もう縁ですね、完全に。
10人のベンチャーが150人規模へ、最前線で走った日々
大学2年からインターンをしていたITベンチャーは、当時10人ほどの規模でした。知念さんが卒業する頃には約150人規模へと成長していたといいます。
この会社はウェブサイトの制作や運営を得意としており、当時で約5万サイトを運営していました。現在はさらに増え、7万から8万近くに達しているのではないかと知念さんは話します。
知念さん自身はマーケティングの統括として、顧客を増やす役割を担っていました。地方銀行や商工会議所と組んで開拓を進めるなど、経営者に近い動き方もしていたといいます。
新たなサービス設計して立ち上げて、それをこう販売するとか、まあちょっと経営者に近い役回りでもひじこいてやってましたね。
就職活動では外資系コンサルの内定も得ていましたが、知念さんはあえて名もないベンチャーを選びました。周囲は大企業に進む人が多く、体裁を気にすればアホ扱いされる選択だったと語ります。
自分の行動で正解にしていくしかないなと決めるしかなかったので、決めて、いろんなことを吸収しようと思って、目の前のことはすべて吸収してきたつもりですけどね。
「まさか自分が」心身の限界と、沖縄での療養
学生時代を含めると7年以上を過ごしたこの会社を、知念さんは辞めることになります。約40人を束ねる長でありながら、限界を迎えたのがきっかけでした。
プライベートでもいろいろある中、公の場では言えないほどの働き方をしていたといいます。自分は大丈夫だと思い込んでいましたが、そうではありませんでした。
自分は大丈夫だと思い込んでたんですけど、どうやら人には限界があるらしくてですね、限界を迎えましたね。
再起動できないまま、知念さんはそのまま会社を辞めます。第一線でずっとバリバリ働いていたからこそ、限界は突然訪れました。
そうですね、まさか自分がってなりますよね。
その後、知念さんは沖縄に戻り、治療に専念します。医師からは「何もするな」と言われ、実家で本当に何もしない日々を過ごしました。
都会の喧騒がないことに、知念さんはホッとしたといいます。ただ、しばらくすると持ち前の落ち着かなさが顔を出し、中学時代にはまっていたゲームに戻り、狭い分野で日本一になるほど熱中したと振り返ります。
沖縄で気づいた「0と100の間」というバランス
知念さんは自分の働き方を「ゼロ100」と表現します。全力で走るか止まるか、その両極端しかなかったといいます。沖縄での療養は、その間にある感覚に気づく時間になりました。
沖縄に帰って、そのバランスをちゃんと取らないとねっていう、このゼロと百の間があるっていうことを沖縄帰って知ったというかです。
後半では、沖縄でのお気に入りの場所についても話が及びます。知念さんは特定の場所というより、フラフラと首里の街を夜に散歩する時間を挙げました。
それで空を見上げたら、ビルが東京とかと比べて全然ないじゃないですか。空広いなみたいな。
東京時代は銀座や京橋など中央区を中心に過ごしていたといいます。高層ビルや高級店が立ち並ぶ街並みに、最初は「すごい」と感じたものの、慣れると印象が変わったと話します。
沖縄帰ってくると、やっぱ沖縄の街並みの方がDNAに合ってるなって。
もう一つ、知念さんが挙げたのが町のファミリーマートでした。フランクに絡んでくれる店員に顔を覚えられる感覚は、沖縄特有ではないかといいます。
独立のはずが役員に、そして沖縄との二拠点へ
1年ほどの療養を経て、知念さんは復帰に向けて動き出します。もともと独立志向があり、知り合いにテレアポで営業をかけたのが最初の一歩でした。
ところが、電話を取った社長から役員として一緒にやらないかと誘われ、独立するはずが動画マーケティングの制作会社の取締役になります。ただ、独立したい思いは強く、1年経たずにその会社を辞めました。
東京に一度戻った知念さんは、改めて都会の喧騒を目の当たりにします。そこで、東京と沖縄を半々にする生活が理想だと考えるようになりました。
東京もいいんですけど、できれば沖縄と半々ぐらいの生活がベストかもなと思って、一旦沖縄に帰ってきたって感じ。
こうして知念さんは個人事業主として独立し、拠点を沖縄に戻します。ここから、医療というテーマへとつながっていきます。
精神科医への感謝が導いた「医療と沖縄への恩返し」
今年4月、知念さんはウェブとAIでクリニックや美容院の経営を支援するMEDITEX株式会社を立ち上げます。医療という領域を選んだ背景には、いくつもの縁が重なっていました。
前職の顧客に医療系の先生が多かったこと、クリニックのM&Aを手がける会社との縁があったこと、独立後に最初にできた顧客も医療系だったこと。そうした偶然が積み重なったといいます。
そして知念さんが最も大きなものとして挙げたのが、自分を救ってくれた存在でした。
そもそも僕が心身壊した時に助けてくれたのが精神科医ですから。これはもしかしたらこの道に進むと、天が言ってるんじゃないかというふうに勝手に思い込んでですね。
直感でこの道に進んだと知念さんは語ります。MEDITEXは、クリニックのM&Aを手がけるメディカルプラスのグループ会社として立ち上がりました。知念さん自身が代表権を持ちつつ、資本を入れてもらう形です。
「業界特化を超える支援」レッドオーシャンで磨いた知見
立ち上げから間もなく5か月。経営は右も左も分からない中で、顧客の成功のために必死になる日々だと知念さんは振り返ります。問い合わせや紹介は着実に増えているといいます。
MEDITEXは、AIやITを使ってクリニックの月間売上を上げたり、採用やマネジメントを支援したりする会社です。知念さんは、その強みを他業界での経験に置いています。
クリニックを支援する会社は業界特化型が多い一方、クローズドな業界ゆえに知見がアップデートされにくいと知念さんは指摘します。自身は競争の激しい業界で長く戦ってきました。
レッドオーシャンのバチバチな競合がひしめく業界でも戦ってきたので、その辺の知見を医療業界に持ってきて、業界特化を超える支援をできればなという形でやってますね。
拠点は東京・日本橋の本社と沖縄支社の二つです。生活面はもちろん、いつか沖縄に貢献したいという思いが、この二拠点の背景にあります。
沖縄雇用と「東大元暮らし」、故郷への恩返し
知念さんは、クリニックや病院の経営が守られることが、そのまま地域医療を守ることにつながると考えています。
クリニック、病院の経営がうまくいかずに潰れちゃったら、地域のこの医療が守れない、つまり地域住民が受けれないってことになりますから。
今の目下の課題は採用だといいます。顧客が増え、今の体制では受け切れない状況で、人を増やす必要が出てきました。知念さんは、できる限り沖縄の人を雇用したいと語ります。
あくまで東京の仕事とかも結構多いですから、そういう水準でできれば雇用できるといいんじゃないかなというふうに思います。
求める人物像は、スキルよりも人柄だといいます。未経験でも構わないという考えです。
未経験でもとにかくやる気と素直さとっていう人柄じゃないですか。ところが大事なのかなと思ってます。
沖縄の時間の中にいるだけで少し癒される感覚があり、頭が冴えて仕事の成果にもつながると知念さんは話します。仕事にとっても、二拠点はプラスに働いているようです。
最後に、リスナーや後輩たちへのメッセージを求められた知念さんは、「東大元暮らし」という言葉を引きながら、一度外に出てみることを勧めました。
一回出てみて、初めて沖縄の良さを気づくことっていうのはたくさんあると思うんですよね。一度出てみてもいいんじゃないかな。
クワエリョウさんは、東京にも沖縄出身者の縁や繋がりがあるとして、安心して出てきてほしいと言葉を添えました。
まとめ
首里で育ちゼロか100かで走り続けた知念裕也さんは、心身の限界と沖縄での療養を経て「0と100の間」というバランスに気づき、自分を救ってくれた精神科医への感謝から医療と沖縄への恩返しを志すようになりました。今年4月に立ち上げたMEDITEXは、その挑戦の入り口に立っています。
- 野球肘でテニスに転向し、部活以外はオンラインゲームに熱中した首里の少年時代を過ごした
- 「ただ東京に行きたい」という願望から慶應に進み、大学2年からのインターンをきっかけにITベンチャーで最前線を走った
- 激務で心身の限界を迎え沖縄で1年療養したことで、ゼロか100かではない「0と100の間」の大切さに気づいた
- 自分を救った精神科医への感謝と医療系の縁が重なり、クリニック経営を支援するMEDITEXを東京・沖縄の二拠点で創業した
- 東京水準の給与で沖縄雇用を生むことを目指し、「一度外に出て初めて沖縄の良さがわかる」と後輩たちに語った



