京極派をもう一度語る理由
梶間和歌さんはこの回で、京極派スペースやPodcast「京極派の和歌を読む」に最近触れ始めた人に向けて、「京極派とは何ぞや?」を改めて話すことにしました。
梶間さんによれば、京極派の時代背景や特徴は各回で折々話してきたものの、まとまった解説は配信初期に偏り、最近はあまりおこなっていなかったそうです。しかし、同じテーマで何度話すにしても、梶間さん自身の知識や伝える力はアップデートされているはずなので、過去に聴いた方にもあらためて聴いてほしいと言います。
「前に聞いたよ」っていう方も、その辺の違いを楽しんでいただけたらと思います。
京極派の解説を、伝統的な主流派の和歌観から始めるか、歴史背景から始めるかで毎回迷うとも梶間さんは話します。配信初期に歴史背景から話した回は2回に分けたものの、その初回が録音されておらず「幻の第1回」になったというエピソードも明かされました。
平安時代の和歌は社交の道具だった
京極派が生まれたのは、時代区分でいえば鎌倉時代の終わりごろです。梶間さんはその前提として、和歌がもともと貴族のものであり、平安時代には社交の道具として機能していたことから説明を始めます。
恋のやりとりに限らず、家族や友人、上司への訴え、同僚との即興の詠み合い、酒席で主催者を褒め称える歌など、和歌は人間関係を円滑にする目的で使われていたと梶間さんは整理します。
例として挙がったのが藤原道長の「望月の」の歌です。梶間さんの記憶では、この歌は道長自身が記録したものではなく、道長に批判的な目も持っていた藤原実資 ── 平安中期の公卿。日記『小右記』の筆者として知られ、同時代の宮廷の様子を詳しく書き残していますが日記に書いたことで現代に伝わっているといいます。ただし平安時代は専門外なので、記憶違いがあれば申し訳ないと断っています。
平安時代は約400年続き、最初のころは漢詩の力の強い時期もありました。それでも和歌の地位が上がり、社交の道具として使われる面の大きかったのが平安時代である、とざっくり押さえておけばよいと梶間さんは話します。
変化を嫌う貴族と、崩れてゆく「雅」
平安時代の終わり約100年は院政期にあたり、武士の位置づけが変化してゆきます。梶間さんはいわゆる「源平合戦」について、今は治承・寿永の乱 ── 1180年から1185年にかけての全国的な内乱。源氏と平氏の単純な対決ではなかったことから、近年はこの呼び名が使われますなどと呼ぶことにも触れました。
梶間さんが強調するのは、日本の貴族が変化をひどく嫌う階層だという点です。「新しいことは良くないことだ」という観念が強い、と梶間さんは見ています。
ところが現実には、武士が力を持ち、武力で上皇を押し込める者が現れ、関東の武士が京に上り、別の武士は天皇を連れて西海へ逃げてゆきます。変化を嫌う貴族から見れば、あってはならない事態が目の前で起きていたことになります。
そうした中で、和歌が貴族の社交の道具であり続けることは難しくなったと梶間さんは考えます。現実の「雅」が崩れる一方で、観念の世界に現実以上の「雅」を描こうとする力学が働いたというのです。
院政期ごろからの題詠 ── あらかじめ与えられた題に沿って和歌を詠む方法。実際の体験より、題にふさわしい情景を観念的に組み立てることが重視されますの発達にも、梶間さんは、ありえない形に変わる現実へのせめてもの抵抗という面があったのではないかと見ています。専門家ではないが、と断ったうえでの捉え方です。
新古今時代はなぜ続かなかったのか
その後、後鳥羽院が力を持っていた時期に、新古今時代という和歌のきらびやかな時代が訪れます。梶間さんは、これを「努力する天才たちの築いた和歌の一つの頂点だった」と表現します。
梶間さん自身は新古今時代から和歌に入り、その時代を深く愛してきました。だからこそ、すごさとともに限界も感じているといいます。
新古今時代のすごさも、同時に限界もいろいろと思うところがあるんですよね。あれはちょっと再現性がないんですよ。
後鳥羽院が承久の乱で鎌倉幕府に敗れて退場したあと、歌壇の中心は鎌倉に近い人々と関係を結んでいた藤原定家に移ります。梶間さんは、定家やその息子の為家がどこかで「新古今時代のあり方では、歌は続かない」と自覚していたのではないかと推測します。
努力する天才が複数いて切磋琢磨するという状況は、運頼みのところがあります。そこで和歌は、天才でなくても、センスや情熱がなくても、ちゃんとやればそこそこになるやり方を示す方向へ向かっていったと梶間さんは考えています。
後鳥羽院を中心に、努力する天才たちが切磋琢磨した新古今時代。再現性に乏しい奇跡的な頂点
晩年の定家・為家以降、センスや情熱がなくても、ちゃんとやればそこそこになるやり方を示す方向へ
字の読めない武士と「初心者でも詠める和歌」
和歌の方向転換のもう一つの背景として、梶間さんは武士の台頭を挙げます。鎌倉時代初期の地方の武士は、ほとんど教養がなく、文字の読み書きができたかどうかという人が多かったと考えられるといいます。
梶間さんは記憶違いの可能性を断ったうえで、承久の乱の際に後鳥羽院が降参の院宣を送ったとき、武士の側で字の読める者を探した、という話を何度か聞いたと紹介します。初期の鎌倉幕府の武官で読み書きができたのは北条時政と梶原景時くらいだった、という話も聞いた記憶があるそうです。
梶間さんによれば、自分で歌を創るには、読み書きができて古典作品を当たり前に読み、摂取していることが必要です。それは鎌倉初期の武士には望めないものでした。
武力で力をある程度手に入れたら、その後文化芸術のほうに行こうとする力学は働くと思います
力を持った武士たちが文化を志向し「歌が詠めるようになりたい」と考えるのはある程度必然で、そのニーズが大きくなるほど「初心者でも和歌が詠めるようになる」という話は魅力を増していきました。宮廷で恥をかかない程度には詠みたい貴族たちも、同じニーズを持っていたと梶間さんは話します。
当時の書籍は手で書き写すしかなく、非常に貴重でした。古典の書籍を先祖代々受け継ぐ家は「先生……! 」と仰がれ、定家の家である御子左家は和歌の宗家になってゆきます。
需要
武士と貴族に「最低限の和歌を詠めるようになりたい」というニーズが広がる
財産
手で書き写した貴重な古典の書籍を、先祖代々受け継いでいる
継承
書籍や詠む力量を親から子へ受け継ぐ
宗家化
為氏のころには御子左家嫡流の二条家が宗家として仰がれる
二条家の教えに「歌ってそんなんだったっけ? 」
為家の息子の為氏の代で、御子左家は3つに分かれます。梶間さんは、二条為氏は生前そう名乗っていなかったとする本も読んだと断りつつ、一般的な呼び名として二条為氏と呼んでいます。
二条為氏やその息子の為世は、和歌の宗家として多くの人に歌を教えました。梶間さんは、二条家の教え方を次のように言い表します。
特に考えなくていいです。あなたの個性とか要りません。歌はこういう風に詠めばいいんですよ。
これに対して、為氏の弟の為教の立てた京極家から、為教の息子である京極為兼が現れます。為兼は癖の強い人物で、父の代から宗家への反発もあったといいます。
為兼さんっていう人が「歌ってそんなんだったっけ? 」って思い始めるんですね。
梶間さんは為兼の動機を2つ挙げます。宗家と対等にやり合うには違うものを打ち立てる必要があったという現実面と、「歌ってそんなんじゃないはずだ」という純粋な気持ちの、両方があっただろうと見ているそうです。
両統迭立前夜と、文学青年・熙仁親王
為兼が出会ったのは、天皇家が2つに分かれ始めた時代の人々でした。後深草天皇の系統と、弟である亀山天皇の系統のどちらが皇位を継ぐかという争いが始まろうとしていました。
亀山系統が優勢だったところで、後深草院は「出家します」と言い出します。梶間さんによれば、これは脅しのようなものでした。上皇が出家すれば周りに仕える多くの人が一斉に失職するため、簡単に認めるわけにはいかなかったのです。
鎌倉幕府は困って、亀山天皇の息子の次は後深草天皇の息子が天皇になると決め、熙仁親王が皇太子になりました。
亀山系統が優勢
皇位はそのまま亀山天皇の系統で続くと思われていた
後深草院の出家宣言
自分の皇統に皇位が継げないなら出家すると迫る
鎌倉幕府の調停
亀山天皇の息子の次は後深草天皇の息子とする
熙仁親王の立太子
後深草院の息子の熙仁親王が皇太子になる
熙仁親王は十歳すぎから二十歳すぎまでの10年余りを、将来に希望の持てる皇太子として過ごしました。天皇ほど窮屈でない立場で、『源氏物語』や『伊勢物語』などを読み、和歌も特に『後撰集』や『万葉集』を好んだといいます。
熙仁親王の周りには文学青年が集まりました。政治的な思惑を持つ人もいましたが、梶間さんは、熙仁親王の朗らかで心豊かな人柄や文学を愛する趣向に惹かれて集まった面も同時にあっただろうと見ています。
為兼の歌論「心のままに詞の匂ひゆく」
この熙仁親王の文学グループに、京極為兼が加わります。為兼は何年かの交流を通じて、彼らが古典作品について自分の頭で考え、自分の心で味わい、議論する力を持った人たちだと確信していった、と梶間さんは考えています。
当時は『源氏物語』の源氏学や楽器など、さまざまな分野で家ごとの教えが代々伝わっていました。そうした家に生まれると先祖伝来の教えから自由に考えるのは難しい一方、熙仁親王の仲間たちは基礎教養が豊かでありながら縛りが少なく、自由に議論できる雰囲気があったといいます。
この人たちとなら新しい歌論を試せると考えた為兼は、『為兼卿和歌抄』という歌論書を書きます。梶間さんは、熙仁親王の践祚の少し前、春宮時代の終わりごろかと見ています。
歌論の核は「心のままに詞の匂ひゆく」という考え方です。二条派が歌にふさわしい心と詞を選び伝統を押さえることを求めたのに対し、為兼は心が先であり、詞はそれに付随すると打ち出しました。
歌にふさわしい良い心と詞を選び、伝統を押さえ、宗家が良しとするやり方で詠む
心が先であり、詞はそれに付随する。「心のままに詞の匂ひゆく」ように詠む
熙仁親王の仲間たちは当然、二条派的な和歌を詠む力量を十分持っていました。しかしそれに飽き足らなかった彼らが、為兼の「心のままに」という歌論と出会う。梶間さんによれば、最初期の京極派の詠草からは「こんなにのびのびと歌を詠んでいいのか」という驚きと喜びが伝わってくるといいます。
心のままに詠むことの難しさ
ただし梶間さんは、「心のままに」詠むことは難しいと繰り返します。京極派を学び、自分でも京極派和歌を詠もうとするなかで、かえって二条派のすごさがわかるそうです。
ちゃんとやってればそれなりになるんだもん、二条派は。どんなに才能がなくても。
梶間さんの説明する難しさの理由は、詠み手の心の状態にあります。心が澄んでいれば問題ありませんが、自己都合や先入観といったエゴで曇った心のままに詠めば、どういう歌になるでしょうか。
おそらく今X上に氾濫している、中二病Twitter短歌みたいなことになるんじゃないでしょうか。
もう一つの落とし穴として、二条派的に詠む力のある人ほど無意識にその枠に引っ張られ、「自由に詠むんだ」と力むと、かえって奇をてらった歌になると梶間さんは指摘します。梶間さん自身、「私らしさ」を追い求める風潮に嫌気がさして、現代短歌から和歌に完全に移った過去があると言います。
実際、初期の京極派和歌には、奇をてらったように見える歌や、伝統から離れようとして独り善がりになった歌、一首に情報を詰め込みすぎた歌などが残っています。梶間さんは、そこに「頑張ってたな……」という試行錯誤の跡が見えると話します。
正安の政変という挫折
京極派は大きく前期と後期に分かれます。前期の頂点は勅撰和歌集『玉葉和歌集』の編纂ですが、そこへ至る前に京極派は一度政治的に敗北しています。
熙仁親王は伏見天皇となり、のちに息子に譲位して後伏見天皇が即位し、伏見院は院政を執ります。ところが後伏見天皇の次の皇太子には、亀山系統である大覚寺統 ── 亀山天皇の系統の呼び名。後深草天皇の系統は持明院統と呼ばれ、両統が交互に皇位を継ぐ両統迭立へつながりましたの人物が立てられました。
伏見院は、「誤った系統(大覚寺統)に奪われた皇位が正統な自分の系統(持明院統)に戻ってきた」と考えていて、梶間さんはその現実認識が甘かったと話します。ただ、渦中の人に正しい現状認識を求めるのは難しいとも添えています。
大覚寺統側は鎌倉幕府への働きかけを重ね、後伏見天皇は即位からわずか3年弱で、幕府から譲位を強いられます。大覚寺統についてのちに出世する人でさえ「こんな突然に、おかわいそうに」と日記に書くほどの出来事でした。
京極派の人々は、伏見院の周りの人々と重なるため、伏見院の政治的敗北は京極派の貴族たちの立場も弱めました。伏見院も仲間たちも、ここで大きな挫折を味わいます。
挫折が歌を変えた
で、その挫折が良かったんですよ。
梶間さんによれば、京極派の人々はそれまで「心のままに」と言いながら、結局は自然さえも自己都合に引きつけて詠んでいました。まあまあ綺麗に出来上がっていても、前提が自己都合なので、多くの人に深い感動を与える歌にはならなかったといいます。
それでも彼らは、「心のままに詞の匂ひゆく」という歌論そのものは間違っていないと信じ、完成形を求めて試行錯誤を続けていました。
思い通りにならない現実に卑小な自己が打ち砕かれても、季節は淡々と巡ります。梶間さんは、その中でそれでも生かされている自分に気づいたことで、無意識の傲慢なエゴが剥がれ落ち、心の曇りが一定程度取れたのだと考えます。
曇りの取れた目で自然や人、恋心を見つめて詠んだ歌、特に叙景歌 ── 自然の景色や情景を中心に詠んだ和歌。京極派は、細やかな観察による叙景歌で高く評価されていますが輝きはじめます。
京極派はこの方向で研鑽を重ね、そこから10年ほど多くの歌合を行いました。その間に伏見院は政権を取り戻し、別の息子である花園天皇を即位させます。
伏見院は京極派の勅撰集を編もうと決め、最初期から共に歩んできた京極為兼を撰者に命じて、『玉葉和歌集』が編まれました。梶間さんが番組で季節ごとに紹介している『玉葉集』の京極派の歌は、この前期の人々の歌です。
元弘の変から『風雅和歌集』へ
後期京極派の人々は、正安の政変とは比べものにならない出来事を経験します。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒した元弘の変で、光厳天皇や後伏見院、花園院らは京都から近江国の番場まで落ち延び、危うく殺されかける目に遭いました。
梶間さんは、後醍醐は光厳天皇に譲位した時点で退位しており、建武の新政で「重祚」したと認識していると話します。「光厳天皇が天皇であった事実はない」という後醍醐側の主張は採らない、という立場です。
建武の新政が短期間で崩壊すると、後醍醐は光明天皇に神器を渡したうえで、渡した神器は偽物だと主張して吉野へ移ります。こうして北朝と南朝という、2人の天皇の並び立つ状態になりました。
光明天皇の兄である光厳院が、後期京極派の中心人物になります。戦乱のさなかも、京極派の和歌活動は主に持明院統の皇族とごく近い貴族たちの間で受け継がれていました。
光厳院は幼いころ、叔父であり、猶子関係なので系譜上の父でもある花園院からは学問を、義理の祖母にあたる永福門院からは和歌を教わりました。当時の天皇としては珍しく、狭い家で同居する家族的な生活だったといいます。
永福門院が亡くなったのち、光厳院の治世に、花園院監修・光厳院親撰の形で『風雅和歌集』が編まれます。花園院は編纂中に亡くなりました。
その完成直後に室町幕府の内乱、観応の擾乱が起き、光厳院や崇光天皇、光明院は南朝勢力に拉致されます。中心人物を失ったことで、京都の京極派歌壇はほぼ崩壊したと梶間さんは説明します。ただし、伏見天皇の晩年の娘が後の時代まで京極派的な歌を残したなど、細々とした記録はあるそうです。
前期は花畑、後期は水墨画
梶間さんは、前期京極派と『玉葉和歌集』の印象を、色とりどりの春の花の咲き乱れる花畑にたとえます。明るく、一人一人の歌人の個性が豊かに発揮されていて、読んでいて楽しい気持ちになるといいます。
一方、後期京極派は個性を強く出さず、グループ全体が一つの方向に集中してゆきます。梶間さんは後期を特に「水墨画の趣」と表現し、内観性や、宗教性に近い透明感があると話します。
色とりどりの春の花畑。明るく、一人一人の個性が豊か
水墨画の趣。個性は抑えられ、内観性や宗教性に近い透明感がある
前期にも、伏見天皇の即位後まもなく浅原為頼という武士が皇居に乱入するような、とんでもない事件がありました。それでも梶間さんは、後期の光厳天皇たちの経験と比べれば、前期はまだ余裕のある時代だったと見ています。
比べるもんじゃないんだけどね、本人にとっては深刻切実だから。だけど実際比べたら、「言ったら悪いけど、その程度」っていうことってあって。
後期の透明感はどこから来たのか
梶間さんは、前期京極派の人々が生きたのは、まだ朗らかでいられ、個性の花を咲かせる余地のあった時代だったと話します。
後期京極派には、歌道家の指導者もいませんでした。為兼の失脚で京極家自体が崩壊し、後期の前半は西園寺家出身の永福門院、後半は花園院と光厳院という、専門歌人ではない人々が必死に京極派を守りました。梶間さんは、一人一人の個性を開花させる余裕は技術的にも難しかったのだろうと見ています。
そのため後期の『風雅和歌集』は、「作者が誰だかわからない、みんな同じに見える」と悪く言われることがあります。それでも梶間さんは後期のほうが好きだといいます。
梶間さんが重視するのは、多感な十代・二十代に作者が何を経験したか、です。前期の人々にとってその時期は「大好きな熙仁親王がもうすぐ天皇になる」という希望の時代でした。
後期の歌人たちは若いころ、仕える主人や愛する人、あるいは自分自身が都を追われ、殺されかけ、囚人のように連れ戻される経験をしました。後期の女性歌人の中には、後伏見院や花園院、光厳院の愛人だった人も少なくありません。
熙仁親王の即位を心待ちにする、希望に満ちた時期
仕える人や愛する人、自分自身が都を追われ、殺されかける経験
個性ってある意味エゴの裏返しという面もありますから、発揮できる個性もね、どんどんどんどん削がれていったんだと思います。
後期の歌の透明感は、若いころに過酷な時代を過ごした人々が、それでも京極派として結束して詠み続けたことの必然的な結果ではないかと梶間さんは考えます。岩佐美代子さんの研究書『京極派歌人の研究』にも、その点が書かれていたといいます。
梶間さんは、後期京極派については改めてゆっくり話したいと予告しています。今回は長くなったため、歌の実例は紹介せず、京極派とは何かを今の理解の範囲で話した、として配信を締めくくりました。
放送内容をもとに、言い間違いや論理構成などを大幅に直し読みやすく整えたテキスト版は、こちらからどうぞ。

まとめ
京極派は、二条家の「ちゃんとやればそこそこになる」和歌に飽き足らなかった京極為兼と、熙仁親王(伏見天皇)の文学グループから生まれました。「心のままに詞の匂ひゆく」という難しい歌論は、政変による挫折を経て叙景歌として結実し、前期の華やかさと後期の透明感という2つの歌風へつながったと、梶間和歌さんは語っています。
- 平安時代の社交の和歌から新古今時代を経て、承久の乱後は誰でもそこそこ詠める二条家の和歌が主流になった
- 京極為兼は熙仁親王やその仲間たちと出会い、心が先で詞はそれに付随するという歌論を打ち出した
- 心のままに詠む難しさは、正安の政変の挫折でエゴが剥がれたことで乗り越えられ、叙景歌が輝いた
- 前期の『玉葉和歌集』は春の花畑のように個性豊か、後期の『風雅和歌集』は水墨画のような透明感を持つ
- 後期の透明感は、戦乱の時代に若き日を過ごした歌人たちが結束して詠み続けた結果だと梶間さんは考えている



