未来を変える物語と、受け入れる物語の違いとは?
この回は、前回に津久井五月さんが提示した「未来を考えないことの覚悟」と「未来を考えるやつのダサさ」という話題の続きから始まります。
前回いろいろたどたどしく話題提供だけで終わっちゃったんですけど、そのメッセージっていう映画も材料に未来を考える、未来を考えないことの覚悟っていうのと、未来を考える奴のダサさみたいなことをちょっと話題提供させてもらった。
渡邉康太郎さんは議論の出発点を整理します。ローンの支払いからビジネスまで、未来を考えることは資本主義社会では当然の振る舞いに見えます。
一方で渡邉さんは、会社の未来構想プロジェクトなどで、自分事ではない未来や身体性を伴わない未来を考えることにどれだけ意味があるのか、という問題意識を示しています。
そのうえで渡邉さんは、映画『メッセージ』と、古典的なタイムパラドックスものとの違いに注目します。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように未来を補正する冒険ではなく、『メッセージ』は未来をどちらかというと受け入れる物語だという指摘です。
津久井さんはこの未来観を決定論的な価値観だと捉え、キリスト教の予定説 ── 救われる人と救われない人は神によってあらかじめ定められている、とするキリスト教の教説。カルヴァン派の教えとして知られていますにも触れます。
未来ってのはもう確定してるんだから、なんかそれを変えようとなんかあわあわするっていうよりは、その起こりうること、あるいは現在すでに起こっていること全てに対して、ある種の何か信仰的な覚悟を持ちましょう。
津久井さんによれば、原作『あなたの人生の物語』は、アルファベットで並ぶ英語の言語観と、漢字のように絵として見る言語観の対比から書かれていると考えられます。言語に潜む未来観を拡大解釈した作品だという見立てです。
マーティは変わりうる未来に対し、自分には選択肢があると行動していく
ルイーズは決まった経路を受け入れ、その瞬間瞬間の今を体験していく
渡邉さんは、作中でルイーズが教えるフェルマーの原理 ── 光は2点間を進むとき、かかる時間が最短になる経路を通るという物理の原理。結果から経路が決まっているようにも見えるため、作中で象徴的に扱われますを引き、経路があらかじめ決まっていて、その中に今しかないという世界観だと語ります。どちらも当事者でありながら、世界との向き合い方の軸が逆転している点が面白いといいます。
「俺もその能力あるじゃん」、死を知る者としての未来
津久井さんは、普通の人生観を白紙のグラフに少しずつ線が伸びていくものにたとえます。『メッセージ』では、線はすでに引かれきっていて、その全体の形そのものを味わうような感覚があるといいます。
荒木博行さんは、映画を観たときに今でも印象に残っている感覚を語ります。
俺もその能力あるじゃんって思ったんですよね。
それは何かというと、僕は自分が死ぬことを知っているっていうことなんですよね。
荒木さんにとって、死が不可避である以上、誰もが未来を知っていることになります。そこから得たのは「ジタバタしてもしょうがない」という、ある種の諦念や達観に近い読後感だったといいます。
津久井さんは、ルイーズの姿に2つの面が重なっていると応じます。自分や娘の死を見通して受け入れる達観と、その瞬間には泣き、打ちのめされる一人の人間としての没入です。
それを食らう覚悟を持たなきゃいけないっていうことの残酷さがなんか両方入ってるっていう感じ。
「ダサさ」は物語の描き方で決まっているだけなのか?
渡邉さんは、ここで一度立ち止まります。ルイーズは未来を受け入れて今を生き、国家は未来に対処しようとしてダサく見える、という構図は、ストーリーテリングの結果にすぎないのではないかという問いです。
渡邉さんによれば、逆の描き方もありえます。未来を知ってしまったルイーズが諦めて自堕落に生きる、家族と深い関係を持たないことで傷つくのを避ける、といった選択肢も物語としては成り立ちます。
たまたまそういう風に描いてしまったから、どっちかがダサかったり、どっちかがかっこよかったりって見えるだけなんじゃないんだっけ?
津久井さんは逆の構図として、終末論に取り憑かれて何もしない人々と、希望を持って問題解決に奔走する人々という作品を挙げます。そうした作品は実際にもあると考えられます。
それでも津久井さん個人は、未来を切り開こうとする物語のほうが浅く感じるといいます。自身のバイアスかもしれないと断ったうえで、今ここに向き合う覚悟を描く物語のほうが深い印象を残すという感覚を率直に語っています。
未来との向き合い方は3つある?絶望を経由した未来思考
荒木さんは津久井さんに共感を示しつつ、未来との向き合い方を3つのパターンに整理します。
1つ目は、不確実性が怖いから安心したいという未来思考です。荒木さんは例としてシナリオプランニング ── 起こりうる複数の未来シナリオを描き、それぞれへの備えを考える戦略手法。石油会社のロイヤル・ダッチ・シェルが1970年代に活用したことで知られていますを挙げ、損得やリスクヘッジを計算して落ち着こうとするアプローチだと説明します。意味がないわけではないものの、軽いという感覚があるといいます。
2つ目は、未来思考をダサいとして逃げ込む現在思考です。荒木さんはこれを、目先の快楽に没入する逃避的な思考停止だと位置づけます。
3つ目が、荒木さんがテッド・チャンの世界と重ねる「絶望を経由した未来思考」です。自分の人生はどうにもならないと絶望しきったうえで、今に腹をくくるという感覚だといいます。
安心のための未来思考
不確実性が怖く、損得やリスクヘッジを計算して落ち着こうとする
逃避的な現在思考
先を考えず目先の快楽に没入する、ある種の思考停止
絶望を経由した未来思考
どうにもならないと絶望しきった上で、今に腹をくくり引き受ける
荒木さんはこの3つ目を、ニーチェ ── 19世紀ドイツの哲学者。キリスト教道徳を批判し、「神は死んだ」「超人」「永劫回帰」などの概念で知られますの永劫回帰になぞらえます。
この人生何度繰り返してもその人生にイエスと言うかみたいな、なんかそういう問いをもう絶望しきった上で引き受けますみたいな、なんかそういう感覚。
SF設定は「想像力の敷地」として働く
津久井さんは、『メッセージ』のような作品が最終的に「未来は大事」と語るわけではなくても、設定上は必ず未来という概念を経由していると指摘します。
津久井さんによれば、原作『あなたの人生の物語』は、未来をめぐる特殊なSF設定を通さなければ、未来と現在を区別せずすべてに腹をくくる、という結論を導けない作品です。リアリズムの現代小説で同じ結論を語るのは難しいと考えられています。
想像力とか、自分の思考を飛ばす先として、こういうSF設定みたいなものが存在していて、そこにこう旅して、じゃあ今ここっていうのに帰ってきた時に、普通には持てない結論を持つ。
津久井さんは、ニーチェの永劫回帰も同じ構造だと見ます。ひとつの宇宙観を立ち上げ、そこから個人の話へ戻ってくるという流れです。
津久井さんはこれを「想像力の敷地」と自ら呼んでいます。今ここから一旦逸れた場所に議論を持っていき、そこでの経験を踏まえて現在への覚悟を得る。この機能として未来概念が働くことが、深く感じるSF作品の共通項ではないかといいます。
今ここから離れる
SF設定や宇宙観など、別の場所に思考を飛ばす
そこで経験する
未来をめぐる特殊な設定の中で考える
今ここに帰る
普通には持てない、現在への覚悟を持ち帰る
ダサさは時代や新しさに左右されるのか?
渡邉さんは、まだ完全には受け入れきれていないと率直に述べます。絶望を経由した未来思考が深く感じられること自体、なぜなのかがわからないというのです。
安心のための未来思考とか、逃避的現在思考みたいなのは本当にダサいのだっけ?みたいなのがちょっとよくわかんないな。
渡邉さんは、永劫回帰的な解釈が印象に残ったのは、SFというストーリーテリングの世界でそのアプローチが希少だったからではないか、という可能性を挙げます。永劫回帰やストア派 ── 古代ギリシャ・ローマの哲学学派。運命を受け入れ、理性に従って生きることを説きました。「運命愛」の発想にもつながる思想とされますの運命愛のような考え方には、2000年ほどの歴史があるからです。
津久井さんは、ニーチェはダサさを定義するのがすごく得意だったと応じます。キリスト教的な価値観を弱い者の立場だと位置づける技が強い一方で、その世界観で生きている人は今も多く、それをダサいと片付けるのは乱暴だといいます。
そのうえで津久井さんは、自身の「ダサい」という言葉を相対化します。未来を考えることは良いという大きなマジョリティーの語りへの反発を、相手にレッテルを貼ることで表現している面が自分の中にあるのかもしれない、と振り返っています。
大きなマジョリティーの語りとして未来を考えることがいいんだっていうものがある時に対して、そこに反発する気持ちっていうのが、このなんか相手をダサいとレッテルの貼ることによってカウンターの気持ちを表現してる。
『2001年宇宙の旅』と中銀カプセルタワー、外れた未来にも意味はある
渡邉さんは『メッセージ』を一旦脇に置き、未来を考えることにまつわるダサさの具体例を挙げます。『2001年宇宙の旅』は2001年を描いた作品ですが、今見ると作られた時代がわかってしまうといいます。
渡邉さんが挙げるのは、その時代ならではのフォントや家具の脚、そして明らかに60年代的な女性乗組員の役回りです。未来を描こうとしているのに、現在の価値観がかえって露呈してしまうという指摘です。
予測したものはどうしても外れていくとか、斜めの方向に外れていくみたいなことが面白さでもあり、滑っちゃうポイントでもある。
もう1つの例が、黒川紀章 ── 日本の建築家。1960年代に、都市や建築を生き物のように新陳代謝させる「メタボリズム」運動の中心メンバーとして活動しましたによる中銀カプセルタワービルです。カプセルを入れ替えて新陳代謝していく建築を提唱したものの、一度も交換されないまま50年後に解体されることになりました。
カプセルを交換して新陳代謝していくメタボリズム建築として提唱
一度も交換されないまま、50年後に解体されることに
それでも渡邉さんは、無意味だったとは言えないと考えます。その時どのように未来が考察されたかという型そのものが大事で、ダサいけど意味があるという領域は個人的にイメージしやすいといいます。
未来は道具的な概念にすぎないのか?
津久井さんは渡邉さんの例を受けて、未来は非常に道具的な概念だと語ります。建築家や映画監督は、自分が表現したい目的により効果的に到達するための踏み台として、未来構想を使っているのではないかという見方です。
キューブリックに例えばその2001年宇宙の旅っていうので、あなたはこういう未来をなんか本気で信じて描いてるんですかって聞いたら、多分そうではないんじゃないかという感じもする。
津久井さんはメタボリズムの建築家も本気度が高いと断りつつ、街がこうなるという信念よりも、まず建築としての提案があったのではないかと推測します。未来はその時の道具として使われただけだから、後から見ると的外れに見え、ダサく見えるという整理です。
未来を考えるやつのダサさっていうふうに思うのは、そのなんか道具的概念にすごい一生懸命になってるっていう感じに近いのかな。
荒木さんは、道具としての未来が企業の現場で安易に使われている場面が多いのではないかと推察します。企業では「未来志向」が善なるコミュニケーションとして語られ、バズワードやクリシェになっているからです。
なんか安易に現実逃避的に使われてしまっていることを多分散々ご覧になってるのではないかという気もしていて。
渡邉さんも、未来を道具的に使うことがなぜ違和感をはらむのかがまだわかっていなかったとして、そこを深掘りしたいと応じます。企業現場での未来の使われ方は、次回に持ち越されることになりました。
まとめ
この回では、映画『メッセージ』の決定論的な未来観を起点に、未来を受け入れる覚悟、「ダサさ」の相対性、そして未来が道具として使われることの意味が語られました。未来という概念は、今ここへの覚悟を得るための想像力の敷地にもなれば、安易な現実逃避の道具にもなりうることが見えてきます。
- 『メッセージ』は、未来を変える物語ではなく、決まった未来を受け入れて今を生きる物語として語られた
- 荒木さんは未来との向き合い方を、安心のための未来思考、逃避的な現在思考、絶望を経由した未来思考の3つに整理した
- 津久井さんは、SF設定や永劫回帰を、一度今ここを離れて現在への覚悟を持ち帰る「想像力の敷地」と捉えた
- 『2001年宇宙の旅』や中銀カプセルタワーのように、外れた未来構想にも思想的な意味があるという見方が示された
- 未来を道具的に使うことへの違和感、特に企業現場での使われ方は次回に掘り下げられる






