仲間優先の「ダチ公主義」、前回までに何が語られた?
このシリーズのテーマは「世の中ダチ公主義すぎるのでは?」という問いです。イデオロギーよりも友人関係や仲間内の論理が優先されすぎているのではないか、という見方をきっかけに、3人が語り合っています。
第3回の冒頭では、渡邉さんが前回までの議論を振り返りました。ダチ公主義は認知の節約装置ではないか、さらに敵を作って攻撃すること自体が報酬になっているのではないか、という話が出ていたといいます。
前回は荒木さんから「ダチ公主義のパラドックス」も提案されていました。外側に敵を作ると内部の結束は強まりますが、やがて「ちゃんと敵を敵と見なしているか」という踏み絵が生まれ、内側にこそ敵ができる逆転が起こる、という指摘です。
話題は神田さんの取材経験にも広がっていました。暴力団で究極的に守られるのは「しのぎ」つまりお金であり、IS(イスラム国)も宗教というより居場所として機能しているのではないか、という解釈が紹介されています。
外に敵を作る
国にとっての敵国、会社にとっての競合のように外部に敵を置く
内部が結束する
敵がいることで仲間内のまとまりが強まる
踏み絵が生まれる
敵を敵と見なしているかという、信念の純度を試す動きが出る
内側に敵ができる
内ゲバのように、仲間の中にこそ敵が生まれる逆転が起こる
さらに前回は、所属を持たないことが移動の自由を生むのではないか、という「自由と所属のトレードオフ」や、二つの文化の間にいる境界人だからこそ生まれる創造性も話題になりました。そこで神田さんが「コウモリの話をしてみましょう」と提案したところで、前回は終わっています。
オタク少年がヤンキー中学でマージナルになった理由
神田さんはまず、渡邉さんが前回挙げた「マージナル」という言葉に、なるほどと感じたと話します。自分は特別な人間ではないとしつつ、確かにマージナルで、コウモリだったと振り返ります。
僕、出自としては完全にオタクなんですよ。もうゲームが大好きで。
神田さんの子ども時代はファミコンの時代でしたが、手元にあったのはMSX ── 1983年に提唱された家庭用パソコンの共通規格。複数のメーカーから対応機が発売され、ゲームやプログラミング入門の機械として親しまれましたというパソコンでした。ゲームは小遣いでは買いにくいため、雑誌に載ったプログラムのリストを打ち込んで遊んでいたといいます。
神田さんは、誰も読めないような16進数のマシン語 ── コンピュータのCPUが直接解釈する命令の並び。人間には読みにくい数字の列で書かれ、当時の雑誌には16進数のリストとして掲載されることがありましたのリストを打ち込み、勉強もしていたそうです。
ところが神田さんが進学した地元の公立中学校は「ドヤンキー中学校」でした。ヤンキーが吸ったタバコを廊下に捨てるので廊下が灰皿のようになり、男子トイレの便器はハンマーで叩き割られて、生徒は職員便所を使っていたといいます。
(その中学では)僕はもう必然的にヤンキーたちと接触せざるを得ないわけですよね。
神田さんは殴られることもしょっちゅうあったものの、最終的にはヤンキーともコミュニケーションを取れるようになり、一定の居場所ができたと話します。中学3年では生徒会長も務め、番長グループともそれなりにやっていたそうです。
ネクラ寄りのオタクだった神田さんは、生きていくためにヤンキーとも付き合わざるを得ない環境に押し込まれ、その結果としてマージナルになった、と振り返っています。
ゲームとプログラミングに没頭する、ネクラ寄りのオタク
ヤンキーとも生徒会とも関わり、どちらの側にも完全には属さない存在
どこにも所属できない記者は、なぜ共感しないのか
神田さんはその後、県内の名門進学校、有名大学、そして朝日新聞社へと進みます。けれど年を重ねるほど、どこにも所属できない感覚は強まり、朝日新聞社では特に強かったといいます。
神田さんによれば、朝日新聞に来るのは普通に勉強ができ、環境にも恵まれた人が多いそうです。神田さん自身は特定のイデオロギーもなく、給料が良かったから入社したと話しています。
正直朝日の名刺が邪魔だなって思うことはありましたよ。なんか左翼だと思われるんで。
それでも、特定の何かに依存しないことで、どこにでも取材に行けるというメリットはあったと神田さんは認めます。一方で、神田さんは自分の弱点も率直に語りました。
いい記者って、やっぱりその人の人生に寄り添えるし、その人の気持ちがすごくわかるんですよ。
神田さんは、それが人間として何かがおかしいことは自分でもわかると言います。ただ、世の中とは何か、人間とは何かを考えるうえでは、共感がないほうが都合がいいのかもしれない、と自分を納得させている感じがあると話しています。
「知識人はアマチュアであれ」とサイードは言った
神田さんの話を受けて、荒木さんはパレスチナ出身の思想家エドワード・サイード ── 1935年生まれの文学研究者・批評家。主著『オリエンタリズム』で西洋の東洋観を批判し、パレスチナ問題でも発言を続けましたの『知識人とは何か』を思い出します。
(サイードが)言ってたのが、まあ知識人というのは亡命者であって、アウトサイダーであれっていう、まあそんなことを言ってたんですよね。
荒木さんは、それはまさに「コウモリであれ」ということだと解釈します。パレスチナに生まれアメリカで活動したサイード自身の経歴が大きく、権力にものを言うとき、どこかに所属していると言えないからだ、という見立てです。
荒木さんの記憶では、サイードは専門家もだめだとし、専門家ではなくアマチュアであれと説いていました。ここでの専門家とは、特定のイデオロギーや集団の利益のために働く知識人のことで、サイードが独自にそう定義したものだといいます。
特定のイデオロギーや集団の利益のために働く。息がかかり、本当のことが言いにくくなる
どこにも所属しないアウトサイダー。権力に対してものを言える
逆に言うと、何かに所属してしまうと本当のことが言えないっていう、まあそんなことを彼は言っていたような記憶があります。
専門家の深さと、コウモリの広さは両立しない?
神田さんはサイードの話に対して、それでも専門家はすごく大事だと応じます。神田さん自身は、自分を薄っぺらい、浅いと評価しているそうです。
考察の深さとか研究のこう確かさみたいなのって、やっぱ専門家にならないと得られないものっていっぱいあるし。
神田さんは、専門家の深さこそが世界の謎を解き明かすことに直結しているとし、コウモリ的な広さとの間に二律背反のような感覚があると話します。
荒木さんも同じ感覚があると言います。荒木さん自身も広く浅くで、「何の専門家ですか」と聞かれると「よくわかりません」となってしまうそうです。
それは一つのスタンスの取り方だなと僕は思っていますけれどもね。そういう人大事なんですよ、多分。世の中的には。コウモリみたいな。
話を振られた渡邉さんは、自分も2人に近いかもしれないとしつつ、本当はもっといろんな人と仲良くなりたい気持ちもあるが、仲良くなるのが下手だと話します。渡邉さんには、神田さんと荒木さんが深いつながりがなくても自己充足しているように見えたそうです。荒木さんは「それはそうかも」と認め、渡邉さんは「楽な部分もあれば寂しい部分もある」と答えています。
是々非々で語る人は、なぜ仲間から叩かれるのか
渡邉さんは本来のテーマに戻り、ダチ公主義から連想したこととして、批評家の東浩紀 ── 日本の批評家・作家。出版社ゲンロンを創業し、言論カフェ「ゲンロンカフェ」でイベントを開いていますさんの状況を挙げます。東さんはリベラル側の人でありながら、SNSではリベラル側からよく批判される構図があるといいます。
渡邉さんによれば、東さんは是々非々で、リベラル派の主張でもおかしい部分は解像度高く批判するため、かえってリベラル派から批判を受けやすいそうです。言論カフェでは、同じ構図にある常美さんと、共にリベラルを自認しながらリベラル側から叩かれ続ける2人の対談も行われていたといいます。
是々非々で判断しちゃうと分かりにくい存在になっちゃうっていうか、なんかこの人ダチなの?ダチじゃないの?みたいなのが他の人からわからなくなってくる。
渡邉さんはここから、保守とリベラルの対立の根にある問いを提示します。近い仲間を優先するのか、遠くにある普遍的な原理を優先するのかという対立です。
より仲間を大事にするイメージ
より原理や普遍的なルールを大事にするイメージ
ただし渡邉さんは、結局どちらもダチ主義になっているのではないか、というのが次のレイヤーの問いだとも話します。荒木さんは、現状は残念ながらどちらも近いところを大事にして、普遍的な真理は置き去りだと応じました。渡邉さんも、敵対関係が可視化されるSNSのアテンションの中で、表面的なコミュニケーションに終始しやすい状況があると同意しています。
ピーター・ティールの停滞感と、尊王攘夷の「仲間の思想」
神田さんは話を飛ばして、ピーター・ティール ── PayPalの共同創業者で投資家。「空飛ぶ車が欲しかったのに、手にしたのは140文字だ」という言葉で、技術革新の停滞を批判したことで知られますを持ち出します。ティールは140文字のことではなく、空飛ぶ車のようなものが実現すると思っていた、と象徴的に語っていました。
神田さんは、ティール自身の取り組みがそうなのかは疑問だとしつつ、人間の生活や社会を根本から変える発明がないという停滞感には共感します。そして、その停滞の根っこにダチ公主義的なものがあるのではないかと考えています。
お金みたいな形でイデオロギーを消費してるだけだったら意味ないと思うんですけど、そういう使われ方をされちゃってると。
神田さんは、東さんや常美さんのように「ダチ公には囚われないぞ」とはっきり言う人のほうが、思想を前に進める力が強いと見ています。そのうえで、ダチ公主義が蔓延している可能性があり、それをSNSが強めているかもしれないと話しました。
荒木さんは、昔からそうだった側面と、SNSで加速した側面の両方があるだろうと応じ、幕末の尊王攘夷 ── 天皇を尊び、外国勢力を打ち払おうとする幕末の思想・運動。水戸藩の学問である水戸学が理論的な支柱の一つになりましたを例に挙げます。
仲間としてそういう概念を掲げてるから俺らもみたいな。なんかそれ、それぐらいでなんかこう挙動していた人が大半だったりするじゃないですか。
荒木さんによれば、思想をちゃんと理解していた人はほとんどおらず、だからこそ思想が開国へと変わっても「仲間がそう言うならそうやります」という挙動になったといいます。イデオロギーがツールになっているのは、慣習のようなものだという見立てです。
ダチ公主義は停滞の「原因」か「症状」か
渡邉さんは神田さんの話に納得する部分と引っかかる部分の両方があるとし、そのロジックを整理します。ダチ公主義があり、是々非々の議論ができないと、イデオロギーがツール化し、誰も本気で未来を構想しなくなり、社会が停滞する、という流れです。
ダチ公主義
仲間優先で、是々非々の議論ができない
イデオロギーのツール化
思想が消費の対象に落ちる
未来を構想しなくなる
誰も本気で社会の先を考えなくなる
社会の停滞
ティールの言う「140文字」的な矮小化に終始する
渡邉さんが引っかかったのは、ダチ公主義を根本原因とする見立てです。仲間優先で敵味方を単純化するのは狩猟採集時代からの人間の基本設計ではないか、と渡邉さんは考えます。
渡邉さんは、ルネッサンスも派閥やパトロンに駆動され、日本の高度経済成長も村社会的なものが牽引したのかもしれないと指摘します。それでも爆発的な創造性や価値は生まれた、というのが渡邉さんの疑問の根拠です。
ダチ公が停滞を生んだっていうよりも、停滞がダチ公主義を悪化させたみたいなことだとどうなんだろうっていう。
渡邉さんの仮説では、パイが拡大する時代は協力したほうが得なので人は開かれていきます。一方、パイが縮むとゼロサムゲームになり、仲間で固まって奪い合うほうが効率がよくなります。
パイが拡大する時代: いろんな人と協力して新しい価値を生むほうが得で、人は開かれていく
パイが縮む時代: ゼロサムゲーム化し、仲間で固まって敵から奪い合うほうが効率的になる
荒木さんはこの仮説を面白いとし、売上や利益が停滞した会社が派閥争いに終始する因果と重ねます。事業が次々生まれていれば外へ狩りに出る必要があり、派閥は目立たない、という見方です。
今のその日本社会、その経済成長を含め、いろんなものが頭打ちになってしまってるからこそ、陣取り合戦みたいなところに目が行きがちみたいな。
渡邉さんは因果の矢印が両方向にある可能性も挙げ、荒木さんも、因果は両方あるだろうが、どちらの視点で見ると解像度の高い理解につながるかが大事だと応じました。
停滞から抜け出す「忖度させない仕組み」はつくれるか
神田さんは、停滞からどうやって抜け出せるのかと問いかけます。荒木さんは、そうなると成長こそがすべての解決策ということになっていく、と応じました。
渡邉さんは、知り合いの企業代表の例を紹介します。その代表は、自分の講演を社員に聞いてもらうと、すぐに改善点を挙げさせるそうです。
すぐに「俺の講演の改善点3つ強引に上げて」とかって、なんかすぐ言うんですよ。
渡邉さんは、こうした忖度させないルールを、受け入れる側から無礼講として用意するのが一つの方法だと話します。荒木さんはそれを「是々非々カルチャーを作る」ことだとまとめました。
ただし渡邉さんは、気まずいことを言い合う時間を組織の中に作る方法は紙一重だとも付け加えます。匿名にすると荒れる恐れがあり、顕名 ── 名前を明かして発言すること。匿名の対義語として使われますにすると誰も本音を言わない恐れがある、という難しさです。
神田さんは、めっちゃ難しそうだと率直に返します。年を重ねた神田さんは、若い人に「忖度なしに言ってください」と頼まれても、傷つけたくなくて言えないかもしれないといいます。
若い人たちが作ってる番組はちゃんと若い人たちに聞かれてるんですよ。僕のリーチできない層にちゃんとリーチできるんですよね。
神田さんは、50歳として生きてきた世代の知識は20代や30代にはあまり意味がないとも感じています。届いているならそれでいいので、ビシバシ言う必要もないのかもしれない、と話しました。
最終回の問い、ダチ公は切れるのか?
荒木さんは論点がわからなくなってきたと笑いつつ、次回が最終回であることを踏まえて元の問いに立ち返ります。渡邉さんは、元々の問いは「世の中ダチ公主義すぎるのでは?」だったと確認しました。
渡邉さんは、問いをずらす方向としていくつかの案を出します。
- 関係を積極的に終わらせるのは、むしろいいのではないか
- 所属しない自由は何を生むのか
- みんながコウモリになるとどうなるのか
荒木さんは、所属しないコウモリとして生きることがどこまで可能か、そのメリットは何かを掘りたいと応じます。神田さんは「ダチ公を切れるか」という問題もあると加えました。
渡邉さんが、神田さん本人はダチがいないと言っても周りからは仲のいいダチと思われているかもしれない、と投げかけると、神田さんは否定します。
一般的に言うその友達ぐらいの感じはあると思いますけど、親友レベルは絶対いないですね。
荒木さんは、いい議論になりそうだとして、最終回は所属しない生き方やダチ公の切り方をテーマに進めることを決め、今回は締めくくられました。
まとめ
第3回は、神田さんのマージナルな来歴とサイードの知識人論から、所属しないコウモリ的な立ち位置の価値と限界を考えました。後半では、ダチ公主義を停滞の原因ではなく症状と見る渡邉さんの仮説が出され、最終回に向けて「ダチ公は切れるのか」という問いが残されています。
- 神田さんはオタクでありながらヤンキー中学で生き抜いたことで、どこにも属さないマージナルな存在になったと振り返った
- サイードは知識人に、所属せず権力にものを言えるアマチュアであることを求めたと荒木さんは紹介した
- 是々非々で語る人は「ダチかどうか」がわかりにくくなり、仲間側から叩かれやすい
- 渡邉さんは、ダチ公主義はパイが縮む停滞の時代に悪化する「症状」ではないかと提起した
- 忖度させない仕組みは有効だが、匿名と顕名のどちらにも難しさがある




