イデオロギーより仲間を優先する社会はなぜ生まれたのか
この回は、神田大介さんをゲストに迎えた「世の中ダチ公主義すぎるのでは?」シリーズの最終回です。ダチ公主義とは、イデオロギーや普遍的な原理よりも、仲間内の友人関係を優先してしまう傾向を指して、神田さんが投げかけた言葉です。
冒頭で神田さんは、自分があちこちに話を広げてしまい二人に申し訳ないと言いつつ、とても楽しいと話します。渡邉康太郎さんは、予定調和にならず話が派生していくことこそおしゃべりの最大の魅力だと応じました。
続いて渡邉さんが前回までを振り返ります。神田さんは、ゲーム好きのオタクとしてMSXパソコンで雑誌のコードを写してゲームを作った少年時代を過ごし、廊下が灰皿になるようなヤンキー校に進学しました。メインストリームではない存在という自認が、その後の記者としての立ち位置にもつながっているという話でした。
荒木博行さんはそこで、エドワード・サイード ── パレスチナ出身の文学研究者・批評家。著書『知識人とは何か』で、知識人は亡命者・アウトサイダー・アマチュアとして権力に向き合うべきだと論じましたの『知識人とは何か』を引き、権力にものを言うにはアウトサイダーであれ、常にアマチュアであれという考え方を紹介していました。
議論の流れの中で、保守とリベラルの違いは「近い仲間を優先するか、遠くの普遍的な原理を優先するか」だと思っていたのに、今はどちらも近視眼的に仲間を優先しがちだ、という指摘も出ていました。神田さんはピーター・ティール ── PayPal共同創業者として知られるアメリカの起業家・投資家。テクノロジーの停滞を指摘し、空飛ぶ車を望んだのに140文字を手にしたという趣旨の言葉で知られますの話を持ち出し、社会の停滞の根っこにダチ公主義があるのではと問いかけていました。
これに対して渡邉さんは、仲間を大事にするのは社会的な存在としての人間の根本であり、ルネサンスも高度成長も仲間の結びつきの中で創造が起きていたと指摘します。そのうえで、因果を逆にして、停滞こそがダチ公主義を悪化させたのではないかという見方を示していました。
渡邉さんが前回たどり着いた「停滞がダチ公主義を悪化させた」という見方は、次のような流れで整理できます。
社会の停滞
成長が止まり、分け合えるパイが縮んでいく
ゼロサムゲーム化
誰かの得が誰かの損になる状況になる
仲間で固まる
人は身内で結束し、敵から奪う方向に向かう
荒木さんによれば、前回の最後は「友達を切るにはどうすればいいか」「コウモリとして生きる可能性」といった話でした。渡邉さんは、関係は終わってもいいのでは、コウモリは裏切り者か自由人か、という論点を通じて、ダチ公主義だけによらないスタンスの価値を話せるのではと考えていたと振り返ります。
「着脱可能」な人間関係とは何か
最終回の本題は、荒木博行さんの「かなり乱暴な話」から始まります。荒木さんは、今まさに3人がしている予定調和ではない対話そのものに、大事な意味があると感じていました。
僕ね、こういう対話が結構すごい大事なような気がしてるのよ。こういう予定調和じゃない対話する人間関係ってことかな。
しかも関係性がそんなに深くない誰かを入れながら、セッション的な対話をするっていうことだよね。
荒木さんによれば、狭いコミュニティの中での言説は同じことの繰り返しになり、ラディカルな問いが立たない紋切り型になりがちです。一方、開かれた空間で違う関係性の人を交えて自由に話すと、決まり事のクリシェを言っても白けるだけだといいます。
荒木さんが対比させた2つの対話の場は、次のように整理できます。
同じことの繰り返しになり、ラディカルな問いが立たず紋切り型になる
関係の浅い人を交えると決まり文句が通じず、自分たちの言葉を問い返すことになる
荒木さんは、こうした対話を「ウエットなダチじゃない人間関係の作り方のトレーニング」と表現します。そしてその関係性の特徴を、ちょっと意外な言葉で言い表しました。
そういう関係性ってすごいいつでも接続可能だし、逆に言うと、こう、着脱可能みたいな感じがあるんだよね。
離れることもできるし、必要に応じてつながることもできるっていう、そういう意味ね。こうべったりスティッキーにくっついてないっていう。
神田大介さんはこの話に強く共感し、自分は同窓会に行かないと打ち明けます。理由は、同じことばかりずっと喋っているからだそうです。荒木さんも、同窓会はあまり好きではないと応じました。
渡邉康太郎さんは少し違うスタンスでした。同窓会で共通の話題を見出せずがっかりして帰ることが多いのに、時間が経つとまた行ってしまうといいます。
自分が相手を見限るっていうこと自体が、結構そもそも変な構図な気がしてて。そこに他者がたくさんいるんだったら、絶対なんかあるじゃんっていう。
渡邉さんがそう考える背景には、高校時代の経験があります。学校生活が楽しくなく、腹を割って話せる相手もごくわずかで、周りをやや見下すような意識を持っていたそうです。
ところが社会人になってから、高校時代にほとんど話したことのない同級生と路上で再会し、ランチに行くことになりました。そのランチ1回で、大事にしている本や考え方に共鳴する部分がたくさん見つかり、渡邉さんは驚いたといいます。
見下されるべき対象は自分のその狭い視野で、周りにこんなに面白い人がたくさんいたし、本当は話もあったはずなのに気づけなかったのであるっていうのが結構反省になってて。
神田さんにとっての「ダチ公」とは?
荒木さんと渡邉さんの話を聞いた神田大介さんは、二人に共通するのは「ダチ公という言葉では表現できない人間のつながりが心底欲しい」ということではないか、とまとめます。そこで渡邉さんが、神田さんの考えるダチ公とは何かを尋ねました。
考え方が合うっていうところが前提にはなりますけれども、相手が自分に対して嫌なこと言わない、みたいなことなんじゃないですかね。
神田さんは、シリーズの初回で挙げた上野千鶴子さんや内田樹さんの例に触れ、ああいう言説は「聞いて気持ちがいい」と感じる人たちをグループにするツールだと説明します。日々のマイクロアグレッション ── 悪意のない何気ない言動が、相手を傷つけたり不快にさせたりすること。もとは人種や性別をめぐる無意識の偏見を指す言葉です的な嫌な思いをなるべく減らしたい人にとって、自分とぴったり合うことを言ってくれる相手は心が傷つかない存在です。
荒木さんはこれを受けて、ダチ公ではない関係とは「多少傷ついてもいいから、それ以上に大切なことを語り合う関係」ではないかと言い換え、神田さんも「その通りです」と同意しました。
では神田さん自身にそういう関係の相手はいるのか。荒木さんの問いに、神田さんは、そういう関係を作りたくてポッドキャスト制作を延々続けているのかもしれない、と答えます。
神田さんが例に挙げたのは、自身が手がける番組「放談」です。同期入社の記者である船越船越隆さんと基本的に二人で喋る番組で、リスナーからは仲がいいですねとよく言われるそうです。
全然友達っていう感じではなくって、仲良く喋ってんですけど、サシで飲みに行ったことって多分1回、2回ぐらいしかないんですよ。
神田さんにとって船越さんは、ビジネスパートナー的な存在です。考えが違うこともあるものの、お互いにリスペクトがあるのでそうした話も聞けるといいます。この組み合わせは、記者を100人ほど番組に呼んで、ようやく波長の合う相手として見つかったそうです。
荒木さんに「それが一つの理想的な友達関係か」と聞かれると、神田さんは「友達と言われると若干抵抗感があるけれども、友達ですね」と答えました。荒木さんは、近すぎない距離感が大事で、真理の追求を阻害するような人間関係はきついのだろうとまとめます。
自分の子供みたいに、僕の心臓いつでもあげますみたいな相手に対して、やっぱりね、本当のこととかはないですよね。まあでも両方必要なのかもしれませんね。
ウェットな関係のまま批判し合うことはできるのか
神田大介さんはここで、もう一つの視点を加えます。社会を変えるには、結局ダチ公を広げていかなければならないのではないか、という問いです。
やっぱりダチ公を広げていかないと社会は変えられないですよね。民主主義じゃなかったとしても、ある程度の広がりを持たせないことには何も変わりませんもんね。
神田さんは、どれほど理想や真理がわかっても、仲間の広がりがなければ実現できず独りよがりになる、と続けます。荒木さんも、悲しいけれどそういう側面はあると認めました。
このやり取りを聞いた渡邉康太郎さんは、「ダチ公」というラベリング自体に限界があるのではと言い出します。人間関係はグラデーションですらなく、いろいろな軸がある、というのが渡邉さんの見方です。
荒木博行さんは、理屈としてはその通りだと認めつつ、自分にはウェットな人間関係の中で正しいことを言えなかった過去がいろいろあると打ち明けます。組織に長くいて、飲み会や合宿を重ね、家族のことまで知る間柄になると、相手が大事にしていることが違うと思っても「この人だからいいか」と飲み込んでしまうのだそうです。
今そういう立場から逃れて、いろんな仕事に第三者として関わっている形でいくと、そういう意味での真理の追求っていうのはしやすい。
荒木さんは、立場を変えないとそういうスタンスが取れないのは自分個人の問題だとも話します。これを受けて渡邉さんが、議論の焦点を言い直しました。
渡邉さんによれば、建設的な問いは「ウェットな関係でもおおらかに批判し合うにはどうすればいいか」です。荒木さんも「それこそが本質的な問いだね」と応じ、4回目の残り数分でようやくイシューが明確になったと笑いました。
渡邉さんは、その問いへの手がかりとして、会社の仲間であるT君の例を挙げます。プロジェクトでは渡邉さんがリーダー、T君がメンバーになることが多く、上司と部下のように見られかねない関係です。それでもT君は渡邉さんへの批判をきちんと伝えてくれるといいます。
T君は面と向かって言うこともあれば、文章やドキュメントにまとめることもあります。翌日に打ち合わせがあるなら前日には送るなど、手遅れにならず考える時間が残るタイミングで、なぜそう思うのかを丁寧に説明してくれるそうです。
良いプロジェクトにして良いものを作りたいっていう共通のゴールがあるから、その批判は個人攻撃ではないっていうのが、やっぱり伝わってくるよね。
渡邉さんは、勇気を持って本質的な議論をしてくれること自体が受け取る側としては嬉しく、T君は批判のリテラシーが高いのだろうと話します。荒木さんはそこに、良いプロダクトや良い価値提供を最上位概念として本気で信じていることも大きいと付け加えました。
一方で荒木さんは、自分の支配欲求を満たしたい、自分が優れていると証明したいという、自信のない上司のもとでは同じ批判がハレーションを生むこともあると指摘します。批判が機能する関係と、こじれる関係の違いは、次のように整理できます。
共通のゴールを本気で信じ、批判を個人攻撃ではないと受け取れる。言いにくいことを言ってくれた相手に感謝が生まれる
受け手が自分の優位を証明したがり、批判を攻撃と受け取って防御的になる。やがて誰も批判しなくなり硬直する
最愛の妻に本当のことを言うには?
ここで神田大介さんが、ぐっと身近な問題を持ち出します。神田さんが最もウェットな関係を築いている相手は、妻だといいます。
僕はもう妻は最愛の人です。彼女が傷つくようなことは、真理だとしても言いたくないなぁ。やっぱ言えないかも。
神田さんは、妻が言ってほしくないことでも本当はこうした方がいいと伝える方法を考えてみたものの、思いつかないと話します。渡邉康太郎さんは「難しいので答えはない」と前置きしつつ、ある映画のシーンを紹介しました。
渡邉さんが挙げたのは、リチャード・リンクレイター ── アメリカの映画監督。『ビフォア』三部作や『6才のボクが、大人になるまで。』など、会話と時間の流れを丁寧に描く作品で知られます監督の『ビフォア・サンライズ』です。94年ごろの作品で、列車で知り合ったジュリー・デルピーとイーサン・ホーク演じる二人が、ウィーンで途中下車し、夕方から翌朝までただ街を歩いて喋り続ける物語です。
夜のカフェバーで、ジュリー・デルピー演じる女性は、翌日パリの友達とのランチに行けなくなったと言って、エア電話の芝居を始めます。イーサン・ホークはその友達役をいきなり任され、即興芝居に付き合うことになります。
女性は第三者に話している体で、列車で出会ったアメリカ人の男性が怪しいと言いながら、よくわからない魅力もあると語ります。最初に彼が祖母を亡くしたときの話をしてくれたとき、この人となら電車を降りて旅してもいいと自分から思っていた、という秘密まで打ち明けます。
渡邉さんは、このシーンを関係のギアチェンジとして読み解いています。芝居の中で起きていることを整理すると、次のような流れになります。
役を設定する
自分は自分役、相手は友達役という芝居の枠を作る
第三者に話す体をとる
面と向かっては恥ずかしいことを、友達への電話として語る
本音が漏れ聞こえる
目の前の相手には、秘密が「漏れ聞こえた」形で伝わる
自分たちの固定的な関係をちょっとギアチェンジする口実を作るっていうね。
渡邉さんによれば、夫婦や親友といった関係をずらす「帽子をかぶるチャンス」が、いつもと違う言葉で気持ちを伝えるための許しになっています。そして渡邉さんは、実は自分のパートナーとこれをよくやっていると明かします。
渡邉さんは親友モードに入り、相手の愚痴や理不尽なところを話します。パートナーもそれを第三者として受け取り、「それは結構やばいね」と返すのだそうです。神田さんは「高度すぎると言おうと思ったら、やってた」と驚き、渡邉さんは冗談っぽくなるからこそできるのかもしれないと話しました。
和歌とSNSの距離、褒め言葉に忍ばせる一割
神田大介さんは、渡邉さんの話を聞いて、関係をずらして気持ちを伝える工夫はかつての日本人もやっていたことではないかと考えます。平安時代の和歌はまさにそうで、比較的最近まで続いていたのではないかといいます。
神田さんは例として、松本清張原作の映画『砂の器』で、丹波哲郎演じる刑事がさらりと一句ひねってみせる場面発言の正確な台詞に触れ、あの時代の人は日常的に句をひねっていたのだと語ります。
結局なんか(今の人は)直接的に伝えすぎるのかもしれない。
やっぱSNSって直接的ですもんね。
渡邉康太郎さんは「和歌ですよ、和歌」と応じ、さらに知人のパートナー同士の様子から見つけた工夫も紹介します。人前でパートナーをめちゃくちゃ褒め、その9割の褒め言葉の中に、1割だけ「ここがちょっとつらいところもあるけど」という本音を忍ばせるやり方です。
渡邉さんは、日本人はパートナーを人前で持ち上げることをあまりしないからこそ、積極的に褒めること自体がかっこいいとも話します。神田さんは、推理小説のどんでん返し並みの展開に感動していると興奮気味に語りました。
神田さんはそこから、話をシリーズ全体のテーマに結びつけます。荒木博行さんも、根本的にはコミュニケーションの問題だと同意しました。
予定調和を嫌う対話がポッドキャストで生まれる理由
エンディングに入り、神田大介さんは結論にめちゃくちゃ納得感があると話します。渡邉康太郎さんは、最愛の妻を傷つけられないという話が出たときは答えのない問いだと思ったと振り返り、ワールドカップのロスタイムの逆転ゴールのようだと笑いました。
神田さんも「僕がとんだクソセンタリングを上げたら、見事にヘディングが決まった」と応じ、ハーランド ── ノルウェー代表のサッカー選手アーリング・ハーランド。圧倒的な得点力を持つストライカーとして知られます級だと盛り上がります。
こういう瞬間があるから、ポッドキャストってやっぱ面白いんですよね。今それの瞬間に立ち会えてすごくいいですね。
渡邉さんは、収録して公開するという適度な緊張感とゆるい時間制約があるからこそ、予定調和にしたくないという美意識を共有できていると話します。一人では到達できないところまで行きたいという思いの共有は、T君の話で出た「上位概念を信じる」ことにも近いのかもしれない、と渡邉さんは考えます。
締めの一言を求められた神田さんの答えは「ポッドキャスト最高」でした。荒木さんとは全く面識がなく、渡邉さんとも一度挨拶しただけなのにこんな対話ができるのは、ポッドキャストだけだろうと神田さんは話します。
渡邉さんによれば、二人の出会いはHOME/WORK VILLAGEで開かれたポッドキャストEXPOで、秀島史香さんの紹介でした。神田さんは「こういう瞬間があるから生きていけますね」と語り、渡邉さんは会話を通じて神田さんが家族を大事にしていることが伝わってきて嬉しかったと話して、4週にわたるシリーズを締めくくりました。
まとめ
「世の中ダチ公主義すぎるのでは?」シリーズの最終回は、ダチ公を否定するかどうかではなく、近い関係のままどう本音や批判を伝えるかという問いにたどり着きました。答えの一つは、役割や言葉の形式を借りて関係を少しずらし、いつもと違う言葉で語る許しを作ることでした。
- 神田さんにとってのダチ公は、考え方が合い、自分に嫌なことを言わない相手。荒木さんはその対極を「多少傷ついても大切なことを語り合う関係」と表現した
- 荒木さんは、予定調和でない対話がつながりも離れもできる「着脱可能」な関係を育てると考えている
- 渡邉さんは、論点はウェットかドライかではなく、ウェットな関係でもおおらかに批判し合えるかだと整理した。T君の例では、共通のゴールへの信頼が批判を支えていた
- 『ビフォア・サンライズ』のエア電話や和歌、9割の褒めに1割の本音を忍ばせる話法は、関係をずらして本音を伝える工夫として語られた
- 神田さんは、直接的なSNSやタイパ・コスパ志向で深いコミュニケーションが減っていることを、ダチ公主義の一番の原因と見ている



