先週の議論は何を残したのか
今回は、神田大介さんをゲストに迎えた回の2週目です。冒頭で神田さんは、超相対性理論を番組開始当初から聴いていて、オリジナルメンバー3人の議論に衝撃を受けたと明かしています。
(超相対性理論の)オリジナルメンバーの3人の方の議論っていうのが、うわすげえ、頭いい人の会話ってこんなおもろいんだっていう発見があって。
続いて渡邉さんが、前回の議論を振り返ります。神田さんが投げた問いは「世の中ダチ公主義すぎるのでは?」というものでした。保守やリベラル、右翼や左翼といったラベルがあっても、実は思想そのものより「ダチ公を守る」ことが目的になっているのではないか、という批判的な問いです。
前回、渡邉さんはこの問いに対し、個別の思想や発言を是々非々で議論するのはコミュニケーションコストが高すぎるのではないか、仮想敵への感情がロジックを弱めているのではないか、と答えていました。
一方で荒木さんは、ダチ公主義を自分事として受け止めていました。スタートアップの代表とのやりとりで小さなイエスを重ねるほど所属感は高まりますが、そのぶん大事な場面でノーを言えなくなるという話です。
荒木さんの説明では、ノーを言うことは、それまで小さなイエスを飲み込んできた自分自身の否定にもなりかねません。ノーを言うのも、飲み込んだまま働くのも重いという二重の負担から、感覚を麻痺させて生き延びるスキルが身についてしまうのではないか、という指摘でした。
渡邉さん自身の論点も更新されています。最初はダチ公主義を「認知の節約装置」と捉えていましたが、人はコストではなく報酬として敵を欲しているのではないか、と考え直したといいます。
コストじゃなくて、むしろ報酬として人は敵を欲しちゃってるんじゃないか、我々全員。
渡邉さんによれば、ソーシャルメディアで人を攻撃して仲間との結束を強めたり、怒りで炎上させてアテンションを稼いだりすることで、歪んだ承認欲求を満たしている面もあるかもしれません。
外に敵を作る組織は、なぜ内側から崩れるのか
前回の議論の延長として、荒木さんは「ダチ公主義のパラドックス」を提示します。荒木さん自身の経験としても、外側に敵を作ると内部の結束が強くなるのは本当で、国でも会社でも、競合に負けるかと意識すると一丸になれるといいます。
ただし荒木さんは、外に敵を作ることを「毒リンゴ」だと表現します。外の敵をちゃんと敵と見なしているか、という線引きが始まり、信念の純度を問う空気が内側に生まれるからです。
お前らちゃんと信じてないなみたいな。なんか本気でコミットしてないだろうみたいな感じで、内側に敵ができていくみたいな。
荒木さんは、ダチ公を作るためのイデオロギーが、やがてダチ公そのものを壊していくと続けます。かつての内ゲバ ── 同じ陣営や組織の内部で起きる暴力的な抗争のこと。日本では1960〜70年代の新左翼系学生運動の中で多発し、多くの死傷者を出しましたのように、ダチ公主義が極まると内側が崩壊していくという見立てです。
荒木さんが示した、外の敵が内側の崩壊につながるまでの流れは次のように整理できます。
外に敵を作る
競合や対立相手を強く意識する
内部が結束する
「あいつらに負けるか」で一丸になる
純度の線引きが始まる
ちゃんと敵視しているか、本気かが問われる
内側に敵ができる
信じていない仲間が攻撃対象になる
組織が自壊する
内ゲバのように内側から崩れていく
渡邉さんはこの指摘を「グッドポイント」と受け、学生運動の末の内ゲバはまさにその通りだと応じます。そこで紹介したのが、漫画家の山本直樹さんによる『RED』です。
渡邉さんの説明では、『RED』は連合赤軍 ── 1971年に結成された日本の新左翼組織。山岳ベースでの同志へのリンチ殺人や、1972年のあさま山荘事件で知られていますとその母体となった組織を、当事者の手記や日記に沿って克明に描いた、ドキュメントに近いフィクションです。
『RED』で渡邉さんが特に印象に残っているのは、登場人物に振られた番号の仕掛けです。同じ人物には必ず同じ番号が付いていて、それが亡くなっていく順番だと後から気づくといいます。
物語が進行していく中で、誰がどの順で亡くなっていくっていうのが、なんか神の視点じゃないけど、(中略)あらかじめネタバレされている状態の中で読み進めるっていう、緊張感のある漫画なんですね。
暴力団とイスラム国は何で仲間をつなぎとめるのか
神田さんは、話を自身の取材経験へ広げます。イデオロギーのほかにダチ公主義を支えるツールとして、神田さんが挙げたのが暴力団でした。
神田さんは愛知県警の捜査四課担当として、指定暴力団山口組のトップである司忍組長の出身母体、弘道会 ── 名古屋市に本拠を置く指定暴力団で、山口組の中核組織の一つ。山口組の現組長はこの弘道会の出身ですを担当していたといいます。
暴力団の世界は完全にダチ公主義なんです。
神田さんによれば、暴力団にとっての外の敵は、他の暴力団との抗争相手や、警察などの国家権力です。そして内側では「組員としての務めを果たしているのか」が常に問われます。
その「務め」の中身は、シノギと呼ばれる金です。平の組員は組長や若頭に金を納め、その組長はさらに上の組に納めるという形で、5次団体ほどまである階層を通じてお金が上へ上がっていくと神田さんは説明します。
つまりこの場合は金だし、さっきのイデオロギーみたいなツールっていうのが何かっていうと金なんですよね。
もう一つの例が、神田さんが中東で取材していた2014年ごろに問題になっていたイスラム国(IS)です。神田さんは、日本人の人質が無残な形で殺害された事件にも触れています。
イスラム国の場合、つなぎとめるツールは宗教、つまりイデオロギーです。ただし神田さんは、よく見ると「居場所」という側面もあると話します。当時のデータでは、戦闘員の出身国で最も多かったのはチェチェン共和国などを含むロシアで、2番目がサウジアラビアだったといいます。
神田さんが注目したのは、比較的裕福なサウジアラビアから人が加わる理由です。サウジアラビアでは意見や表現の自由が極めて乏しく、国会のような機関も国王の諮問機関で、メンバーは国王が決めるといいます。
神田さんの見立てでは、国王に逆らうことを言えない国で政治的な自由や思想を語ろうとすると、テロ組織しかないという面があります。そしてイスラム国の内部でも「お前らは何のために生きているのか」が問われ、非イスラム圏の人々を敵としていたぶることが善とされる形で、出身国の異なる人々の間にダチが作られていくと語られます。
神田さんが挙げた2つの組織を、仲間をつなぐ仕組みの観点で並べると次のようになります。
| 項目 | 暴力団 | イスラム国 |
|---|---|---|
| 外の敵 | 他の暴力団、警察などの国家権力 | 非イスラム圏の人々 |
| つなぎとめるツール | 金(シノギ) | 宗教(イデオロギー)と居場所 |
| 内側で問われること | 組員として務めを果たしているか | 何のために生きているのか |
神田さんがそもそもイデオロギーの話を持ち出したのは、新聞記者として、そして子どものころから「本当のところが知りたい」からだといいます。その探求にとって、ダチ公主義は邪魔なのだと話します。
そのダチ公主義を作っちゃった瞬間に、その毒林檎っていう風にね、荒木さんがおっしゃったような、そういうものに手染めちゃって、みんな事実とか真実みたいなものを探すところから目背けるじゃないですか。
神田さん自身も、波風を立てたいとは普段思っておらず、感覚を麻痺させて生きる面は自分にもあると認めています。それでも、なぜ自分はこの世の中に生まれ、こんな認知を持っているのかを突き詰めたいといいます。
ダチが少ない人ほど遠くへ行けるのか
神田さんの「集団に属すると真実を追えない」という話を受けて、渡邉さんは逆の見方を示します。ダチがいない、あるいは少ない人こそ、一番遠くまで行けるのではないかという仮説です。
渡邉さんによれば、神田さんは事前のチャットで「僕はダチがいないんですよ」と話していたといいます。企業への所属はあっても所属感が薄いからこそ、暴力団にもイランの官僚にも学者にも会いに行けるのではないか、という見立てです。
ダチがいると特定の持ち場に根を張っちゃって、そこから出づらくなるっていう。
渡邉さんはこれを、ダチ公主義は安心材料であると同時に檻にもなり得る、と言い換えます。檻に入っていない人は所属にとらわれず飛び回れる一方、帰る場所がありません。
安心できる居場所がある一方、特定の持ち場に根を張り、そこから出づらくなる
一つの所属にとらわれずいろいろな場所へ行ける一方、帰る場所がない
神田さんは、イスラム国の話にもあったように、居場所がないことは一般的につらいと応じます。居場所を確保するために、イデオロギーという通行証や会員証を得る感覚があるのではないか、と神田さんは話します。
子どものためなら死ねる気持ちと、天皇のために死ねる気持ちは違うのか
神田さんは、家族も居場所の一つだと話を進めます。神田さんは最近、右翼団体とされる一水会 ── 1972年に結成された日本の民族派団体。新右翼の代表的な団体として知られ、対米自立などを主張してきましたの人物とPodcastを収録し、その人が「天皇のためなら死ねる」と語ったといいます。
神田さんは、その感覚が自分にはまったく理解できないとしつつ、子どものためなら自分はすぐに死ねると言います。心臓を移植すれば子どもが生きられるなら、秒の判断で差し出せるという例えです。
それって別にあんま変わんないですよね。結局、僕の中にもそういう居場所を求める気持ちってのがあるから、家族っていうものを作ってるんだろうし、
そういう意味じゃ広い意味でいうとIS(イスラム国)と別に変わんないのかな。
これに対し荒木さんは、子どもは具体的な存在であるのに対し、日本国などは抽象的なものだと指摘します。荒木さんは、組織の中で恥ずかしいことができないから「日本のために死ねる」と口にすることは理解できても、本気でそう思えるのかという思考回路にはついていけないと話します。
さらに荒木さんは、会社のパーパスにコミットするという言葉も、実は目をかけてくれた人に報いたい、その人がいる組織で居場所を確保したいという気持ちの表れなのかもしれない、と見ています。ここでもダチ公の影響が大きいということです。
渡邉さんは別の角度から、自分が部品や奴隷、サーヴァントになること自体を快楽と思えるかどうかではないか、と考えます。子どもの命のために自分を臓器の道具として扱っても悔いはない、という感覚の対象を入れ替えれば、天皇や国や宗教のためにも言えるのかもしれないという見方です。
俺が世界一のアーティストになるとか心に決めてる人はそうはならないんだけど、なんか人生のあるステップの中、例えば自分はある議員の秘書ですと。
渡邉さんの例では、立候補するシナリオを描いていない議員秘書が、ある時点から「この議員のために命を使うことが自分の一番やりたいことだ」と納得するようになることは想像できるといいます。それは諦めを含んでいるかもしれないが、自分らしいという納得の仕方はあり得る、という話です。
荒木さんが「それはそれで一つの幸福感かもしれない」と応じると、渡邉さんも、崇高なもののためになっていると信じられれば、その人にとっての幸福なのかもしれないと同意します。
話題は一神教の宗教感覚にも及びます。渡邉さんは、死後の世界こそが本丸で、現世はかりそめであり、善行を積まなければ天国に行けないという価値観では、現世で毎秒試されているような緊張感があるのかもしれないと話しています。
首相でさえ「お返し」から離れられないのか
神田さんは、ブッダやアリストテレスのような人でもない限り、本当に自分のやりたいことを追求するのは難しいのではないかと考えます。その例として挙げたのが、首相の高市早苗さんです。神田さんは、これは批判ではないと前置きしています。
神田さんによれば、収録直前に朝日新聞ポッドキャストの番組『報談』を収録した際、政治部の記者から「高市さんの政策は基本的に、受けた恩へのお返しだ」という話が出たといいます。高市さん自身がやりたいことに見えるのは、唯一国旗損壊罪くらいだという話です。
記者の見立てとして神田さんが紹介した具体例は、次の2つです。
| 政策 | お返しの相手 | 背景として語られたこと |
|---|---|---|
| 皇室典範の改正(男系男子にこだわる形) | 麻生太郎さん | 総裁・首相になれたのは麻生さんの後押しがあったから |
| 副首都構想の法案 | 日本維新の会 | 公明党が連立を離脱した中、維新が連立を組んだから |
その一方で、物価高や円安への対応にはほとんど手が付けられておらず、高市さんが本来やりたいのではと思われていた外国人対策もおざなりになっているといいます。神田さんは、その理由をお返しする相手がいないからではないかと推測しています。
日本の行政のトップであるところの首相であっても、誰かに返す、誰かに尽くすみたいなところから離れられておらず。
神田さんは自分はアンチ高市ではないと断ったうえで、人間はもともとそういう生き方しかできないのが基本で、たまに天才が生まれてそれを壊していくのではないか、と問いかけます。
まれびとやマージナルマンはダチ公主義を変えられるのか
ダチ公と無関係に自分なりの主張をしてきた人はいるか、という問いに、神田さんは「いないかも」と答えます。いろいろな人と会ってきたが思い当たらない、という反応です。
渡邉さんは、ダチ公には1対1の関係とコミュニティへの所属の両方があると整理したうえで、ダチ公ではない存在として、異邦人、境界人、まれびとを挙げます。茶道をたしなむ渡邉さんは、その場限りで立ち上がるものを大切にする一座建立 ── 茶道の言葉で、亭主と客が心を通わせ、その場に一体感のある座を作り上げること。一期一会と並んで茶の湯の精神を表しますや一期一会もその一つだといいます。
さらに渡邉さんは、シカゴ学派のパークが唱えたマージナルマン ── 社会学者ロバート・E・パークが提唱した概念で「境界人」と訳されます。異なる2つの文化や集団の境目に属し、どちらにも完全には同化しない人を指しますを紹介します。対立する2つの文化の間で生きることを強いられた存在で、その心の中では反発し合う文化が部分的に溶け合う、るつぼのような状態になるといいます。
渡邉さんによれば、パーク自身はマージナルマンをややネガティブに語っていましたが、その後評価が反転する議論があります。既存の文化の中だけでは生まれない、独自のものの見方や価値観、感受性が、境界だからこそ育まれるという見方です。
そのダチコーに染まると、何て言うのかな、えっと、同質化するとか、腐敗が始まるとか、変化が妨げられるみたいなのがあるかもしれないんだけど、
渡邉さんは、寓話のコウモリ、折口信夫 ── 民俗学者・国文学者・歌人。外の世界から訪れて人々に幸いをもたらす神や来訪者を「まれびと」と名づけ、日本文化論に大きな影響を与えましたのまれびと、異邦人は、いずれも境界に立つ人が集団を外側から変えていく姿として語られてきたのかもしれないと締めくくります。
荒木さんの提案で、次回は渡邉さんがこのコウモリの話を掘り下げることになり、2回目は幕を閉じます。
まとめ
この回では、ダチ公主義が外の敵、金や宗教、居場所、恩返しといったツールで支えられ、暴力団からイスラム国、家族、首相の政策まで広く見られることが語られました。同時に、純度を問う空気が内側を壊す危うさや、境界に立つ人が外側から変化をもたらす可能性も示されています。
- 外に敵を作ると結束は強まるが、純度の線引きが始まり、やがて内側に敵が生まれて組織が自壊するという「毒リンゴ」の構造がある
- 暴力団は金、イスラム国は宗教と居場所によって仲間をつなぎとめていると神田さんは取材経験から語った
- ダチが少ない人は所属にとらわれず遠くへ行けるが帰る場所がないという、自由と所属のトレードオフが示された
- 子どものために死ねる気持ちも、崇高なもののために自分を使う納得も、居場所を求める気持ちと地続きかもしれないと話された
- マージナルマンやまれびとのように境界に立つ人が、同質化しがちな集団を外側から変えていく可能性が提示された




