首相が「やる」と言わないまま進む内閣改造への違和感
冨名腰記者がこの回で取り上げたのは、高市早苗首相の内閣改造をめぐる報道です。9月16日に自民党役員人事、17日に内閣改造が行われると報道されているものの、首相本人が国民に向けて「改造する」と明言した場面がないことに、冨名腰記者は違和感を覚えていると話します。
まず、やるって言った?(高市さんは正式には)言ってないんですよ、外に。
神田記者は、内閣改造は恒例行事のように見えており、わざわざ「やります」と宣言するものなのかと疑問を返します。これに対し冨名腰記者は、首相動静や読売新聞のインタビューを持ち出しながら、実際には人事が進んでいることを示していきます。
冨名腰記者によれば、9月8日の首相動静には党役員会が記録されており、麻生太郎氏や鈴木俊一幹事長らがいる場で、内向きには人事を行う方針が伝えられているとみられます。
一方、公に人事へ言及した数少ない機会として、冨名腰記者は8月27日に行われた読売新聞の単独インタビューを挙げます。質問がすでに「内閣改造と党役員人事にどう臨むか」という前提で構成されていた点を、冨名腰記者は指摘します。
もうなんかやること前提で聞いてるわけよ。
この回答で高市首相は、党所属の幅広い国会議員にアンケートを行い、それに基づいてお任せできる方にお願いしたいと述べたとされます。冨名腰記者は、それでも「やります」とは明言していない点に注目し、「まずやりますって言うべきだ」と指摘します。
比較の物差しは安倍晋三 最長617日と、明言した1カ月前
冨名腰記者は、高市首相の人事を評価する物差しとして、師匠格にあたる安倍晋三元首相を持ち出します。安倍元首相は人事のやり方で歴史的な記録を残した人物だからです。
第2次安倍内閣は2012年12月に発足しましたが、そこから1人も閣僚を変えない期間が続きました。冨名腰記者によれば、2014年9月に改造するまでの617日間、閣僚が1人も変わらなかったことになります。
617日間一人も閣僚が変わらなかった。これは戦後最長記録です。
この617日という数字がいかに突出しているかは、2位の記録と比べると際立ちます。冨名腰記者は、2位は第1次佐藤栄作改造内閣の425日だと説明します。
その安倍元首相も、改造に踏み切る際には明確に意思を表明していました。冨名腰記者は、2014年7月31日に自身がチリ・サンティアゴに同行取材した際の朝日新聞記事を紹介します。
記事によれば、中南米訪問中の安倍首相は、9月第1週に内閣改造・党役員人事を行いたいと述べ、改造について明言したのはこれが初めてでした。冨名腰記者は、実際の人事の1カ月以上前に本人が表明していた点を強調します。
なぜ首相は人事をやりたがるのか 権力・刷新感・待望組
冨名腰記者は、そもそも首相はなぜ内閣改造や党役員人事をやりたがるのか、その理由を整理していきます。まず1つ目に挙げるのが、人事権を行使すること自体が権力の象徴になっているという点です。憲法上、国務大臣の任命も罷免も首相の権限です。
冨名腰記者は、その権限を示すこと自体が首相の求心力の一要素になっていると指摘します。
それが求心力の一要素になってしまっていると、あえて言いましょう。
2つ目の理由は「刷新感」です。冨名腰記者は、先ほどのサンティアゴでの安倍首相の言葉に「新たな気持ちで新たな分野にチャレンジし、さらに成果を求めたい」とあることを引き、目先を変えたいという動機は歴代首相に共通すると話します。
ただし、刷新感を狙った改造がうまくいくとは限らないと冨名腰記者は付け加えます。3つ目の理由として挙げるのは、大臣になりたい待望組の存在です。
冨名腰記者は「末は博士か大臣か」という言葉を引きながら、当選回数を重ねて「適齢期」とされる議員が入閣を待っている状況を説明します。首相はそのプレッシャーや不満を解消するためにも人事を行うといいます。
なお大臣は国会議員でなくてもなれると冨名腰記者は補足します。憲法68条で「過半数は国会議員から」と定められているため、半分未満であれば民間人でもよいという建て付けです。ただし第2次安倍政権以降、民間からの起用はないとされます。
人事取材は「つまらない」 それでも大事な理由
冨名腰記者は、今回の高市首相の人事報道で気になっている点として、留任情報が毎日ぽつぽつと先行して出ていることを挙げます。麻生氏の副総裁続投から鈴木幹事長、木原稔官房長官、片山さつき財務相まで、主要ポストの留任が次々と報じられている状況です。
いやいや、もうなんか大事なとこ全部留任やないか。
そのうえで冨名腰記者は、人事の取材そのものは「つまらない」とあえて言います。裏取りの方法が、人事権者である首相に聞くか、言われた側に「言われたよ」と聞くかの2パターンしかなく、工夫のしようがないためです。
やっぱり人事の取材ってつまんないんですよ。
それでも人事取材を馬鹿にしてはいけないと冨名腰記者は続けます。首相がどう意思決定し、どう仲間を選び、どう伝えるかは、政策の意思決定と同じプロセスをたどるからです。人事の進め方を検証することは、統治者の姿勢を検証することにつながります。
神田記者は、事件取材でも同じ構造があると応じます。捜査当局が何をやっているかをつぶさに見ている中で、結果として逮捕のタイミングが分かることはあっても、それを狙って取材しているわけではないという説明です。
そのプロセスが大事なんですよ。
一方で冨名腰記者は、今回の情報の出方には違和感があると話します。人事権者は本来、注目が集まった瞬間に一気に引きつけて発表することで最大効果を狙うものだが、今回は毎日少しずつ漏れる「ガス抜け」のような状態だと感じています。
冨名腰記者は具体例として、9月7日の首相動静で高市首相が小林鷹之政調会長、萩生田光一幹事長代行と会食し、木原官房長官が同席していたことを挙げます。あまり人と食事をしない高市首相がこの2人を呼んだ点に「匂う」と感じ、案の定、その後に2人の残留が報じられたといいます。
こうした点から冨名腰記者は、高市流の人事の進め方について、人事権の行使の仕方としてはあまりうまくないという印象を持っていると話します。
初入閣待望組への注意 電話が鳴らない部屋の残酷さ
内閣改造の日は、一般的に午前中に閣僚の辞表を取りまとめ、午後の早い時間から順次、官邸への呼び込みが始まります。
そのため、大臣になるかもしれない議員は事前に待機している必要があります。冨名腰記者によれば、かつて小泉政権では、当日にいきなり電話して、その議員が北海道にいたという事態も起きたといいます。
神田記者は、小泉純一郎元首相が派閥推薦を聞かずに自分で人事を決め、前日や当日に本人へ直接電話するスタイルだったことを振り返ります。事前連絡が丁寧になった安倍政権以降とは対照的でした。
冨名腰記者が最も残酷だと語るのは、記者やカメラを入れて待っていたのに、電話が鳴らないまま全ポストが埋まってしまう場面です。本人もつらいが、その部屋から出ていく記者やカメラマンのタイミングも難しいといいます。
もう全員埋まりましたけど、ポスト…みたいな。本人つらいよ。
神田記者はこれをプロ野球のドラフト会議に例えます。指名されるかどうか分からないまま待つ残酷さは似ているが、大臣は野手やピッチャーのように差し替える必要がない分、事情が異なるとも整理します。
明治にさかのぼる内閣改造 「政局やってるやん」
ここから冨名腰記者は、内閣改造がいつから行われてきたのかを歴史的にたどります。内閣制度が創設されたのは1885年、明治18年です。大日本帝国憲法が公布される4年前のことでした。その後の明治憲法下では、各大臣は天皇が任命する仕組みでした。
この建て付けから冨名腰記者は、当時は首相の思惑による内閣改造は起きにくかったのではないかと想像していたと話します。しかし当時の朝日新聞を調べると、その常識は覆されたといいます。
冨名腰記者が今回調べた朝日新聞紙面で「最初ではないか」とみる内閣改造の例は、1895年3月の第2次伊藤博文内閣での閣僚の入れ替えです。松方正義が大蔵大臣に就くなど、玉突きで大臣が動く人事が行われました。
この時期は日清戦争の戦後処理という重要局面でした。冨名腰記者は、下関条約の賠償金交渉や金本位制への移行を担う布陣として、伊藤博文が関係の良くなかった松方を起用せざるを得なかったと説明します。
翌1896年8月の朝日新聞には、「井上伯の内閣改造策」という見出しで、井上馨が伊藤博文に一度外れた松方の再登用を進言する記事が載っていました。冨名腰記者は、記事に「内閣改造」という言葉が出てくること自体に注目します。
いや、結構やってるやんと。
さらにこの後の展開も、現代の政局報道さながらだと冨名腰記者は言います。松方は入閣を拒み、「弱っちい内閣に俺は入れるか」という趣旨で新橋から神戸へ発ってしまいます。その理由まで新聞に「松方伯峻拒(しゅんきょ)理由」として報じられていました。
全部表に出てるけど。すごいね。
結局、伊藤内閣はその6日後に辞任し、18日後には松方内閣が成立します。冨名腰記者は、明治の時点ですでに人事をめぐる駆け引きが新聞紙上で展開されていたことに驚きを示します。
戦後も同じ 天声人語が突いた「大臣就任の輪番制」
冨名腰記者は続いて、日本国憲法下で首相に人事権が明確に移った戦後についても調べたと話します。戦後最初の内閣改造は、1950年6月28日の第3次吉田茂内閣でした。
この改造では9人が新たに入閣しました。冨名腰記者が注目するのは、翌29日の朝日新聞の天声人語です。そこには内閣改造を「大臣就任の輪番制」と表現し、党内の不平をなだめるための人事だと辛辣に批評する内容が書かれていました。
天声人語では、閣僚人選の苦心が「党内の不平をなだめる」「論功行賞」といった党内事情に尽きていると指摘され、極東の重大情勢に照らして頼もしさは感じられないと突き放していました。神田記者は、この論調が現代とほとんど変わらないことに驚きます。
てか今と同じ。
冨名腰記者は、明治から戦後までを通じて、時の権力者は内閣改造で局面を打開し、刷新感を出したがってきたと総括します。
人事の名手・佐藤栄作の逆説 「改造すればするほど権力は下がる」
自民党結党後、人事を巧みに操った例として冨名腰記者が挙げるのが佐藤栄作元首相です。7年8カ月の長期政権の間に組閣を3回、内閣改造を6回行い、延べ100人以上を閣僚に起用したことから「人事の佐藤」と呼ばれました。
その佐藤元首相が残したとされる言葉を、冨名腰記者は名言集から紹介します。多くの人事を行ってきた本人だからこその逆説です。
冨名腰記者は、この言葉の背景を人数の観点から説明します。自民党には約400人の議員がいる一方、閣僚ポストは限られており、改造をするたびに満足する人よりも不満を抱く人のほうが多くなるためです。
一方で佐藤元首相は、三角大福と呼ばれるライバルたちを取り込みながら人事を進めました。冨名腰記者は、ライバルを起用して輪を保つことが長期政権につながると整理します。
改造が命取りになるとき 橋本内閣の失敗と小泉の看板
一方で、内閣改造が政権の命取りになる例もあると冨名腰記者は指摘します。1997年の橋本龍太郎内閣では、改造後に朝日新聞の支持率が53%から35%へ急落しました。
原因は、ロッキード事件で有罪判決を受けていた佐藤孝行氏を総務庁長官に起用したことでした。世間の猛反発を受け、佐藤氏は11日後に事実上更迭され、橋本首相は翌1998年の参院選で大敗して辞任することになります。
派閥の力学で決まっていた人事を「やめる」と宣言したのが小泉純一郎元首相でした。2001年、小泉首相は派閥順送りをやめ、最初に起用した大臣を辞めるまで一緒にするという「一内閣一閣僚」を公約に掲げます。
内閣改造しない、って宣言したわけです。
しかしこの看板は貫けませんでした。目玉だった田中真紀子外相が混乱の末に発足から9カ月ほどで事実上更迭され、看板は下ろされます。小泉首相自身も後に「一内閣一閣僚は目的ではない」と釈明したと冨名腰記者は説明します。
この経緯から冨名腰記者は、人事をやらないでいられるのは政権が強いときだけだと結論づけます。安倍政権が617日間も改造しなかった背景にも、その強さがあったといいます。
安倍晋三に学ぶ お友達内閣の失敗とバランス人事の成功
冨名腰記者は、人事に最も成功し最も失敗した人物として安倍晋三元首相を挙げます。まず2006年に発足した第1次安倍内閣は、菅義偉、麻生太郎、高市早苗ら自分に近い人物で固めた「お友達内閣」と呼ばれ、党内外から批判を浴びました。
冨名腰記者が印象的な場面として語るのが、閣議の冒頭撮影で首相が入室しても閣僚が誰も立たなかったというエピソードです。緩んだ雰囲気を幹事長の中川秀直氏が会見で指摘すると、今度は「首相に対して先輩ぶるとは何事か」という新たな混乱が生まれました。
2007年夏の参院選で大敗した安倍首相は、その後の改造でお友達を一切外し、派閥のベテラン重鎮を並べます。町村信孝、額賀福志郎、伊吹文明ら各派の領袖を配したこの改造後、辞意表明までの短い期間ではあるものの、冨名腰記者は「政権としては安定した」と振り返ります。
この経験が第2次安倍内閣に生かされたと冨名腰記者は見ています。麻生太郎、谷垣禎一、岸田文雄、地元・山口のライバルである林芳正らを取り込み、総裁選で争った石破茂を幹事長に据えるなど、バランスを徹底した布陣が617日の安定につながりました。
ライバルを取り込んで輪を持ってなんとかみたいな世界を体現した。
ただし、そのサンティアゴで表明した第2次安倍改造内閣は失敗したと冨名腰記者は補足します。法相の松島みどり氏と経産相の小渕優子氏が就任からわずか1カ月ほどで辞任し、刷新感を狙った入れ替えが裏目に出ました。
この失敗以降、安倍元首相は骨格をいじらず、初入閣組の人選は菅氏に任せるようになったと冨名腰記者は分析します。細やかなバランス感覚を持つ菅氏に委ねることで、政権が回っていったといいます。
高市首相の人事、注目するポイントは 林芳正氏・女性閣僚・初入閣
歴史を踏まえて冨名腰記者は、これからの内閣改造で注目するポイントを4つ挙げます。あくまで結果が出る前だから言えることだと断りつつ、人事の見どころを提示します。
1つ目は、ライバルである林芳正氏を閣内に取り置いておくことです。林氏は総理を目指す姿勢を隠しておらず、外国特派員協会の会見でも自ら政権中枢から外れていると述べているといいます。冨名腰記者は、ライバルを野に放つと批判勢力の受け皿になり危険だと指摘します。
2つ目は、女性閣僚を6人以上にすることです。冨名腰記者によれば、過去の内閣で女性閣僚の最多は5人でした。首相自身が女性であるため、あと5人選べば6人となり、過去最多を更新できます。
自民党には衆参合わせて約417人の議員がおり、うち女性は59人います。民間から起用する選択肢もあると神田記者が加え、冨名腰記者もこれを本気でやれば女性有権者の目線が変わるかもしれないと期待を示します。
もう一個壁を破れるチャンスがあるとすると、彼女ができることってまだあるんじゃないかなと思ってるんです。
3つ目は、初入閣を10人以上にすることです。冨名腰記者は、総理総裁の権限が25年前より圧倒的に強くなった今こそ、派閥順送りにとらわれず当選回数を問わずに人材を発掘できると話します。
もう1つの注目点は武田良太氏の起用 麻生氏との駆け引きが試金石
4つ目に挙げるのが、武田良太氏の起用です。麻生氏と犬猿の仲とされ、事実上二階派を受け継いで新たなグループを作ろうとしている人物です。高市首相とは個人的に距離が近いといいます。
冨名腰記者は、武田氏が首相就任後の高市首相に豚まんを送り、「これで年を越せた」と言われたエピソードを紹介し、人付き合いのうまさに触れます。この武田氏を入閣させれば、犬猿の仲である麻生氏は激怒するとみられます。
でも麻生傀儡政権じゃないよと。ここは駆け引き勝負かな。
冨名腰記者は、高市首相にとって麻生氏は総理経験者であり、政治キャリア上は先輩格にあたる存在だと説明します。高市首相は、そのプレッシャーを間違いなく感じているだろうといいます。
そのうえで冨名腰記者は、この改造は来年の総裁選をにらんだ人事だと位置づけます。ライバルを取り込んでチームを機能させられるか、そして人の言うことを全部聞くのではなく自分の色をどこまで出せるか。この2点を見ていると話します。
神田記者の予想 「全部やらないんじゃないか」
これに対し神田記者は、自身の予想として「全部やらないんじゃないか」と述べます。高市首相は首相になったことでほぼ目的を完遂しており、いつ辞めてもよいと思っているのではないかという見立てです。
冨名腰記者は、2年後に消費税を戻すと発言している点を挙げて、長期展望を持っているとも言える、と補足しますが、神田記者は、現職の首相がそう言うのは当然で、政治的野心は感じられないと応じます。
神田記者は、お盆以降の首相動静で高市首相が土日をほぼ公邸で過ごしている点にも触れます。地震対策会議などには出ているものの、次の政策に向けた動き出しが遅く見えると冨名腰記者も同調します。
あんまりそんな政策とかに興味ある感じは受けませんけどね。
2人は、留任ばかりが報じられている現状も、高市首相が周囲の言うなりになっている表れではないかと見ます。麻生氏や鈴木氏の留任は、まさにその象徴かもしれないという指摘です。
神田記者は、内閣改造をしなくても悪いとは思わないとも付け加えます。むしろ今から「何もしません」と宣言できれば、それはサプライズであり政治的胆力の表れになるが、高市首相にはその胆力も感じないと語ります。
今からやれる最大の権力行使は、「何もしません」という宣言。
最後に2人は、国民の視点も忘れないでほしいと話します。誰が首相や大臣になっても暮らしが大逆転するわけではない一方で、一定の幅での変化はある。神田記者は「プロ野球のオールスターに誰が出るかぐらいの心持ちで見ればいい」とまとめます。
まとめ
高市首相が「改造する」と明言しないまま日程や留任が報じられる状況への違和感を入り口に、2人は明治の伊藤博文内閣から現代までの人事の歴史をたどりました。首相が人事に権力や刷新感を求める習性は、大日本帝国憲法下から一貫して変わっていないことが、当時の朝日新聞から浮かび上がります。
- 高市首相は正式に「内閣改造する」と国民に明言しておらず、日程や主要ポストの留任だけが先行して報じられている
- 内閣改造は明治の伊藤博文内閣の時代からすでに新聞で駆け引きが報じられ、戦後の吉田内閣でも「輪番制」と批評されるなど、権力者が局面打開に使う構図は一貫している
- 安倍元首相は617日間閣僚を変えない最長記録を持つ一方、ライバル取り込んだバランス人事と、刷新感を狙って失敗した改造の両方を経験した
- 冨名腰記者は今回の人事の注目点として、林芳正氏の閣内確保、女性閣僚6人以上、初入閣10人以上、武田良太氏の起用を挙げた
- 神田記者は高市首相に政治的野心を感じないとして「全部やらないのでは」と予想し、誰が首相でも暮らしが大逆転するわけではないという国民の視点も忘れないよう促した






