なぜ蛇は映画ちいかわにハマったのか
この回で蛇が取り上げるのは、先週見に行ったという『映画ちいかわ 人魚の島の秘密』です。見たあとにアニメも全部見るほどハマったと話しています。
そもそもちいかわは「なんか小さくてかわいいやつ」の略で、白くてふわふわしたキャラクターです。蛇が映画を見て強く感じたのは、可愛さよりも思慮深さだったと言います。
ちいかわの本見るじゃないですか。第一印象言っていいですか?こいつ脳がないんだろうな。
鼠はまだちいかわに触れていない立場です。職場の学童では生徒だけでなく40代の先生も20代の上司も全員見ているそうで、その同調圧力がかえって触れにくくさせているとも語られます。
全員見てる時ってなんかその同調圧力を感じて、自分だけ見たくないみたいな。その逆張り精神は僕もすごいわかります。
鼠自身は、喋り方が(ちいかわの)ハチワレみたいだと言われたことがあるそうです。蛇によれば、ハチワレは倒置法で喋るキャラクターだと言います。
ちいかわは「無能」なのか、それとも主人公なのか
ちいかわはほとんど言葉を喋らず、「あわ」「あー」といった声しか出しません。そのため詳しくない人からは何もできないキャラと思われがちだと蛇は指摘します。
しかし映画のちいかわは、勇気も友達思いさもあり、何より深く考えている。蛇はそこを「こいつめっちゃ考えてる。こいつがやっぱ主人公なんだ」と受け取りました。
この回の中心にあるのは、可愛さではなく思慮深さがちいかわの本質だという見方です。小さくて可愛いところまでは分かりやすいが、思慮深さという評価がどこから来るのかが、以降の考察で明かされていきます。
神話の骨格——禁忌・穢れ・共同体の連帯責任
蛇は、映画ちいかわが神話の構造をなぞっていると語ります。神話的な物語は、人類学や宗教学で少数の類型に整理できると考えられているそうです。
その基本型はこうです。誰かが禁忌(タブー)を犯す。近代の法なら罪はその個人だけが負いますが、原初的な共同体では、その罪が共同体全体を覆う穢れになっていくと考えられます。
だからあれですよね、この祠壊してはならぬぞって。
お前あの祠壊したのかってやつですね。要するに連帯責任ですよね。
鼠は人魚伝説について、自分の知識では「肉を食って不死になる」か「人魚が恋して死ぬ」の2種類だと述べます。蛇によれば、東洋も西洋も人魚伝説の類型は「不死になる」で共通しているそうです。
一羽二羽が人魚を食べる——禁忌はこうして犯された
ここから映画の核心的なネタバレに入ります。まず登場するのが、食べると不死になる人魚です。作中にはセイレーンという大きな人魚と、小さな人魚たちがいます。
「一羽二羽」というちいかわの仲間が海で遊んでいたとき、セイレーンが飛び上がった衝撃で船が沈み、片割れが瀕死になります。そこで一羽二羽は、助けるために人魚を食べてしまいます。
元々ね、3匹いた人魚のうちの1匹が食われちゃうんですよ。で、それがいわば、その、禁忌を犯したってことなんですよね。
セイレーンは作中で明確に聖なるものとして描かれています。つまり一羽二羽は、聖なる存在に対する禁忌を犯してしまったことになります。
穢れを払う3つの方法と、村の因習
蛇は、共同体が穢れを払うための選択肢は限られており、大きく3つに整理できると説明します。鼠と掛け合いながら、その型が具体的に挙げられていきます。
滅び
当事者や共同体が滅んでしまう、対応できないパターン
禊・処刑
村八分や村内での死刑など、共同体が犯人を裁いて秩序を回復する
隠遁・逃亡
犯人が自ら村の外へ去り、罪も一緒に村から消えていく
鼠は死刑の例として映画『ミッドサマー』を挙げ、村の論理に当てはめて犯人を処理するパターンだと整理します。蛇は隠遁の例として、村の周辺に隠遁者が住む物語構造にも触れます。
この島にもまた、外から来た者には見えない因習が存在します。ちいかわたちは「お得な仕事ありますよ」という張り紙、いわば闇バイトのような形で、住んでいる場所とは別のこの島へやってきます。
当事者の抹殺。えっと、穢れを、だから禊っていう儀式を何かやる。もしくは、あの、逃亡。
古事記のスサノオと「日本初の公序良俗罪」
話は禁忌と罪の一般論へと広がります。蛇はオイディプス王や日本神話のスサノオにも似た構造があると指摘します。
ここで神道系の大学で学んだ鼠が、印象に残っている「邦楽と古事記」という授業の話を披露します。古事記の罪の概念として、天津罪と国津罪という区別が重要だと言います。
鼠が忘れられないと語るのが、授業で出された問いです。日本における公序良俗罪の最初の事例は何か——その答えがスサノオの行いだったと言います。
日本における公序良俗罪の初めての事例って何だと思いますか?スサノオの古事記。
神殿は晴れの場、つまり公共の場です。そこで大便をするのは、聖域に俗なるものを持ち込む行為であり、公共の場に私的なものを持ち込むことでもある、と鼠は解説します。
それが日本で初めての公序良俗罪であるっていう、バカおもろい授業で、もういまだにそれ鮮明に覚えてるんですよ。
セイレーンは自然神——傷つけることが最大の禁忌になる
セイレーンの話に戻ります。作中の人魚たちは、もともと島にいなかったのに住み着き、その後で島の作物がよく育つようになります。セイレーンが歌うと作物が育っていくのです。
だから島の人々は、特産品を捧げ、彼らの機嫌を損ねないように振る舞います。これは豊穣の神への素朴な信仰そのものだと蛇は指摘します。
この精霊っていうのはある種自然的なもの、自然的な神様に近いと思うんですよね。だから彼らを傷つけるっていうのは、もうこれ共同体にとっての禁忌。
つまり人魚を食べた一羽二羽の行いは、単なる殺生を超えて、島全体の存立基盤を揺るがしかねない冒涜として位置づけられます。だからこそ、この禁忌をどう処理するかが物語の焦点になります。
因習の核心にあるスケープゴート
この島の因習の最もえげつない点は、スケープゴートが存在することだと蛇は言います。
おお、俺の大好きなパターンじゃないか。ワクワクしてきたよ。
スケープゴート(生贄羊)とは、もともと神に捧げる羊を指し、転じて、共同体が犯した悪の責任を代わりに背負わせる存在を意味します。人柱や、橋の神を鎮めるために沈められる犠牲などが例に挙げられます。
この島では、それが暗黙のうちに認められています。セイレーンは片割れを殺した犯人をずっと探しており、犯人が出てくるまで住人を一人ずつ捕まえて食べていくのです。
犯人かどうかは身体的特徴で分かるため、セイレーンは捕まえた時点で判別できます。それでも犯人でない者まで食べてしまう。その犠牲の上に島の平穏が保たれています。
ヤクザが自分の島を荒らした犯人がいないから、自分の島にいる町人を順番に1人ずつぶっ殺すぞって言ってるのと同じだよ。
全てを知る者となったちいかわ
物語の序盤、ちいかわはまずセイレーン(精霊)に出会い、「人魚がいなくなって困っている、犯人を探している」という側の事情を聞きます。その後、村人からは村人側の論理を聞かされます。
どちらにも理屈があります。村人はスケープゴートを出し続けたくない。セイレーンは片割れを殺されたことがどうしても許せない。ちいかわはその板挟みを引き受けることになります。
主要人物のうさぎ・ちいかわ・ハチワレの3人のうち、最終的に犯人を含めた全ての真実を知るのはちいかわだけです。
お前全て知っちゃったけどどうする?が結末に来るんだ。
蛇は、全てを知る者は神話において預言者、それも不吉な方の預言者になりがちだと指摘します。鼠はオーディンやオイディプス王を例に挙げます。
蛇によれば、真実を告げる者は、その真実を語った瞬間に断罪システムになってしまう。誰かが裁かれないと物語が終わらなくなる。そこでちいかわがどう振る舞うかが問われます。
焚き火の夜、ちいかわが選んだ沈黙
物語ではセイレーンとの戦いにギリギリで勝ち、追い払うことに成功します。しかしセイレーンも犯人を知ってしまい、次の一戦がありそうな緊張が残ります。
一時の平穏のなか、みんなで焚き火をしてお祝いをします。その場には、人魚を食べた一羽二羽もいます。ちいかわは彼らをじっと見つめます。
ハチワレが「どうしたの?」と声をかけると、ちいかわは一瞬の逡巡のあと「何でもない」と振る舞います。つまり、全てを告発するか、心の中に留めるかを迷い、留めることを選んだのです。
これがそのちいかわの倫理なんですよ。
鼠は、全てを知った者が真実を告げて悲劇を加速させる型と、告げずに全ての責任を自分で背負い込む型があると整理します。ちいかわが選んだのは後者だと言います。
ルネ・ジラールのスケープゴート理論で読む
蛇は、ここで思想家ルネ・ジラールを引用します。ジラールのスケープゴート理論では、共同体は必然的にスケープゴートを生み出すとされます。
共同体は暴力や対立が高まると、誰か一人に罪を負わせて排除することで秩序を回復します。それが誰であるかは問われません。魔女狩りや生贄の儀式も、この理論で説明できると蛇は言います。
教室でいじめられる人が出てきたりとかするやつですね。
この見方に立てば、ちいかわは社会におけるスケープゴートの生成を積極的に拒否した存在だと解釈できます。沈黙は何もしなかったのではなく、選び取った行為だという読みです。
でも一言言っていいですか?ちいかわをそこまで考えてない。
一つに縛られない読みが、作品の可能性を開く
鼠は、この読みが「唯一の正解」ではないことに意味があると語ります。ポール・ド・マンの評論『読むことのアレゴリー』を引きながら、一つに縛られた読みをしないことこそ読みの可能性を開く、という考え方を紹介します。
鼠が担当する学童では、生徒の8〜9割が映画を見ているそうです。神話の知識がなくても、子供たちは「なぜちいかわはそこで言わなかったのか」という想像力を膨らませるだろうと言います。
彼らが大人になってもう1回見た時にそこまでわかるようになるのかみたいなのは、ちょっとワクワクが残る。
蛇も、面白い作品ほど解釈の余地があり、別の見方で転がすたびに新しい味が出てくると応じます。
音楽で読むちいかわ——足りない一人のコーラス
同じ作品でも、持っている背景知識で見え方が変わります。鼠の高校時代の親友は音楽に注目して映画を見たそうで、二人とも音楽の良さに触れます。
蛇は、一つの音楽をさまざまなバリエーションで導入する構成に注目します。鼠はこれをワーグナーのオペラの手法になぞらえ、神話と音楽のつながりに面白さを見出します。
さらに蛇は、コーラスに注目します。本来3人いたはずの人魚が2人に減っているため、コーラスがどうしても一人足りず、不穏な響きになるのです。
これギリシャ悲劇の、昔のギリシャ悲劇の形式ですよ。コーラスの語源ってご存知ですか?
鼠によれば、コーラスの語源はギリシャ語の合唱隊「コロス」です。古代ギリシャ悲劇では主人公は歌わず、感情を担うのはコロスでした。
登場人物が減ったときにコロスの人数を減らし、感情変化を表現していたという形式は、コーラスが一人足りない映画の演出と重なります。同じ作品も、知識の違いで別の物語として立ち上がることがよく分かる場面です。
オチは「隠遁」——一羽二羽が選んだもの
蛇は、この作品にはモヤモヤした人も多いであろうオチがあると言います。焚き火の夜が明け、ちいかわたちが島を発つ場面です。
船着き場には島の人たちが見送りに来ますが、そこに一羽二羽だけがいません。ちいかわだけは何かを知っている顔つきをしている、というのが蛇の見方です。
蛇の解釈では、一羽二羽は隠遁を選んだのです。序盤で挙げられた「穢れを払う3つの型」のうち、犯人が自ら村の外へ去るパターンにあたります。
だから彼ら自身も、そのちいかわの倫理、守った倫理を、まあある種こう引き継いだんじゃないかってことですか。
蛇は、ちいかわが選んだのは告発ではなく沈黙であり、それは何もしなかったのではなく、この社会の在り方を積極的に選び取ったことだと締めくくります。
ただし、それが本当に正しかったのかは分かりません。一羽二羽は裁かれるべきだったのかもしれない。その判断が個人の思慮深さにかかっている——だからこそ「小さくて思慮深いやつ」なのだと蛇は言います。
オメラスから歩み去る人々——ちいかわと重なる物語
蛇は、この構造とよく似た小説を思い出したと言います。『ゲド戦記』の作者アーシュラ・K・ル・グウィンの短編「オメラスから歩み去る人々」です。
この短編は、ユートピア小説でありながらディストピア小説でもある物語です。鼠は収録前にちょうど「ユートピア小説はディストピア小説だと思う」と話していたと振り返り、二人の関心の近さに驚きます。
オメラスという街は、戦争も貧困もなく、人々が喜びに満ちて暮らす理想郷です。しかしその豊かさは、地下の狭い部屋に閉じ込められた一人の子供の苦しみの上に成り立っています。
住人たちは全員この事実を知っています。8歳から12歳ごろにその存在を教わり、納得して街に住み続けます。子供に優しくすれば、街の豊かさは崩壊してしまうからです。
時々オメラスから突然歩み去っていく人たちがいるんだ。それはもう何の前触れもなく突然歩み去っていって、誰にも行き先を告げない。
その人たちは行き先を誰にも告げないが、自分では行き先を知っているようだ——蛇はこの結末を、オメラスから歩み去る人こそちいかわだと重ねます。
これとても怖い。
まとめ——小さくて思慮深いやつ
この回では、『映画ちいかわ 人魚の島の秘密』を入り口に、神話の構造、スケープゴート理論、そしてル・グウィンの「オメラスから歩み去る人々」までが一つの線でつながれました。
ちいかわが選んだ沈默を「思慮深さ」として読み解くことで、可愛いキャラクターの物語が、共同体と犠牲をめぐる倫理の問いへと開かれていきます。次回はこの視点をさらに掘り下げ、別の作品を扱う予定です。
まとめ
映画ちいかわは、禁忌・穢れ・スケープゴートという神話の骨格を持ち、真実を知ったちいかわが告発ではなく沈黙を選ぶ物語として読める、という考察回でした。可愛さの奥にある思慮深さが、この作品の核として浮かび上がります。
- 食べると不死になる人魚(聖なる存在)を食べる行為が、島の共同体にとっての禁忌として物語を動かす
- 穢れを払う型は「滅び」「禊・処刑」「隠遁・逃亡」に整理でき、映画の結末は一羽二羽の「隠遁」にあたる
- 犯人以外も犠牲にする島の因習は、ルネ・ジラールのスケープゴート理論で読み解ける
- 全てを知ったちいかわが沈黙を選ぶことは、スケープゴートの生成を積極的に拒否する倫理として解釈できる
- この構造はル・グウィン「オメラスから歩み去る人々」と重なり、作品は知識に応じて多層的に読める





