家は近所なのに、1年すれ違っていた出会い
番組『拠点思考』は第7回から、パーソナリティの杉山浩司さんが一緒に仕事をしてきた人やご縁のあった人をゲストに招く対話形式に変わります。その記念すべき第1回のゲストが、中原功寛さんです。
中原さんは、やまがBASE株式会社代表取締役と、株式会社AI Strategy Partners代表取締役CFOを務めています。杉山さんと中原さんは、金融のバックグラウンドや海外経験、熊本に戻ってきたという共通点が多い間柄です。
2人の出会いは、4年ほど前の食事の席でした。実は家もご近所だったのですが、しばらく顔を合わせていなかったといいます。
家もご近所ということもあってですね、どっかですれ違うかなというところは思ってたんですけど。一年ぐらいすれ違わずに、一年経ってから(食事会で会った)。
杉山さんは中原さんを人に紹介するとき、いつも「山鹿の天才」と呼んでいるそうです。この回では、その中原さんの来歴を最初から順に聞いていきます。
スイカ、アスパラ、栗の農家の長男として
自己紹介を求められた中原さんは、まず自身が「長くなる」と前置きしつつ、山鹿の農家の長男として育ったことから話し始めます。
農家の長男っていうところをですね、スイカとかアスパラとかですね、今の季節だと栗がまた始まったみたいなとこなんですけど。
中原さんは、小中高を熊本県山鹿市で過ごし、大学からアメリカへ渡りました。その後、ベンチャーの立ち上げを挟んで農林中央金庫へ入り、在職中にハーバードでMBAを取得しています。
2021年に熊本へ戻った中原さんは、農業関係の会社を複数立ち上げました。会社の登記先を考えるなかで、自分の卒業した小学校が廃校になっていたため、そこを買い取ります。
中原さんは、その廃校を拠点に、共同代表の嶋田さんとやまがBASE株式会社を設立しました。昨年には、杉山さんのScaleup Solutionsとも提携するAI Strategy Partnersも立ち上げています。
農業を継ぐか、とド田舎を出て海外へ
高校卒業当時の中原さんは、農業に対して距離を置く気持ちが強かったといいます。海外に行った動機の一つも、そこにありました。
高校卒業した後はもうこんなド田舎いれるかというかですね、農業をなんか継げるかみたいな思いで海外に行ったみたいなとこはあったんですけど。
ところが、アメリカで日本を外から見たことで、中原さんのなかに愛国心のような感覚が芽生えます。日本の素敵なところと、明確な課題の両方が見えてきて、農業がテーマの一つになっていきました。
その関心が、後の農林中央金庫への入庫につながります。中原さんが挙げたのは、農林中央金庫法の第1条でした。
(農林中央金庫法の第1条に)日本の農林水産業の発展に資することを目的とするというのが書いてあって、そういったところにちょっと興味を持って農林中央金(庫)入って。
ただ、農林中央金庫では農業関係の仕事がなかなかできなかったといいます。そこで一度ベンチャーを挟み、コロナ禍の2021年に、農業関係の事業を含む株式会社コウサクを立ち上げて熊本へ戻りました。
生物学を最初の授業でドロップし、数学へ
高校まで「人生何をやるかわからない」状態だった中原さんは、学部を決めずにアメリカの大学へ進学できる仕組みを利用します。
当初、中原さんは生物学を専攻しようとしていました。子どもの頃から動物が好きだったことに加え、将来のメディカルスクール進学の可能性も見据えていたためです。
しかし、英語がほとんど話せないまま渡米していたため、最初の生物学の授業でつまずきます。
実際に生物学受けてみたら、もうマジで何言ってるかわかんなくて。
中原さんは、最初の授業を受けた段階で生物学の履修をドロップしました。そして、英語が話せなくても成績を維持できる理由から、数学を選びます。
英語喋れなくてもまあ成績維持できるのはノンバーバルで、まあ数学だったんで、数学取り始めて。
数学に切り替えると成績が伸び、奨学金が出たり、寮のフロアリーダーになって寮費が無料になったりと、メリットが重なっていきました。結果として、中原さんは数学専攻・化学副専攻で卒業します。
ど田舎の小学校の修学旅行が、シンガポールだった
山鹿の高校から直接海外へ進むのは、当時としては珍しい選択でした。その背景の一つが、小学校時代の修学旅行だったと中原さんは振り返ります。
小学校の時の修学旅行がど田舎の小学校なんだけど、シンガポールだったんですよね。
町の国際交流基金のような仕組みで実現した修学旅行で、中原さんは生徒会の代表として挨拶を任されました。
代表として挨拶しろとかって言ってですね、もう英語全く喋れない中でなんか挨拶とかして、結構それが強烈に残っててですね。
小学6年生で初めて海外に行ったこの経験から、中原さんは「いずれ海外に行ければいい」と考えるようになります。学部未決定でも進学できる仕組みなども後押しし、アメリカの大学への進学を決めました。
日本の大学のように受験や進路のサポートが手厚いわけではなく、進学は手探りだったといいます。留学斡旋の会社に勤めるいとこの話を聞いたり、説明会に足を運んだりしながら準備を進めました。
カフェテリアのピザと、日本の「もったいない」
英語が話せない状態だった中原さんは、都会に行くと日本人同士で固まってしまうと考え、あえて田舎を選びました。進学先は、アメリカ南部のテネシー州です。
田舎で特にやることもないなか、中原さんは友達と学生生活を楽しみつつ勉強も続けます。そのなかで強く感じたのが、「日本はすごい」という思いでした。
食事は朝昼晩すべて寮のカフェテリアで、ピザやハンバーガー、飲み放題のコーラ、食べ放題のアイスクリームが並びます。最初はテンションが上がったものの、次第に日本食のありがたさを痛感していきました。
食だけでなく、小売店の接客やコンビニの便利さ、治安、清潔さなど、日本では当たり前だったことのレベルの高さに気づいたといいます。
もう食のもうほんとレベルの高さとか接客だったりとかですね、もてなしの精神とか、なんか治安、清潔さ、もう全てそうやって日本ってすげえなっていう思いの中で。
中原さんが特に印象に残ったのが、ハンバーガーの食べ方でした。タンパク質だけが欲しいからと、バンズを捨ててパテだけを食べる学生が少なくなかったといいます。
あっちはもう本当にタンパクプロテインが欲しいからといって、もうバンズだけ捨ててしまって、でもパテだけ取ってるやつとか結構いたりとかしてね。
中原さんは、その光景を通じて、日本の「もったいない」という精神や侘び寂びのような感覚が、いかに独特かを実感します。
杉山さんは、常にロジカルな印象を持っていた中原さんから、日本の精神性への熱い思いに触れたのは今回が初めてだったと話します。海外に向かうベクトルで出たはずが、行った先で逆に日本を見つめ直すことになったのが、この時期の中原さんの経験でした。
超保守のテネシーと、超リベラルのハーバード
学生時代の中原さんは、政治的に正反対の環境を両方経験しています。テネシー州は、いわゆるトランプ支持層が多い超保守の土地でした。
中原さんは2008年に大学を卒業しており、それはオバマが大統領選を戦っていた時期にあたります。一方、ハーバードにいたのは2016年から2018年で、トランプ第1期の選挙戦のさなかにある超リベラルな東海岸でした。
東海岸の超リベラルのところと超コンサバのとこで(オバマとトランプの選挙を)両方とも経験したんで、それはすごい面白かったなと思います。
この経験から、中原さんは「どちらの主張も間違っていない」という感覚を持つようになったと語ります。世の中に絶対的な正解がある前提ではない、という考え方です。
杉山さんは、いろいろな拠点を経験するとものの見方が複線になっていく、という番組『拠点思考』のテーマそのものを、中原さんが体現していると受け止めます。
大学院に受かっていたのに、9か月のギャップイヤー
大学卒業後、農業への思い入れを強めていた中原さんは、大学院で農業工学系に進もうと考えます。受験して1つ合格していました。
ところが、中原さんは通常より半年早く卒業したため、大学院入学までに9か月ほどの空白ができます。学生ビザでは労働時間に制限があったこともあり、一度日本に帰ってアルバイトをしようと考えました。
当時はリーマンショック後の記録的な円高でした。中原さんは、円で稼いでドルで持ち帰る方が得だと考え、日本でのアルバイトを選びます。一方の杉山さんはこの時期、アメリカの法律事務所に所属しながら日本で働いており、給与がドル建てでした。円高で受け取り額が目減りする側だったと、「その時期は大変でした」と振り返ります。
目押しができなくて、東京へ
日本に戻った中原さんは、熊本の地元で時給のよいアルバイトを探します。パチンコ屋のアルバイトも、その一つでした。
ところが、自分ではパチンコをしない中原さんは、ジャグラーというスロットの「目押し」を客から頼まれても対応できませんでした。
ジャグラー目押ししてとかって言われて。(中略)そしたら目押しできなくて。
目押しを頼まれるたびに、中原さんはインカムで先輩社員を呼ばなければならず、その状況が恥ずかしくて仕方がなかったといいます。そして、この違和感がきっかけで、東京へ行くことを決めます。
ものすごい恥ずかしい声で、もうそれが嫌で、ダメだなと思ってるタイミングで、ちょっと一回東京行くかみたいな。
東京では、アメリカのサマースクールで出会った日本人の友人が、新しい会社を立ち上げるところでした。その友人に誘われ、中原さんはベンチャーの立ち上げに加わります。
高田馬場の雑居ビルに机を4つ並べただけの、まさにゼロからのスタートでした。ここで、後にAI Strategy Partnersを一緒にやることになる秋田さんとも出会います。
「ビジネス面白い」から農林中央金庫へ
飛び込み営業からゼロで立ち上げるベンチャーは、中原さんにとって非常に面白いものでした。ちょうどiPhoneが日本で普及し始め、モバイル版のネットがこれから伸びるというタイミングで、ポータル系の事業を次々と立ち上げていきます。
大学院進学は「いつか別のタイミングでいい」と考えるようになり、中原さんは進路を変えます。そんな折、東京で海外大卒向けのリクルーティングイベントに足を運ぶと、そこで農林中央金庫が採用活動をしていました。
農業っていうのは一個ずっとテーマとしてあったんで、農業×金融めっちゃ面白いみたいな。
既卒扱いだった中原さんは、当初は翌2010年4月入庫のつもりでしたが、既卒なら10月に入れと言われ、予定が早まります。友人にも相談したうえで、最終的に自分で決めて農林中央金庫に入り、同期より半年遅れでの入庫となりました。
農林中央金庫での最初の配属では、農林中央金庫やJAが持つ資産の時価計算など、かなり専門的な業務を担当します。その後、自己資本比率規制への対応にも携わりました。
続いてシンガポール支店では、リーマンショック後に成立したドッド・フランク法に伴うデリバティブ規制への対応や、震災を踏まえた決済業務のBCP構築などに関わります。
新卒に近い時期から、金融にとってクリティカルな局面を任されていたことになります。中原さんは、それが良かったかどうかは別として、大変なタイミングで入ったからこそ得たものがあったと振り返ります。
リーマンで入った時期も結構修羅のタイミングだったから良かったのかなと思うんですけど。
その後、中原さんはアセットマネジメント部門で、アベノミクスが始まった直後の時期にファンドを大量に組成する業務にも携わります。MBA留学を含めると、農林中央金庫にはおよそ9年在籍しました。
杉山さんは収録前から「一回では終わらないだろう」と予想していましたが、案の定、前編の尺を使い切ってもまだ農林中央金庫を卒業していませんでした。中原さんの来歴の続きは、後編で語られます。
まとめ
前編では、山鹿の農家の長男だった中原功寛さんが、アメリカ留学を通じて日本を外から見つめ直し、ベンチャーと農林中央金庫を経て農業×金融の道へ進んでいく過程が語られました。
- 高校卒業時は農業から距離を置いていたが、アメリカで日本を外から見たことで、農業がテーマの一つになっていった
- 英語が話せず生物学を最初の授業でドロップし、ノンバーバルで成績を維持できる数学を専攻した
- カフェテリアの食事や接客、治安、清潔さを通じて、日本の「もったいない」精神や独自の良さを実感した
- 超保守のテネシーと超リベラルのハーバードを経験し、絶対的な正解を前提としない見方が育った
- 目押しができないパチンコ屋のアルバイトをきっかけに東京のベンチャーへ進み、農業金融への関心から農林中央金庫に入った







