自由はあるけど、それは「平等な扱い」を保証しない
結論から言うと、挨拶をしない自由はあると思いますよ。私だってそれは認めます。
ただ、自由があることと、してもしなくても平等に扱われるかは全然別物なんですよね。
コミュニケーションって、結局は相手がそれをどう受け取るかということです。発信する側は何を言ったって構わないんですけど、それを良しと思うか、不快と思うかは相手が決めることなんですよね。
だから「俺は挨拶しない自由を適切に使ってるだけなのに、お前が俺を気に入らないのは意味がわからない」というのは、さすがに通じないと思うんです。
挨拶をしないなら、それに対するメリットとデメリットがあるわけです。そのデメリットも本人がちゃんと理解して納得して、それも含めて自分はやるんだと言うなら、私はどっちでもいいと思いますよ。それこそ自由ですから。
多様性も心理的安全も、ちょっと誤解されてない?
この手の話を聞いていて思うのが、最近の「価値観の多様化」や「ダイバーシティ」という言葉の使われ方です。
多様性を認めましょうというのは、素晴らしいことだと私は思っているんです。でも、若干間違って広まってないかな、という気もしていて。
本来は「あなたがそういう考え方なのは僕も認めるよ」という、いろんな価値観を自分が受け入れてみたらどうですか、という話ですよね。
それがいつの間にか、「俺の価値観もお前は認めろ」と押し付ける方向になってきてる気がするんです。
同じことは「心理的安全 ── メンバーが安心して発言・行動できる状態のこと」にも感じていて。担保されるべきものなのは間違いないんですけど、「僕が気に入らないことは絶対に言うな、言ったお前はダメだ」みたいな押し付けになっていたら、それも違うでしょって思うんですよね。
挨拶をしない自由を行使したうえで、それで気分を害した相手にまで「変な気持ちを持つな」と求めるのは、さすがにまかり通らないと私は思います。だって、自分が挨拶しないことに相手が何も思わないことすら全部認めなさい、ってことですからね。
そもそも「挨拶」っていつから当たり前になったんだろう
ここでふと思ったんですけど、挨拶っていつぐらいから「やって当たり前」になったんでしょうね。
調べてみると「挨拶」という言葉自体は、もともと禅の言葉なんだそうです。師匠が小坊主さんに問いかけたり、修行僧同士が「自分はどうですか」と互いを試したりする、そういうやり取りが由来だとされています。
ただ、会釈をするとか「おはようございます」と言うこと自体が「挨拶」として定義されて、それはやるべきものだと誰が言い出したのか。そこは正直まだ分からなくて、知っている人がいたら教えてほしいなと思っているくらいなんです。
私の感想としては、やらない自由はあるけど、それでマイナスがあっても何も言わない、それも含めて「やらない自由」ですよね、というところです。
権利を主張するなら義務を果たす、というあたりに落ち着くんじゃないかなと個人的には思っています。
まとめ
自由か義務かで白黒つけたい話ではないと思っていて、いまの私は「自由はある、でもその結果まで引き受けてはじめて自由だよね」というあたりに落ち着いています。多様性や心理的安全も、押し付けの理由に使い始めた瞬間に、なんだか本来の意味からずれていく気がするんですよね。
- 挨拶をしない自由はあるが、それで平等に扱われることまでは保証されない
- コミュニケーションは相手がどう受け取るかで決まるので、デメリットも含めて本人が納得しているかが大事
- 多様性や心理的安全は、他者への押し付けに使うと本来の意味からずれてしまう
- 「挨拶」という言葉はもともと禅語で、いつから当たり前になったのかは自分でもまだ分かっていない







