体育1でどう戸山高校に挑んだのか
この回は、乙武さんの高校進学の話から始まります。小学校入学時の苦い経験から、母親は「私立は無理だろう」と判断し、公立の方が障害のある子を受け入れてもらいやすいと考えたといいます。
そうして志望先を都立一本に絞り、乙武さんが住む地域で最も優秀とされていた都立戸山高校 ── 東京都新宿区の高田馬場にある都立の進学校。乙武さんは東条英機の母校としても紹介していますを受験することになりました。
ただ、当時の都立高校の受験は乙武さんにとって不利な仕組みだったといいます。内申点と当日の得点の組み合わせで合否が決まり、内申点が低いほど当日ほぼ満点を求められる方式でした。
勉強はよくできたんですよ。体育が1だったんです。
それはないでしょ。手加減なしにそういう評価(をするのは)。
体育が1だったため、内申点はほぼ満点の受験生が多い戸山高校では、乙武さんだけが最初から不利な立場に立たされていました。当日ほぼパーフェクトに近い点数を取らなければ受からない状況だったといいます。
よくできた。内申の強みだった部分
1。戸山高校のパーフェクト勢の中で不利になった要因
合格前にマンションを契約した母の暴挙
受験のハードルは、点数だけではありませんでした。自宅は世田谷の用賀にあり、高田馬場までラッシュの中を毎朝通うのは難しかったため、進学が決まれば引っ越す必要があったといいます。
さらに、車椅子でも入れるバリアフリーの物件は当時ほとんどなく、ようやく見つけた1件も他の内見者と競合していました。ここで母親が思い切った行動に出ます。
うちの方が本当に頭おかしいのが、(戸山高校を)受けてないのに契約しちゃったんですよ。
合格前にマンションを契約してしまったため、乙武さんは後に引けなくなりました。当日にほぼ満点を取らなければ受からない状況で、「頼むよ、もう契約しちゃったんだから受かってね」と言われたといいます。
母がマンションを契約したというとんでもない暴挙に出たため、どうしても受からざるを得ず、なんとか受かった。
川邊さんは、この一連の展開を孟母三遷 ── 子どもの教育のために孟子の母が3度住まいを移したという故事。教育環境を重んじて引っ越すことのたとえですになぞらえました。引っ越し先を先に契約してから合格をもぎ取るという順序の逆転が、この受験のハイライトになりました。
アメフト部で見つけた「戦略担当」という役割
高校で最も熱中したのは、アメフト部でした。選手としてプレーするのは難しかったため、乙武さんは別の形で部に関わる道を選びます。
アメフトは戦略が重要な競技です。乙武さんは対戦相手のビデオを取り寄せ、シチュエーションごとにパスかランか、どの方向に展開してくるかといった確率を分析し、守備の司令塔に渡す役割を担っていました。
(ドリンク作りやテーピングができるわけでもないので)マネージャーとして何ができるだろうと思った時に、これ(戦略担当)だと思って。
夜通し自分の部屋のビデオデッキにビデオを入れて、ずっとそれ(対戦相手の分析)をやってましたね。
この役割も、あらかじめ主張して入ったものではありませんでした。バスケ部のときと同じく、入部してから自分の役割を見つけていったといいます。
所属していたアメフト部は、都立高校でありながら東京都で優勝するほどの名門でした。高校2年生のときには都大会で優勝しています。この経験は、後に乙武さんがスポーツライターになる道にもつながっていきました。
入部
主張せず、まず部に入る
役割探し
自分に何ができるかを考える
戦略担当
相手のビデオを分析し確率を出す
チームへ
分析を守備の司令塔に渡す
日本史1位、数学7点。極端すぎる成績表
アメフトの成績が上がる一方で、勉強の成績は反比例するように落ち込みました。中学まで超優秀だったはずの乙武さんは、高校に入ってからは落第生になったといいます。
象徴的だったのが、200点満点の数学のテストです。返却された答案の右上に鉛筆書きで「7」とあり、出席番号7番だった乙武さんは、それを出席番号だと思ったといいます。
他のやつのを見たら、同じ位置に鉛筆書きで156とか178とか書いてあるんですよ。おっと、これは出席番号じゃないのか。
一方で、社会科目は得意なままでした。数学は悲惨でも日本史は学年1位で、乙武さんはこれを「選択と集中」と表現しています。
200点満点で7点。出席番号と見間違えるほど
学年で1位
「Aよりマシかな」で恋愛にギアが入った日
話題は恋愛に移ります。彼女ができたのは高校卒業後で、中学・高校はずっと片思いだったといいます。ただ、高校3年のときに乙武さんの中で大きな出来事がありました。
文化祭の練習の後、仲のいい女友達と2人で高田馬場の駅前を歩いていたときのことです。周囲からじろじろ見られる中で、乙武さんはその友人がどう感じているのかが気になりました。
自分は幼い頃からじろじろ見られることを気にしないどころか喜ぶタイプでしたが、隣を歩く女友達にとってはどうなのか。不安と申し訳なさが混じった気持ちで、乙武さんは率直に尋ねます。
なんか俺とこうやって歩いてるのを周りから色々見られて嫌じゃないの?って(女友達に)聞いたんですよ。
クラスには、性格が良く皆に好かれていた、ぽっちゃりした男子生徒がいました。ここでは仮にA君とします。女友達の答えは、乙武さんにとって思いがけずリアルなものでした。
その女の子は「A(君)よりマシかな」って言ったんですよ。
「全然気にしないよ」という気遣いの答えではなく、「Aよりマシかな」という現実的な返答だったことが、かえって乙武さんに手応えを与えました。容姿という土俵の外ではないんだという確信につながったといいます。
義理チョコキングが、恋にギアを入れるまで
もっとも、それ以前の乙武さんが恋に消極的だったわけではありません。好きな相手には言葉にしていましたし、女友達も多かったといいます。
(僕は)中学の時のあだ名が義理チョコキングで、紙袋2ついっぱいに義理チョコもらうみたいな、そういうやつでした。
好きな男の子の相談を真っ先にされるような人気者ではあったものの、モテはしなかった、と乙武さんはふり返ります。恋愛にちゃんとギアが入ったのは、やはり高校3年のあの出来事だったといいます。
川邊さんは、『五体不満足』が売れてちやほやされていた頃の乙武さんを実際に見ていたと明かします。麻布十番の縁日で、混雑の中を4、5人の女子を従えて堂々と歩く姿だったそうです。
その後ろに4、5人の女子を連れているのを見て、こいつやべえやつだ。
その自信満々な風貌がどこから来たのかと問われ、乙武さんは、小中学校時代から女友達が多く、女子と接することに障害による壁はもともとなかったと答えます。そのうえで、A君発言をきっかけに恋愛のギアが入り、高校卒業の頃に初めての彼女ができてからは前向きに自由になれた、と語りました。
障害があっても臆さない、乙武流の口説き方
どうやって女性を口説くのかという問いに、乙武さんは「もうストレートですよ」と答えます。いかに魅力的だと感じているか、いかにご飯に行きたいかを伝える、オーソドックスなやり方だといいます。
ここで乙武さんは、自分が障害者だからと臆する部分はない、という考え方を示しました。同じ体の人間が2人いたと仮定した思考実験で説明します。
(付き合ったら世話が必要だから)さすがに僕と付き合うことないよなって思ってるやつと、手足ないけど絶対俺と一緒にいたら楽しいよって思ってるやつと、(2人いたら)多分後者の方がモテる。
乙武さんは自分を後者だと位置づけます。まず魅力的だと感じてもらい、付き合うことになった後で「そういえばこいつ障害があるから、こんなこともしてやらなきゃいけないんだ」と気づかれる、そんな順序に近いといいます。
手足がなく世話が必要だからと、自分から引いてしまう
障害はあっても魅力を先に伝える。乙武さんはこちら
一方で、体の状態ゆえに恋愛には一般の男性より高いハードルもあると乙武さんは打ち明けます。最初の交わりについて、自分でパンツすら脱げないため、完全な同意にならないと交われないのだといいます。
完全同意にならないと交われないので、その最初は大変ですよね。他の一般男性よりハードル高いです。
川邊さんが初体験の時期を尋ねると、乙武さんは19歳、浪人時代の予備校で隣の席の子だったと明かし、この回の会食は幕を閉じました。
まとめ
体育1という不利からマンションの先行契約で退路を断って戸山高校に受かり、アメフト部では戦略担当という役割を自ら見つけた乙武さん。恋愛でも、障害を理由に臆さず魅力を先に伝えるという一貫した姿勢が語られた回でした。
- 母親が合格前にバリアフリーのマンションを契約し、退路を断つ形で戸山高校に合格した
- アメフト部では、入部後に相手ビデオの分析という戦略担当の役割を自ら見つけ、都大会優勝に貢献した
- 数学7点・日本史学年1位という極端な成績を、乙武さんは「選択と集中」と表現した
- 女友達の「Aよりマシかな」という率直な言葉が、容姿の土俵に立てるという確信につながった
- 恋愛では障害を理由に臆さず、まず魅力を伝えるという姿勢を一貫して語った


