「服は皮膚」というコンセプトに川邊が惹かれた理由
川邊さんは廣川さんを、東京オリンピックの表彰式で選手が着ていたポディウムジャケットのデザイナーとして紹介します。二人は10年以上前、高野山のイベントで知り合った縁があります。
高野山のイベントでは、音楽家の渋谷慶一郎さんが音楽を、廣川さんのチームが演出周りや布のデザインを手がけていました。高野山の木で織った布を染色したものだったと振り返られています。
当時の川邊さんは、東京オリンピックに向けて世界中の宗教者を呼ぶ「世界平和願いの祭典」を構想しており、面白いイベントがあると聞いて視察に来ていたと明かします。
今回、川邊さんが廣川さんに話を聞きたいと思った理由は2つあります。1つは、廣川さんがよく口にする「服は皮膚のようなもの」というコンセプトへの共感です。
川邊さんは、10年ほど前に富山県の立山に住む家をDIYでリノベーションした体験を語ります。そこで工務店の職人が着ていたニッカポッカについて尋ねると、「これは皮膚の一部」だと言われたそうです。
怪我するんですよ、いっぱい。皮膚に到達しちゃう前にダブついているから、先にそっちが切られたり刺さったり燃えたりしてくれる。それで自分の本当の皮膚が守られてるんだよって。
実際に作業を重ねると刺さったり切れたりすることが多く、服が皮膚の延長として体を守っているという実感があったと川邊さんは話します。
反AIへの反論として「服」を持ち出したい
川邊さんが廣川さんに話を聞きたかったもう1つの理由は、自身のAIとの向き合い方に関わるものです。川邊さんは、AIと自分だけで多くのことをこなす「AIソロプレーヤー」という働き方をしていると語ります。
新しい技術が出るたびに反発は起きますが、AIの場合は職を失う可能性への懸念もあり、特に反発が強いと川邊さんは指摘します。人間の創造物に機械を入れることへの批判が、自分にも向けられているといいます。
その反論として川邊さんが挙げるのが、道具による身体の拡張という視点です。コンタクトレンズは目を拡張しており、人間と物質の融合だと述べます。
もっと言ったら服っていうのが、人類が他のものを使って(自分を)拡張し始めた最初の事例なんじゃないかな。だから「え、じゃあ服着ないんですか?」って言いたいなと思って。
服は、人類が道具を使って自分を拡張し始めた最初の事例という見立てから、川邊さんは服そのものへの理解を深めたいと考えたと語ります。だからこそ「服は皮膚」と語る廣川さんの人生を聞きたかった、というのがこの回の出発点です。
服のブランドと「ソマデザイン」——二刀流という選び方
廣川さんは現在、自身のブランド「ソマルタ」を運営しながら、デザイン事業も手がけていると説明します。長年服のデザインを続けるなかで、服作りに必要な多様な技術を、他のデザインにも応用できるのではと考えたそうです。
服を作る時は、絵も描けば、それを柄に落としたり、立体物にしたり、縫ったりと、いろんな技術が組み合わさっている。この技術を応用したら、他のデザインにもお役に立てる時が来るのかもしれない。
廣川さんは、世の中には布製品が多いことに着目します。インテリアファブリックやクッション、電車の中の座席など、布を使ったものは身の回りにあふれているといいます。
独立したデザイナーは自分のブランドの経営に専念するのが一つの道筋ですが、廣川さんはそうではない道を考えたと話します。きっかけは、周りに複数の能力を持つ人が多かったことでした。
服のデザインができて、なおかつ音楽も作れる人が周囲に多く、それに刺激を受けたと廣川さんは語ります。ファッションは生活全てに関わるものであり、衣服はその一つの形にすぎないという考えから、その技術を応用する「ソマデザイン」を立ち上げたそうです。
自身の服飾ブランド。服のデザインを軸に運営する
外部の人たちと力を合わせ、布の技術を服以外のプロダクトにも応用するデザイン事業
ソマデザインの取り組みについて、廣川さんは、頭の中で思い描いていると不思議と話が来ると語ります。最初はトヨタとのディスカッションの仕事だったそうです。
会社内のデザインチームだけで進めると考えが固まりやすいため、外部とのグループワークで新しいインスピレーションが生まれる可能性があると廣川さんは説明します。トヨタとはその後、デザインウィークで車の内装や外装の塗装、空間デザインのインスタレーションも手がけたといいます。
一つが始まると、また次が始まるんですよ。不思議なことに。
高野山でのプロジェクトも、そうしたつながりの一環でした。川邊さんが視察で見に行ったのが、まさにその仕事だったことになります。現在はソマルタとソマデザインを半分ずつの比率で手がけていると廣川さんは話します。
情報の少ない藤沢で、絵だけが好きだった
ここから話は廣川さんの生い立ちに移ります。生まれは神奈川県藤沢市。東京ほど都会ではないものの不便もない土地で、当時は情報が圧倒的に少なかったと振り返ります。
インターネットがなく、情報源はテレビと周りの大人だけだった時代です。学校と家を往復する毎日のなかで出会う大人の職業や、テレビの中の情報しか入ってこず、ファッションの情報はほとんどなかったと廣川さんは語ります。
そんななかで、廣川さんは高校で美術部に所属していました。絵が好きだったからです。それまではバレーボール部に入って3ヶ月で辞めるなど、運動が苦手だったと明かします。
なんか遅いし、逆上がりできないし、水泳教室に行っても水泳最後までできなかったんで。私は運動の道には向いてないのだと。
絵自体は小さい頃からずっと好きで、中学時代は演劇部に入り、人が演じるものを作ることにも惹かれていたと廣川さんは話します。勉強は「真面目しか取り柄がなかった」ため成績はよく、数学と古文が好きだったといいます。
漫画家を諦めさせた「背景が描けない」という壁
廣川さんが最初になりたかったのは漫画家でした。小学校の頃、ドラえもんやドラゴンボールなどに触れ、日本の漫画のすごさに惹かれたそうです。目がキラキラした女の子を描くのが好きで、スクリーントーンを貼って漫画を描く時代もありました。
しかし中学頃、廣川さんはあることに気づきます。人物を描くのは好きなのに、背景が描けなかったのです。
すごい目がキラキラした女の子みたいなのを描くのはすごい好きなんだけど、背景が描けなくて。
ビルや家をパースをかけて並べる背景は漫画に不可欠ですが、廣川さんにとってそれを描くのは苦痛でした。四角くて硬いものを描くのに時間がかかり、集中力も途切れてしまったといいます。
ずっと人物だけ描いてたら漫画家になれないなと思って。早く方向転換しなきゃって思ったんですよ。
この気づきから、廣川さんは美術の道を極めれば何か見えるかもしれないと考え、高校で美術部に入ったのではないかと振り返ります。当時は発表や販売の場もなく、ただ自分の好きなものを描いて過ごしていたそうです。
「ファッション通信」で見つけた進むべき道
高校3年の進路選択の時期、廣川さんはすでに漫画家の道を諦めていました。絵を生かして続けられる職業を探しますが、情報が少なく、美大に行く選択肢もうまくイメージできなかったといいます。
美術の先生が女子美出身だったこともあり、廣川さんは美大に行っても美術の先生になるか、ピカソやゴッホのような画家になるしかないと思い込んでいました。建築やグラフィックといった学部があることを全く知らなかったのです。
そんなとき出会ったのが、テレビ番組「ファッション通信」でした。大内順子さんがサングラス姿でパリやミラノの華やかなコレクションを語る番組です。
なんかこんな世界があるのかと思って。あ、これだと思って。
廣川さんは、ファッションなら絵も活かせて、しかも服という実用的な形にすれば「着られるアート」になると考えました。芸術的な観点も持てるこの道に進もうと、割と短絡的に決めたと振り返ります。
家族は特に反対も後押しもせず、「あ、そうなのね」という反応だったそうです。こうして廣川さんは、名門として知られる文化服装学院への進学を決めます。
冊子に載る高田賢三さんやコシノジュンコさんの姿を見て、ここに行けばきっと楽しいデザインライフが送れると信じていたと廣川さんは語ります。しかし、そこからが大変だったといいます。
リクルートスーツで行った、恐怖の入学式
廣川さんは真面目な学生で成績がよかったため、推薦枠で受験せずに文化服装学院に入学できたそうです。藤沢から小田急線の特急で1時間ほどかけて通っていました。
大変だったのは、直感で進路を決めたため洋裁が苦手だったことです。服を作るには洋裁が欠かせませんが、高校の家庭科でエプロンを縫う程度のことすら苦手だと感じていたといいます。
そして迎えた入学式で、廣川さんは衝撃を受けます。1000人ほどの学生がみな見たこともないおしゃれな服を着ていたのです。廣川さん自身は、真面目さからリクルートスーツで参加していました。
その当時ヴィヴィアンウエストウッドの高げたみたいな靴を履いてる人とか。こんな服がどこにあるの?っていう服を着てて。
廣川さんは絵は好きでしたが、ファッションに凝る高校生ではありませんでした。買い物は横浜まで行き、アニエスベーのカーディガンを着ることに幸せを感じる程度だったといいます。
ちょっと恐怖を感じて。私、選ぶところ間違ったかもしれないと。
「服だけやってもデザイナーになれない」——美意識を鍛える1年
入学してみると、1年生は基礎科でした。9クラスあり、1クラス50人ほどというファッション人気ぶりです。そして担任は、今までに味わったことのない厳しさの先生だったと廣川さんは振り返ります。
あなたたち、服だけ勉強して真面目にやってたらファッションデザイナーになれると思ったら大間違いなの。
美味しいものを食べ、美しいものを見て、美しいものを着て、それがわかる人間にならなければデザイナーにはなれない——先生のこの言葉に、廣川さんは面食らったといいます。
廣川さんは、自分は最下位にいると自覚し、頑張らなければ置いていかれると危機感を抱きます。学院は毎日課題や宿題が出され、家で仕上げて翌日提出するという規則正しい生活の連続だったそうです。
課題は背伸びをしないとできない水準でした。襟を作る、ジャケットにアイロンをかけるといった作業は工程を一つ飛ばすとわからなくなるため、集中して聞いて実践するしかなかったといいます。
苦手だった裁縫も、そうは言っていられませんでした。先生は仕上がりが美しくなければ見てもくれなかったからです。
美しくなければ、はい、次みたいな感じで見てもくれないので。とにかく美しく仕上げたものを期日通りに持っていくっていう、このルーティンを。
この繰り返しのなかで、クラスの人数は少しずつ減っていったと廣川さんは話します。私語も禁止で、教室はシーンとしたまま黙々と課題に取り組む1年でした。
それでも人間はすごいもので、少しずつ理解し、少しずつ上手になり、布とうまく戯れるようになっていったと廣川さんは振り返ります。神奈川から出てきた自分にとって、それは人生最大の厳しさとの出会いでした。
応用の2年、外へ広がる青春
2年生になると、少し暮らしに余裕が出てきました。基礎の課題が緩まり、ジャケットを作るなど服作りそのものに集中できるようになったといいます。その空いた時間で、自分のやりたいことにも取り組めるようになりました。
廣川さんは、表参道にあった東京コレクションのブランドで週末に販売のアルバイトをしたり、プロのデザイナーが審査員を務める「装苑賞」というコンペに積極的に応募したりするようになります。
この時期に出会った人たちは、かなり強烈な個性の持ち主ばかりだったと廣川さんは語ります。課題をそつなくこなしながら、学生のうちに舞台衣装の仕事をする人などが現れ、周囲の水準がどんどん上がっていくのを感じたそうです。
川邊さんは、当時ですらそうした差が出るのなら、発表の場が無尽蔵にある今はもっと頑張りによって差がつくだろうと指摘します。廣川さんも、当時はInstagramのような発表の場がなかったと応じます。
三宅一生との出会いと、心に埋まった「皮膚」の種
3年生になると、廣川さんは卒業制作を進めながら就職も決めていく段階に入ります。装苑賞のコンペに出し続けるなかで、三宅一生さんに会う機会が何度かあったといいます。
きっかけは、アメリカのMITメディアラボがウェアラブルコンピューターに出す服を学生たちで作る企画でした。そのメンターが三宅一生さんで、作ったものを直接見てもらう機会を得たそうです。
この頃、東京都現代美術館で服飾の美術展が開かれていました。京都服飾文化財団が手がけたもので、廣川さんにとって珍しい機会だったといいます。
展示の一つに「皮膚と被服」というコーナーがありました。ジャンポールゴルチェ、三宅一生、ヴィヴィアンウエストウッドといったプロのデザイナーが、皮膚をテーマにTシャツなどを制作していたのです。
プロのデザイナーになると、みんな皮膚をテーマに服を作る時が来るんだなと思って。じゃあ私もいつかプロになったら皮膚を作ろうって、うっすら思ったんですね。
その時に芽生えた種が、芽を出すのはさらに10何年後だったと廣川さんは振り返ります。学生時代にうっすら思い描いた「皮膚」というテーマが、後の代表的なコンセプトへとつながっていくことになります。
うっかり就職しそびれ、三宅一生に拾われる
3年間を通じて、廣川さんはコンペに受かるたびに目立つようになり、クラスの代表に選ばれる機会もあったといいます。ただ、大きな差はなかったのではないかと本人は控えめに語ります。
卒業後、廣川さんは三宅一生さんの会社に就職します。しかしその経緯には、思わぬ事情がありました。作ることに一生懸命すぎて、就職活動をうっかりしていなかったのです。
ある時気づいたら、みんな「私、あそこに行くんだ」って決まっていて。えっ?と思った時にはもう時すでに遅し。
卒業制作とコンペの制作に邁進した結果、気づけば周囲は就職先が決まっていました。留年の制度もなく、強制的に卒業することになる状況で、廣川さんは追い込まれます。
そんな廣川さんを救ったのが、当時の先生でした。一生懸命な姿を見ていた先生が「あんた、どこに行きたいのよ」と声をかけ、三宅一生さんへの面接を取り次いでくれたのです。
三宅一生さんの服作りが素晴らしかったので、そこに行きたいんですって言ったら、「じゃあ分かったから面接してきなさい」って取り次いでくださって。
1年生の担任とは別の先生でしたが、廣川さんは二人目の恩人だと語ります。ただ、面接自体はうまくいかなかったといいます。好きなアーティストを聞かれても、画家しか知らず「レンブラントですか」と答えるのが精一杯でした。
多分そんな浅い知識の中で面接して、終わったら「あ、もうダメだ」と思ったんですけど、なんかすくい上げてくださったんですよね。
三宅一生さんとは面識がありましたが、採用担当は別の人でした。それでも縁があってギリギリで採用され、廣川さんはイッセイミヤケへの入社を果たします。恩人となった先生たちの助けがなければ今の自分はいなかったと、廣川さんは繰り返し語りました。
まとめ
絵は好きだが背景が描けず漫画家を諦めた少女は、「ファッション通信」で見た華やかな世界に「着られるアート」の可能性を見出しました。厳しい専門学校で美意識を鍛えられ、恩人となった先生たちに支えられて三宅一生の会社へ。学生時代に出会った「皮膚と被服」の種が、後の代表的なコンセプトへとつながっていきます。
- 廣川さんは「服は皮膚のようなもの」というコンセプトを掲げ、服を「着られるアート」として捉えている
- 漫画家を目指したが「背景が描けない」という壁に気づき、早くに方向転換した
- 文化服装学院の厳しい先生から「美意識を鍛えなければデザイナーになれない」と教わり、それが今の原点になっている
- 学生時代に見た「皮膚と被服」の展示が、10数年後に芽を出す種となった
- 就職活動をうっかりし損ねたが、恩人となった先生の取り次ぎで三宅一生の会社に入社した






