京大に入って感じた「これは無理だ」
大学の話に戻ると、ヒャダインさんは入学早々に大きな衝撃を受けたと振り返ります。
周りの学生があまりにも優秀で、ついていけなかったといいます。
あまりにも頭が良すぎてついていけなかったんですよね。
今まで自分がそこまで頭悪くない自覚はあったんですけど、これは無理だと思って。意志も強いし、やりたいこともあるし。何より地頭がいいから。
そこで勉強はほどほどにして、バイトをしながらうまく単位を取る大学生活になっていきます。
音楽面では、自分で作った曲を歌ってくれるボーカリストを探す目的も込めて、アカペラサークルに入ったといいます。
ただし当時の作曲ペースは、1か月に1曲作ればいいほど。今と比べると雲泥の差だったと話します。
人に曲を聴かせること自体が恥ずかしく、サークル内でもオリジナル曲は披露しなかったそうです。
サークルを熱心にやったのも最初の1年だけで、「青春ごっこ」がつらくなり、またバイト中心の生活に戻っていきました。
大学生で遭遇した9.11
大学3年のとき、久しぶりに学校へ行くと、周りはすでに就活を始めていました。
大学受験と同じ感覚で、就活は最終学年でやればいいと思い込んでいたヒャダインさんは、その文化を知らずに出遅れてしまいます。
終わった。詰みって思って。詰んだと思って。
そこで、それまで貯めたお金で人生初の一人海外旅行に出ます。行き先はニューヨーク、期間は2週間でした。
ブロードウェイミュージカルをいくつも観て、安宿に泊まる楽しい旅でした。しかし最終日の1日前が9.11だったのです。
飛行機がビルに突入した瞬間、ヒャダインさんはタイムズスクエアにいました。
1本目がぶつかったのは見てなかったんですけど、その時になんか街が騒然となってて。
おじさんに何が起こったの?って。ツインタワーに飛行機がぶつかったんだって言って、みんな見てたら、小さかったですけど、2本目がパンっていくのは。
当時は携帯もインターネットも今ほど普及しておらず、どれだけの人が亡くなったかもよくわからなかったといいます。
それでも街は騒然とし、泣きわめく人もいました。公衆電話に並んで親に連絡すると、日本でも大騒ぎになっていることに驚いたそうです。
「やりたいことをやって死ななきゃ」という決意
結局1週間、マンハッタンに閉じ込められることになります。その間に、初めて自分の人生を真剣に考えました。
何が起こるかわかんないんだったら、自分のやりたいことをやって死ななきゃこれまずいぞってなったのは大きかったですね。
情報が欲しくてインターネットカフェに行き、チャットで現地の状況を書き込むと、最初は信じてもらえなかったといいます。
それでも何人かが信じ、「毎日航空会社に電話しろ」といったアドバイスをくれました。
宿は延泊できたはずでしたが、当時は視野が狭く「できない」と思い込み、旅先で出会った香港人が泊まる治安の悪い宿へ移ったそうです。
それでも翌日からはブロードウェイミュージカルを観に行ったといいます。閉じ込められてもなお動くたくましさがうかがえます。
客が少ないなかでも一生懸命に舞台を続ける姿に感動し、「こうあるべきだ」と感じたと話します。
一方で、やることが少ない時間はハドソン川を眺めながら自分の人生を考えることが多かったそうです。
「やりたいこと」を考えたとき、音楽しか浮かばなかったといいます。当時はまだ作曲量も少なかったにもかかわらず、です。
音楽しか引いたものがないなと思ったんですよね。
レコード会社に入る、A&Rになるといった選択肢もあったはずですが、当時は「曲を作る人間になる」ことしか思いつかなかったといいます。
東京へ、そして害虫だらけの末広荘
帰国後、週1回1時間の作曲講座に通ったところ、講師から「東京に行ったほうがいい」と言われます。
それをきっかけに、大学を終えた4月、これといった仕事のあてもないまま東京へ出ました。
最初に住んだのは中目黒と池尻の間にある「蛇崩れ」。バイト先の先輩とのルームシェアでした。
物件は当時で築40年以上の末広荘。2階に老人が二人住み、1階を6畳ずつ分けて暮らす、ぼろぼろの家だったといいます。
問題は、片付けられない先輩の部屋にペットボトルが100本ほどあり、あらゆる害虫が発生したことでした。
お風呂場とかもずっとナメクジがすっごい量いて、まずナメクジを流すことからスタートっていう。ネズミも出ましたし、でっかいハエが大量発生したこともありました。
それでも初めての一人暮らしで初めての東京。家賃は5万円で、それがデフォルトだったため苦労とも思わなかったといいます。
落選続きの日々と「質より量」
生活費をすべて自分でまかなう必要があり、バイトをすると作曲の時間が削られるという矛盾に直面します。
最終的にコスパのいい家庭教師に落ち着き、バイトを短くして作曲時間を確保しました。
インターネットで見つけた作曲事務所に所属し、コンペの依頼を受けては返す日々。しかし、なかなか採用されませんでした。
専門的なことは学んでいなかったため、「全部なんちゃって」で全コンペに応募していたといいます。
それでも焦りはなく、量を作るほど練度が増していく実感があったと話します。
何か僕に時々曲いいの作るようにどうすればいいですか?って聞かれるんですけど、量作りなさいって言うんですけど、量を作ることによってそのクオリティが上がっていって。
初の大仕事と50回以上のリテイク
最初に来た大きな仕事は、2006〜2007年ごろのハロープロジェクト関連でした。
モーニング娘。の久住小春さんが主演したアニメ「キラリン☆レボリューション」の関連ユニット、ミルキィウェイの2曲目のコンペに通ったのです。
初の大仕事に興奮したものの、作業は過酷でした。社長から「Perfumeみたいだ」と言われ、作り直しを求められます。
今夜の2時ぐらいに考えて、朝の6時ぐらいに家出るので、それまでにお願いします、って。
リテイクは50回以上に及んだといいます。それでもチャンスを逃すまいと打ち返し続けました。
当時は別のアレンジャーもスタンバイしていたと後で知りますが、しがみつくように食らいついたことで乗り切ったそうです。
結果として、この過酷な仕事が業界の「デフォルト」となり、その後の仕事がむしろ楽に感じられたといいます。
いいの?50回以上じゃなくていいの?って。
ニコニコ動画がくれた自信
落選が続くなか、リリースされた採用曲を聴くと「あれ?」と思うことも多かったといいます。
そこで、自分の実力が足りているのかを試すため、アレンジした曲をニコニコ動画に上げ始めます。2007年12月のことでした。
すると多くの人が聴いてくれ、「自信を持っていいんだ」と思えるようになったといいます。
このときのハンドルネームが、ドラゴンクエストの呪文に由来する「ヒャダイン」でした。
プロの評価ではなく、ユーザーの反応が直接可視化されたことに、川邊さんもインターネット的な出来事として反応します。
めちゃめちゃ嬉しかったです。今までの中で一番嬉しかったです。
お客さんの声が聞けて、それでしかもお客さんが求めてくれてるのがわかるので、すごく嬉しくて。ものすごい頻度でアップロードしました。
投稿していたのは、幼い頃に遊んだゲームの曲を勝手にアレンジし、歌詞と歌をつけた「再構築」的な作品。毎週のペースで公開していたそうです。
当時のインターネット文化では、お金を稼ぐことが嫌われる空気がありました。
そのため、作曲家「前山田健一」の名前を出して仕事を募ることは「みっともない」と考え、名前を隠して活動していたといいます。
前山田健一が追いついた日
ニコニコ動画で得た自信は、作曲家としての活動も後押ししました。「求められる人間なのに仕事が来ないのは事務所のせいだ」と考え、実績のある事務所へ移ります。
新しい事務所では仕事が増え、コンペでの勝率も上がっていきました。
東方神起さんがアニメ「ONE PIECE」の主題歌に起用した「SHARE THE WORLD」や、倖田來未さんが妹のmisonoさんと歌った「It's all Love!」などを勝ち取り、ついにバイトを辞めることができたといいます。
ヒャダイン名義に直接来た仕事はすべて断っていました。当時のネット文化的に、稼ぐことは良くないと考えていたためです。
それでも「いずれ中の人である前山田健一も追いつく」という自信があったと話します。
あんなに人に曲を聞かせるのが嫌だった人間が、バリバリ曲を聴かせてるわけですよね、ニコ動で。自分で歌うし。180度変わりましたよね。
川邊さんは、ヤフオクで人生が変わった人が多くいるように、ヒャダインさんもニコニコ動画で人生が大きく変わったと重ね合わせます。
まとめ
9.11での決意から始まった音楽の道は、害虫だらけの部屋での作曲、落選と50回以上のリテイク、そしてニコニコ動画での手応えを経て、プロとしての活動へとつながっていきました。ユーザーの直接的な反応が、一人のクリエイターの自信と人生を大きく動かした回でした。
- 9.11に遭遇し「やりたいことをやって死ななきゃ」と音楽の道を1択で選んだ
- 東京の末広荘という害虫だらけの部屋で、家庭教師をしながら作曲を続けた
- 量を作り続けることが質につながるという実感が、練度を高めていった
- ハロプロ関連の初の大仕事では50回以上のリテイクに食らいついて乗り切った
- ニコニコ動画でユーザーの反応を得たことが自信となり、プロへの道を後押しした







