「主体的であれ」は無条件にいいことなのか
この回で笠原さんが最初に投げかけるのは、「主体的な生徒を育てるという言い方が、無条件にいいことなのだろうか」という問いです。
言い方を変えると、「主体的であれ」という要求そのものが、折り合いをつけられないでいる生徒を教室から締め出していないかという、ややこしい話だと前置きされます。
配信が流れるのは8月31日。翌日から二学期という学校も多く、夏休みに考えていた「二学期はこうしてみよう」を試す時期でもあります。だからこそ主体性の話を考えたい、というのが出発点です。
笠原さん自身は、この日が1か月ぶりの出勤でした。遊んでいたわけではなく、この夏は外部での発表が重なり、なかでも一番大きかったのが8月6日の大阪の教育セミナーだったと話します。
そして、これから紹介する「主体的であれ」という話は、そのセミナーで一番時間をかけて話したことだと明かされます。
「いま改めて国語をする」で先生方に投げた問い
今回のセミナーは自由に話してよいということで、「いま改めて国語をする」というタイトルで登壇しました。ただし単元名や実践の具体的な中身は、主催者への配慮から伏せられ、力点と輪郭だけの紹介になります。
会場でまず投げたのは、「現代の国語と論理国語の授業に困っていませんか」という問いでした。
笠原さんは、高校国語の困りごとは大きく3つに分かれると整理します。
新しい素材
実用的な文章など、新しい素材をどう扱えばいいかわからない
技能の偏り
読むことに時間が取られ、話す・聞く・書くが痩せていく
生成AI
AIの登場で、国語科で何を学ぶのかが揺さぶられている
ただし笠原さんは、これらに明確な答えを持っているわけではないと断ります。うまくいった実践を並べて「明日から真似してください」と渡すやり方は、自分にはうまくできないと感じているそうです。
成功談ではなくて、日頃の試行錯誤の記録を話しますと、そういう形でお話しさせていただきました。
第106回で語った「世間の高校の国語から自分が外れていく感覚がある」という後ろ向きな気分を、そのまま壇上に持ち込み、一緒に考えましょうという姿勢で話したといいます。
入試に対応することと、入試で目的を決めること
最初の山場に置いたのは、「高校国語は受験のためという言説を取り直しませんか」という提案です。ここで笠原さんは、似ているけれど全然違う2つのことを聞いてみたと話します。
生徒や保護者の切実な進路希望に応える。当然やるべきことで、やらないと生徒が困る
入試問題から逆算して、国語科の授業の目的そのものを決めてしまうこと
後者は、教科の目標や目的を外部の評価に丸ごと委ねてしまっていないか、という投げかけになります。この2つは同じではないと強調されます。
だから授業者の主体性とは、入試を無視することでも、入試に盲目的に追従することでもないというのが笠原さんの立場です。
入試を含めた生徒や保護者からのニーズを、目の前の生徒の言語生活に照らしてもう一度整理するところから授業を作りませんか、という提案でした。
その上で、模擬試験のように可視化できるものは誠実に測ろうとも話します。数字から逃げるつもりはない。ただ、数字を追うことに一生懸命になって、可視化しにくいものを存在しないことにしていないか、という自戒を込めた考え方です。
桝井論文「弱いまま生きるための言葉」が突きつけたもの
講演のキーセンテンスとして引かれたのが、桝井英人先生の論考です。『月刊国語教育研究』648号(2026年4月号)に書かれた「弱いまま生きるための言葉」という文章でした。
この論考の問題提起を、笠原さんはざっくりこう要約します。「主体的であれ」という要求そのものが、発言できないもの、参加できないもの、選択できないものを排除していないか、という問いかけです。
自分たちは普段、「主体的」という言葉を割と無邪気に使っている、と笠原さんは振り返ります。「主体的に学ぶ」「主体的に取り組む」は、悪いことのはずがないという顔をして使われている、と。
けれど、主体的という状態を一つの形でしかイメージしていないとすると、その形に乗れない生徒はいつまでも「主体性のない生徒」という扱いになってしまいます。
単元学習で手引きを渡して生徒自身に頑張ってもらうとき、それにうまく乗れない生徒を「やる気がない」と決めつけていないか。そこを警戒したい、と話します。
大村はまが「40人いたら40通りの題材を準備する」という逸話にも触れつつ、自分にはそこまで超人的な準備はできない、とも正直に語ります。
強かったり、要領が良かったり、競争したりズルをしたりということに、今の自分はほとほと疲れてしまっている、という個人的な実感も添えられます。
読みの違いを持ち寄る授業と、生成AIの置き方
続いて、実際の授業例として、先生方に「読むことそのものを考える授業」を体験してもらったと話します。現代の国語や論理国語の文脈での提案です。
短い文章を読み、いくつかの問いに答えて、会場で話し合う。それだけ聞くと何が工夫なのか伝わりませんが、元ネタはローゼンブラットの実験だと明かされます。
同じ文章でも、前提とする知識が違えば読み方が変わる。だからこそ、その違いはお互いに持ち寄って話したくなるのではないか、という提案です。
深読みする子も、表面的に読む子もいる。けれどその差は悪いものではなく、「どういう前提だからその読みが出るのか」を投げかけるだけで、互いの言葉にセンサーが働くようになる、と笠原さんは考えます。
そこに、同じ問いを生成AIにも投げて答えを並べます。AIの答えは毎回変わるので正解ではありませんが、確かめることはいつも同じだと言います。
本文に根拠があるのか、それとも何かが補われているのか。そう考えると、読解の授業は答え合わせの時間ではなくなり、自分の読みがどう作られていたかを振り返る時間になります。
事実と推論を分け、根拠を示して読む。このメタ認知こそ現代の国語や論理国語で目指すものだ、と指導要領の言葉に寄せて説明されます。
この置き方なら、AIに問いを丸投げして答えが出ても、答えそのものより「生徒がその出力について考える」ところに力点があるため、生徒の考えるチャンスは減らないと話します。
AIが「途中で入ってきた世代」と「最初からいた世代」
生成AIについては、勤務校で見て感じることとして、エビデンスとしては弱いと断りつつ、実感を共有する形で話されました。
笠原さんが感じるのは、生成AIが高校生活の途中で入ってきたかどうかで、生徒の言語活動の順序が変わってきているということです。
AIが広まる前の世代は、まず自分で書いてから調べる。調べ物もGoogle検索から始める人が多かった
最近の世代は、書く前からとりあえずAIを使う。呼ばなくてもAIモードが起動する環境で育っている
ただし、生徒がみんなAIを積極的に使いたがるかというと、そうでもなさそうだ、と釘を刺します。あまり使いたがらない生徒も珍しくないといいます。
高校生のAI活用が慎重な傾向は、国立青少年教育振興機構が2025年に出した全国調査でも報告されているそうです。だから禁止でも放任でもなく、授業の中で出会う設計を丁寧に考える必要がある、という話でした。
勤務校で取ったデータも参考値として示され、単発ではなく継続的に指導したほうが生徒にプラスが出そうだ、という仮説が紹介されました。
声で届ける実践と、AIと共に書く実践
生徒と実際にやった実践としては、2つの方向が紹介されました。
1つ目は「声に出して届ける」方向、いつものポッドキャスト実践です。笠原さんはポッドキャストを国語科の教科書に載せたいという野望があり、セミナーで話すのも一種の布教活動だと語ります。
ポッドキャストは、単元としては「読むこと」ですが、読んで考えて構成して録って聞き手に届けるという、領域を横断する活動になります。
2つ目は「AIと共に書く」方向の実践です。生成AIとやり取りしながら、最後は人間の言葉を引用して自分のレポートにまとめる、という単元の立て付けです。
詳細は伏せつつ、2つの実践に共通する力点だけが語られます。1つ目は評価についてです。見るのは完成度ではない、という考え方です。
発声のうまさや完成品の巧みさは褒めても、評価としては切り離す。見るのは、誰に向けて話すつもりだったのか、なぜその言葉を選んだのか。AIを使う単元なら、なぜその出力を採用し、なぜ捨てたのか、その判断の足跡です。
だから残すデータも変わります。構成メモ、台本の推敲の跡、初稿と改稿、聞き合ったときのコメント。そうした過程を大切にしよう、と話されました。
じっくり書く単元を1年間続けた生徒の振り返りも、原文のまま紹介されます。「書くにじっくりと長時間向き合うことで、言葉に重みを持たせることができると気づけた」というコメントでした。
使うかどうかを決め、その結果に責任を持つのは、いつも書いた本人です。だとすれば、その判断ができるくらい読む力と書く力を鍛えておく責任が、高校の国語にはあるのではないか、と問いかけます。
「主体的にさせる」ではなく、余白を準備する
終盤で話されたのは授業設計です。学ぶ環境として幅を持たせられる設計ができるといい、という提案でした。学習材、対話のタイミング、AIの活用、選択できる課題などの可能性が挙げられます。
ただし可能性があっても、入り口が見えなければ生徒はそこに入れません。中心になる問いを示す、比べる観点を渡す、AIを使っていい範囲を先に決めておく。その手がかりを用意するところが授業者の専門性だ、と話します。
そう考えると、最初の問いに戻ってきます。「主体的にさせる」という言い方は、やっぱり乱暴なのではないか、と。
させるものじゃなくて、学べる可能性を開いておいて、入り口をここだよって示してあげて、そこに入るかどうかの余地は残しておける、余白を準備しておくことが授業設計の仕事なんじゃないかな。
そして最後に、「自分の言葉とは何か」という問いが投げかけられます。国語でよく言う「自分の言葉で書きなさい」は、他者の言葉やAIの言葉を全部排除した混じり気のない言葉を指すのか、という問いです。
笠原さんはそうは思わないと言います。強固で揺るがない自己から出る言葉だけを「自分の言葉」とすると、揺れ動いている生徒の言葉が全部偽物になってしまうからです。
そうではなく、他者と教材を媒介にして揺れたり迷ったりしながら、それでも自分の表現として試し、選び続けている言葉。それを国語の教室で表現してほしい、というのが結論です。
題材も技術もこれからも変わっていく。実用的な文章が入り、生成AIが入り、この先も何かが入ってくる。それでも自分の言葉を通じて子どもたちと教室を作ることは変わらない。だから講演の副題は「変わる国語か、変わらない国語か」にしたと明かされます。
まとめ
「主体的であれ」という要求が、揺れたまま教室にいる生徒を締め出していないか。笠原さんは、入試との距離、生成AIの置き方、評価の対象、そして「自分の言葉」の意味を問い直しながら、させるのではなく余白を準備する授業設計を提案しました。
- 「入試に対応する」ことと「入試で教科の目的を決める」ことは別物だと区別する
- 主体性を一つの形でイメージすると、その形に乗れない生徒を締め出しかねない
- 生成AIは答えより「その出力を生徒が考える」置き方にすると、考えるチャンスを減らさない
- 評価で見るのは完成度ではなく、なぜその言葉を選び、何を採用し捨てたかという判断の足跡
- 「自分の言葉」とは、揺れ迷いながらも試し選び続けている言葉のことである







