ラナとメッシーナはどこで出会ったのか
番組冒頭、ホストの大西玲央は、この日のゲストがナゴヤ ダイヤモンド ドルフィンズの新ヘッドコーチ、ロイ・ラナと、イタリアの名コーチ、エットーレ・メッシーナであることを紹介します。
メッシーナとラナが出会ったのは、ラナがスパーズのサマーリーグチームで毎夏働いていた頃だったと、メッシーナは振り返ります。ラスベガスでのサマーリーグ期間中、試合や練習の前にコーヒーを飲みながら、たびたびバスケットボールについて語り合ったといいます。
(スパーズに)できるだけ通っていたのは、正直に言えばコーチ・メッシーナを捕まえて、その頭の中を盗んで学びたかったからなんです。
メッシーナはラナの印象を「非常に細部にこだわり、整理されていて、やることが正確だった」と語ります。特にディフェンスのシェルドリルを組み立てる練習を見て、自分の教え方に取り入れられる細部を見つけられたことに感謝したといいます。
誰かから何かを盗む機会をもらえるとき、私は感謝すると同時に、その相手への尊敬と評価が高まるんです。
他コーチの練習を見て回った「マスタークラス」
メッシーナは、他のコーチから学び続ける姿勢を若い頃から持ち続けてきたと語ります。1992年秋から1997年7月までイタリア代表を指導していた頃は、代表監督がフルタイムの仕事で、育成年代の指導と並行して他のコーチを訪ねる時間があったといいます。
その4年間で、メッシーナはNBA、大学、ヨーロッパのできる限り優れたコーチを訪ね歩きました。すでにボローニャでヘッドコーチを4年務めた後でしたが、それはマスタークラスのような経験だったと振り返ります。
ラナは、メッシーナから受けた影響として「ペース」の見方が変わったと打ち明けます。スパーズの施設で交わした、ペースの3つのフェーズについての会話が、今日まで自分の指導に生きているといいます。
ペースの3局面と「ポゼッションの価値」
メッシーナが説くペースの考え方は、最初の8秒、最後の8秒、そしてその間という3つの局面に分けるものです。速く走り、より多くのスリーを打ちたいという流れの中で、試合が手から離れないための重要な着眼点だと語ります。
速く打ちたいという欲求だけで進めると、良いショットと悪いショットの区別を見失うとメッシーナは指摘します。特に高いプレッシャーがかかる接戦では、築いたリードを失うチームが多いといいます。
時間とスコアを考えていつ打つべきか、その感覚がないんです。試合の序盤と、接戦の第4クオーターとでは、まったく別の話です。
大西が、ここ10年でペースが上がった今もこの考え方は変わらないのかと問うと、メッシーナは「平均的なチームや平均以下のチームにとっては変わった」と答えます。勝ちたいチームは接戦の局面に対応する方法を見つけなければならないといいます。
メッシーナはスパーズ時代、最大のライバルだったゴールデンステート・ウォリアーズを例に挙げます。カリー、トンプソン、ドレイモンド・グリーンに加え、デュラント、イグダーラを擁したチームは、速く走り多くのスリーを打つ一方で、ボールを何度も回す場面も持っていたと分析します。
両チームが同じペースで戦えばバランスは取れる、とメッシーナは説明します。しかし片方のチームが賢く相手を守備に長くとどめれば、もう一方はボールを持つ時間が減り、ディフェンスの時間が増えてしまうといいます。
この概念は、サッカーを見ると分かりやすいんです。バスケットでは伝わりにくいですが、ヨーロッパのバスケットではとても見えやすい。
メッシーナは、スリーやリム際のショット、フリースローを狙うことの重要性も強調します。そのためには、積極的にドライブし、ときにポストプレーやカッティングでプレーする必要があるといいます。
大学バスケとFIBAに残る「ボールを動かす」文化
メッシーナは近年、プロコーチが大学バスケから目を離しがちだったと指摘します。しかしNILNIL ── Name, Image, Likenessの略。大学スポーツ選手が自身の名前や肖像などを使って報酬を得られる制度で、大学バスケに大きな資金が流れ込む要因となっている。による巨額の資金や規模の拡大により、再び大学バスケに注目が集まっているといいます。
かつての大学バスケには、ディーン・スミスやボブ・ナイト、コーチKといった名将のもとでボールを動かすパッシングゲームがあったとメッシーナは振り返ります。NBAの影響で速くなっても、良いショットを見極める一定のアイデンティティは保たれているといいます。
メッシーナは、試合時間の違いにも触れます。大学やFIBAが40分であるのに対し、NBAは48分で、この8分の差が試合をまったく別のものにするといいます。
ヨーロッパでは第3クオーターの半ばで15点リードすればほぼ試合の方向が決まる、とメッシーナは語ります。一方でNBAでは第4クオーター開始時の15点差は意味を持たないといいます。両チームが同じペースで走り続けるためです。
大西は、NBAはルールや試合運営、コートの広さの面で少し違うスポーツだという見方を示します。FIBAのゲームはペースをコントロールでき、より駆け引き、チェスのような要素があるといいます。
その通りです。そして私たちはミスマッチを徹底的に狙います。
メッシーナは、1998年にヴィルトゥス・ボローニャで初めてユーロリーグを制した際、決勝が59対44という低スコアだったことを例に挙げます。当時はショットクロックが30秒で、両チームがスクリーンとカットを繰り返す、いわゆるハーフコートの試合だったといいます。
一方2001年、マヌ・ジノビリらを擁したチームでは3倍速く攻めたとメッシーナは振り返ります。その年に24秒のショットクロックが導入され、バスケのやり方が完全に変わったといいます。良い選手がいてリバウンドやスティールから走れれば、自信を持って打てるようになるといいます。
17歳で指導者になった「自殺したくなった」原点
話は指導者としての原点に移ります。メッシーナがコーチを始めたのは10代の頃でしたが、最初から指導者を志していたわけではなかったといいます。
きっかけは、選手時代に自分のコーチに強く惹かれたことでした。チームを導き、毎日よく準備して練習に来るその姿に憧れ、16歳頃から若い選手の指導を手伝うようになったといいます。
17歳のとき、メッシーナに転機が訪れます。所属していたレイエル・ヴェネツィアの育成年代でジュニア選手としてプレーしていた彼を、プロチームを率いる伝説的なコーチ、トニーノ・ゾルジが偶然見ていたのです。ゾルジは学校の体育教師でもありました。
その最後の試合は、まるで映画のようだったとメッシーナは語ります。1点ビハインドの場面でボールを託され、ドライブでファウルをもらいフリースロー2本を得ますが、緊張のあまり両方とも外し、1点差で敗れたといいます。
試合の翌日、ゾルジは学校のオフィスにメッシーナを呼び、性格を見せられなかったこと、フリースローのルーティンを崩したことを厳しく指摘します。さらに「お前は良いアスリートではないから、選手には決してなれない」とまで言われたといいます。
正直に言えば、私は自殺したくなりました。
ところがゾルジは、思いがけない言葉を続けます。若い子どもたちと体育館にいる姿を見て、いつか良いコーチになれると思う、と告げたのです。
選手にはなれないが、ジムで子どもたちといるお前を見た。いつか良いコーチになれると思う。よければ面倒を見る、と。
イタリアには当時から、数年かけて3つのライセンスを取得する仕組みがあったとメッシーナは説明します。育成年代のコーチへの憧れが強かった彼は、この誘いを受け、17歳でプレーをやめる決断をしました。
若い頃のプレーが恋しくなることはあったものの、後悔はないとメッシーナは語ります。ジムにいることをいつも楽しんでいたといいます。
最初に任されたチームはU14で、指導や指導者育成のあらゆるセオリーに反していたとメッシーナは笑います。本来なら55歳の人物がティーンエイジャーを見るべきだろう、と自らのケースの型破りさを認めます。
さらにそのU14チームには、メッシーナの弟もいました。えこひいきと見られたくなかったメッシーナは、弟を厳しく扱い、まったく起用しなかったといいます。
その結果、弟はシーズン終わりにバスケをやめ、数年後に空手を選びました。弟は空手のイタリア代表として世界選手権や欧州選手権に出場する、優れたアスリートになったといいます。
(弟とは)約2年間、口をききませんでした。若く未熟で攻撃的なコーチとして、彼をひどく扱ってしまったからです。
「機会」と「運」がキャリアを決める
メッシーナは、若いコーチや選手によく伝えることとして、コントロールできないが不可欠なものがあると語ります。それは、機会を受け取る運だといいます。
自身も17歳でコーチに任命され、29歳でヴィルトゥス・ボローニャのヘッドコーチを打診され、33歳でイタリア代表監督に指名されたとメッシーナは振り返ります。自分が反対の立場なら、その地位を若い自分に与えなかっただろうといいます。
メッシーナは、良いチームに恵まれなかった優れたコーチや、機会を得られずアシスタントのままだった非常に優秀なコーチを多く知っていると語ります。彼らが勝てなかったのは実力のせいではなく、勝つための道具を持つチームを指導する機会がなかったからだといいます。
では自らチャンスを掴むために何ができるか。メッシーナは若いコーチに、練習を見に行き、関係を築き、質問をすることを勧めます。恥ずかしがらず、しかし敬意ある距離を保ちながら機会を得ようとせよ、と説きます。
練習を見に行き、関係を築き、質問をしなさい。恥ずかしがってはいけない。機会が来るのを待っているわけにはいかないのです。
英語がつないだディーン・スミスとの縁
メッシーナは、キャリアの決定的な瞬間として、名将ディーン・スミスとの出会いを挙げます。長年親しく交流し、ノースカロライナの自宅にも招かれ、多くを学んだといいます。
その縁が生まれたのは、メッシーナが英語を話せたからでした。1970年代、シチリア出身で伝統的な父親が、ある日突然、英語の私塾に通わせると言い出したのだといいます。
(父に英語を習わされると言われて)「英語? なぜ?」と思っていました。
約10年後、ボローニャでアシスタント兼育成年代のコーチをしていたメッシーナに、ミラノで大規模なクリニックを開く人物から電話がかかってきます。ゲストのディーン・スミスの通訳を頼まれたのです。
こうしてメッシーナは、朝食から夜まで1週間、コート内外でスミス夫妻と過ごしました。それが長年続く友情につながったといいます。
この経験から、メッシーナは自分の練習を若いコーチに開いてきたと語ります。ユーロリーグの決勝前日でさえ、練習を公開していたといいます。
ユーロリーグの決勝の前日でさえ、私はいつも練習を公開していました。誓って本当です。
練習を見せると秘密兵器を盗まれると考えるのが、一番賢くないことだとメッシーナは言います。バスケに隠すものは何もなく、平均的に賢い人なら遅かれ早かれ同じ結論にたどり着くだけだといいます。
コーチ・ポポビッチがよく言っていたように、私たちはペニシリンや命を救う秘薬を発明しているわけではない。ただのバスケットなんです。
若いコーチが選手の尊敬を得るには
大西は、日本には20代や30代、さらには学生の若いコーチが多いことに触れ、若くして選手の尊敬を得るのに苦労したかと問います。
メッシーナは、育成年代を指導していた頃は年齢差も小さく心地よかったが、1983年にボローニャで一軍の唯一のアシスタントになったとき、その問題が頭にあったと答えます。チームには代表選手や、モスクワ五輪で銀メダルを取った選手もいたといいます。
メッシーナが最も重要だと考えたのは、ヘッドコーチから尊敬されることでした。若いコーチが成長するのに必要な尊敬をヘッドコーチが示さなければ、それはフェアではないといいます。
準備ができていると見せたかったのではなく、間違ったことを言わないために、できる限り準備をしていたかったのです。
加えて数人の選手が、他の選手に対して自分を尊重していると態度で示してくれたことに助けられたとメッシーナは振り返ります。
コービーは「ビートルズ」だった
ラナが話題をレイカーズ時代に移し、コービー・ブライアントと過ごした経験を尋ねます。メッシーナは、その1年はビートルズと一緒にいるようだったと表現します。
コービーはデイヴィッド・ボウイやフレディ・マーキュリーのような存在で、誰もが彼を見て、触れて、話したがったとメッシーナは語ります。
メッシーナには個人的な思い出があるといいます。コービーはイタリアで育ち、バスケを始めた選手でした。父親がイタリアで長年プレーしていたため、レッジョ・エミリアなどの育成年代でプレーし、ゲームの基礎をイタリアとヨーロッパで学んだと語っていたといいます。
さらにコービーはユーロリーグの熱心な観戦者で、選手やプレーを何でも知っていたとメッシーナは強調します。15年前、今私たちがNBAを見るように、コービーはユーロリーグを見ていたといいます。
コービーは選手を知り、プレーを知り、多くのことを知っていた。15年前に、今私たちがNBAを見るのと同じようにユーロリーグを見ていたんです。
コーチKからは、コービーの国際的な対戦相手への知識が、リディーム・チームやロンドン五輪の代表の成功の鍵だったと聞いたとメッシーナは語ります。コービーは相手を知り、最高の相手を守りたがり、チームメイトに相手の実力を理解させたといいます。
初対面の日、コービーはコーチ部屋を訪れ、メッシーナをNBAのコーチのように扱ったといいます。ボローニャでの実績を知っていて、試合も見ていたと語りかけてきたそうです。
コービーの執念と、ティム・ダンカンの静かな圧
メッシーナは、コービーの試合の見方や理解の深さから多くを学んだと語ります。自分を極限まで追い込み、その姿勢で周囲のコーチやチームメイトにも圧をかける、負けることに耐えられない人物だったといいます。
一方で、ティム・ダンカンは違う形の圧を持つ選手だったとメッシーナは対比します。ダンカンは決して声を荒げず、眉を上げるだけで、皆が物事を変えなければならないと理解したといいます。
メッシーナは、これこそがコーチ・ポポビッチの偉大さだと語ります。ポポビッチはこの点を理解し、認め、「選手たちが私にコーチさせてくれた、私が自分らしくいることを許してくれた」と常々口にしていたといいます。
ポポビッチの言葉が意味するのは、ロッカールームを出るとき、チームに向けて主張したことを「あなたは正しい」と言ってくれる誰かがチームに必要だ、ということだとメッシーナは説明します。全員が沈黙したり否定したりすれば、そこで終わりだといいます。
メッシーナは、映画のたとえでこの点を語ります。人は監督を知っているから映画を見に行くのではなく、俳優を知っているから見に行くのだといいます。
人が試合を見に来るのは、主役である選手たちがいるからです。監督がスタンリー・キューブリックでも、俳優が私たちなら、チケットを買う前に少し考えるでしょう。
2026年のファイナル、応援したのはどちらか
大西は、メッシーナの最初のNBAでの仕事がマイク・ブラウンのもとであり、その後サンアントニオ・スパーズで5年を過ごしたことに触れ、この年のファイナルでどちらを応援していたかを尋ねます。
メッシーナは、マイク・ブラウンを素晴らしい人間であり非常に良いコーチだと語る一方で、もう一方には自分にとってあらゆる正しい価値観の象徴であるフランチャイズ、その背後にコーチ・ポポビッチがいたと答えます。
そのため、メッシーナはスパーズが勝つことを願っていたといいます。ただし、オクラホマシティとのシリーズは彼らにとって最良のファイナルではなかったと認めます。
ラナは、ここでペースの話に立ち返ります。若いチームだったスパーズは、序盤で速く打ってしまい守備に多くの時間を費やす場面があっただろうと指摘します。一方でニックスにはカール・アンソニー・タウンズのように経験を積んだ選手がいたといいます。
メッシーナも同意し、ニックスはブランソンがテンポをコントロールし続けたと分析します。スパーズはボールを取ると得点を焦り、ゼロパスやアイソレーションで速いショットを打ってしまう場面が多すぎたといいます。
若いから、2、3本外すと雪だるま式になる。緊張して、もっと強引になってしまうんです。でも彼らは学び、必ずより良くなって戻ってきます。
若いチームがすぐに勝つのは非常にまれだ、とメッシーナは語ります。ニックスはミッドシーズントーナメントでもスパーズに勝っており、総合的に安定して上回っていたといいます。
ウェンビャニャマに何を教えるか
大西は、ビクター・ウェンバンヤマがもし自分たちのチームにいたら、何を教えたいか、何を上達させたいかを2人に問います。
ラナは、ウェンビーにとって大きなのは強さとバランスだと答えます。背が高く手足が長いために、時にボールから押し出されたり不自然な体勢になったりするといいます。
(ウェンビーは)とても背が高くて手足が長いので、時にボールから押し出されたり、ぎこちない体勢になったりするんです。
メッシーナも同意し、ラナが強さよりバランスを先に挙げたことを評価します。両足でしっかり立ち、脚を落として体を広くし、コンタクトを吸収することが鍵だといいます。
メッシーナは、ラインへ向かうことがウェンバンヤマにとって簡単な得点を取る鍵になると語ります。ジャンプショットだけに頼らないためにも、その部分を諦めるべきではないといいます。
オクラホマとの第7戦では、ウェンバンヤマがダック・アンド・ムーブを使い、体を相手に当てて得点する場面を非常にうまく見せていたとメッシーナは評価します。より成熟しフィジカルなチームは、それをやりにくくさせるだろうといいます。
感謝を忘れないという「コミットメント」
ラナは最後に、感謝をテーマにした質問を投げかけます。人生で感謝している人について語ってほしいと頼みます。
メッシーナは、自分には機会を与えてくれた多くの人がいたと答えます。94歳になる伝説的な五輪代表監督サンドロ・ガンバや、コーチ・ポポビッチもその一人だといいます。
メッシーナは、年を取るほど、指導した選手やアシスタントだった人からわずかな感謝を受け取ることの重みが増すと語ります。だからこそ自分がその立場になったとき、ベテランの人々に感謝を伝えたいといいます。
現代の世界は、私たちを非常に速いペースに追い込むので、忘れることがとても簡単なんです。覚えていること、それが私たちのコミットメントの大きな部分です。
ラナは、メッシーナが自分の人生の中で常に変わらぬ存在であり、メンターであったことへの感謝を伝えます。メッシーナも、ラナを非常に良いコーチであると同時に本物の友人だと考えていると応じ、対談を締めくくりました。
まとめ
初回ゲストのエットーレ・メッシーナは、ペースの3局面という具体的な戦術論から、17歳で指導者になった原点、そして機会と運、感謝をめぐる人生観までを語りました。バスケの技術と、それを支える人間関係の両面から学べる対談でした。
- ペースは最初の8秒、最後の8秒、その間の3局面で捉えると、良いショットの見極めができる
- FIBAやユーロリーグはペースをコントロールでき、NBAとは「ポゼッションの価値」が異なる
- メッシーナは17歳で選手をやめて指導者となり、他コーチの練習を見て回ることで成長した
- どれだけ優れていても、才能を発揮する機会を与えられなければ意味がなく、機会には運が伴う
- 練習を公開し、若いコーチに学びを開くこと、そして感謝を忘れないことを自らの信条としている





