晩酌のはじまりと今日のテーマ
番組冒頭は、いつもの乾杯からスタートします。ゆうはウイスキーの知多ハイ、なぎはジンの「晴れ」を用意していました。
なぎが飲んでいるのは、ホロンの「晴れ」というジンです。夫婦そろってホロンのファンで、晴れと雨のシリーズを常にストックしていると話します。
おつまみは、Oisixのお試しセットに入っていたマスカットと、コンビニで見つけた燻製もも生ハムです。なぎは「これだけ食べても美味しそう」と話しながら準備を進めます。
すごい開けた瞬間すっごい燻製の匂いする。これだけで食べれる。
そんな和やかな流れの中で、ゆうが今日のトークテーマを切り出します。
今日のトークテーマは、SNSも含めて、自己表現というか。その表現とアイデンティティみたいな。
ゆうは、このラジオやインスタ、X、noteなどで発信することを「自己表現」と位置づけたうえで、それを自分自身がどう捉えているのかを改めて聞いてみたい、と切り出します。
書くと頭が整理される。ゆうにとっての発信の意味
ゆうはまず自分から語り始めます。書くことで頭が整理されるという感覚が、発信の根っこにあると話します。
自分は書くことで頭が整理されるっていうこともあるし、モヤモヤをなんか整理するっていう意味では結構(大きい)。
ゆうによれば、モヤモヤ悩んでいたことも、記事にしたりXに投稿したりするだけで、一旦吐き出せた感覚になるといいます。話すことよりも、記録に残ることのほうが自分の中では消化できるようだ、と語ります。
燻製もも生ハムとマスカットの相性も話題になります。塩味とハムの甘み、マスカットの酸味、オリーブオイルのオイリーさが絶妙だと、二人は食べながら盛り上がります。
なんか塩味となんかハムの甘みみたいな感じと、マスカットの酸味がすごいちょうどいい。
ゆうは、発信を単なる整理以上のものとしても捉えていると続けます。自分が言葉を吐き出すことによって、自分という人間が作られてる気もするというのです。
メーリングリスト全盛期。ゆうの「快感」の原点
なぎは、ゆうに「note以外でそういう快感を感じたことはあったか」と、学生時代までさかのぼって問いかけます。
ゆうが思い出したのは、高校時代に流行ったメーリングリストでした。LINEが始まる前、携帯でメールアドレスを持ち始めた頃の話です。
ゆうによれば、当時は部活のメーリングリストが画期的だったといいます。一か所から送ると数十人の部員全員に届く仕組みが新鮮で、その中でふざけたメールや長文を送り合っていたそうです。
たまにメーリングリストとかでふざけたメールとか送り合ったりとか。俺だけすごい長文のメールで送ったりとかして。
なぎは、ゆうが大学時代に自分の誕生日にメーリングリストを使って何かを発信していた「ふざけたこと」も覚えていると振り返ります。
(ゆうは)大学の時に自分の誕生日にメールリストを使うっていう、すごいふざけたことしてたよね。
ゆうは、その感覚をクラスで笑いを取る「おちゃらけた人」にたとえます。面白いことを書くと、翌日みんなが「面白かった」と言ってくれる。その手応えが心地よかったと話します。
noteの快感は「承認」ではなく「届いてる」感覚
ゆうは、メーリングリストの感覚とnoteが近いと話します。自分の文章を読んでくれる人がいることが「快感」だというのです。
自分の文章を読んでくれてる人がいるっていうのは、なんかすごい快感。
ただしゆうは、コメントなどのフィードバックを強く求めているわけではないと補足します。今はPV(閲覧数)で読まれていることがわかれば十分だといいます。
ゆうがより本質的だと感じているのは、承認とは少し違う「届いてる」という感覚です。自分の言葉が誰かに届いているという実感が、発信の手応えになっていると語ります。
ゆうはさらに踏み込んで、自分を「表現者」だと表現します。言い過ぎだとわかりつつも、芸術と肩を並べたいわけではなく、自分の言葉が社会に届き、誰かがくすっと笑ったり少し変わったりすることが楽しいのだと話します。
表現者だと思う。
なぎは、そこで一つの違和感を口にします。「届いた」で満足してしまうと、続ける原動力にはならないのではないか、というのです。
まあでも届いたっていう感覚になると、続かないっていうか、原動力にならないっていうか。
なぎの原体験。読書感想文で「認められた」小学一年生
なぎは、自分にとっての書くことはゆうとは違うと語り始めます。その原点には、書くことへの強い思い入れ、いわば「原罪感」があるといいます。
なぎは小学校入学時、少し特殊な保育施設に通っていたため、すでにできあがった集団の中で最初は孤立していたと振り返ります。その孤独な時期に出会ったのが、読書感想文でした。
小学一年生のなぎが書いた課題図書の感想文を、担任の松本先生が放課後に呼び止めて評価してくれたのです。コンクールに一緒に取り組まないか、という誘いでした。
教室に放課後に「残って」って言って呼ばれて、読書感想文のコンクールに出してみないかっていう話があったの。
なぎにとってそれは、自分が書いたもの、表現したものを初めて「いい」「素敵だね」と認めてもらえた経験でした。存在を認められた気がした、と語ります。
なぎは、書くことは口で話すことと違うといいます。普段は口に出さないこと、日常会話では言わないようなことを書く。だからこそ、それを認めてもらえたことが大きな意味を持ったのだと話します。
評価される文章がわかると、楽しくなくなった
その後、なぎは毎年作文を書いて評価されるようになります。しかし続けるうちに、ある変化が起きたと振り返ります。
でも途中から、毎年やってるとさ、どういう文章を子供が書いたら大人が喜ぶかっていうのがわかってくる。
評価されるための文章がわかってしまうと、書くことが楽しくなくなったといいます。なぎは、課題図書が面白くないと感じながら、手っ取り早く書ける本を選ぶようになっていました。
ところが、心からの感覚を書いていない文章は、賞は取れても佳作どまりで、どこか微妙になってしまったといいます。なぎは「神様は見てるのかわかりませんが」と苦笑まじりに振り返ります。
やっぱ本音、心からの感覚を書いてないと、ちょっと微妙な文章になるのよね。わかってても。
こうした経験を経て、なぎにとって文章は「自己表現」とは少しニュアンスの違うものになっていきます。自分そのものを出すというより、一つの詩やアートを作る感覚に近いといいます。
一つの、本当に一つの詩を作ってるぐらいの感覚なのよ、私からすると。
なぎは、Facebookに投稿していた頃も、1分で読み終わる文章に2〜3時間かけていたと明かします。するとゆうも、mixiやFacebook、noteの初期には10時間から2〜30時間かけて書いていたと打ち明けます。
noteだってもう十時間とか、もう二、三十時間かけて作ってるもん。最初のスタートはね。
ゆうは、文章はプラットフォームや読まれ方に合わせて最適化されていくと話します。なぎは、それが自分の「評価される文章がわかってしまった感」と似ているかもしれないと応じます。
リスクよりメリットが勝つ。だから発信する
ゆうは、ここまでの話が今日の本題につながると切り出します。音声コンテンツやnote、インスタは、人によっては「リスクのほうが大きい」「意味がない」と見えるものだ、というのです。
なんでそんなことやるんですか?リスクの方が大きいって話だと思うんだよね。何のためにやるんですか?
忙しい中で顔出しや声出し、写真まで出して、そのメリットは何なのか。そう問われることがある、とゆうは語ります。それでも二人には、発信することへの迷いがないといいます。
ゆうは、その理由を過去に一緒に観た映画『ルックバック』に重ねます。クラスでウケればいいと描いていた子が、同級生と出会い、認め合い、高め合っていく物語です。
ゆうは、ちょっとした成功体験や、認めてくれる人の積み重ねが、人を前へと駆り立てていくと話します。多くの人が『ルックバック』に心を動かされるのは、似た経験を持っているからではないか、というのです。
なぎも、いきなり大きくウケることは多くない一方で、一人が「いい」と言ってくれる、数人でもファンがいる、その積み重ねが生きる意味や存在する意味になると応じます。
一人がすごく「いい」って言ってくれたりとか、認めてくれたりとか、それが生きる意味になったりとか、存在する意味になったりとかなるよね。
ゆうは、親が褒めてくれることから始まり、先生、賞へと広がっていく流れが、自分の居場所や社会との接点の再確認になっていると語ります。だからこそ、リスクを背負ってでも発信するのだといいます。
リスクよりも大きなメリットを感じるからするんだと思うんだよね。
ゆうは、論文を書けと言われるような環境で発信を批判されることもあると明かします。それでも、やらない人には一生わからない感覚がある、と二人は口をそろえます。
表現しないことのリスク。なぎを救った作文
ゆうは、話を整理しようとして「サマライズします」と切り出します。なぎはそこに職業病を感じ取り、面談の話にも触れかけますが、なぎは「その話はまた別で」と押しとどめます。
面談だけで結構俺議論したい。面談の話は六回ぐらいいける。
話を戻し、ゆうは二人の共通点をこう整理します。小さな成功体験から今につながる連続性があり、そこには「やらないよりやったほうがいい」というメリットの実感がある、というものです。
なぎも、表現には痛みや怖さも伴うと認めます。それでも、表現したことで救われた経験があると、また次の表現へ向かいたくなる感覚が宿るといいます。
表現したことで何か救われたことがあると、また次の表現にしてみようかな、したいなみたいな感覚が常に宿るよね。
ゆうは逆に、否定され続けると表現をやめてしまうのではないか、と話します。オーディション番組『ノーノーガールズ』にも触れつつ、表現する権利っていうのは人権だと語ります。
ゆうは、表現しないことにもリスクがあると強調します。意見を発すること、やりたいことを表現し続けることを手放すのは、とてももったいないと言いたかったのだと語ります。
するとなぎは、より重い実感を口にします。自分は、表現しなかったこと、気持ちを自分の中に留めたことによって、むしろ長く苦しんできたというのです。
なぎにとって、日常会話や口頭では本当の気持ちを言えない時期が長く続きました。その中で作文だけが、唯一の表現の場所だったと振り返ります。
作文はなんか唯一の表現場所だったっていうか。表現しなかったことですっごい苦しんでる。
なぎは、誰にも見せない詩やブログをペンネームで書いていたことも明かします。承認されなくても、表現する場所を持つことで、自分が何なのかを見失わずに済んだといいます。
なぎは、本当に苦しんだ人ほど、聞いてもらえた、伝わった、分かってもらえたという感覚がどれほど救いになるかを知っている、と語ります。だからこそ、自分は相手の表現をちゃんと受け止めたいのだと話します。
最後に二人は、話し始めてすでに1時間近く経っていたことに気づきます。掘り下げたい「面談」の話は次回以降に持ち越すことにして、この回を締めくくります。
まとめ
この回は、SNSやnoteでの発信を入り口に、「表現すること」が自分にとって何なのかを、夫婦それぞれの原体験から掘り下げる回でした。ゆうは書くことによる整理と「届いてる」感覚を、なぎは表現しないことで苦しんだ経験と、それでも自分を救った作文の存在を語り、二人は「表現し続けること」の意味に行き着きます。
- ゆうにとっての発信は、頭やモヤモヤの整理と、自分の言葉が誰かに「届いてる」感覚が原動力になっている
- ゆうの原体験は高校時代のメーリングリストで、クラスで笑いを取るような手応えがnoteの感覚につながっている
- なぎの原体験は小学一年生の読書感想文で、書いたものを初めて認められた「届いた」経験が出発点になっている
- 評価される文章がわかると楽しさは薄れるが、心からの感覚を書かない文章はどこか微妙になる、となぎは振り返る
- 二人は、発信にはリスクもある一方で、表現しないことのリスクも大きく、表現する権利は人権だという考えに行き着いた




