何も決めずに始める「思考旅行」という試み
この回は、番組「思考旅行」の記念すべき一本目です。
ホストは、あえて何も決めずに喋り始めるスタイルを取ろうとしています。
もうなんかほんとその名の通りじゃないけど、あんまり何にも本当に決めず、基本的には喋り始めていくっていうスタイルを取る方が面白いなと思って。どこにたどり着くかもわからないっていう感じで喋っていけたら面白いなって思ってるんですよ。
番組は毎回ゲストを呼び、四種類のテーマで話す構成を想定しています。
テーマは「動機の源泉と葛藤」「移動による発見」「発見から実行」「未来との出会い方」の四つです。
今回はその一本目、「動機の源泉と葛藤」を扱います。
短いコンテンツが多い潮流の中で、逆に長く撮ることを面白がっているのも特徴です。
面白くなければ早く終わるし、面白かったら一時間そのまままるっと喋るしみたいな。なんかそれぐらいの感じでやろうかなっていう風に思ってる。
坊さんはなぜ坊主頭なのか
話は磯川さんの坊主頭から始まりました。
髪は一日約0.3ミリ伸びるため、三日で1ミリほど。意外と人は伸びないという話です。
磯川さんは、修行中の剃髪の習慣について話します。
修行中は宿日って言って四と九のつく日に剃るんだよね。だから四日、九日、十四、十九とかね。だいたい五日おきぐらいで剃るわけ。
伸びていると「サボっている」と見なされる空気もあるそうです。剃りたてで建仁寺の寮に行くと、逆に短くて恥ずかしいと言われることもあったと話します。
ここでホストが、そもそもなぜ坊さんは坊主なのか、と問いかけます。
磯川さんは、剃髪の起源について自分でも気になっていたと語ります。
古代インドの司祭階級であるバラモンという仏教徒ではない修行者は、逆に長髪だった例もあると話します。バラモンは仏教以前から存在した宗教的立場で、修行者の中には髪を長く伸ばしたままの人もいたとされます。
今の仏教で言うと、剃髪、頭を丸めるのはあくまでもやっぱそのお釈迦さんに帰依するため、要するにお釈迦さんに弟子入りするから、彼の真似をする。それはだから形からっていうね。
本を読むことは瞑想である
話は磯川さんと本の関係へ移ります。
父親が本好きで、中学生の頃からよく読んでいたそうです。一番古い記憶は、幼稚園の頃に日本昔話を読んでいた記憶だと話します。
ホストが、磯川さんにとって本を読むとはどういう行為かと尋ねます。
本はやっぱ瞑想だね、そう考えるとね。本を読んでると、考えることが方向性が与えられるっていうの。自分が考えてることの、写し鏡としての読書みたいなものなんだよね。だから、ある意味ではすごいスッキリするわけ。
知識を得るためというより、ずっと自分と対話しているような感覚だと言います。
普通に生きている時のほうが、情報が飛び込んできて疲れる。本を読んでいる時のほうが休めるとも話します。
本を読み始めると、スマホには触らないそうです。座禅やヨガと同じく、そこに「ダイブしていく」感覚があると語ります。
情報を断つと、内側から生成される
話はスマホを預ける場の話へ広がります。
磯川さんは、スマホを預けて入る制限のある店を作りたいと考えているそうです。
ホストが手がけるホテルも「こもる」をコンセプトにしており、スマホの預かり具合を松竹梅で選べるようなプランを構想していると話します。
ここで磯川さんがヴィパッサナー瞑想の話を持ち出します。ヴィパッサナー瞑想は仏教の一派で、上座部仏教に分類される瞑想法です。日本では京都と千葉で体験でき、期間中は携帯を預け、会話も目線も断つ形式が知られます。
一緒に共同生活している人と目も合わせちゃいけない。
行った人によれば、情報が枯渇してくると、自分の内側から生成する感覚になるそうです。
ホストは、これを長距離運転中の感覚に重ねます。
その運転しながら何かを考えたくて。でも考える起点があって。頭の中から頑張って生成しようとするんだよね。しかも生成する時超ランダムなんですよ。取っ掛かりが一つもないから、めっちゃ突然なの。種類が。
磯川さんは、これを断食にたとえます。
外から食べ物が入ってこなくなったら、自分の内側に蓄えたものを消費していくみたいな。
水道橋から小田原まで、百キロを歩く
話は磯川さんが最近歩いた話へ移ります。
水道橋から旧東海道を伝って小田原まで、約100キロを23時間かけて歩いたそうです。
きっかけは、共通の友人オリモさんが飯田橋から高崎まで一人で歩いた話でした。その二日後に実現したと言います。
歩き方の変化について、磯川さんはこう話します。
三十キロぐらいから結構足痛くなってきて。四十キロぐらいでなんか「あれ?」つって。これ走った方が楽かもってなって。
使う筋肉が違うため、走ると気持ちが紛れるそうです。走って先に着き、休んで合流するというメリハリのある進み方をしていました。
一定のペースで歩き続けたオリモさんとは対照的なスタイルです。
どうやらこうした長距離歩行は流行の兆しがあり、百キロ近く歩く「エクストリームウォーク」という名前も出てきます。
磯川さんは、歩いている最中は携帯も触りにくく、瞑想的な時間だったと振り返ります。
なぜ人は「歩くこと」に感動するのか
磯川さんは、歩いていると意外なほど応援されたと話します。
意外とその何、あの、こんなに応援されるんだって思った。
ホストは、これを「24時間テレビ理論」と表現します。人が感動しやすい物語になるのではないか、という話です。
磯川さんは千日回峰行を例に挙げます。千日回峰行は天台宗などで行われる山中を長期間歩き続ける修行で、阿闍梨と呼ばれる僧が山に入り、参拝して帰る行程を繰り返すとされます。歩くことに凄みや覚悟を感じ、ありがたく思う感覚は昔からあるのだろうと語ります。
ホストは、散歩と社会的処方を研究する先生から聞いた話を紹介します。
動物や人間にとって、歩くスピードが最も最適で、エネルギー効率が良いのだそうです。
人間は、とか動物っていうのは本来飯を食べるために歩くんだが、歩くことで飯が食える状態になってた。その過程の中で、他の動物だったり植物だったりっていうところとエネルギーの交換をし合って均衡を保つみたいな。
つまり、誰かにとっては「歩いてくれてありがとう」という感覚になりうる、という話です。
磯川さんは、お遍路を歩いて回ることを「贅沢遍路」と呼ぶ例を挙げます。歩く必然性が薄れた今こそ、わざわざ歩く価値が高まっているのだろうと話します。
鬱と繊細さ、それでも東京で生きられる理由
話は磯川さんの感情の状態へと移ります。
磯川さんは、感情の状態を天気にたとえて説明します。今は晴れに近い、7〜8割ほどの状態だと言います。
一方で、暗い曲を間違ってかけると、急に死にたくなるほど引っ張られやすいそうです。
今日めっちゃ調子いいわっていう日に、イワシの営業始まって、暗めの曲かけたのよ。そしたらもうすっごい死にたくなって。「この曲のせいや」と思って。
お客さんの会話にもすごく引っ張られる。いわゆる繊細さかもしれないと話します。
そんな磯川さんがなぜ東京にいるのか。ホストは驚きます。
磯川さんは、むしろ東京だからこそ生きられているのかもしれないと語ります。
こういう奴も許容するだけの多様性があるっていうか。すごい集落みたいなとこ行って、「なんやこいつ変な奴やな」と思われたら一発で終わりなような気がしてて。
ホストは、東京を満員電車にたとえます。人が物になるから助かる、という表現です。
一人で店をやって気づいた「檀家」のような客
磯川さんは今、イワシクラブを一人で営んでいます。
以前は若いスタッフもいましたが、一人になってから客の入りが変わったと感じています。
38歳の坊主のおじさんが一人でやっていると、静かにこの場所を支えようとしてくれる人か、たまたま近くにあったから来た人か、どちらかになるそうです。
なんかその、この場所を続かせるために来てくれてるみたいなニュアンスをすごい感じるからさ。
磯川さんは、常連を「檀家さん」や「檀家総代」のように感じていると話します。
店は次第に、磯川さんのわがままを詰め込んだような場所になってきているそうです。禅的な空気や和のものが増え、お香を焚いたり、季節の果物を出したりしていると言います。
次の店を意識しながら、今の店を運営しているつもりだと語ります。周囲からは「もう住職一緒にしたら」と言われるそうです。
立ち退き、そして「生きること自体が修行」
ホストは、徳島の漁師町で見た「店作り」の考え方を紹介します。
道に面した縁側のような空間があり、奥さんが取ってきた魚を干して待つための場所だったそうです。バス停のように入り口側がくぼんだ造りになっていると話します。
ホストは、磯川さんの店にもこうした間の空間が欲しいと感じたと言います。
ここで磯川さんが、住んでいる家も立ち退きになったと打ち明けます。店も家も出ていくことになり、年末あたりに「浮浪者」になると笑います。
かつては出家して修行道場に入りたいと思っていたそうですが、今の考えは変わっています。
もうこの生きること自体が結構修行やなって思ってるし。そういったものをナチュラルにやってるっていう風に考えれば、わざわざ出家する必要ないなみたいな。
磯川さんは、この状況を「ドラクエがもうすぐ始まる」「装備一で」とゲームにたとえます。心配はなく、なんとかなりそうだと話します。
「遊び切った」先で、欲が落とされていく
ホストは、出会った頃の磯川さんの身軽さを懐かしく振り返ります。
自分は今、家族や会社を背負い、結婚も二回失敗して重みが増していると語ります。娘が二十歳になる時、自分はまだ57歳。人生は長いと感じています。
磯川さんは、かつて金があり羽振り良く服を買っていた時期を「ボーナスタイム」であり「勉強のための期間」だったと振り返ります。
京都で客に「なんでこんなことしてるんですか」と聞かれた時、自分は遊び切ったという感覚があると気づいたそうです。
自分は結構そこが結構早い段階でお腹いっぱいになっちゃって。もういいやみたいな。あとはなんかもうずっとテイク飛行でいやみたいな。
もう一度あの山を登りたいとは思わない。自分から登ろうとはしない、という感覚だと言います。
毎月百万、二百万入ってきても、それを目指して頑張りたいとは全く思わない。ただ、勝手にそうなってしまう気もするとも話します。
この境地は、長い葛藤の末にたどり着いたものだと磯川さんは明かします。
もういいとか言いながら、やっぱがっつりなんかこう、力入ってる自分もやっぱいるんだよね。気がついたらなんか仕事ちゃんとグリップしようとしてるみたいなさ。
店を背負って歩く、リヤカーのイワシクラブ
ホストは、磯川さんが店に縛られたほうが楽なのかもしれないと指摘します。
店という場が、いろんなことを気にしなくていい「ATフィールド」になっているのではないか、という話です。ATフィールドとはアニメ由来の比喩で、自分を守る心理的な結界のような領域を指します。ここでは店という場が磯川さんを外界から守る役割を果たしている、という意味で使われています。
磯川さんは、店舗がない状態でどうATフィールドを張るかが今後のテーマだと語ります。
そして、歩くことで応援が集まる感覚もATフィールドっぽいと気づいたと言います。
そこから、店を再開するのではなく、箱を背負ってイワシクラブを歩いてやるアイデアが生まれます。
一回店なくなった後はすぐに店をやるんとかじゃなくて、なんか箱背負ってイワシクラブを歩いてやった方がいいんじゃないかなっていう。リヤカーとかで。
歩きながらお茶を点てることは、お坊さんの行脚ともつながってくると磯川さんは話します。
ホストは、そうやって歩くうちに「どうぞここをお使いください」と場が生まれるだろうと応じます。野立てでできるイワシクラブは力強い、と盛り上がります。
ホストは、ぜひ小諸まで歩いてきてほしいと語りかけ、磯川さんも「そうなったらぜひ歩いてきますよ」と応じました。
まとめ
坊主頭から始まった雑談は、本、歩くこと、鬱、店、そして生き方へと旅のように移ろいました。情報を断って内側から生成する感覚と、わざわざ歩くことの価値が、磯川さんの生き方と静かに重なっていく回でした。
- 本を読むことは、考えに方向性を与える瞑想のような行為だと磯川さんは語ります。
- 情報を断つと、自分の内側に蓄えたものが生成される。運転や断食にも通じる感覚です。
- 必然性が薄れた今こそ、わざわざ歩くことの価値は高まっていると考えられます。
- 磯川さんは「生きること自体が修行」と捉え、山を登り直す欲は落とされていったと話します。
- 店を背負って歩く「リヤカーのイワシクラブ」という、場を持ち歩く新しい構想が生まれました。
