生きる意味なんて考えなくていい、と言い切る理由
今回のホストは、最近インプットしているという仏教的な世界観をベースに、イナケンさんからの問いに答えていく形で話を進めます。最初のテーマは「生きる意味」です。
生きる意味なんてないっすよ。
ホストによれば、仏教でも「生きるとは何か、死とは何か」といった問いは戒められているといいます。理由は、その問いが答えの出ない無限ループに入ってしまうからです。
生きるって意味って楽しむため、じゃあ楽しむって何?みたいな。その無限ループしちゃう質問は考えても仕方がないこと。
そもそも問いは立てられるものの、そこを思考するのは生き方としてコスパがよくない、とホストは話します。イナケンさんはこれを「循環関数みたいな話か」と受け止めました。
では、なぜ人は生きる意味を考えてしまうのか。ホストは「自分のあり方に満足していないから」だと見ています。今に満足していれば、未来のことをわざわざ考えることはないという理屈です。
燃える火はただ燃えればいい、というブッダの逸話
生きる意味に結論はない、というホストは、生きることそのものについてブッダの逸話を持ち出します。焚き火をしていた弟子が、火の粉が煙になってどこへ行くのかと尋ねた場面です。
じゃあブッダが言ったらしいです。「そんなこと考える必要はありません」って。
あなたが火なら、ただただ今は燃えることだけを考えればいいです。
ホストは人生も同じだと考えています。種から芽が出て花が咲くという過程を、人は順番に捉えがちですが、実際は無数の成立条件がそろって初めて成り立つものだ、という見方です。
種が芽になるのは、種の表皮や土、栄養分、たまたまあった水分など、周りの条件があってこそ。そうした条件を含めて捉えると、生や死は絶対的なものではなくなる、とホストは説明します。
生きるとか死ぬとか、それはただの一つの目印に過ぎないから。
だからこそ、大事なのは今この一分一秒に目を向けて、その時をありのまま生きることだ、とホストは話しました。
どこからが生で、どこからが死なのか
ホストの「恣意的な基準」という話を、イナケンさんは2つに分けて整理します。1つ目は、生と死の始まりと終わりがどこなのかは結局恣意的だ、という論点です。
イナケンさんは、以前ホストと話した爪の話を引き合いに出します。自分の爪は自分の体だが、剥がれたら自分の体ではない。ではその間はどこなのか、という問いです。
時代とか文化によって、そもそも人が死んだってどの時点と見なすのかって、多分揺らぎがある。
死は状態が変わることを呼んでいるだけだ、とホストは応じます。心臓が止まった瞬間を死とする文化もあれば、体が朽ちていく過程を死と捉える見方もあり、一つに定まらないという話です。
2つ目の論点は、では生のスタート地点はどこか、です。イナケンさんは、母の腹から生まれた時点をスタートと思いがちだが、腹の中で生きている瞬間もあると指摘します。
親父の精子ってことは精子が生まれる、親父が生まれるとかに繋がって、結局この恣意的にスタートがどこ、ゴールがどこって決めてるのが社会規範だけど、結局これって繋がってるから。
スタートを遡っていくと受精卵の前、精子の時代、さらに親の誕生へとつながり、境界が見えなくなる。生と死の区切りは社会規範が決めているだけで、実際はすべてつながっている、という理解です。
ホストはこの理解度の高さに驚きつつ、自分とイナケンさんも、宇宙も、全員がつながっていると考えていると話します。イナケンさんも、生き物には共通の祖先がいるという話から「辿っていったら結局つながる」と納得しました。
なぜホストはイナケンに「経営者になれ」と勧めるのか
話の流れで、ホストはイナケンさんに強く経営を勧めます。今はきっかけが少ないだけで、経営する側に行けばきっかけが増え、才能がもっと発揮されるはずだ、という見立てです。
ホストは、60歳になってから「本を書きたかった」と書き出すのと、30歳から書き出すのとでは雲泥の差だと話します。自分にできるのは選択肢の提示だけだとしつつ、もったいなさを口にします。
ホストは最近、天命というものを信じているといいます。選べる人がいるなら選ぶ方が世の中のためになる、という考え方です。
だってそれをイナケンさんが例えば絵を描きましたって、その作品を見てしか何か気づきを得られなかった人って絶対どっかに居ると思うんすよ。
その機会を提供しないことは、気づきを得られたはずの人に失礼であり、機会を奪っているとも言える。ホストはそうした考えから経営を勧めていました。
さらにホストは、自分の「自我」の広がりについても語ります。以前は自我が東京くらいの広さだと例えていたが、イナケンさんと話して楽しくなっている今は「自我は宇宙」だと表現しました。
今多分僕の隣で泣いてる人おったらなんかもう普通に話聞いちゃうと思う。知らん人でも。だって悲しんでる人がおったら一緒に悲しんだもん。
熱くなって話しすぎたホストは、途中で何の話をしていたか忘れたと笑います。生きる意味の話だと思い出し、結論として「生きる意味なんて考えなくていい」と改めて締めくくりました。
イナケンさんは、意味があると思って生きるのも、意味がないと思って生きるのも一つだと応じます。ホストは、それを自分で選択できている状態が一番いいと話しました。
言語化は悪、という問いかけ
次にホストが持ち出したのは「言語化は悪」というテーマです。コンテンツとして面白く言っているだけで、言語化そのものを悪だと思っているわけではない、と前置きします。
ビジネスの世界では言語化や抽象化が大事だと繰り返し語られます。ただ、自分の本質や本性のようなものは、構造的に言語化できない、とホストは指摘します。
たとえば「川に入る感覚」を、川に入ったことのない人に言葉だけで証明できるか。共通の感覚があれば別の感覚に置き換えて説明できるが、言語しか媒介がなければ証明はできない、という説明です。
だから自分の本性や本質は言語化できなくてもいい、とホストは言います。大事なのは「これよりこっちがいい」という納得の度合いであり、人に説明する必要はない、という主張です。
ホストは、自分がたまたま抽象化や構造化が少し得意で、言語化によって気づける人が増えるのが楽しいからやっているだけだと話します。一方で、言葉にできず「死ぬ、やばい」と苦しんでいる人もいると思い、あえてこの話をしたと明かしました。
大きな組織のための言語化と、AI時代の小さな組織
イナケンさんは、たまたま近いことを考えていたと話を引き取ります。大人数を束ねる組織が資本主義でサバイブする強い力を持ったのは、産業革命以降の数百年ほどの話だ、という視点です。
大人数のコミュニケーションでは、みんながわかる状態に均一化することが大事になります。結論ファーストやフレームワーク、言語化といった、理解しやすい共通のプロトコルができあがった、とイナケンさんは整理します。
そこが目的だから言語化って大事って言われてるけど、一個聞いたら違うんじゃない?っていう。
ホストは全面的に同意します。コンサルなどで言語化が重視されるのは、組織が大きすぎて、理解度の異なる人々の橋渡しが必要だからだ、という説明です。
そしてホストは、ここからAI時代が来ると状況が変わると見ています。アウトプットを作ること、知識を提供することの価値が下がり、体験そのものの価値がなくなっていく世界です。
それは大きな組織から小さな組織への転換を意味する、とホストは考えます。少数精鋭で売上を大きく上げる組織が増え、中途半端な立場や、自分の価値観で選んでいない人がふるいにかけられていく、という見立てです。
だからみんな聞いてくれてるみんなにはなんか自分の軸で選んでほしいし、もし迷ってたら俺全然話するから。
イナケンさんは、この二項対立をさらに一歩進めます。言葉にできない感覚値ベースでも深くつながった組織なら、言語の壁を取り払って強いエンジンで走れる、という発想です。
ホストは、まさにそれを作りたいと応じます。人と話すことがコストではなく、抽象化や構造化が少し得意だから、自分の見えている世界を相手の言葉で何度も言い換えて「そうかも」という瞬間を作る、というのが自分の生存戦略だと語りました。
弟子が広げるという構造と、言語化のコストの変化
イナケンさんは、言語化して組織に伝播させ規模を広げるのは、最初のオリジネーター本人ではなく弟子の世代だという構造に注目します。キリストもブッダも、弟子たちが広げていったのではないか、という指摘です。
ホストは、そう見えるのは時代の前提が違ったからだと応じます。ある起点Aから気づかされたBは、A色ではなくB色の原点になる。本質にたどり着いているかという尺度で見れば、両者は同じレベルのオリジナリティを持つ、という考え方です。
構造ってもう螺旋なんですよね。結局だからどういうフェーズやったかっていうだけです。0、1をブッダがしたってだけなんですよ。紡いできた人たちは本物です。
ホストは、昔と今の違いをアウトプットのコストで説明します。かつては書物や言語すら十分に成立しておらず、言葉数も意味も少なかったため、言語化は今より格段に難しかった、という話です。
一方、今は言語が細分化され、それを操る脳があればAINでスピードを短縮できます。だから思想の広がり方がまったく違う、とホストは言います。
イナケンさんは、文字を書くこと自体がかつては特権階級のものだったと補足します。伝わるスピードは時代を経るごとに加速度的に上がってきた、という認識です。
ホストは、その加速が今、言語というほぼ極限の抽象度で起きていると話します。AIのプラットフォームが普及とともに価格を下げていくのと同じことが、言語で起きているという例えです。
だからここからは面白い時代になってくるよ。ほんまにめっちゃおもろい。おもろいこと全部やって死にたい。
言葉が通じない相手とは、どうつながるか
言語化の話を受けて、イナケンさんは思考実験を投げかけます。言葉がまったく通じないアフリカの民族の人と、明日つながるとしたらどうするか、という問いです。
ホストは、音楽やダンスを使うのではないかと答えます。原始的な手段に見えますが、それもフェーズの問題で、その時代にはそれしかなかったから最適化されていただけだ、と説明します。
だからまあ結局螺旋ですよ。繰り返すんですよ。
音楽もダンスもフィジカルだ、というイナケンさんの言葉に、ホストは同意します。ホスト自身、可処分時間を増やして曲を作りたいといいます。音楽は伝播が速く、思想を広める手段になるからです。
承認欲求とはどう付き合えばいいのか
区切る前に、イナケンさんはカフェで見かけた母子の様子を思い出し、承認欲求について尋ねます。ホストの答えは、承認欲求はあってもいい、というものでした。
ただし、その欲を隠そうとするのがよくない、とホストは言います。隠そうとしなければ、承認欲求などどうでもよくなる、という考え方です。
承認欲求はいびつな執着があるから生まれてしまう欲求な気がします。自分と他人を分け過ぎてるし、自分と他人を同一視しすぎてる。
承認欲求は善か悪かというイナケンさんの問いに、ホストはグラデーションの問題だと応じつつ、その先に幸福はなく苦しみが待っていると話します。
その理由をホストは「レベルの強くらべ」で説明します。60レベは70レベに負け、70レベは80レベに負ける。しかも100レベという上限がなく、無限に続く螺旋から逃れられないため、苦しみは必ず起こるという理屈です。
話題は、カフェで見かけた親子連れに戻ります。子供にSNS用らしい写真を撮らせ、スマホを確認しては撮り直させる母親の様子が、いいコミュニケーションに見えなかった、とホストは語ります。
子供は小学校低学年ほど。もし対等な関係で頼んでいるなら好ましいが、あの所作は自分の思い通りにしたい感じがして、対等ではないように見えた、とホストは話します。
自分の付属品として扱ってる感じかな。
公の場でそうしているなら、家庭ではどんな待遇なのかも気になる、とホストは言います。ただ、はたから見た印象にすぎず、断定はできないとも付け加えました。
ホストは、自分の母親なら同じことをされても許せると話します。対等な関係だから「いつまでおんねん」と言いながら撮るだろうし、あんな関係性にはならない、という理由からです。
結局、当事者の心情はわからないからこそ、こうするべきとは言えない。それでも見ていて気持ちのいいコミュニケーションではなかった、という点で二人の見方は一致しました。
崖から飛び降りても、意外と紐はついている
話の締めくくりとして、ホストは言葉の螺旋から逃れられない以上、言葉で捉えようとするのをまずやめてはどうか、と提案します。イナケンさんはこれを「感覚に従っていきましょう」とまとめました。
直感に従うのが不安な人もいます。それに対してホストは、崖から飛び降りても意外とバンジーの紐がついていた、という例えを持ち出します。
一度崖の上に立って怖さを知っているのはいい段階であり、あとほんの少し前に行く勇気を持てれば、今も素晴らしいけれどもっといい人生だと思える、とホストは話します。
問いが尽きたところで、二人は今回はここで一旦区切ることにしました。
まとめ
仏教的な世界観を入り口に、二人は「生きる意味」「生と死の境界」「言語化」「承認欲求」を行き来しながら、答えの出ない問いを追うより今この瞬間を生き、直感に従うことへ着地していきました。
- 生きる意味を問うのは無限ループになりやすく、大事なのは意味ではなく「どうありたいか」だとホストは話す
- 生と死やスタート地点の境界は恣意的で、実際はすべてつながっているという見方を二人で確認する
- 自分の本質や本性は構造的に言語化できず、言語化は相手の気づきを醸成する行為だとホストは整理する
- 大きな組織のための言語化に対し、AI時代は感覚でつながる小さな組織が力を持つと二人は見る
- 承認欲求は上限のない「レベルの強くらべ」で苦しみにつながるため、隠さず付き合うことが提案される

