番組名を「やつら」に略す、ゆるい始まり
この回は、パーソナリティ2人による雑談から始まります。まず話題になったのは、番組名の長さでした。
もう名前長すぎる。なんか名前変えたいな。もっと短く。じゃあ略して。やつらでいいや、やつら。
「やつら」というのは、2人のチャンネルの略し名だと説明されます。名乗ったと思ってほしい、という軽い流れでスタートしました。
収録は夕方に行われていますが、パーソナリティ1は「数時間後の世界を想像して話す」と切り出します。ここから、時間そのものへの脱線が始まりました。
数時間後って言っても太陽の周期で違うから、その惑星の天体の位置でいる瞬間の刻み方っすよね、時間って言うたら。
時計は「時間を固定化する」すごい発明品
パーソナリティ2は、昨日コーヒーを入れながら考えていたという時計の話を持ち出します。時計は時間を固定化する発明品だ、という気づきです。
4時っていう時間を固定化してるわけじゃん。だから4時集合って言ったら4時5分は5分の遅刻じゃん。
一方で、その「4時」も概念にすぎないのではないか、とパーソナリティ2は問いかけます。太陽の周期から考えたとき、4時は普遍的な4時なのか、という疑問です。
さらに話は、農耕社会の時間感覚へと広がります。かつての人々は、月や太陽の満ち欠けで季節や時間を感じていたはずだ、という指摘でした。
(農耕社会の人たちとは)全く今自分が感じてるその時間感覚って違うんだろうなっていうのを。
これに対してパーソナリティ1は、そもそも当時は比較する時間感覚がなかったのではないか、と応じます。今しか見ていなかったのだろう、という見立てです。
時間とは「再現性」なのかもしれない
ここでパーソナリティ1は、時間と資本主義、そして再現性を結びつけていきます。時間ができたことで、あらゆるビジネスが成り立ったという見方です。
結局時間ができたから全てのビジネスができてしまってる。時間っていうのは再現性なんですか。
パーソナリティ1は、再現性を求めることは唯一のものを求めることだが、そんなものは存在しないと語ります。毎回の成果は必ずどこか違う、というわけです。
その例えとして持ち出されたのが、漫画のモチーフでした。人を錬成すれば人でないものが生まれるように、再現しようとしても同じものにはならない、という比喩です。
そのうえでパーソナリティ1は、自分は再現性が欲しくないと気づいたと打ち明けます。であれば「継続」という観点も本当に必要なのか、と揺らぎ始めました。
30分で区切ると再現性が生まれる、という発見
パーソナリティ2は、時間の再現性を身近な作業に引き寄せて説明します。1分は60秒の積み重ねだが、同じ30分でも中身は毎回違う、という話です。
30分で最高のパフォーマンスを出せる時もあればさ、間に合わない時もあるわけじゃん。
調子や疲労度によって、同じ30分でも過ごし方はまるで違う。それでも30分という枠に縛られることで、資本主義の中に再現性が生まれる、とパーソナリティ2はまとめます。
さらにパーソナリティ2は、時間の概念は工場労働に最適化されたものではないか、と推測します。歴史の文脈は知らずに話している、と前置きしたうえでの見立てです。
鉄道がさ、何時から何時にこの駅にこう着くで、こう物を運ぶのが最適解だっていうのに合わせて(時間の感覚が)多分できたような気がして。
時計というフレームに具体化され、みんなが同じフレームワークに乗った瞬間に、社会にゲームチェンジが起きたのではないか、とパーソナリティ2は感覚的に語ります。
フルフレックスで気づいた「縛りがない方が生きやすい」
話は2人自身の働き方に移ります。パーソナリティ2は、今の会社がフルフレックスで、定時も遅刻も概念として存在しないと明かします。
定時って概念と遅刻って概念が存在しないのよ。
前職ではかっちりと定時があったため、両方を経験した今、その差分がわかると言います。仕事量やバイオリズムに合わせて働ける方が合っている、という実感です。
これを受けてパーソナリティ1は、縛りを負荷と捉え、負荷を感じないほど自分を鍛え続ければいい、と応じます。突然の筋トレの比喩にパーソナリティ2はツッコミを入れつつ話は進みます。
パーソナリティ1は、自分個体の力を上げることも、人と目的を重ねて主語を大きくすることも、方向は同じだと語ります。自分が一番今時間を買ってるなって思える案件に行けばいい、という結論です。
タロットカードは「現代最高の問題解決フレームワーク」
長いアイスブレイクを経て、ようやく本題のタロットカードに入ります。パーソナリティ1は、タロットを問題解決のフレームワークだと位置づけます。
タロットカードはその問題解決のフレームワーク、で、現代最高の問題解決のフレームワークやと思う。
パーソナリティ1によれば、ロジックはタロットより後に発明されたものです。ロジックがなかった時代、人間は天気の変化と感情が流れるようにつながっていた、と語ります。
その例えとして挙げられたのが、赤ちゃんが親の顔を見て感情を読み取る様子です。晴れは良い、曇りは悪い、と感情と現象がほぼ一体化していた、という見立てでした。
一方でロジックは、時間と同じく物事を区切り、概念化する。だからこそ言葉と同じで、使うほど人を縛っていくものだ、とパーソナリティ1は指摘します。
そのうえでパーソナリティ1は、タロットカードをロジックが比較的介在しない、抽象度の高い問題解決の手段だと説明しました。
大アルカナと小アルカナ、カードの置き方の仕組み
タロットに触れたことがないパーソナリティ2に向けて、パーソナリティ1が仕組みを解説します。カードには大きいものと小さいものがあり、組み合わせるほど詳細に占えるといいます。
タロットの目的は問題解決であり、立てた問いに対して自分の状態を見つけていく内省ツールだ、とパーソナリティ1は説明します。
具体的には「型」があると言います。人間関係を占う型、恋愛を占う型といったカードの置き方が用意されている、という仕組みです。
さらにその置き方の中で、今の状況、問題の原因、解決方法、解決結果などが場所ごとに決まっているとパーソナリティ1は語ります。
パーソナリティ1は、この仕組みをカードゲームに例えます。決まった場所に置くさまは、遊戯王の魔法カードやモンスターカードの配置と全く同じだと語ります。
正位置と逆位置、そして「一生に一度」の組み合わせ
パーソナリティ1は、カードにはさらに変数があると続けます。それが、カードの向きによる意味の違いです。
逆位置と正位置だから、正位置やったらそのままの意味。
たとえば太陽のカードは、正位置なら明るくポカポカした意味を持ちます。それが逆位置で出ると「いつも明るいものが逆ということはこういうことか」と解釈が反転する、という説明です。
これらの組み合わせを計算すると、同じ配置は一生に一度出るか出ないかだと言います。それでも、その時間に最適なカードの型を出せるのが占いだ、とパーソナリティ1は語ります。
テレビの占いと自分でやる占い、その違い
ここでパーソナリティ2が疑問を投げかけます。テレビで見る占いは、占い師が芸能人にカードの意味を伝えるものだが、今の話は自分で引いて自分で解釈するものに聞こえる、という指摘です。
(パーソナリティ2)今話しているのは、占い師がやる占いと、自分でやる占いのどちらの話なのか?
パーソナリティ1によれば、占いはビジネスであり再現性であって、もとは一人のゲームから始まったものです。自分でデッキから引いて置くのが前提で、置き方のパターンがフレームワークにあたります。
パーソナリティ2は、パターンを掛け合わせていくとほぼ無限の可能性になる、と理解を示します。フレームと言いつつ、組み合わせは事実上無限だ、というわけです。
ではなぜ占い師という存在があるのか。パーソナリティ1は、自分一人で占うのが非常に難しいからだと答えます。解像度も問いを立てる力も必要になるためです。
(自分でやると)自己との対人の境界線を限りなくゼロにし続けながらやらないといけないから、すごく難しいんですよ。
凄腕の占い師は「自己内省をさせるプロ」
パーソナリティ1は、占いの仕組みは他人のリソースを使えるから楽なのだと語ります。凄腕の占い師も、答えを持っているわけではないといいます。
結局は答えがあるわけじゃなくて、答えにさせる気にさせてるから。
これを受けてパーソナリティ2が「言葉の通り壁打ち相手だ」とまとめると、パーソナリティ1も同意します。本当に当たる占い師は、自己内省をさせるプロだ、という見方です。
最後にパーソナリティ1は、これはコーチングでもたどり着きにくいと語ります。型通りではなく、真似を続けて自分だけの仮説が見えた瞬間に飛び出す、日本の武道と同じ構造だと締めくくりました。
最初は再現性でもう真似続けて、「あ、こうかな」っていう自分だけの仮説が見えた瞬間に飛び出たら多分いける。
まとめ
時計という発明から始まった脱線は、資本主義、働き方、タロットカードへと広がりながら、「再現性」という一本の線でつながっていきました。抽象的な問いを行き来する、考えすぎな2人らしい雑談回でした。
- 時計は時間を固定化する発明品であり、資本主義や工場労働に最適化された「再現性」の象徴として語られた
- パーソナリティ1は「時間とは再現性」と捉え、自分は再現性を求めたくないと気づいたと語った
- フルフレックスと定時の両方を経験したパーソナリティ2は、縛りがない方が生きやすいと実感していた
- タロットカードは、ロジックが介在しにくい抽象度の高い問題解決・内省のフレームワークだと位置づけられた
- 凄腕の占い師は答えを持つのではなく、相手に自己内省をさせるプロであり、壁打ち相手のような存在だと結論づけられた



