「本当の自分」は存在するのか
この回は、イナケンさんが持ち込んだ「自分はいない」というテーマから始まります。ホストは、この考え方が仏教思想と通じるところがあるのではないかと感じたと話します。
イナケンさんはまず、この結論にたどり着いた背景として、自身の大学生活を振り返ります。大学が家からとても遠く、自然とキャンパスには行かない生活になっていったと言います。
家から大学がめっちゃ遠くて。自然と大学のキャンパスには行かないみたいな生活になり。
バイトもほとんどせず、サークルも週に1、2回顔を出す程度。イナケンさんはこの時期を、かなり自堕落な生活だったと表現します。
マジで引きこもりニートみたいな。実家の俺の部屋から、余裕でそこから出ずに一日終わるみたいなこともある。
暇な時間が人を哲学に向かわせる
イナケンさんは、ギリシャ哲学も暇だからこそ生まれたのではないかと話します。人間は暇になると、哲学的なことを考え出すという見立てです。
要は人間って多分暇になると、哲学的なことを考え出すというか。
逆に、仕事などで忙しくしていると、そうした思索の余裕はなくなるとも言います。目の前のKPIといった具体的な課題に意識が向いてしまうからです。
大学時代のイナケンさんは、バイトもせず人間世界から隔絶されたような期間を過ごし、若干鬱々としていたと振り返ります。本を読んだり、ただ天井を見つめるだけで数時間を過ごすこともあったと言います。
その鬱々とした時期には、死そのものへの関心も芽生えていたと打ち明けます。ただし、それは自殺したいという願望とは違うものだったと説明します。
今死んでみたらどうなるのかなって、周りの反応が知りたくなって。でも死んだら知りようがないんだけど。
コミュニティごとに変わる「自分」
イナケンさんは、この暇な時期に「本当の自分」について考えを巡らせたと言います。きっかけは、コミュニティごとに自分の振る舞いが違うという気づきでした。
小学校、中学校、高校、大学、社会人と、それぞれの友達への接し方が微妙に違う。無意識に出る表情や言葉遣いも、コミュニティによって変わると気づいたのです。
コミュニティごとで、なんか自分のスタンスとか、友達への接し方って若干違うなと思って。
そこからイナケンさんは、自分という根っこのコアが先にあるのではなく、環境や相手によって出てくるものこそが自分なのではないかと考えます。
どの環境でどの自分が求められてるかの違いであって、本当の根っこの自分っていうものは結局存在しないんじゃないか。
会社では「陽キャ」だと思われている
この「自分はいない」という感覚を裏付ける例として、イナケンさんは会社での自分の評価を挙げます。それは自己認知とはかけ離れたものでした。
自分ではその評価がまったく理解できず、そのギャップに少しだけ苦しんでいるとイナケンさんは笑います。なぜそう見えるのか、自分でも謎だと言います。
なぜそう思われるのかを振り返ると、社会人としての戦略が関係しているとイナケンさんは分析します。会社生活で評価されるには、結局コミュニケーション能力が一番重要だという実感があったからです。
結局、人と人の膝突き合わせた時の関係構築能力みたいなところが、結局一番のスキル。
そのため、社会人としてのし上がるために無意識にコミュニケーション能力へ全振りした結果、仕事の文脈ではコミュ力の高い人物になっていたのではないか、と言います。ただし、オフにした瞬間にそのスイッチは切れるとも語ります。
コミュニティが違うから、見えてる自分像が違う。ってことは、本当の自分っていないんだな。
「自分らしく」は罠が多い
ここからホストが、自分の考えを重ねていきます。ホストは、そもそも本当の自分などないし、そういうものを定義するからみんな苦しむのではないかと話します。
ホストは、はるか未来というバンドの「光inthefamily」という曲を引き合いに出します。その歌詞が、自分らしさに縛られない生き方を表していて好きだと言います。
自分らしくは罠が多いから考えないことに決めたんだ。3秒で選んでいく方が歩いてて楽しいもんだって。
ホストは、自分らしくと言うから、何かを選ぶ時に迷ってしまうと指摘します。そうではなく、直感的に楽しいと感じる方向へ向かえばいいという考えです。
目の前の人と、もっと楽しくするにはどうしたらいいかを考えて、自分はこっちの方が楽しめるっていう選択をしていけば、もっと幸せに楽に生きれる。
仏教が説く「無我」という考え方
ホストは、この「自分はいない」という感覚が仏教とつながっていると説明します。仏教でも、自分というものはないと言われているからです。
ホストによれば、体はあるものの、それは自分ではなく、意識がメタ認知的に自分の体を見ている状態なのだと言います。
ホストは、爪を例に「自分」の境界線がどこにあるのかを問いかけます。剥がれて床に落ちた爪は自分ではないと感じるのに、体についている爪は自分の一部だと感じる。ではその境界はどこなのか、という問いです。
じゃあこの自分じゃなくなる瞬間、境界線ってどこですか?ってなっていったら、え?ん?ってならないですか?
ロジックで突き詰めていくと、自分という存在は言葉で説明しようがない。だからこそ仏教は、そんなものはないし縛られる必要もないと説く、とホストはまとめます。
SNS時代に「暇な時間」は成立するか
ホストは、自分が高校時代に部活をしておらず、その暇な時間にひたすら考えざるを得なかった経験を語ります。死とは何かといったことばかり考えていたと言います。
その苦しみがあったからこそ哲学が好きになったと、ホストは今なら思うと話します。抽象度の高い思考をどう扱えばいいかわからなかった自分にとって、先人の考えが道筋になったからです。
この話を受けて、イナケンさんは一つの見立てを口にします。SNSで短絡的に炎上させてしまう人たちには、この暇な期間がなかったのではないか、というものです。
短絡的にSNSを炎上させてる人たちって、今言ったその暇な期間、なかったんじゃね?
ホストは、暇はあってもうまく消化できていたグループなのかもしれない、と別の可能性も示します。そのうえで、今は暇の質そのものが変わっていると指摘します。
一日5時間でもTikTokとかYouTubeショート見れるじゃないですか。でもあれしてる時って思考マジで働かないなと思って。
かつての暇な時間は思考せざるを得ない時間でしたが、今は同じ時間をショート動画で埋められてしまう。だから今、自分と向き合うにはだいぶ強い意志がいる、とホストは言います。
やることが少なく、考えざるを得ない。思考や内省に向かいやすかった
ショート動画などで埋められ、ドーパミン中毒的に消費される。思考が働きにくい
「べき論」が人を苦しめる
イナケンさんは、バイトもせず金もなかった大学時代を、あの時単体で見たら確実に無駄な時間だったと振り返ります。それでも今振り返ると無駄ではなくなっている、と言います。
この話を受けてホストは、今の世の中には苦しんでいる人が多いと感じると語ります。その原因を、何かしらの執着や「べき論」に見ています。
仕事とはこうあるべき、自分とはこうあるべき、といった定義をしてしまうからこそ、その定義から逸脱した部分に苦しめられる、とホストは指摘します。
定義をしてしまってるからこそ、その定義に逸脱してる部分に苦しめられてる気がする。
そこから逃れる方法として、ホストは内省を挙げます。自分がどこに強く執着しているかを見つけ、それが本当に必要な執着なのかを考え尽くすことが出発点だと言います。
その先に、一分一秒レベルで自分の人生を肯定できる状態が待っている、とホストは表現します。そうなれば過去も未来もすべて肯定できる、いわば「無敵状態」だと言います。
内省で「大事なもの」と「不要なもの」を分ける
ホストは、リスナーにぜひ内省してほしいと呼びかけます。手段は問わず、紙に書いても、人と話してもいいと言います。
ただただ自分の中身を、過去を振り返ることができれば、もっと意思決定しやすくなると思う。自分の人生に対して。
自分がどう生きたいかを言語化できれば、大事なものと不要なものがわかるから意思決定がしやすくなる、というのがホストの結論です。
最後にホストは、高市早苗さんのニュースから始まったとは思えないほど抽象度が上がったと笑います。イナケンさんも、こんな話でよかったのかと戸惑いつつ、回を締めくくります。
まとめ
この回は、「本当の自分はいないのではないか」という問いを軸に、暇な時間・会社での意外な評価・仏教の無我・内省の大切さが語られました。自分らしさを固く定義するほど苦しくなる、という視点が通底しています。
- コミュニティごとに振る舞いが変わるなら、環境に応じて出てくるものこそが自分で、根っこの本当の自分はないのかもしれない
- 自分らしさに縛られると選択で迷う。直感的に楽しいと感じる方向を選ぶほうが楽に生きられる
- 仏教の無我のように、ロジックで突き詰めると自分は言葉で説明しようがなく、だからこそ縛られる必要もない
- 今はショート動画で暇が埋まり、自分と向き合うには強い意志がいる時代になっている
- 「べき論」への執着が人を苦しめる。内省して大事なものと不要なものを分けることが、楽に生きる出発点になる

