理想の死に方は、数でも規模でもない?
パーソナリティが切り出したのは、理想の死に方というテーマでした。ただし高さや本数といった規模の話ではありません。
パーソナリティが求めているのは、死ぬ瞬間に自分がしてきた経験を抽象化したとき、どんな景色が見えるかという一点だといいます。それは1歳でも5歳でも70歳でもよいとのことです。
ただ単に僕がしたいのは、死ぬ瞬間に僕がしてきた経験を抽象化した時にどんな景色が見えるか。その景色が見れたら、もうそれで僕ゴールなんですよ。
別に数じゃないんだ。数とか量じゃない。
そうそう。見れるってことが重要なんすよね。
その景色を達成するための状態として、パーソナリティは自分のしたいことに素直に向き合い、取り組んでいくことを挙げます。
僕は今自分の感情に従って生きて、最後にどうやって死ぬんかなってワクワクしながら生きてるみたいな状態です。
その裏返しとして、ワクワクしないことは自分が濁るからやりたくない、とイニャケンさんが言い当てると、パーソナリティも同意します。アイデンティティそのものが、その抽象度にあるという整理です。
祖父の葬式で受け取った「トレースしたい死に方」
話は「どういう死に方をしたいか」という問いに移り、イニャケンさんが自身の価値観を形づくった出来事を語ります。
イニャケンさんが挙げたのは、大学1、2年ごろに父方の祖父が亡くなった経験でした。身内で亡くなった最初の相手で、触れ合ってきた家族が動かなくなっている光景を初めて見たといいます。
実際に触れ合ってた家族が、もう動かなくなってるっていうシーンを見るのが初めてで、割と結構ショッキングだったというか。
そのときイニャケンさんの中には、「悲しい」というショックと、「メタで見てこんな感じなんだ」という感覚の両面があったといいます。
さらに印象に残ったのは、祖父が校長先生など学校の要職にあり、その葬式でイニャケンさんが受付を担当していたことでした。
受付には家族だけでなく、祖父の教え子だった年配の人たちが大勢訪れ、はじめましての赤の他人であるイニャケンさんに、祖父への感謝の言葉を述べていったといいます。
言ってしまえば、はじめましての赤の他人に対して、なんかすごい感謝の言葉を述べられて。
その光景を前に、イニャケンさんに湧いたのは悲しみよりも「祖父はすごいな」という感情でした。祖父が教え子一人ひとりに与えた貢献が、巡り巡って葬式という形に表れていると感じたためです。
そこからイニャケンさんは、祖父の死に方をトレースしたいと考えるようになったといいます。どれだけ人に影響や介在価値を与えられたか、それが葬式に集まる人として表れる死に方です。
葬式は「その人の人生が完成する瞬間」?
一方でパーソナリティは、集まる人数は少なくてよいと話します。自分の本質を捉えている人が3人ほど集まってくれれば、その瞬間に自分は完成する、という感覚です。
パーソナリティにとっての完成とは、死ぬ状態に至って人生を抽象化し、世の中に見せることでした。そしてその完成は、他者に観測されないと成り立たないといいます。
僕自身の完成っていうのは他者に観測されないと完成されないんですよ。
なぜ人が集まると完成するのか。パーソナリティは、家族としての一面、友達としての一面、会社での一面など、さまざまな面を知る人が集まることで、その人の本質が抽象化されて立ち上がるからだと説明します。
この構造から、パーソナリティは葬式が結婚式と似ていると語ります。結婚式でも親族や上司や友達が集まり、「この人にはこういう友達がいるのか」と、見えていなかった一面が浮かび上がるからです。
節目節目で呼びかけられる人から醸し出されるその人っぽさってあるよね。
だからこそパーソナリティは、暗い雰囲気の葬式に疑問を投げかけます。集まった人たちが故人の知らなかった面を語り合い、いろいろな面が完成していく場にしたいという願いです。
僕、葬式するんやったらめっちゃポップにしたいです。で、友達と友達つなぎたい。
喪服とダンス、葬式の形は文化を映す
パーソナリティのポップな葬式観に対し、イニャケンさんは死が宗教や文化を色濃く映すものだと応じます。世界共通の部分もあれば、まったく違う部分もあるという整理です。
たとえば喪服として黒い服を着る形式について、二人はアメリカ文化ではないかと話し、日本が輸入してきた面が大きいのではと推測します。昔からスーツの喪装だったわけではない、という指摘です。
一方でイニャケンさんは、アフリカのどこかから伝わったという、街を練り歩き音楽をかけてダンスする見送り方に触れます。笑って送り出そうという発想です。
むしろなんか、笑って送り出そうぜみたいな。
パーソナリティは、それが自分の理想に近いと共感します。仲のよい友達が死ねば悲しいけれど、同時にその人の知らなかった面を短い時間で知れるからです。
パーソナリティは、家族の一面を知るのに何十年もかかったのに、葬式ではそれをすぐ知れるといいます。もっと知れたなら、こういう人生も良かったと肯定できる気がすると話します。
なぜ葬式はあえて泣ける場になっているのか
終盤、イニャケンさんは記憶があいまいだと前置きしつつ、葬式が悲しい雰囲気で泣く場になっている理由について、聞いた話を紹介します。
イニャケンさんによれば、葬式はあえて泣ける環境にしている側面があるといいます。近しい人の死は乗り越えがたく、その場に執着してしまうことがあるためです。
実際、仲のよかった祖父を亡くしたとき、祖母もかなり沈んでいたとイニャケンさんは振り返ります。
なんで人間が泣くかでいうと、泣くとリラックスするし、泣き切ったら出来事として忘れやすくなるのかな。
つまり泣くことで悲しい感情をいち早く手放せる形になっているのではないか、というのがイニャケンさんの推測です。だからこそ、この形式が今まで残ってきたのかもしれないと話します。
パーソナリティもその見方に一定の納得を示し、対話を締めくくります。
要は、お葬式、そんなに苦しみすぎる必要ないよね、っていう話でした。
まとめ
理想の死に方という問いから始まった今回の対話は、葬式を「その人の人生が完成する瞬間」と捉え直す話へと展開しました。数や規模ではなく、どんな景色を見て、どんな面を残せるか。二人の視点は違いながらも、苦しみすぎない見送り方という一点で重なっていきます。
- パーソナリティの理想は、死ぬ瞬間に自分の経験を抽象化した景色を見ること。規模は問わない
- イニャケンさんは祖父の葬式に大勢の教え子が集まる姿を見て、「葬式に人が来る死に方」をトレースしたいと考えた
- さまざまな面を知る人が集まることで、その人の本質が立ち上がる。その意味で葬式は結婚式と似ている
- 喪服やダンスなど葬式の形は文化を映す。二人は笑って送り出す見送り方に共感する
- 葬式が泣ける場である背景には、悲しみをいち早く手放させる役割がある、という見方も語られた

