餃子でわかる3つの違い
一般的にはあまり知られていない、餃子の王将と大阪王将の餃子の違いから紹介されます。ポイントは3つあると話されています。
1つ目は、冷凍餃子の有無です。餃子の王将は生餃子のみで、スーパーでは売られていません。一方、大阪王将は冷凍餃子があり、スーパーでも買えます。
2つ目は、ニラです。餃子の王将の餃子にはニラが入っていますが、大阪王将の店舗の餃子にはニラが使われていません。ただし、大阪王将でもスーパーで売られている冷凍餃子にはニラが使われているそうです。
3つ目は、餃子を包む工程です。餃子の王将はセントラルキッチンで包み、店頭では焼くだけです。大阪王将はその前の段階までがセントラルキッチンで、包むのは店頭でやっているという違いがあります。
生餃子のみでスーパー販売なし。ニラ入り。セントラルキッチンで包み、店頭では焼くだけ。
冷凍餃子ありでスーパーでも販売。店舗の餃子はニラなし。包む工程は店頭でおこなう。
先に生まれた餃子の王将と、のれん分けの大阪王将
餃子の王将のほうが先に誕生しています。1967年、昭和42年に加藤朝雄さんが京都四条大宮に一号店を開店しました。この店は今もあり、看板も残っています。
加藤朝雄さんは1924年に福岡県で生まれ、開店当時は43歳ほどだったと考えられます。
一方、大阪王将の創業者である文野新造さんは、加藤朝雄さんのいとこの旦那にあたる人でした。「親戚に景気のいい餃子屋がいる」と聞き、加藤さんの餃子の王将で修業をします。
半年ほど修業してのれん分けしてもらい、1969年に大阪の京橋で餃子専門店を開きました。半年しか修業していないため餃子くらいしか作れず、餃子とビールのような店だったそうです。こうして餃子の王将と大阪王将の2店舗が並びました。
この時に住み分けの協議があり、餃子の王将は京都、大阪王将は大阪を中心にすると決められました。そのため、餃子の王将は今でも「京都王将」と呼ばれることがあります。
万博とオイルショック、そして鹿児島王将
1970年に大阪万博が開催され、両店とも大変景気のいい状況になっていきます。
1973年にはオイルショックが起こりますが、大阪王将は伸びていきました。創業者の文野新造さんはかつて繊維問屋で働いており、一緒に働いた人たちが大阪王将のフランチャイズをやりたいと手を挙げ、店舗が増えていったそうです。
餃子の王将のほうも、1978年には新宿に関東一号店を出しています。
同じ1978年には、別会社の鹿児島王将も生まれています。その経緯には京セラの創業者・稲盛和夫さんが関わっていると話されています。
稲盛和夫さんの妻の弟が餃子の王将で働いていました。稲盛さんの弟たちが親の面倒を見るため鹿児島に戻ることになり、鹿児島で餃子の王将をやらせてほしいと稲盛さんが加藤さんに直談判します。それが認められ、稲盛さんの弟や親戚が鹿児島王将を作りました。
鹿児島王将は今も鹿児島市内にあり、その場で餃子を包んでいるそうです。
京都と大阪の取り決めが崩れた「王将対決」
両店が拡大していくうちに、京都は京都王将、大阪は大阪王将という当初の取り決めが崩れていきます。
餃子の王将が大阪に出るだけならまだしも、問題は大阪王将が京都に出店したことでした。しかもその際、大阪王将は「大阪王将」ではなく「餃子の王将」と名乗ったそうです。
これでどちらの餃子の王将なのかと客が混乱する状況になりました。餃子の王将、つまり京都王将側が不正競争防止法上の差し止め請求を起こします。
翌1985年に和解し、大阪王将側は店舗名を大阪王将に改めることが決まりました。
世代交代とフランチャイズの学び直し
1985年の和解と同時に、大阪王将の社長が文野新造さんから息子の文野直樹さんに交代します。文野直樹さんは当時25歳でした。
文野直樹さんは10歳の頃から父の店を手伝い、16歳ほどで店長も経験。20歳ごろには自分で東海王将を作って経営し、かなり好調だったといいます。
社長就任後にまず取り組んだのは、大阪王将を伸ばすことではありませんでした。モスバーガーを展開するモスフードのフランチャイジーとなり、フランチャイズのやり方そのものを学ぶことから始めたそうです。
フランチャイズはどうあるべきかというシステムを考え直すことに時間を充てた、と話されています。これが後の成長につながっていきます。
迷走の80年代と、事件を経た餃子の王将
一方、餃子の王将は1980年代に少し迷走します。1987年には中華だけでなく和食もやりたいと、店内に回転寿司「くるくる寿司」を始めたり、和食料理店「生け簀の王将」を出したりしました。これらは2011年までに撤退しています。
1993年には創業者の加藤朝雄さんが亡くなり、アサヒビール出身の望月邦彦さんが二代目社長に就任します。その一年後には加藤朝雄さんの長男の清さんが三代目社長に就任するなど、体制はやや慌ただしく動きました。
それでも1995年には大阪証券取引所二部に上場し、拡大は順調に進んでいきます。
その後、大東隆行さんが四代目社長を務めますが、本社前で銃撃を受けて亡くなるという大きな事件が起こります。すぐに常務の渡辺直人さんが五代目社長に就任しました。
メーカーへ進む大阪王将、職人を磨く餃子の王将
大阪王将は2001年に冷凍食品の大阪王将餃子の販売を開始します。このあたりから両社の道筋が分かれ始めます。
2002年には社名をイートアンドに変更し、「目指せ総合フードサービスへ」と掲げます。餃子だけだった大阪王将が中華全般に広がり、さらにラーメンやパンなど、いろいろな分野に拡大していきました。
2003年に大阪王将も新宿で関東初進出。2008年ごろには毒餃子事件が起こります。これは両社に直接関係はないものの、餃子への不信感が広がり、各社が国産使用など安心安全を打ち出すきっかけになりました。
大阪王将は2010年に国産化を宣言、2011年にジャスダック上場、2013年に東証一部上場と成長します。2014年には羽根つき餃子を発売しました。羽根つき餃子は味の素冷凍食品が2012年から「羽根の素」を付けて先に販売しており、羽根ブームはここから始まったと話されています。
餃子の王将のほうは2006年に大阪証券取引所一部に上場し、名実ともに大企業になっていきます。2016年にはセントラルキッチンを作り、包んだ状態で店舗に運び、店ではすぐ焼くだけにする仕組みに変えました。
2018年には王将調理道場を開設します。それまで店によって味のばらつきがあったため、全国から社員を集めて研修し、包丁の取り方から料理全般まで技術を磨いて店舗に送り返す仕組みを作りました。
大阪王将は2017年に、創業者ではない中田宏康さんが三代目社長に就任し、その後ホールディングス化します。外食の大阪王将、冷凍食品メーカーの大阪王将、ラーメンやパンなどの事業をそれぞれ分社化し、一つにまとめました。
餃子の王将の方は職人の技を極めながら、お店によって個性を出していく。ベースとして美味しい餃子や共通メニューのレベルの高さをキープしながら、お店ならではのものを作っていく。
大阪王将の方はお店でいろんな料理を出しつつ、メーカーとしても機能していく。半々でやっていくというところですね。
職人の技を極め、調理道場で研修。共通したレベルを保ちつつ店ごとの個性を出す方向へ。
外食に加え冷凍食品メーカーとしても展開。ホールディングス化し多分野へ拡大。
まとめ
餃子の王将と大阪王将は、のれん分けというつながりから始まりながら、住み分けの取り決めや訴訟、世代交代を経て、今では全く別の道を歩む会社になっています。それぞれに店頭の餃子、生餃子、冷凍餃子と選択肢があり、好みに合うものを楽しめます。
- 餃子の王将が先に生まれ、大阪王将は加藤朝雄さんの親戚がのれん分けで開業した
- 当初は京都・大阪で住み分けたが、大阪王将の京都出店をめぐる争いを経て1985年に和解、店舗名を大阪王将に改めた
- 鹿児島王将は稲盛和夫さんの直談判から生まれた、また別会社である
- 大阪王将は冷凍食品メーカーへ、餃子の王将は職人技を磨く方向へと進んだ
- 餃子の違いは冷凍販売の有無、ニラの有無、包む工程の3点にあらわれている
