すれ違いの原因は「伝え方」ではなく「言葉そのもの」?
しゅうへいさんが紹介したのは、NewsPicksパブリッシングから出ている小野純一さんの『僕たちは言葉について何も知らない:孤独、誤解、もどかしさの言語学』です。著者の小野純一さんは言語哲学 ── 言葉の意味や、言葉と世界・心との関係を哲学的に問う分野。「意味とは何か」「なぜ言葉が通じるのか」といった問いを扱いますを専門にしています。
しゅうへいさんによると、この本は難しそうに見えて挿絵も多く、読むと「自分は確かに言葉について何も知らない」と感じさせられる一冊だといいます。
人間関係を楽にする方法として、世の中ではコミュニケーション術や伝え方がよく語られます。しゅうへいさんは3月・4月に新社会人がそうした技術を学ぶ時期であることに触れつつ、この本はもっと手前に目を向けていると説明します。
多分それも大事なんですけど、そもそも言葉の使い方じゃなくて、言葉自体をわかってない。言葉について知らないから、例えばそのミスコミュニケーションとか起きたりとかしている。
「うまく伝わらない」「勘違いされた」「なんでそんな言い方なの」「どうせわかってもらえない」。職場でも学校でも家庭でも起きるこうしたすれ違いの理由を、この本は言葉そのものを紐解くことで説明しようとしている、としゅうへいさんは紹介します。
著者の小野さんは42言語を学んだそうで、イケハヤさんも驚きます。Duolingoで現在5カ国語を学んでいる幸あれこさんも「42も思い浮かばない」と笑いました。
言葉は呪術。リンゴを思い浮かべずにいられるか
しゅうへいさんが挙げた本書の1つ目のポイントは、言葉は呪術である、というものです。しゅうへいさんはまず、2人に「リンゴを思い浮かべないでください」と言ってみせました。
イケハヤさんも幸あれこさんも、言われた瞬間に思い浮かべてしまいます。しゅうへいさんは、マーケティングで使われる「閲覧禁止」や「まだ間に合います」といったコピーも同じで、聞いた瞬間に脳に勝手にイメージが浮かぶのだと話します。
それ(言葉)は別に物理的に僕は作用してるわけじゃないじゃないですか。
言葉は物理的に相手の頭に手を伸ばしているわけではないのに、相手の心を動かしてしまう。そこが呪術と呼ばれる理由です。
しゅうへいさんはこの話から、幸あれこさんの言葉への感度の高さを例に挙げます。大きな固形物が苦手で、サプリを飲むのに時間がかかる幸あれこさんに、しゅうへいさんは「5秒以内に飲まないとここが爆発する」「空気中を全部変な匂いにするぞ」と声をかけて手伝っているそうです。
呪いをかけてるんだね。
爆発5秒前となると、やっぱり気持ち的には飲まなければみんなを巻き込んでしまうみたいな気持ちになる。
しゅうへいさんは、幸あれこさんがフリーアナウンサーとして言葉に真摯に向き合ってきた経験から、言葉にとてもセンシティブなのだろうと見ています。
言葉の三つの顔と、本つまリスナーにだけ通じる「ルフィ」
本書では、言葉には三つの顔があると書かれている、としゅうへいさんは紹介します。
1つ目は記号としての言葉です。三角は三角、猫は動物の猫、青は青い色を指すという文字通りの意味で、しゅうへいさんはミツバチの求愛ダンスのように、入力と出力が一義的に決まるボタンのようなものだと説明します。
2つ目は含みのある言葉です。たとえば「アホ」は、愚かさの説明だけではなく「可愛げがあってアホやな」という意味にもなります。入道雲も、雨のサインにもなれば、子どもの頃の夏を思い出させるものにもなる、としゅうへいさんは自身の感覚を交えて話しました。
3つ目が場としての言葉で、本書が特に深掘りしている部分です。言葉の意味は場の相互作用によって生じるもので、しゅうへいさんはクラウドにたとえ、共有のクラウドだけがあっても手元のパソコンがなければやりとりできないのと同じだと説明します。
| 顔 | 中身 | 番組で出た例 |
|---|---|---|
| 記号としての言葉 | 文字通りの意味を指す | 三角、猫、青、コップ |
| 含みのある言葉 | 文脈や状況から読み取る意味や感情 | 「アホやな」、入道雲と夏の記憶 |
| 場としての言葉 | 場の相互作用で意味が生まれる | 本つまリスナーにとっての「ルフィ」 |
場としての言葉の例として、しゅうへいさんは「ルフィ」を挙げます。普通はワンピースの海賊王を思い浮かべますが、昨年から番組を聴いているリスナーなら、幸あれこさんがドイツの働き方を紹介した回の「ドイツだったらルフィは5人いた」という爆笑の話を思い出すはずだ、というわけです。
日本では海賊王は1人という枠があるけれど、ドイツならそうした枠がなく、60歳から海賊王になってもいい。紹介した幸あれこさん本人は内容を忘れていましたが、この「ルフィ」は番組とリスナーの場があるからこそ共有される意味です。
コミュニケーションが難しいのはまさにそうです。同じ言葉を言っても同じように受け取らないってことなんですよね。
しゅうへいさんは、本書が井筒俊彦 ── 昭和期に活躍した日本の言語学者・イスラーム学者。多数の言語に通じ、東洋思想と言語の関係を論じたことで知られますの考えも紹介していると話します。人間に最も普遍的に共通するのは理性ではなく呪術であり、その呪術とは、言葉の力を発動して心に働きかけ、心の動きを操作することだといいます。
愛は奴隷化?サルトルが揺さぶる「概念」
本書の2つ目のポイントは、人間関係を円滑にするには相手の心に概念を成立させよう、というものです。しゅうへいさんは、うまくいく会話とは表現や話し方の上手い下手ではなく、相手の心に概念がちゃんと成立することだと説明します。
概念は一つの物語のようなもので、たった一言でも物語が生まれる。愛や友情のように、形はないけれど何となくわかるものが概念です。
ここでしゅうへいさんは、本書で紹介されるサルトル ── 20世紀フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトル。実存主義の代表的な思想家で、他者との関係や自由について多くの著作を残しましたの愛についての考えを取り上げます。一般に愛は良いものとされますが、サルトルは「愛とは奴隷化でもある」と述べ、愛には憎しみと区別のつかない瞬間があるというのです。
しゅうへいさんの説明では、サルトルの愛には「愛する」「愛されたい」「愛されたいと思われたい」という3つの段階があります。
愛する
誰かを愛することは、その人から愛されたいことを含む
愛されたい
愛されたいという思いは、さらに次の段階へつながる
愛されたいと思われたい
相手が自分から愛されたいと思うようになって初めて思いが叶う
奴隷化
相手を自分を愛するようにさせたいという思いまで含むため、愛は奴隷化でもある
愛っていいものって思ってたのが、それもちろん愛は素晴らしいものかもしれないけど、愛の別の側面を見たような感じがしません?
しゅうへいさんは、概念は人によって違うと続けます。愛を絶対に良いものと思う人もいれば、愛が重たい人もいる。イケハヤさんも、友情も同じで、良いと思う人もいれば重たいと思う人もいると応じました。
しゅうへいさんは、1話目でイケハヤさんが紹介した『ひとを〈嫌う〉ということ』を聞いて、嫌われることについての自分の概念が変わったといいます。理不尽に嫌われることもあるのだから、それでいいのだ、という受け止め方です。
しゅうへいさんは、これこそイケハヤさんが番組という場で、本の概念が自分の中に成立するようにコミュニケーションをとってくれた例だと捉えています。
貫禄、ぶぶ漬け、サンタ。概念はどこですれ違うのか
しゅうへいさんは本書を読んで、日々のコミュニケーションが表層的だったと反省したといいます。幸あれこさんにパソコンの操作を聞かれて「なんでわからないんだ」とイライラすることが多かったのも、幸あれこさんに届く概念として説明できていなかったからかもしれない、と振り返ります。
本書が大事だとしているのは、心や概念にセンシティブであり続けることです。自分の概念は独自のものや偏見かもしれず、相手にどう届いているかはわからない、という前提に立つ姿勢です。
著者の小野さん自身にも失敗談があり、着物を着た女性に「貫禄がありますね」と言ったところ、「そんなに太ってるかね」と受け取られたそうです。しゅうへいさんは、言葉としては間違っていなくても、相手の中で概念がうまく成立しなかった例だと説明します。
さらにしゅうへいさんは、京都の「いけず文化」を寸劇で紹介しました。京都の先輩役が「お茶漬けでも召し上がって帰ります?」と勧めると、相手役は「高菜でお願いします」「鮭で」と具の注文を始めてしまい、スタジオは笑いに包まれます。
しゅうへいさんによると、京都で「ぶぶ漬け ── 京都の言葉でお茶漬けのこと。「ぶぶ漬けでもどうどす?」が「そろそろお帰りください」の意味になるという話は、京都の婉曲表現の例としてよく語られますでもどうですか」と言うのは「はよ帰れ」という意味です。「いい時計されてますね」が「もう時間が長い」という意味になる例も挙げ、超ハイコンテクストだと話します。
この概念がなかったら、お茶漬けですか?もうちょっととか言ってましたとなるわけですよ。とんでもないことが起こるよね。
しゅうへいさんは、家族で連想ゲームをしてみるのも面白いと提案します。海、雲、鳥、夏、風、太陽、麦わら帽子といった単語から何を思い浮かべるかは、人によって違うからです。
幸あれこさんは、昔サンタクロースの話をしたら不機嫌になった先輩がいたという経験を語りました。クリスマスは楽しい話題だと思っていたのに、その先輩にはクリスマスに嫌な思い出があったといいます。
こんなにも人によって、そのテーマによって抱く感情って違うんだなって。
その人を知る努力も必要なんだなって思った。
しゅうへいさんは、本書でもこれは失敗の連続だと書かれていると紹介します。1話目の本にもあったように、悪気がないなら、ミスしたときはしょうがないという受け止め方も添えられました。
本来の自分はどこにある?宇多田ヒカルの「人間活動」と述語
本書の3つ目のポイントは、生きづらさは述語で解決する、というものです。しゅうへいさんが特に響いたという本書の後半の内容です。
新社会人に限らず、自分がしんどい、やりたいことがわからない、本来の自分がわからないという感覚は誰しも抱くものです。しゅうへいさんは、本書がそうしたときに述語に注目せよと説き、宇多田ヒカルさんの例を紹介していると話します。
しゅうへいさんによると、宇多田ヒカルさんは2016年ごろにアーティスト活動を休止した際、インタビューで、本来の自分と自分のイメージがかけ離れてしまい、自分のことなのによくわからなくなった、という趣旨の言葉を残しています。
しゅうへいさんは、宇多田さんが休止を何と表現したかをクイズにしました。幸あれこさんが「タバコ?」「トラベリング?」と答えを探るなか、明かされた答えは「人間活動に専念する」でした。
著者の小野さんは、引退でも充電でも休養でもないこの言葉を、素晴らしい言語化だと評価しているそうです。
しゅうへいさんの読み解きでは、アーティストとしてのイメージが大きくなりすぎて、「私」という土台が支えきれなくなった。そこで小野さんは、述語の部分を広げていくことを示しているといいます。
しゅうへいさんは「僕は経営者です」「フリーアナウンサーです」「ブロガーです」のような肩書きは、社会のシステムに接続されたレッテルのように感じると話します。それに対して「僕は返済活動に専念している」と述語で言うと、他の人と違う自分が見えてくる、という説明です。
「経営者です」「サラリーマンです」など。社会のシステムに接続され、みんなの中に入った感じがする
「返済活動に専念している」「人間活動に専念する」など。気持ちや経験の積み重ねが表れ、本来の自分に近づく
しゅうへいさんは、本書によれば西田幾多郎 ── 明治から昭和にかけて活躍した日本の哲学者。『善の研究』で知られ、主語ではなく述語の側から存在を捉える「述語の論理」を唱えましたも、主語より述語のところに本来の自分が出ると述べていると紹介します。
自分の気持ちや経験、積み重ねてきた地層のようなストーリーを言語化していく作業は、言葉に出会う旅のようなものです。しゅうへいさんは、本書がそのためには孤独な時間が必要だと説き、solitude ── 英語で「自ら選んだひとりの時間」を指す言葉。寂しさを意味するlonelinessと対比して、前向きな孤独を表すときに使われますがlonelinessを解決すると書いていると話します。
宇多田さんの人間活動とは、家事や旅行、古典を学ぶことなど、あらゆることを指すのだろうとしゅうへいさんは考えます。そうした活動で述語が広がり土台が大きくなることで、再びアーティストという自分を受け止められるようになる、というのがしゅうへいさんの解釈です。
「言葉に出会いたかった」。しゅうへいさんが本書で気づいたこと
本書の後半には、ちゃんみなさんも登場するそうです。しゅうへいさんによると、ちゃんみなさんには「痛みは美しい」という趣旨の言葉があり、いじめられた経験から自分を大切にできるのは自分しかいないと考え、過去の悲しみを踏まえた曲で同じ傷を持つ人を励ます活動を、本書は美しいと考察しています。
しゅうへいさんは自身について、経験や感情と向き合って掘り起こす作業が足りていなかったと振り返ります。
インフルエンサー、SNSがうまい、コミュニティ運営、離島で地方創生といった、社会の肩書きに接続された自分の比重が大きく、誰にも求められていないのに「ちゃんとしないといけない」と感じていたといいます。しゅうへいさんは、それは常に誰かの目線にさらされ、誰かと接続されている状態だったと捉えています。
1話目でイケハヤさんが紹介したスピノザの一言のように、悩んでいたことを言語化できる言葉に出会えたとき、しゅうへいさんは楽しさを感じるそうです。言葉を探す散歩を続けたいという思いこそ、主語ではなく述語の部分を大きくしていく行為なのだと、しゅうへいさんは本書を読み終えて気づいたといいます。
肩書きに接続された自分の比重が大きく、「ちゃんとしないといけない」と感じていた
自分一人で自分の言葉を探す散歩を続けたい。それが述語を大きくする行為だと気づいた
しゅうへいさんは最後に内容をまとめ、人間関係がしんどい人は「そもそも言葉を知らなかった」という立ち位置に戻り、言葉、心、概念、自分の生き方にセンシティブになるきっかけにしてほしいと締めくくりました。
ポテチ、あんこ餅、一人バーベキュー。それぞれの「人間活動」
紹介を聞き終えた幸あれこさんとイケハヤさんは、「言葉に出会いたい」という言葉がしゅうへいさんの口から出てきたことに驚きます。イケハヤさんは、読書を通して人が成長する姿を見るのはいいことだと冗談まじりに称えました。
でもやっぱね、過去の僕の浅はかな言葉で僕を嫌いになった人は戻ってこないです。
幸あれこさんは、述語の話に関連して、アイドルの方のインタビュー記事を思い出したと話します。すごいコンサートの後に家で生ゴミを捨てる自分との落差に驚く、という内容でした。
会社行ったら、例えば経理の自分とか、部長の自分とかね、(中略)家に帰った時、ふと自分に戻って、人間生活になった時、私ってって多分みんななるじゃん。
幸あれこさんは、ポテチを食べながら寝転んでテレビを見ている自分も自分なのに、それを悪いと思い、「これは自分じゃない」と感じてしまう人は多いのではないかと話します。しゅうへいさんは、そこがまさに述語の部分であり、宇多田さんの「人間活動」はその可能性を広く捉えた言葉だと応じました。
幸あれこさんの人間活動は、しゅうへいさんの影響で始めた、夜中に餅を焼いてあんこを絞り出し、バターで焼くことだそうです。しゅうへいさんは「夫婦時間ですね」と笑います。
イケハヤさんの人間生活として語られたのは、週末の一人バーベキューです。子どもたちより先にうまい肉を焼いて食べ、ビールを飲むという、シンプルな過ごし方が紹介されました。
しゅうへいさんは、イケハヤさんは東京にいた頃より高知の山奥にいる今のほうが人間らしく、山の中で家族と暮らすことが述語としてイケハヤさんを形作っていると話します。肩書きや責任ある自分ばかり見ていると重たくなるからこそ、述語の部分を意識することが大事だという話で、この回は締めくくられました。
最後に幸あれこさんは、ハッシュタグ「#本つま」で感想を送るよう呼びかけました。「今書いてください」と強めに迫ったあと、「暇な時でいい」と言い直す様子に、しゅうへいさんは「いけず文化的に逆に圧になってる」とツッコミを入れています。
まとめ
『僕たちは言葉について何も知らない』の紹介を通して、すれ違いや生きづらさは伝え方の技術以前に、言葉そのものへの理解不足から生まれるという見方が示されました。言葉の三つの顔、概念の成立、述語としての自分という三つのポイントは、人間関係と自分自身の両方を見直す手がかりになりそうです。
- 言葉は聞いた瞬間に心を動かす「呪術」であり、意味は場の相互作用によって生まれる
- コミュニケーションで大事なのは話し方の上手さより、相手の心に概念を成立させること
- 「貫禄」「ぶぶ漬け」「クリスマス」のように、同じ言葉でも人や文脈によって受け取り方は大きく違う
- 本来の自分は肩書きではなく述語に表れ、宇多田ヒカルさんの「人間活動」はその好例として紹介された
- 述語を広げるには、孤独な時間の中で自分の言葉を探し続けることが必要だとされている



