「人にしかできないこと」に、なぜこだわってしまうのか
つんさんが気になっていたのは、届いたお便りにあった「人にしかできないこと」というフレーズです。AIへの恐れや、能力が影響を受けるのではという不安とともに、この言葉が繰り返し出てきたそうです。
なんでこの人にしかできないことというものにこだわりが生まれるんだろうと思ったのね。
AIができることは人はやっちゃダメなのかしらと。
つんさんは、車で行ける場所をあえて歩くことにたとえます。近所のコンビニに絶対車で行く人もいれば、歩く人もいる。どちらを選んでもいいはずだ、という話です。
たとえ歩いた方が効率が悪かろうが、歩いた方が足が痛くても、歩くかどうかを決めるのは僕だと思ったりする。
ところがAIになると、AIができることは人間がやってはいけないような気持ちになりがちだ、とつんさんは指摘します。会社からクビだと言われたわけでもないのに、自分で勝手にそう思い込んでいるケースが多いのでは、というわけです。
自分で勝手に思ってるケースっていうのも結構多いですよね。
みやちゃんも、いつのまにか「人対AI」という構造で語られがちだと同意します。「AIにできることはAIがやるべし、その方が効率が良いから」という言い方が、世の中に増えているという感覚です。
人は効率や成果のためだけに生きているのか
つんさんが投げかけるのは、そもそも人間は効率を上げるためだけに生きているわけではない、という視点です。効率や成果が目的なら効率のよい方を選ぶけれど、人生はそうですか、と問いかけます。
仕事にはどうしても高効率・高成果への圧力があるからこそ、そう思いやすいのかもしれない、とつんさんは補足します。それでも、仕事も人生の一部だと考えるなら「好きにやろうや」という余地もあるはず、という話です。
みやちゃんは、経営者の視点で成果物や売り上げが多い方がいいのはわかるとしたうえで、生産性が必ずしも売り上げに直結するわけではない、と具体例を挙げます。
なんかそんなに質は良くないけど、でももう何十年もお付き合いしてるし、あなたのお父さんがこの店やってる時から知り合いだから、もう君でいくよとかっていうやりとりも今でも存在していて。
採用の場面でも、最終的に決めるのはまだ人間だとみやちゃんは言います。学歴や経歴が優れていても「ちょっとフィーリング違うな」で落ちることもあれば、コネで決まってしまうこともある。成果はAIが作る生産物だけが根源ではない、というわけです。
だからこそ、仕事を生産性・効率性・売り上げだけでとらえなくてもいい、とみやちゃんはまとめます。社会貢献の場や、人とつながる機会という側面もあるからです。
KPIと立場によって変わる、AIとの向き合い方
つんさんは、普段あまり使わない言葉としてKPIを持ち出します。何かのプロジェクトや作業をする上で達成すべき指標のことです。
そのKPIをどこに置くかで、経営のやり方も変わるとつんさんは言います。創業者が「こんなことがしたい」という思いを真ん中に置き続けている場合は、それを果たすのがAIか人間かは重要ではない、というわけです。
一方で、売り上げや利益を出すという目的では話が変わります。コストを抑えて成果を最大にする点でAIが上回り、人件費よりAIのサブスク費用が安いとなれば、そちらを選ぶのは頷ける、とつんさんは整理します。
AIにできることは人間にさせないというよりも、自分がどういう立場にいるか、自分の決定権がどれくらいの割合で自分の手元にあるかによって、AIにできることもやっていいのかが変わってくるような気がするな。
つんさん自身は個人事業主なので、本を書くときにAIに全部書かせた方が早いと感じつつも、あえて自分で書くと言います。
AIにできるけど、いや俺がやるつって、自分でちまちまちまちま文章を書くわけよね。
つんさんの目的は冊数を多く出すことではなく、納得いくものを出すこと。だから効率が悪くても自分で書ける、と説明します。ただしこれは個人事業主だから選べるのであって、立場が違えば選択の余地は狭まる、というのがポイントです。
目的がAIでも人間でも果たされればいい場合は好きに選べる。納得を優先して自分でやる選択もできる
コストや成果でAIが上回れば「AIにさせてもらいますわ」となり、選択の余地が狭まる
研究者は個人事業主に似ている、けれど
つんさんは、学校の先生や研究者にはどこか個人事業主に近いイメージがあると話します。自分で研究を決め、実施し、結果を自分で発表する。最初から最後まで自分が担当しているように見えるからです。
だからこそ、論文をAIに書かせた方が早くても「考える力が落ちそうだから自分で書く」と選べる。個人事業主が自分で文章を書くのと同じ構図だ、というわけです。
みやちゃんも、研究者は自立性が高く、自分で選べることが多い職業だと同意します。ただし、その反面があると付け加えます。
実際には会社員と同じように大学に雇われ、終身雇用ではないポジションが多く、競争率が高い。生き残るには論文数が多い人が優位になるシステムだ、とみやちゃんは説明します。
質はちょっと下げてでも、自分が多少納得いかなくても、AI使ってもガンガン出すことにシフトしようぜみたいな人はいるし、そういう流れになってきてるのも感じます。
つんさんは、AIが求められる成果を超えるレベルの論文を出せるなら、使わなければ蹴落とされる環境になっていくと指摘します。個人の裁量が大きくても、選択の余地は狭まっていくということです。
コスパが悪いことが、研究者のいいところだった
みやちゃんは、この流れがAIに限らないと言います。タイパ・コスパ重視で「コスパのいい研究をやろう」という研究者が増えているそうです。
みやちゃんの教授は古い考えの人で、データを足で取ってくるスタイルだといいます。重いラップトップを担いで学校まで出向き、取ってきたデータを人の手でコーディングする。1つの研究に何年もかかるようなやり方です。
一方で主流になりつつあるのは、すでに存在する巨大なデータをマシンラーニングにかけ、複雑な統計分析をさせ、論文までAIに書かせるやり方だ、とみやちゃんは説明します。
そうした分析を担うデータサイエンティストの方が将来安泰だと言われた時期もあった、とみやちゃんは振り返ります。
ところがつんさんは、そのデータサイエンティストの就職が難しくなったと話を継ぎます。仕事のど真ん中をAIが上回ると、その職自体が揺らぐ、という流れです。
数年前はデータサイエンティストの資格さえ取っていれば、年収1500万2000万というふうに言われた時代が一瞬で終わってしまってんけど。
AIにできない方が、価値が高くなる不思議
みやちゃんは、論文を査読する側から見ると、また別の変化が起きていると言います。AIによって、どの国の研究者が書いた論文も綺麗な文章で届くようになりました。
今まで有利だった英語圏の研究者の優位が薄れ、投稿される論文の数も莫大に増えたそうです。全部を通すわけにはいかない中で、何で採否が決まるのかが問題になります。
そこで価値を持つのが、文章の綺麗さではなく研究そのものの意義や、コスパの悪い人間にしかできない研究だ、とみやちゃんは言います。教授のように学校へ出向いて時間をかけて取ったデータの方が、むしろ評価されることがあるというわけです。
これはもうAIじゃ絶対できないから価値の高いものだなみたいな。
つんさんは、今度はAIにできない方が価値が高いという逆転を面白がります。「なんでAIより人間がやった方が価値が高いんですか」と聞かれると、うまく答えられない気がする、と正直に言います。
みやちゃんは、査読しているのがまだ人間の段階だからだと応じます。つんさんは、良し悪しの判断が内容そのものではなく、プロセスに人間がどれだけ関与しているかに寄っていることになる、と整理します。
プロセスに人間がどれだけ関与しているかというものが、良し悪しの判断に影響してるってことになるよね。
なぜ人間はAIにここまで右往左往するのか
つんさんは、そもそもAIがやろうが人間がやろうがいいじゃないか、と普段から思っていると打ち明けます。文章でも絵でも、面白いものは面白いし、意義があるものは意義がある、という立場です。
一流の作家が書いてようが、その辺のネット小説を携帯に上げてる人であろうが、面白いものは面白いし、面白くないものは面白くないっていうのは似てる気がするのね。
みやちゃんも自分は同じタイプだと言います。論文を書くのにAIをよく使うので、抵抗がある研究者に「私はそれやりたくない」と言われると、その理由が不思議だったそうです。
AIが取ってこようが自分が取ってこようが、そのソースが間違っていなかったら別にいいじゃないかって思うんですけどね。
ところがつんさんは、他人が出したものと自分がやるものとでは観点が少し違う、と言い直します。自分がやるときは過程を知っているのに対し、よそから上がってきたものは過程がわからないからです。
自分はやることそのものに価値を感じていることなのね。その書くことそのものが楽しかったりとか、考えることそのものを自分の中で意味のあるものとしてやってる場合があるのね。
イケア効果と、仕上げに関わっているかどうか
つんさんは、ここで「イケア効果」という研究を紹介します。家具のイケアから名前を取ったものです。
実験では、プロが綺麗に組み立てた段ボール箱と、被験者自身が組み立てた箱を並べ、どちらに高い値段をつけるかを尋ねました。すると人は、自分が組み立てた方に高い値段をつけたそうです。
出来栄えは同じ、もしくはプロのやつよりもしょうもないのに。
折り紙の鶴でも同じで、上手な人が綺麗に折った鶴と、自分が苦労して折った鶴を並べると、人は自分が作った方を持って帰るといいます。
ただしこれは「自分がやるもの」に限った話で、人がやったものをポンと出されたときは綺麗な方がいい、とつんさんは注意を添えます。
みやちゃんは、この説明にすごく納得したと言います。AIの成果物を受け入れない理由を、クオリティや信憑性を疑っているからだと思い込んでいたけれど、愛着の問題だと聞いて腑に落ちた、という流れです。
そこに違和感を感じていたから受け入れられなかったっていうのはすごく納得がいきました。
仕上げをAIに渡すと、愛着が消えてしまう
つんさんは、イケア効果には続きがあると言います。どの部分を自分が担当するかも、愛着に影響するそうです。
多くの場合、仕上げの部分を自分が担当すれば自分のものだと思いやすいらしいのね。
たとえ70パーセントを自分が頑張っても、最後の仕上げをAIにさせてしまうと愛着が薄れ、価値を感じなくなってしまうことが起きる、とつんさんは説明します。
自分で作業する
段ボールや折り紙のように、自分の手をかけたものには強い価値と愛着が生まれる
仕上げに関わる
たとえ一部でも仕上げに関与していれば「自分のもの」と感じやすい
仕上げを手放す
70%を自分がやっても最後をAIに任せると、愛着も意義も薄れてしまう
そのうえでつんさんは、AIで論文を書くのを拒んだ同僚について、あくまで勝手な想像だと前置きして考えを述べます。
その同僚は非常に真面目で、自分よりAIの方がうまくできると感じていたのかもしれない。だとすれば、最初にAIにさせたものを最後までAIにさせるのがベストだと考えたのではないか、というわけです。
そうするともう途中で自分が関わるなんてことが怖くてできなくて、最後までやらせちゃう。でもやらせちゃうと自分の関わるパートがなくなり、愛着も意義も感じられなくなってしまう。
結局、初めから最後まで自分がやるしかない、という帰結になったのではないか。つんさんはそう想像し、みやちゃんも「そっかそっか」と受け止めます。自分が手を動かすプロセスそのものに、効率では測れない価値があるという話でこの回は締めくくられました。
まとめ
AIにできることを人がやってはいけないのか、という違和感から出発した今回。効率や成果だけが物差しではないこと、そして自分が手をかけたものに愛着が生まれる「イケア効果」を手がかりに、二人は「不便で愛おしい」プロセスの価値を語り合いました。
- 「人にしかできないこと」への違和感は、車で行けるのにあえて歩く自由の話に近い
- AIとの向き合い方は、自分の決定権がどれだけ手元にあるかという立場によって変わる
- コスパの悪い人間の研究が、むしろ査読で価値を持つという逆転も起きている
- イケア効果では、自分が手をかけたものに実際の出来以上の価値と愛着を感じてしまう
- 仕上げをAIに手放すと、たとえ大半を自分でやっても愛着や意義が薄れてしまう






