論文指導で「自分で書き直してしまう」モヤモヤ
今回みやちゃんが持ち込んだのは、AIの話ではなく、自分の仕事での悩みです。大学で学生や博士課程の人を指導する中で、書かれた論文にフィードバックしたり、みやちゃん自身が書き直したり校正したりすることが多いといいます。
問題は、文章を改良しようとすると、みやちゃんが自ら書き直すことが多くなってしまう点です。コメントで「ここをこうしてね」と済む部分もあれば、自分でガッと書き直したほうが早い場合もあるそうです。
私はその仕上げの部分を担当してるんで、できた論文に対しては結構納得がいくんですよね。実際通るし、やっぱり。
論文が世に出る確率を上げるには、そのほうが圧倒的に効率がいい。みやちゃんはそう考えているのですが、それを受け入れられない人がいるのが悩みの種です。
(学生から)タイトルまで書き直されるのとみたいな。ちょっと私もそこはやりすぎなのかもしれないんですけど。
みやちゃんの本音は「書き直されたくないなら、書き直さなくていい文章を持ってこい」というもの。でも実際は、書き直さないと世に出ないレベルなのだといいます。最初はコメントで学生に書き直させる過程を踏みますが、何年経っても改善しない部分は、時間も限られているので自分で書いてしまう。ここに衝突が生まれています。
指導のゴールは「成果」か「育成」か
つんさんがまず指摘したのは、指導の目的がぼやけているのではないか、という点です。会社でもよくある話として、最終的な成果を確保することが目的なのか、当事者の能力が上がり成長することが目的なのかで、そもそもゴールが違うと整理します。
最終的な成果、すなわち例えば論文の数が目的だった場合は、明らかに書き直して通すことが必要なので、それがベストな行動になると思う。
一方で、論文を書く力を本人につけてもらうことが目的なら、仕上げを第三者がやることでその機会を奪ってしまう。「できました」という状態に本人がたどり着かないままゴールを迎えることになる、とつんさんは言います。
論文を通すことがゴール。書き直して通すのがベストな行動になる
書く力をつけるのがゴール。第三者が仕上げると成長の機会を奪う
この整理を受けて、みやちゃんは自分の指導対象が2タイプに分かれていることに気づきます。修士生は出版が目的ではないので、アドバイスやフィードバックはしても、書き直しはそもそもしない。書く機会を奪いたくないからです。
一方、博士生は論文を出さないと学位が取れません。しかも指導は教授がやっていて、みやちゃんの役割は少し特殊です。
私は教授とその人の板挟みで、その人たちが書いた論文が書いた状態では絶対に通らないから、私が手を入れて通してくださいと。そういう立場での指導なので。
コンフリクトの正体は「ミッション」ではなく「心」
博士生の指導はミッション通りに動いている。つんさんはそう確認したうえで、では衝突しているのは何かと問い直します。
じゃあコンフリクトしてるのはおそらくミッションではなく、みやちゃんの心の方ってことやな。
この子たちに納得させてあげたい、手応えを残してあげたいという気持ちが、みやちゃん自身のミッションとずれてしまっている。つんさんはそう読み解きます。
そのうえでつんさんが持ち出したのが、編集者における校閲者のたとえです。みやちゃんは論文を通すために手を入れる係、いわば校閲者の立場。なのに、校閲者が作家に「書けるようになってほしい」という気持ちを持ってしまっている状態だ、というわけです。
(校閲者のたとえは)すごいわかりやすいです。
本人に「成果か、やりきりか」を選ばせる
では、書き直す前の段階で本人に話したらいいのか。みやちゃんの問いに、つんさんは「目的による」と返します。指導を続ける限り、論文が通らないという結末の可能性も出てくるからです。
要はいつまでたってもうまいこと書かれへん子もおるやろうし、書き上がらん子もおるやろう。で、そういう結末を許容するのかどうか。
もし許されるなら、本人に選ばせてもいい、とつんさんは提案します。最後まで自分の力でやりきって結果を受け入れるのを望むのか、それとも最終的にはこちらで仕上げて論文を通すことを望むのか。
その結果、残念なことになる子も当然増える。でも、頑張ったけどダメだったという体験も、頑張りきれなかったけどなんとかなってしまったという経験も、その子の人生の経験にはなる、とつんさんは言います。
みやちゃんは、同じフィードバックを二度も三度もするのは心も疲れる、だったら自分で書き直したほうが早いと思ってしまうと本音をこぼします。つんさんの答えはシンプルでした。
仕事を終えるというのが目的の場合は、やっぱ早い方選ぶのは間違ってないと思うよ。
目的を「すり合わせる」ことの現実的な難しさ
目的を明らかにして共有したほうがいい。つんさんはそう言いますが、ここで自身の経験から現実的な壁を打ち明けます。上司と目的をすり合わせようとしても、目的をぼかされるケースが結構あるのだといいます。
いやいや、学生さんにはできるだけ能力をつけてもらいたいんだよ。学生さんが能力をつけて論文を通してほしいんだとか言われるね。
みやちゃんも「言われそう」と共感します。上は「そこをなんとか」と言い、下は下で「精一杯頑張りたいけど、通らないのも嫌です」と言う。しかも「いついつまでに通らないと困るんです」とも言われる。三者三様の思いがぶつかります。
知らんがなってなるんだけど。まあかように人間ってのはわがままなものなので、その目的をすり合わせるというのは非常に難しい。
だからこそ、つんさんが大事だと言うのは、その環境の中で自分が何を目的にするかを、まず自分で決めることです。上はこう言い、下はこう言うけれど、私はこうだ、という一本が通っていると動きやすくなる、と。
その学生がどんだけ不満を述べようが、書いてこうへんお前らが悪い、私が書いて出すんだということを目的として持っておく。
ただし、目的を持ったからといって心の葛藤がなくなるわけではない、ともつんさんは付け加えます。そのうえで、自分に余裕があるときは面倒を見て、ないときは割り切る、という境目が作りやすくなる、と話します。
お互いが割り切れる「3回ルール」
ここで具体案として出てきたのが、回数を決めるやり方です。みやちゃん自身が「何回目までは自分でやらせて、それでも改善されなかった部分はこっちでやってしまう」という線引きを口にします。
出し直しは○回まで。それでダメだったらこっちでやるからっていう風に言うのも一つの、お互いが割り切れる。諦めもつく。
線引きをあらかじめ伝えておけば、学生の側も「その回数までにダメだったんだ、僕は」と諦めがつくかもしれない。「できるまで」だと分かりにくいから、回数で区切ったほうがお互いに納得しやすい、というのがポイントです。
30代・40代を襲う「中間管理職の板挟み」
もうすぐ44歳になるというみやちゃんは、この悩みを自分だけのものではないと感じています。30代後半から40代は、職場で板挟みになる人が多いのではないか、というのです。
上からも下からも求められるものがあり、その調和を取る立場。フィードバックはするし後輩や部下の能力も高めたいけれど、締め切りや出さなければいけない成果、最低限のタスクもある。この板挟みは、いろんな業界に共通するのではないかとみやちゃんは考えます。
つんさんは、この葛藤こそが貴重な経験だと返します。苦しみを知ってから次の段階に行くと、後輩に「わかるよ」と言えるようになる。知っている人と知らない人で差が出てくる気がする、と話します。
論理モンスターだった過去と、ぶつかる技術
つんさんは、同じようなポジションだった頃、部下とも上司とも結構喧嘩をしたと打ち明けます。部下には主体性を強く求め、「お前はどうしたいねん」「どうなりたいねん」と繰り返し聞いていたそうです。それを持つことが良いことだと思い込んでいたからです。
ところが、部下との言い合いの中で、つんさんは自分の思い込みに気づきます。生活のために働いていて、仕事に思い入れがあるわけではない人もたくさんいるし、それが決していけないことでもない、と。
喧嘩して言い合いをして、「え?お前そんなことでええんか?」、「いや、でもツネオカさんそうでしょ?」みたいな。あ、確かにそうか。
自分で選んだ職業とも言いがたく、配属されて当てがわれたプロジェクトに入っただけの人に、そこまでの思い入れを求めるのが妥当なのか。それはぶつからなければ分からなかった、とつんさんは振り返ります。
みやちゃんは「ぶつかれる関係性ってすごくいいな」と話し、自分は遠慮し合ってしまうと明かします。つんさんがぶつかれた理由は、思ったことをうまく伝えられるという自信、というよりは過信でした。
ベースは自分のコミュニケーション能力への過信。過信なのよ、これはね。
そのコミュニケーション能力には、相手の観察能力も含まれていたといいます。この人にはこう言えば伝わりやすい、この人はこれを大事にしているからこう話せば入りやすい、と分かっているつもりだった。当たっている部分も外れている部分もあったけれど、「話せばわかる」というベースがあったそうです。
さらにつんさんが幸運だったのは、相手のことを非常に認めていた点でした。だから相手の言うことも受け入れられ、二人の話から新しい価値観が生まれることもあった。一方で、口で勝てないと辞めてしまった部下もいたと正直に語ります。
上司ともチャットで噛みついていたとき、つんさんは論理破綻をほぼせず、相手の穴を詰めまくっていたそうです。相手はぼかしたいのに、絶対に逃がさない状態でした。
その時に、まあ本当に俺は自分で嫌やなと思うのは、論理破綻をほぼしない。穴を詰めまくることをしてたのよ。
たまりかねた上司が、直接フロアから下りてきて言ったのが、印象的なやりとりです。
「ちょっとツネちゃんわかってくれよ」って言われて。「いや、そのな、理屈じゃないとこあんねん」って言われて。
「あ、そうだった。そう言ってくださいよ」みたいな。「いや、そう言ってんねん、さっきから」みたいな。
つんさんは言葉を言葉通りに受け取るタイプで、自分が分からない疑問点を確認し続けていただけだといいます。みやちゃんも「その気持ちもわかる、私もそういうタイプ」と応じます。
相手は「肯定してほしい」だけ?観察という指導
話は指導の本質に戻ります。みやちゃんは、フィードバックが欲しいと言われたからやっているのに、深掘りすると肯定してほしいだけの人もいる、と明かします。だったら初めから肯定してほしいと言ってくれれば肯定したのに、と。
難しいところよね。肯定してほしいと言って肯定されても嬉しくなかったりもするしな。
つんさんは、ここが人間同士のコミュニケーションの面白いところだと言います。そして、相手に「ぶつかる技術」を持ってもらえたら嬉しいと思うことがある、と語ります。傷つけてしまうのではと思うのは、自分の語彙が少なかったり、適切な言い回しを知らないだけのこともあるからです。
相手をよく見ていないと、勝手に「怒るんじゃないか」と想像が膨らんでしまうこともある。だからコミュニケーション能力には、言い方だけでなく観察能力も含まれる、とつんさんは整理します。
その学生さんがどういう気持ち、どういう思いを持ってるのかをよく観察しておけば、こういう方向で指導してあげたら納得に導けるなというのも見えてくる場合もあると思う。
最後につんさんは、こっちの一存じゃ決められないことは結構あると締めくくります。相手を観察し、目的をどこに置くかを見極めながら、指導のバランスを取っていくしかない、というのがこの回の着地点でした。
まとめ
論文を書き直すべきか、書かせるべきか。この悩みの根っこは、指導のゴールが「成果」なのか「育成」なのかがぼやけていることにありました。まずは自分の目的を決め、回数などの線引きを共有し、相手をよく観察する。中間管理職の板挟みは苦しいけれど、その葛藤こそが後で効いてくる経験だ、という回でした。
- 指導のベストな行動は「成果が目的か、育成が目的か」で変わる
- 衝突の正体はミッションではなく「納得させてあげたい」という自分の心のこともある
- 上下の要求に振り回されず、自分が何を目的にするかをまず決めると動きやすい
- 「出し直しは○回まで」と線引きを共有すると、お互いが割り切れる
- コミュニケーション能力には言い方だけでなく、相手を見る観察能力も含まれる




