ファミリービジネス研究は意外と歴史が浅い
これまでの回では、ファミリービジネス研究がどう立ち上がってきたかをたどってきました。
兄はその流れを整理します。研究者が集まる場としての組織、発信するメディアとしての論文集、そして共通言語としてのスリーサークルモデルが揃い、八十年代から研究が本格化したという話でした。
弟は、その歴史の浅さに驚きます。
意外と歴史が浅いというか、まだ最近の、自分と同じぐらいの年齢しかまだ研究されてないみたいな。
兄は、株式会社大上のほうが学問より年上だと面白がります。
うち株式会社大上のほうが年上なんやっていう、ある学問領域よりも年上やと。でも我々のことを扱った学問が後から誕生してるって思ったら、すごい不思議な感じやし、面白い。だからこそ家業をやってる人らが一緒に作っていく学問なんやろうなって思う。
家業の経営者は善人か、悪人か
兄は、研究が立ち上がった後に浮かんだ問いを弟に投げかけます。家業の経営者は善人なのか、悪人なのか、という問いです。
善人でありたいとは思うけど、悪人でないとなかなか儲からないイメージもある。でも基本善人な気がするけどな。根拠はない。
兄の答えは「どちらもいる」でした。会社を守ろう、人のためになろうとするのが善人なら、会社を私物化してすべて自分のものだと考えるのが悪人だと、あくまで例えとして整理します。
そしてこの「いろんな人がいるよね」という点が、九十年代から二〇〇〇年代にかけてホットトピックになったと話します。
家族経営者は信頼できる良き人たちなのか、それとも甘えて居座る厄介者なのか。ファミリービジネスを一つひとつ見ていくと、実際にどちらの姿も現れてきたのです。
家業は「問題なし」で見過ごされていた
兄は、以前の回で扱ったエージェンシー理論を振り返ります。
所有と経営が分かれていると、株主は経営者を管理するために大きなコストをかける必要があります。これをエージェンシー問題と呼びます。
では家業はどうか。弟が問うと、兄はこう答えます。
家業のほうは、オーナーと経営者が一緒やから、管理コストもない。「もうそれでええやん、何も問題ないやん」って見過ごされたのね、当時は。
所有と経営が一致していればエージェンシーコストはほぼゼロ。だから揉めないし、退屈で特殊な例だと脇に置かれていたのです。
ところが、一致していても会社を私物化する人はいるのではないか、という疑問が立ち上がってきます。ここから論争が始まります。
なんか天使と悪魔が同居してる感じやね。
天使派の主張、スチュワードシップ理論
まず天使派です。一九九七年頃、デイビスやシュルマンといった研究者が「スチュワードシップ理論」を唱え始めます。
兄によれば、この理論はまずエージェンシー理論の人間観を批判するところから始まります。
エージェンシー理論は、人間を放っておけば利己的で、機会があれば抜け駆けする存在として前提していると兄は説明します。だから監視し、縛り、インセンティブで動かす必要があると考えるのです。
まさにそれわかるな。難しいとこやけどな。そうなってる自分が嫌やけど、なっちゃうよね。
これに対しスチュワードシップ理論は、人間はそれだけではないと言います。組織を自分のことのように考え、組織のために働くこと自体に喜びを感じる人を「良き管理人=スチュワード」と呼びます。
弟はこれを内的なモチベーションだと受け取ります。給料のためだけでなく、会社が良くなること自体が嬉しいという発想です。
兄は、ここで面白い逆説を紹介します。相手がスチュワード型の人だと、監視や束縛はかえって逆効果になるというのです。
心の中から会社のために誠実に働いてるのに、監視カメラを置かれたら「信頼されてへんねんな」ってなる。スチュワード的な人には、縛るんじゃなくて権限を与えて、信じて任せていく。エンパワーメントが大事って言われてる。
弟はこの話が今の自分の悩みに重なると打ち明けます。
会社が厳しいタイミングやと、縛ったり監視したり、報告をこまめに求めたり。すごい今そこに悩んでるわ。
兄は、家業を継ぐ後継者はスチュワード型になりやすいと考えます。生涯年収のリターンを求めるなら、社員七、八人の零細企業に帰るより一般企業に就職したほうが楽なはずです。それでも継ぐのは、続いてきたのだから一肌脱ごうという動機があるからではないか、という見立てです。
大上という名前を背負えば、金儲けのために人を不幸にすることには躊躇が生まれます。前の世代から受け継ぎ、子孫に残したいという思いは、お金だけでは測れません。家業はスチュワードシップが生まれやすい場所だ、というのが天使派の見方です。
悪魔派の主張、愛情が問題を起こす
天使があれば、もう一つの面もあります。二〇〇一年、シュルツという研究者が、家族経営には家族だからこその特別なエージェンシー問題があると主張します。
キーになるのは親の愛情、専門用語でいう利他性(altruism)です。
愛情が問題を起こす。
親は子どもにどうしても甘くなります。社長が親で後継者が息子なら、多少のミスや能力不足があってもクビにはできません。よその従業員なら降格させる場面でも、我が子なら許してしまうのです。
兄は自分自身を振り返ります。
最初の三、四年、マジで売り上げで自分の給料を上回ったことがなかった。よう我慢したなって思うぐらい。普通の営業マンとして雇われてたら、そんなことありえへんわけで。
弟はこの構造を言い当てます。他人の会社なら株主が怒るが、家族だらけの会社では誰も止める人がいない、という指摘です。
歯止めが効かなくなれば、甘やかしやえこひいき、規律の緩みが生じます。所有と経営が一致しているからこそ、咎める人がいない。これが家族特有のエージェンシー問題だ、という主張です。
さっきのスチュワードシップ理論とは反対の意見ってことやね。家族は会社と一体っていう同じ事実から、全然違う意見が出てくるんやね。
どちらも極端すぎる、グレーの中に答えがある
日本での家業の評価は、どちらかといえば悪魔側に寄っている気がすると兄は言います。二十代後半や三十代で入り、実績なくいきなり役員になることも多いからです。
弟もそれは当然の見方だと受け止めつつ、どう跳ね返すかが大事だと話します。お金を生み出していない期間に経営者としての素養を養い、結果的にいい経営者になる例もあるからです。
ここで兄は、両面をつなぐ研究者ルー・ブレトン・ミラーを紹介します。この人たちは、どちらの見方も単独では極端すぎると論じました。
兄はその整理を次のように説明します。
愛情のネガティブな面を強調しすぎる悲観的な見方
家族の愛情が持つポジティブな面を礼賛する楽観的な見方
現実は白か黒かではなく、もっとグレーの中にある、というのが両者を超えた結論です。
当たり前っちゃ当たり前やけど、それを理路整然と理論にしたっていうところが大事なんかな。
兄は、文系の学問はもともと直感に反する発見が少なく、当たり前を調査で確かめる面があると話します。それでも一つひとつ整理することに意味がある、と続けます。
家族であることは強みでもあり、弱みでもある。それを動機やモチベーションのレベルで示したのが、この論争の成果だと兄はまとめます。
論争が残した副産物と、次への宿題
この論争は思わぬ副産物を残します。
エージェンシー問題がないから退屈だと言われていたファミリービジネスが、実は家族ごとに全然違い、ガバナンスの問題として面白いと見直されたのです。
兄は、研究者の視点を説明します。
問題があったら、研究者って色めき立つ。普通の人間は平和なほうがいいって思うけど、研究者的には問いがあって問題があったら、そこへの解が研究テーマになる。愛情が規律を狂わせるとか、信頼が暴走するとか、結構面白いやんって感じになってくる。
弟は「百社百様」という言葉を重ねます。それだけのテーマがあるということです。皮肉にも、つまらないと脇に置かれた家業が、感情が経営に入り込む面白い研究対象になっていったのです。
一方で論争には限界もありました。天使派も悪魔派も、家族の動機は善か悪かという心の話にとどまり、まだ抽象的だったのです。
善か悪かだけで話せることなんて、そもそもそんなにない。家業らしさ、家族らしさって具体的に何やねん、っていう。実態を全然話してへんのちゃうか、って言われてる感じやね。
そこで次回は、家族が家業に持ち込む具体的なものは何かを掘り下げます。経済合理性だけでなく、独特の資源や価値観ではないか、という理論化です。
兄は、この頃からファミリービジネス独自の言葉が生まれ始めると予告します。それまでは経済学や心理学の言葉を当てはめていたのが、二〇〇七、八年頃から自前の言葉を持つようになった、まだ二十年ほどの若い学問なのです。
まとめ
家族経営は善か悪かという問いに、天使派のスチュワードシップ理論と悪魔派の家族特有のエージェンシー理論が対立しました。結論はどちらも極端すぎるということで、家族であることは強みでも弱みでもある二面性として整理されました。この論争が、ファミリービジネスを面白い研究対象に押し上げたのです。
- 家業は所有と経営が一致するため、当初は「問題なし」で退屈な特殊例と見過ごされていた
- 天使派のスチュワードシップ理論は、家業には組織のために働く内発的動機が生まれやすいと見る
- 悪魔派は、親の愛情が甘えやえこひいきを生み、誰も止められない家族特有の問題になると見る
- どちらも極端で、現実は白黒ではなくグレーの中にあるという整理が、二面性の理解につながった
- 次回は、家族が家業に持ち込む具体的な資源や価値観を掘り下げ、独自の理論化へと進む
