『母という呪縛、娘という牢獄』が描いた事件
兄が今回の起点にしたのは、けよみなじの岩崎さんから勧められた『母という呪縛、娘という牢獄』という一冊です。
実際に起きた事件をドキュメント形式で描いた本で、結論から言えば、娘が母親を殺害してしまった実話が扱われています。
母親は娘を医学部に行かせることに執着し、娘は9回近くも浪人を重ねたと語られます。最終的には医学部ではなく看護系の大学に進みました。
卒業後、母は助産師を望んだのに対し、娘は手術室の看護師になりたいと考えます。ここで進路がぶつかりました。
もう「絶対そんな看護師なんかクソやから、絶対に認めへん」みたいにお母さんが言った時に、また「地獄の9回浪人した時が戻ってくるかもしれへん」って思って、もう最後は殺してしまいました
事件後、娘はX(旧Twitter)に「ようやくモンスターを倒した、これで安心だ」といった趣旨の投稿をし、そこから発覚していったといいます。
兄はこの本を、親が子を所有物とみなし、一挙手一投足を正そうとする「支配」の物語として読み解きます。
娘の側も、心の中では違うのに反対できない。まさにタイトル通り、母の「呪縛」と娘の「牢獄」だったと語られます。
この母は特別な怪物なのか
この本を読むと、娘に同情し「この母はやばすぎる」と感じてしまう。しかし兄は、そこで立ち止まります。
自分たちも今は親であり、しかもファミリービジネスでは親と子が長く付き合っていく。だからこそ、この母を他人事にできないと考えたのです。
本の中では、母がろくな学歴のない父を見下し、「勉強せえへんかったお父さんみたいになるんや」と娘に言う場面も描かれます。
でもすごいね、なんかやっぱりあるあるらしいね、そういうことを言ったりしちゃうのって
兄はここで、富山のある職人の父が工場見学者から「勉強せえへんかったら、ああいう職人にしかなられへん」と侮蔑された話を思い出します。その悔しさが、職人にステータスある場を作りたいという原動力になったといいます。
親の一言は、良くも悪くも子に強く植え付けられる。そのことを、対照的な2つの例が示しています。
親子の一体化と「本当の子を見ていない」問題
兄が本から強く感じたのは、母が子どもの人生を自分が生きているかのように一体化していた点です。
子どものやることなすことを、親が責任を持って見てあげなければならない。その発想が、支配へとつながっていきます。
子供は子供の人生で、どうなろうとも子供が切り開くんやっていう風に思えなきゃいけないし
弟は、これを後継ぎの問題に置き換えます。帝王学として「あなたは代目だ」と育て、それが良い結果になる会社もある。一方で、無関心すぎるのも子がかわいそうだと指摘します。
どこまでレールを引くべきなのかとか、どこまで自分の思いを親として伝えてあげれるかっていうのは難しいとこやね
兄は、この母の問題を「本当の子どもを見ていない」ことだと整理します。自分の信じた通りにしか子を見ていないというのです。
さらに、何でもやってあげないとこの子は生きていけない、という発想は、裏を返せば子を信頼していないことだと語ります。
そして子どもは、その不信を敏感に感じ取る。すると親を喜ばせるために、親が信じる像に自分を合わせにいくようになります。
結果として、本当の自分と仮面の自分が分離し、嘘に嘘を重ねる構図が生まれていったと兄は読み解きます。
白黒思考という未熟さ
本の終盤で兄がハッとしたのは、「黒か白か」で割り切る思考の存在でした。
母は「医者になるか、出来損ないか」を迫り、娘も「支配が続くか、母を殺すか」の二択に追い込まれていきます。
百ゼロ思考みたいなのが、やっぱり母にもあるし、母のところにいる娘としてもあるみたいな
本当は、医者でなくても、受験がうまくいかなくても、幸せになる道はいくらでもある。その中間のグレーを受け入れるには、心の成熟が必要だと兄は語ります。
兄はここで、自分自身の生々しい心当たりも打ち明けます。息子の算数のテストが悪かったとき、無性に腹が立ったというのです。
努力さえすればできることをなんでやれへんねんみたいな
しかし、努力できること自体が才能であり、どの領域に努力できるかは人それぞれだと兄は考え直します。
自分ができた努力を他人もできると思い込むこと。それこそが暴力になりうると気づいたと語ります。
弟は、これは親子だけの話ではなく、自分と違う人と接するときに常に起こりうると受け止めます。
努力の押し付けという「暴力」
兄は、ゴルフや自身の早朝ランニングを例に挙げます。本人には努力に見えなくても、他人には努力なしにはできないことがある、と。
だからこそ、その人が何に努力できる人なのかを見極めずに「努力すればできるのになぜやらない」と言うのは、大きな暴力になりうると語ります。
言われた方もめっちゃ萎縮するもんね。もう自分はできないやつやっていう植え付けが始まっちゃって、さらに悪循環が始まる
兄はここで、母から兄弟に向けられた「人の10倍頑張らなあかん」という言葉にも触れます。もどかしさゆえの一言だったのかもしれないが、それでも暴力的な言葉になりうると振り返ります。
親の思い込み
「努力すればできる」と信じて子を責める
子の萎縮
「自分はできないやつだ」と植え付けられる
仮面の分離
親を喜ばせるために本当の自分を隠す
嘘の上塗り
期待に応えるふりが積み重なっていく
後継ぎはどうすればいいのか
弟が「後継ぎとしてはどうしたらいい?」と問うと、兄はまず先代と後継ぎ、双方の心構えを語ります。
30歳にも40歳にもなれば、親子は成人した大人同士の関係です。理想の経営者像は押し付けられるものではなく、息子は自分と違う人間だと親が思うことが出発点になります。
子の側も、自分と親は別だと思う。自分ができていないことが親を傷つけている、と一旦考えなくてよいと兄は言います。
そのうえで兄が勧めるのが、こうした本を親子で読むことです。他人の物語に触れることで、自分が親や子の一面しか見ていなかったと気づけるといいます。
友達同士で喋ったら「うちの親なんかクソでさ」とか、ある一面だけを切り取った話しか流れつけへんわけやん
本のように克明な物語には、「クソな親」が裏では援助や気遣いをしていた側面まで描かれる。だからこそ多面的な理解が腹に落ちると兄は語ります。
弟は、後継ぎの側の忍耐にも触れます。成長は1年では出ない。「成長を待ってくれ」と言うのはかっこ悪いが、お互いの忍耐と対話が欠かせないと話します。
今どの段階まで見てくれてるうちの1、2ぐらいなんやって思うだけで、まだちょっと安心するやんか
もう1冊が示す「切り離す」という処方箋
兄は続けて『親といるとなぜか苦しい』という本を紹介します。前の本のアンサーのような一冊だといいます。
親を恨んではいけない、嫌ってはいけないという道徳が刷り込まれすぎている。だから親を悲しませるのは自分が悪い、と思い込んでしまう。この本はそこから一度離れようと説くと兄は語ります。
親のことは別に嫌ってもいい、他人やねんやから
本来の順番は、親が子に何かをしてあげる構図です。子が親に何かをしてあげようと思いすぎることから、まず離れようという主張だと兄は説明します。
嫌いにもなれるし好きにもなれる別の人間だと思えば、親子関係は日常の人付き合いと同じになる。他人なら、好きなら好きと言い、要望は伝えなければ動いてくれないからです。
まず好き嫌いにかかわらず「他人である」と切り離す。そのうえで、この親はどんな来歴でここまで来たのかと、他人を見る目で親を見る。それが対話の起点になると兄は語ります。
上司と部下、そして対等な関係へ
弟は、自分の会社ではまだ会長が権限を持っている現実に触れます。サラリーマンが上司の機嫌を取り、良い数字を持っていくのと近い感覚だといいます。
親だから喜ばせたいという気持ちもゼロではない。ただ、株式も責任もすべて自分が負う日までは、上司であり親父である存在に方向性を合わせるのはすべきことだと弟は考えています。
兄はこれを健全な流れとしつつ、もう一段踏み込みます。上司と部下も、役割が違うだけの一個人同士の対話だと捉え直せるというのです。
良い結果を持っていくことが、会社のためになるかどうかでコンフリクトすることもある。そのとき自分の気持ちを殺さず伝えられるかは、関係が対等かどうかにかかっていると語ります。
医学部に本当は行きたくないと言えるかどうか。それも、親子や上司部下という支配と非支配の関係を、対等な他人同士に切り離せているかで決まると兄はまとめます。
認知を変えるには、人と会い、本を読む
弟は、これほどのメタ認知は難しいと漏らします。兄も「超むずい」と応じつつ、その処方箋を語ります。
本のようなスローなメディアで自己と対話し、自分と違う人と会う。それによって、自分の置かれた状況が「異常かもしれない」とメタ認知できるといいます。
ドーパミンに効くショートメディアよりも、長い本や人との出会いのほうが認知を変えていく。だから本を読み、人と会い、海外に行くことの積み重ねが効くと兄は話します。
この世界が親と子しかいないって思うと、こういう支配の関係性になるけど、外には世界がいっぱい広がってるんや
弟は、大学生の頃はできていたことが今はできないと嘆きます。分刻みではないのに、なぜかできない。スマホなど当時より強い刺激が多いことも一因だと語ります。
兄は、大前研一の「付き合う人・住む場所・時間の使い方を変えるしか人間は変わらない」という言葉を引きます。日常を強制的に破壊する装置が必要だというのです。
親・経営者・夫といったステータスが多すぎて余白がない今、脳は日常に寄与しないものを不要と認識してしまう。だから発想を外すには、コーチングでの揺さぶりや海外への移動が要ると兄は語ります。
兄は弟に、勉強よりこちらだと思うなら、それをもっと極め、もっと人に会い、もっと海外に行くべきだと促します。まだ軸足を日常に置きすぎているというのです。
コンフォートゾーンをどう抜けるか
兄はコンフォートゾーンの強さを指摘します。少しだけ変えても、また戻ってきてしまうというのです。
弟も、刺激で出たり入ったりはしているが、滞在時間が長いと自覚します。日常に疲れ、消費的な娯楽や堕落にすぐ脳がいってしまう、と。
刺激を与えることで出たり入ったりはしてるんやけど、滞在時間は長いみたいな感じになって
兄は、自分が夜の習慣を断ち朝型に変えたことを例に挙げます。それは海外移住に匹敵するインパクトで、日常が変わり始めたといいます。
方法は朝型に限らない。この日は徹底的に人に会い、この日は家族だけ、と日によって割り切るのも一案だと兄は提案します。自分で決める時間軸を作ってみてもいいというのです。
まとめ
実際の殺人事件を描いた2冊の本を入り口に、親子の支配関係とファミリービジネスの継承が重ねて語られました。鍵になったのは、親子を一体化した存在ではなく、別個の人間として一度切り離すという発想です。
- 『母という呪縛、娘という牢獄』は、親が子を所有物とみなす支配と、逃げ場を失った娘の「牢獄」を描いた実話である
- この母を特別な怪物とせず、自分たちも同じ延長線上にいると兄は捉えた
- 「努力すればできる」という思い込みや白黒思考が、子を萎縮させ仮面の自分を作らせていく
- 『親といるとなぜか苦しい』は、親を他人として一度切り離すことを説き、そこから対等な対話が始まるとされる
- 親子や上司部下という支配関係を抜けるには、本を読み、人と会い、海外に行くなど、日常を破壊する装置が要る






