頭がいい人は説明もうまい、に反対する理由
この回の出発点は、Twitterでよく論争になる「頭がいい人は説明もうまい」という言説です。水野さんはこの言説に反対の立場をとります。
水野さんによれば、昔の自分は説明がうまかったのに、勉強すればするほど説明が下手になっていく感覚があるそうです。それでも頭は昔より良くなっているはずなので、むしろ反比例の関係ではないかと考えています。
勉強すればするほど下手になっていってるなっていう。
歯切れはどんどん悪くなってってるよね。
一方の堀元さんは、あえて賛成の側に立ちます。知識が豊富なうえで、相手のレベルに合わせて比喩を選び、方便として単純化できることも頭の良さだと考えるからです。
知識が少ないから過剰に単純化して喋ってしまっているだけのケースと、知識が多くて一旦方便として単純化して喋っているケースがあって。
知識が少ないために、過剰に単純化して話してしまう
全体を理解したうえで、方便として一旦単純化して話す
堀元さんは、知識もあって説明もうまい例として池上彰さんを挙げます。番組で伝えたいことを絞り込んで持ってきているのだろう、という見立てです。
そのうえで堀元さんは、頭が良くて説明がうまい人も、頭が良くない結果として説明がうまい人も、頭がいいのに説明がうまくない人もいると整理します。結論として「人によります」と言い切り、水野さんからコンテンツとして面白くないとツッコまれます。
歯切れの悪い研究者は、なぜ損をするのか
水野さんは、相対主義に逃げる堀元さんに別の論点を投げかけます。「頭がいい人は説明もうまい」という言説は、調べ尽くした結果として歯切れが悪くなった人を評価しないという点で、社会にとって有害ではないかというものです。
僕は色々勉強していった結果、一概には言えないってことを経験によって理解したんですね。
この経験をしてない人からすると、説明が下手な研究者って頭が悪い人にしか見えないってことです。
堀元さんもこの点には同意し、おしゃべりがうまいことと賢いことは別軸だと話します。Twitterでは「この研究者は何を言っているかわからないから頭が悪いのだろう」と受け取られがちです。
堀元さんは、この言説が例外のない法則のように扱われていることが問題で、本来は傾向の話にすぎないと指摘します。水野さんも、人は傾向を絶対的な法則だと思いたがる認知バイアスを持っていると付け加えます。
水野さんは、言語学の先生の例も挙げます。島村先生は水野さんが何度読んでも理解できないことを理解しているのに、「一概にはそう言えんけど」ともちゃもちゃ歯切れ悪く話すそうです。
さらに水野さんは、専門家が専門の内容を聞かれるのは実存を問われるような場面だと話します。その分野の人ならまず間違えない失敗をすると、キャリアに響いたり周囲から白い目で見られたりするからです。
研究者に専門の内容について聞くって、実は向こうにちょっと銃口を突きつけてるみたいな。
水野さんがこのことに気づいたのは、ゆる言語学ラジオを始めてからだといいます。24歳ぐらいでは気づいていなかったことが、30歳になってわかるようになったそうです。
堀元さんは、本を書いたときに同じ事実に気づいたと話します。例に挙げたのがアッシュの同調実験 ── 心理学者ソロモン・アッシュが1950年代に行った実験。明らかに正解がわかる線の長さ比べでも、周囲のサクラが誤答すると被験者もつられて誤答しやすくなることを示しましたです。
堀元さんによれば、面白いことを言いたい人は、この実験を炎上したCMの意思決定にまで当てはめて「同調圧力が強いから誰も止められなかった」と語りがちです。例として、Mrs. GREEN APPLEの「コロンブス」をめぐる炎上が挙げられます。
しかし本職の心理学者なら、棒の長さというシンプルな課題で言えることが、CMの判断に当てはまるかは別問題だと考えるはずだと堀元さんは話します。元の実験をどこまで抽象化して使えるかについて、プロには素人にない制約があるわけです。
水野さんは生物学者の例を加えます。動物の実験結果を人間社会に応用することには、自然主義的誤謬 ── 「自然界がこうなっている」という事実から「人間はこうすべきだ」という規範を導いてしまう誤り。倫理学でよく指摘される論理の飛躍ですとして厳しく抑制がかかっているそうです。
生物学には、進化論を社会に当てはめた社会ダーウィニズム ── ダーウィンの進化論を人間社会に当てはめ、競争や淘汰を正当化した19世紀以降の思想。差別や優生思想の根拠として利用された歴史がありますという反省の歴史もあります。堀元さんは、劣った個体がいなくなるという発想を人間に当てはめると障害者差別などにつながると補足します。
それ知らない外の人間からしたら、研究者がなぜか面白いことを言ってない使い放題の知見が落ちてる場所みたいになりますよね。
下ネタ大全とコロナ禍に見る「翻訳」の問題
水野さんの話は、堀元さんにとって耳の痛いものでした。堀元さんは自著『読むだけでグングン頭が良くなる下ネタ大全』で、まさに実験結果の飛躍した応用をしていると告白します。
堀元さんは前書きで、神経学者ベネデット・ロイナーの実験を紹介しています。マウスに性的刺激を与えるとニューロンの生成が促進されたという結果から、下ネタは人を賢くする可能性があると書いたそうです。
一応、注では人間に当てはまるかはわからないと書いたものの、漫画版ではさらに話が飛躍しました。漫画家の福岡太郎先生が、マウスにヘッドホンをつけてメスガキ音声を聞かせる絵を描いたのです。
何段階にも及ぶ翻訳が入ってて、それを適切に喋っている学者はバカだと思われて、むちゃくちゃを言って面白いことを言ってる人は賢いと思われるって、これ結構根が深い問題ですね。
堀元さんはコロナ禍の例も挙げます。「こうするとコロナウイルスは死ぬ」と言う人はバズる一方で、「実験室の特定の条件での結果で、まだ検証されていない」と訂正する学者のツイートはバズらなかったといいます。
「頭がいい」が指すものは人によって違う?
水野さんはここで、学者は頭がいいという前提そのものを問い直します。学歴が良ければ頭がいいのか、すごいビジネスをした人のほうが頭がいいのか、という反論もあり得るからです。
二人は以前、Podcast「ウェンズデーホリデー」にゲスト出演し、「頭がいい、頭が悪いって何?」というテーマで話しました。その際、ホストのアナウンサー堀井美香さんと、頭がいいの定義が結構すれ違ったそうです。
堀井さんはその後、別のPodcast「OVER THE SUN」で相方のジェーン・スーさんと議論の続きをしました。一連の議論を聞いた水野さんは、「頭がいい」という言葉が指す対象が人によって違いすぎると感じたといいます。
番組で出てきた「頭がいい」の意味は、次のように多岐にわたります。
堀井さんは二人を「すごく頭が良かった」と評し、その理由を会話のペースの速さに置いていたそうです。水野さんは、多くの人が頭の回転の速さを「頭がいい」に含めている実態がありそうだと話します。
速さは過大評価されている?「早いだけのアホ」論
水野さんは、頭の回転の速さを頭の良さとみなす風潮に抗いたいと宣言します。これに対して堀元さんは、身近な例で「速い人」の実態を語り始めます。
人類の中でもトップクラスに早いであろう水野大樹という男といっぱい時間を過ごしてるから、僕これよくわかるんですけど、水野さんってむっちゃアホなんですよ。
すごい早いアホなの。
堀元さんによると、城崎温泉の観光中だけでもその場面がいくつもありました。水野さんはクラフトビールを飲んで「That's so bad」と言い、すぐに「goodか」と訂正したそうです。
揚げパンの店では「キッチン広い」と感動した直後に「あ、鏡か」と訂正していたといいます。水野さんは、店が広いと思った分だけ1回多く感動しているのだから、むしろ羨めと返します。
堀元さんは、会議で素早く論点を見抜くように見える人も同じで、実は見当違いなことがよくあると話します。堀元さん自身も、自分の会社の会議で発言し終わった直後に「根本的な問題は違うわ」と言い直すことがあるそうです。
水野さんは、そうした人は会話のターンを取るぶん周囲の時間を奪っていると指摘します。10人が出席している会議で30秒話せば、10×30で300秒、合計5分を奪っている計算です。
ただし堀元さんは、水野さんが速さを下げすぎていると反論します。2人とも、普通の人が1分かかる70点の答えを6秒ほどで出すのが得意で、それ自体は素晴らしい能力だというのです。
早いことは偉くないって水野さんが言い過ぎてるから、今僕は逆張りをしてるんですけど。早いことも偉いと思う僕は。
一方で堀元さんは、2人とも「民主主義とはどうあるべきか」のような問いに2日かけて100点の答えを出すのは苦手だろうと話します。水野さんもこれには同意しました。
レトリックは社会を前に進めるのか
水野さんは、ハワード・ガードナー ── アメリカの心理学者。知能は1種類ではなく、言語的・論理数学的・対人的など複数の種類があるとする「多重知能理論」で知られますという研究者が、知能には何種類かあると言っていたことに触れます。ヒューリスティクスで速く答える人が頭いいなら、じっくり考えてより良い答えを出す人も頭がいいはずだ、という問題意識です。
堀元さんは、合宿中に読んでいる『モヤモヤする正義』の話を持ち出します。この本には、現代はレトリックが力を持ちすぎているという話が何度も出てくるそうです。
例として挙げられたのが、「飢餓で死のうとしているアフリカの子どもがいるのに、食べ物を無駄にするのか」というレトリックです。堀元さんは、自分が食事を残すことと子どもの死は流通などの大きな話であり、理屈としては整合していないと指摘します。
著者によれば、レトリックの力で差別が少し減っても、逆向きの強いレトリックが出てくればまた差別が増えてしまいます。これに対して、データや理屈で積み上げた結論は、反証データが出ない限り後戻りしません。
人の心は動かせるが、逆向きの強いレトリックが出てくるとひっくり返される
データや理屈で結論を積み上げるので、反証データが出ない限り後ろに下がらない
堀元さんは、正しく社会を進めていくのはレトリックではなく正しさだという主張がとても腑に落ちたと話します。レトリックだけで押し切ろうとする議論への違和感の理由が、ここ3年ほどでようやくわかったそうです。
水野さんは2つの点で応答します。1つ目は、家事労働がGDPに表れないように、データに出にくいことを争っている社会運動もあるという点です。
堀元さんは、その場合も「家事労働がデータに出ていないこと自体が問題だから、データを取るべきだ」と言えばよく、著者の主張とは矛盾しないと返します。水野さんはこれを「アウフヘーベン ── ドイツ語で「止揚」。対立する2つの考えを、それぞれを生かしながらより高い次元で統合することを指す哲学用語ですしましたね」と受け止めました。
水野さんは、世界にはデータで論証してほしい人とエモーションで論証してほしい人がいるという仮説も話します。そこに文系・理系や科学・非科学のラベルが乗り、ディスコミュニケーションが生まれているのではないかと考えています。
水野さんは本業の雑誌編集の仕事でも、両者を架橋するような論点を含む本を、ある先生に書いてもらおうとしているそうです。
たとえはなぜ危ないのか
水野さんの2つ目の論点は、世界はたとえの危険性を理解していなさすぎるというものです。以前の回で、ドーキンスが『利己的な遺伝子』でたとえを使ったせいで誤解され、怒っていたという話をしたことにも触れます。
水野さんは高校生のころ、飲茶さんの哲学の本が大好きでした。『史上最強の哲学入門』から入り、哲学者の主張を追体験させるたとえのうまさに惹かれたそうです。
ところが他の哲学入門書や研究者の本を読むと、飲茶さんほどわかりやすくありませんでした。当時の水野さんは、飲茶さんはすごく、哲学者は説明が下手だと思っていたといいます。
この年になってわかったのは、ヤムチャさんの説明ってわかりやすいけど正確性を捨ててると思うんですよね。
ただし水野さんは、飲茶さんのやり方が悪いと言いたいわけではなく、別の役割だと話します。堀元さんも、入門者にわかった気にさせて面白がらせることには意味があると同意します。
水野さんは、ゆる言語学ラジオで言語学をたとえてみた結果、たとえで失われるディテールや、研究者が本来こだわる議論を捨てていることに気づいたそうです。
問題は、たとえの危険を知らない人に「たとえは本質を見失う」と言っても伝わらないことです。伝えるにはたとえが必要になり、そのたとえのデメリットにもたとえが必要になる、と2人は無限後退に陥って笑い合います。
間違いを見つけて喜ぶ人になろう
水野さん自身は、たとえの危険性をたとえで理解したのではなく、勉強して知ったと振り返ります。そこで堀元さんが提案したのは、人の間違いを見つけて喜ぶ人間になることです。
一般向けのサイエンス本とかで間違った記述しちゃってるやつとかを発見すると嬉しいのよ。
堀元さんによれば、誤植を見つけて勝った気になるのと同じ感覚を、サイエンス本にも向ければよいそうです。そうすると、一般向けの説明がどれだけ多くのものを捨てているかがわかるようになります。
堀元さんは、自身が作る「ゆるコンピュータ科学ラジオ」の手の内も明かします。「なぜ○○なのか」という問いに対して、一番大きな理由を飛ばし、2番目ぐらいの面白い理由を語ることがよくあるそうです。
具体例は「なぜデジタルはアナログより優れているのか」の回です。デジタルは誤り訂正ができて劣化しないから、永遠を求めた人はデジタルに行き着いた、と説明しました。
まあちなみにデジタルデータにすると、ありとあらゆるものを統一的な規格で扱えるっていうメリットもありますって慌てて足してるんですよ、あの回。
あの、そっち(統一的な規格)が主要な理由です。
堀元さんは「嘘はついてないです。ギリギリ」と話し、水野さんから「炎上してないだけの詐欺師じゃん」とツッコまれます。
それでも堀元さんは、ゆるコンピュータ科学ラジオをきっかけに基本情報技術者試験を勉強し、「本当はこういう話だったんだ」と楽しむリスナーがいると紹介します。番組はあくまで入り口であり、真実を言わなくていいと思っているわけではないそうです。
水野さんは、堀元さんとはコンテンツ作りの思想が違うかもしれないと話します。水野さんは生成文法 ── 言語学者チョムスキーが提唱した理論。人間が文を生み出す仕組みを、数学のような形式的な規則で説明しようとしますなら、伝えるべき核を軸にして、それをどううまく説明するかに力を注いできたといいます。
その結果生まれたのが「言語はブロッコリーだ」というフラクタル構造のたとえです。水野さんは、易しい本から難しい本へ進むうちに、たとえや専門用語を避けることのリスクの大きさに気づいたそうです。
分かりやすさか完璧さか、読書スタイルと忍耐力
堀元さんは高校時代の数学の授業を思い出します。黒板で解法を説明した際、直感的に明らかな部分を省いたところ、先生から「そこの説明がなかった」と指摘されたそうです。
数学の先生が目指してるものって分かりやすさじゃなくて完璧さだから、そこの説明を飛ばすことを許さないのは彼の職業として正しかったなって思いますね。
水野さんは、数学は誰が読んでもわかる形に落とし込む形式化のゲームだと応じます。生成文法も数学のようにしようとしているため、用語を使わずに話した瞬間に嘘になってしまうそうです。
水野さんは、生成文法の研究者があまりわかりやすく説明しようとしないのは頭が悪いからではなく、抑制が効いているからだと考えています。
堀元さんは、この違いは読書スタイルに起因するのではないかと話します。堀元さんや水野さんは本を速く読み、ぼんやりしたモザイク程度の理解を頭に置いて、必要なときに解像度を上げているそうです。
全体像をぼんやりつかみ、必要なときに解像度を上げる。飲茶さんのような本を好む
一言一句を理解して積み上げる。生成文法の専門書のような本を好む
島村先生は、本も第1定理から順に何が導かれるかを書いてくれたらわかりやすいのに、と言っていたそうです。堀元さんは、まずぼやっとした全体像を見せてほしいと正反対の好みを語ります。
堀元さんは、世の中では積み上げ型の人の話は難しくてわけがわからないと受け取られ、ズバッと答える人のほうが頭がいいと思われそうだと指摘します。「頭良さそう」とからかうのは、ガリ勉と言うのと同じで褒めていないというのです。
水野さんは、定理を積み上げて理解できる人には、ベンチプレスを高く上げられるような知的筋力があると表現します。堀元さんは、頭の良さはかなりの部分が忍耐力だと話します。
うんうん言いながら専門書の記述に立ち向かえる人って、本当のまだ人類が答えを出してない問題に立ち向かえる人じゃない。
堀元さんは、大学でコンピュータサイエンスに進んだのも忍耐力のなさが理由かもしれないと振り返ります。コンピュータは間違えても変な動きをするロボットが生まれるので、何も得られなかった感じがしないそうです。
ただ堀元さんは、それを悪いこととは考えていません。自分が耐えられる説明のラインを知っているからこそ、忍耐力のない人向けのサイエンスコミュニケーションに向いていると話します。
段取りの良さもEQという頭の良さ
水野さんは、知的筋力のある研究者が2人に敬意を払ってくれているからこそ活動が成り立っていると話します。お互いにバカだといがみ合っていないのがありがたい、というのです。
水野さんは、ここまで頭の良さをアカデミズムに紐づけてきたと断り、段取りの良さや誰とでもコミュニケーションが取れることも頭がいいとみなされると付け加えます。
堀元さんはここで、水野さんは段取りが異常にいいと気づきます。どこまでは無許可で進めてよく、どこからは許可を取るべきかの仕分けが早いというのです。
水野さんね、多分収録に1500円ぐらいの小物が必要になった時にさ、これを買っていいですか?とかわざわざ言わないでさ、これちょっと買っといたんでよろしくお願いしますってレシート回したりすると思うのよ。
堀元さんは、これはEQ、つまり心の知能指数の高さだと話します。以前はEQを頭の良さと結びつけることにピンときていなかったものの、仕事の段取りの良さはEQと密接に結びついていると気づいたそうです。
水野さんは、ビジネスの人が「学問は役に立たない」と言い、学問の人がビジネスの人をうっすらバカにする対立も、環境によって頭がいいとされることが違うせいではないかと指摘します。
相手の気分を考えずに「それは違っています」と言えるのが理想。EQはそれほど必要ない
部長が間違っていても、機嫌を損ねない言い方で誘導する器用さが求められ、EQがとても必要
すごく乱暴に言うと、学者とビジネスパーソンの対立ってIQとEQの対立なのかもしれないね。
水野さんは、男女や国籍のラベルでも同じで、「○○は頭がいい」「○○は頭が悪い」という言説から生まれるものは何もないと話します。堀元さんがまた「みんな違ってみんないい」とまとめると、水野さんは「相対主義者」と返します。
とりわけ頭が悪いっていう表現に関しては全然生産的ではないので、批判するなら別の言い方で批判してっていう感じですかね。
本当に響いた批判と「ファスト教養」の皮肉
堀元さんは、ネットで誰かを「バカだ」とだけ書く人が嫌いで、自分は有料マガジンで因果と相関の誤りなど論理の誤りを1万文字ぐらいかけて指摘していると話します。
そこから水野さんは、ゆる言語学ラジオが初期に受け取った批判ノートを思い出します。1万文字ほどあり、言語学を学びたての人がする初歩的な間違いを徹底的に指摘していたそうです。
だからその時はつらかったんだけど、でもその後例えばXとかであれファスト教養だからとか間違いだらけだとか言われてるのとか見ると、いやもっと来いっていう。
堀元さんは、「あれはファスト教養だ」と言う人の多くは『ファスト教養』という本を読んでいないと指摘します。本来の定義は、金儲けのような現世利益を目的に教養を身につけることです。
本の中には、上司が好きな音楽を聴いておくといった行動が例として出てきたそうです。ゆる言語学ラジオは「これをやると儲かる」とは言っていないので、本来の定義でのファスト教養にはあたりません。
堀元さんは、本を読まずに雰囲気で「ファスト教養」という言葉を使うこと自体が、彼らの言うファスト教養になっている自己言及的な構造だと笑います。2人は「素晴らしいアートですね」とリプライするといい、と冗談を重ねました。
批判的に見てほしい、難しいことを学んだ先にあるもの
水野さんは議論を振り返り、まとめると「人それぞれ」の話になると認めつつ、得た気づきを言葉にします。
水野さんはさらに、頭がいいの意味を共通点でくくろうとすると「グッド」ぐらいしか残らないこと、解を見つける速さに評価が偏っていることを挙げます。レトリックで論証すると、より強いレトリックにひっくり返されるという堀元さんの論点も、考えたことのない面白いものだったそうです。
2人は視聴者に、番組がレトリックで何とかしている部分への手厳しい批判を求めます。「頭が良くなった気がする」と過度に褒められるより、本を買った、大学でちゃんと勉強するようになったという感想のほうが安心するそうです。
眉に唾つけながらね、聞いていただくぐらいがいいんじゃないかなと思いました。
水野さんが、たとえの危うさや頭の良さの多様性に気づいた一番のきっかけは、難しいことを勉強しようとしたことでした。大学時代から逃げてきた生成文法を、活動に好感を持ってくれる先生と仲良くなりたくて学んだそうです。
水野さんによると、生成文法の知識そのものは生活に役立たなくても、学ぶ過程で得た世界や学問へのフレームワークという副産物がとても大きかったといいます。堀元さんは、それこそが大学の本質だと応じます。
水野さんは、突き詰めるのは学問でなくても料理でもいいと話します。堀元さんも、競馬で勝とうとして確率密度関数やAI予測まで学んだ友人の例を挙げ、何でも凝りまくれば同じところに行き着くかもしれないと語ります。
最後に水野さんは、自分がいまいち入っていけない分野を突き詰めるほうが良いのかもしれないと話します。理解しやすいものだけを学ぶと、自分の世界モデルが補強されるだけになるからです。
負荷大きいけど、本当は俺このタイプの論証好きじゃないんだけどなみたいなものとかをとことん突き詰めていった方が本当は良かったりするのかもしれないですね。
堀元さんは、興味がなさすぎる園芸を2人で始めようと提案します。水野さんは小学生のころ裁縫にハマり、ブックカバーを量産していたと明かして、回は締めくくられました。
まとめ
「説明が上手い=頭が良い」という言説を出発点に、2人は研究者の歯切れの悪さ、たとえが捨てるもの、「頭がいい」の意味の多様さを掘り下げました。たどり着いたのは、頭がいい・悪いという言葉で人を裁くのではなく、何がどう優れているのかを分けて語るべきだという考えです。
- 歯切れの悪い研究者は、頭が悪いのではなく、専門家としての制約と抑制の中で話している
- わかりやすいたとえやレトリックは入り口として役立つが、正確さを捨てており、社会を安定して前に進めるのは正しさだと話されている
- 「頭がいい」は知識量、速さ、忍耐力、EQなど指すものがバラバラで、議論に使うにはふわふわした言葉である
- 番組は眉に唾をつけて批判的に見て、その先で本を読み、難しいことを学んでほしいと2人は呼びかけている

