坊さんが話す場は、実はぬるま湯なんです
僕は法事やお葬儀のとき、儀式が終わってすぐに必ず話をするんですね。
その場は、皆さんがここでお坊さんの話を聞くものだと思ってくださっているので、大変話しやすいわけです。
シーンとした中で、他にすることもない。だから聞いていただける。
もちろん、だからといって何を話してもいいわけじゃありません。そういう場だからこそきちんと話さないと、「なんだこの坊主は」となってしまう。
特に葬儀は人生の一大事です。悲しみの中で、少しでも心に響くものがあればと思って聞いてくださる方もいます。
つまらないと思って聞く人もいるかもしれない。でもどちらにしろ、静かに聞いてくれるシチュエーションというのは、本当にすごいことなんです。
最近は昔より、特に若い人が話の内容について質問してくることもあります。求めて聞いてくれる感じがある場で話せるのは、大変なアドバンテージなんですよね。
だからこそ、そういう場が与えられているからこそ、驕ってはいけないという逆の注意もあるんですけども。
毛色の違う人と食事をして気づいたこと
なんでこの話をしているかというと、先日、今まであまり会ったことのない毛色の人たちと食事をする機会があったんです。
その方々がやっていることについて、僕は結構、自分で時間もお金も使って調べたり勉強したりしていることでもあってですね。
引き合わせてくれた方が、事前に資料まで送ってくれて、こんなのが最近出ているとか。だから言いたいことはあったんです。
でも、ほぼ初対面ですから、言わないでおこう、質問ベースで話そうと決めていました。
僕は基本的に、特に若い人には、聞かれないことには答えないようにしているんです。
お互いの情報に非対称性があると、僕の方でも解釈を間違えていたりする。それなのにあれこれ言っても申し訳ないですからね。
玄関先や道端で挨拶して、ついでに話すくらいのことしかできない。聞く耳がない人に話をするのは、やっぱり難しいんですよね。
別に否定的だとか、そういうわけじゃないんです。そもそもそういうつもりで対話していない人に何かを伝えるのは難しいし、教えてやるみたいなのも傲慢だと思う。
坊さんが話すシチュエーションなんて、ぬるま湯で甘いんです。そこに慣れていると、ああいう状況は当たり前じゃないんだなと、あらためて思いました。
お釈迦様も、悟りを伝えるのをためらった
これは『お釈迦様』の言葉にもあることなんです。
悟りを開いたとき、釈迦牟尼仏は最初、その悟りを誰かに伝えようとは思わなかったそうです。理解されないだろうと考えたからで。
世間の一般的な考え方とまったく違うことを言えば、「お前何言ってんの、おかしいんじゃないの」となって、摩擦になる。
そんな摩擦を生むくらいなら、この悟りの喜びを自分で味わっていた方がいい。そう思って、何日も飲まず食わずで瞑想していたそうなんですね。
しかし、そこに『梵天』が現れます。仏教より前からあるバラモン教の最高の神様、ブラフマンですね。
その素晴らしい悟りをみんなに説いてくださいとお願いした。1回目と2回目は断られたけれど、3回目でようやく、もう3回言うならしょうがないと決心したそうです。
そのとき、いろんな説があるんですが、「聞く耳がある者たちに救いの門を開かれた」という言い方をした。「聞く耳がある者たちに」という前提を、わざわざ話したというんですね。
これがやっぱり大変なことで、お釈迦様もその後、聞く耳を持たない人に説いて理解されないことがあったんです。
しかも最初の説法も失敗しています。『アージービカ教』を信奉するウパカという人に、たまたま出くわして教えを説こうとしたけれど、全然聞いてもらえなかった。
北風ではなく太陽で、時間を味方にする
だから、聞く耳がない状況で無理に話すより、聞く耳がある状況に持っていくお膳立てをするか、聞く耳がない人はとりあえずペンディングするか、どちらかがいいんじゃないかと思うんです。
どうやって聞いてくれる状態に持っていくか。これからそれを考えてやっていかなきゃいけない。
聞く耳がない人にワーワーギャーギャー大きい声で言ってもしょうがないので、北風と太陽なら、太陽にならなきゃいけないんだろうなと思います。北風戦略はだいたい失敗しますからね。
あともう1つ、時間の問題もあります。自分ではどうしようもできない条件に、時間が変化を与えてくれることってありますよね。
自分以外の要因が働きかけて、時間とともに変わっていく。だから無理に聞かせるのではなく、時間を味方につける戦略がいいんじゃないかなと。
勉強しろと言っても、本人がする気にならないとやらないですからね。
幸い、今は本もネットもオンラインのものもAIもあって、やる気になって聞く耳ができたときには、ものすごくブーストできる状況があるんです。
だから焦って無理やり聞かせる必要もないし、そもそもそんなことできない。
でも、いろんなことが手遅れになるのをただ傍らで見ているのは、辛いものだなとも思う。まあ、これも僕の執着がなせるものなんですけども。
何の話をしているのかわからないと思いますけども、手を変え品を変え、いろんなことをやっていかなきゃいけないなと、あらためて思いました。
それでは皆さん、良い一日をお過ごしください。頑張っていきましょう。
まとめ
聞く耳がない人に無理に話しても軋轢が生まれるだけなので、聞く耳が育つ状況をお膳立てするか、時間の変化を待つ。北風ではなく太陽の戦略を取りたいと思っています。
- 法事や葬儀は、静かに聞いてもらえる恵まれた場で、それが当たり前ではないと気づいた
- お釈迦様も悟りを伝えるのをためらい、最初の説法も聞く耳のない相手には届かなかった
- 無理に聞かせるより、聞く耳ができるお膳立てをするか、時間を味方につける方がいい




