なぜアメリカ大陸だけで奴隷需要が爆発したのか
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奴隷制は、アフリカ黒人奴隷だけを指す制度ではありません。深井さんは前回のおさらいとして、奴隷取引の歴史は古代エジプトまで遡れると説明します。
古代エジプトでは、あらゆる肌の色の人々が奴隷にされていました。ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ人、アジア人も含まれ、15世紀半ばまでは奴隷といえば黒人という状況ではなかったといいます。
奴隷っていうとアフリカ黒人を思い浮かべる人が多いと思うんですけど、15世紀半ばぐらいまではそんなことなかったよってことです。
つまり奴隷制は、世界中に広く存在したごく普通の制度でした。今回のテーマであるアフリカの黒人奴隷 ── 15世紀半ば以降、大西洋を渡って新大陸へ大量に送られたアフリカ出身の奴隷。それ以前の奴隷制とは規模も性質も大きく異なるは、その一部にすぎません。
ただし深井さんは、奴隷が爆発的に必要になる状況は、歴史上あまり起こらないと指摘します。それがたまたま起こったのが、新大陸であるアメリカでした。
なぜアメリカ大陸だけで需要が爆発したのか。深井さんは、それがビジネスだったからだと説明します。自給自足の農業なら、裕福な家が数人抱えれば足ります。
その生産物自体がビジネスじゃないと、裕福な家が何百人かの奴隷を抱えるみたいな現象はそんなこと起こんないわけ。
大量生産して売りさばくというビジネスが、何百万人という規模の奴隷需要を生んだというわけです。それが起こったのが、新大陸のアメリカ大陸でした。
砂糖ビジネスと三角貿易が生んだ大西洋の奴隷網
16世紀末から、イギリスはまずカリブ海域に進出します。深井さんによれば、プエルトリコやキューバのある海域から入り、17世紀半ばにバハマ、ジャマイカ、バルバドスといった西インド諸島の植民を始めました。
バルバドス島ではサトウキビ栽培が盛んでした。当時、富裕層の間で紅茶やお菓子を楽しむ生活革命がヨーロッパ全土で進行しており、砂糖がよく売れるビジネスが生まれていたのです。
産業革命とかと連動してるよね。労働者階級が砂糖を摂取するために必要だったみたいな話とも、もう少し時系列後なんですけど。
亜熱帯の密林を開墾してプランテーションを作るには、大量の労働力が必要でした。そこでヨーロッパ商人は、西アフリカから黒人奴隷を運び込みます。
奴隷とされた黒人の確保経路は多様でした。深井さんは、部族間戦闘の捕虜、奴隷狩り、拉致、借金返済の手段としての身売り、詐欺による確保などがあったと説明します。
捕らえられた奴隷は、複数の所有者を経て内陸から沿岸部へ転売されることもありました。到達まで2、3週間のこともあれば、数年転々とされてから輸出される場合もあったといいます。
その扱いは物と変わりませんでした。深井さんによれば、1640年からの60年間でバルバドス島に運ばれた西アフリカ人は13万人。しかし1700年ごろの奴隷人口は5万人にまで減っていました。
本当に人だと思ってないというか、家畜だと思ってると思ってないレベルだよね。殺さないもんね、家畜。大事にするからさ。
楊さんは、内陸から目的地まで移動する間に、奴隷が異なる言語圏へ何度も転売された点にも触れます。そのたびに新しい言語を覚えねばならず、母語を忘れる人もいたといいます。
この解説の理由を、楊さんはリスナーに彼らのリアルな感覚を想像してほしいからだと説明します。
そして楊さんは、船の移動を最も効率化した仕組みとして三角貿易を紹介します。ヨーロッパから武器や日用品を積み出し、アフリカで売って黒人奴隷を買う。それを西インド諸島で降ろし、砂糖やタバコ、綿を積んでヨーロッパへ戻る流れです。
ヨーロッパ発
武器や日用品を積んでアフリカへ向かう
アフリカ
武器・日用品を売り、黒人奴隷を買う
西インド諸島
奴隷を降ろし、砂糖・タバコ・綿を買う
ヨーロッパ着
積んだ商品を売り、次の航海へ回す
この仕組みなら、船を空で走らせずに一度の航海で大きく儲けられます。こうして17世紀に大西洋貿易網が形成され、ヨーロッパ経済の拡大や産業革命にも影響していきました。
積み荷として扱われた奴隷輸送の実態
楊さんは、奴隷の輸送そのものがビジネスだったと強調します。人間だと思われていないため、いかに効率よく運ぶかという発想で処理されていました。
詰めすぎると死ぬ確率が上がり、緩めに積むとコストに対する利益が下がる。深井さんによれば、どのラインが最もコスパがよいかという発想で奴隷は積まれていました。
番組では、同心円状に人が並べられた有名な奴隷船の図にも触れます。身動きが取れず、隣にすぐ他の奴隷がいて、トイレにも行けない状態で管理されていました。
これ俺、学生時代に見てちょっと衝撃を受けた記憶があります。
楊さんは、これが人権のない経済活動の姿だと語ります。船内は男性の区画と女性・子供の区画に分けられ、換気は船室入り口の木の格子の隙間だけだったといいます。
男性は反乱を防ぐため手首と足首を鎖でつながれ、2人1組でつながれていました。夜には輪つきのボルトの鎖につながれ、女性と子供は鎖を解かれていたものの、船員によるレイプの対象にされていたと楊さんは説明します。
航海中、奴隷は健康維持のため毎日2回デッキに上げられ、運動として踊ることを強要されました。商品である奴隷が健康であることが重視されたためです。
一方で、移送中の反乱は頻繁に起きていました。海に飛び込む、爪で喉をかき切る、絶食するといった自殺の試みも多く、船員は抵抗する奴隷の胃に無理やり粥を流し込んでいたといいます。
目的地に到着すると、奴隷は洗浄され、食事を与えられて販売の準備が整えられました。楊さんは、文献のそのままの言葉として洗浄という表現を使っていると断ります。
なぜ労働力不足が黒人奴隷制へと収斂したのか
ここから話は北米へ移ります。広大な北米大陸の植民地開拓には労働力が不可欠で、入植者は常に働き手不足に悩まされていました。
楊さんは、ニューイングランドが家族単位の入植者が多かった一方、南部の植民地は企業がビジネス目的で入植し、男性入植者中心だったと説明します。
南部ではタバコ栽培のような労働集約的な事業が行われ、労働力の需要は北部より圧倒的に高くなりました。投下するほど利益が出るため、需要は青天井だったのです。
この労働力を当初担ったのが年季奉公人 ── 一定期間の労働を条件に渡航費などを工面してもらい、契約に基づいて働いた人々。期間が明ければ自由になれる契約労働者で、黒人だけでなく白人も多かったでした。決められた期間働けば土地や報酬を得られる契約で、白人も数多く含まれていました。
楊さんによれば、チェサピーク植民地では住民の4分の3が年季奉公人だったといいます。彼らは渡航費と引き換えに、4年から7年ほど主人のもとで働く契約を結んでいました。
重要なのは、この段階ではまだ奴隷制も人種差別も現在のような形では存在しなかった点です。純粋に労働力が足りないという感覚だったと楊さんは語ります。
では、なぜ黒人奴隷へと収斂していったのか。深井さんと楊さんは、逃亡した際の見分けやすさを大きな理由に挙げます。
逃亡した時にね、黒人だと一目でわかるんですよ。白人だとよくわかんないんですよ、移民なのか年季奉公人なのかが。
深井さんは、黒人は労働力のニーズを満たすボリュームを確保でき、しかも管理しやすいと整理します。数的需要と見分けのつきやすさが、黒人を重宝させていったのです。
さらにプランテーション農園主たちは、終身で奉公させる方が利益率が高いことに気づきます。楊さんは、この一生働かせるという発想こそが黒人奴隷の誕生だと語ります。
一生働かせたろつって働かせてるのが黒人奴隷の誕生なんです。
こうして年季奉公人制度から、黒人を終身奴隷の身分に固定化する制度へと移行していきました。同じ黒人だから差別しても構わないという意識も、そこに重なっていたと楊さんは指摘します。
世襲の人種的奴隷という制度はどう生まれたか
楊さんによれば、植民地として初めて黒人奴隷制を合法化したのは1641年のマサチューセッツでした。意外にも、南部ではなく北部から始まったのです。
マサチューセッツでは、黒人の社会的・経済的活動を抑えるための法令が作られていきました。深井さんはその具体例を挙げます。
- 市場での取引や豚の飼育・販売の禁止
- 船に乗ることや武器の保有の禁止
- 所有者の許可なく日没後に市街地にとどまることの禁止
- 白人と黒人の結婚、人種を超えた性交渉の禁止
この制度は都合がよいとして各地に広がります。楊さんによれば、1663年にはバージニアが、奴隷の身分の母から生まれた子は例外なく奴隷と規定しました。
これによって世襲奴隷が成立し、しかもその身分は黒人という人種に限定されました。世襲の人種的奴隷という制度の誕生です。
楊さんは、古代ギリシャやローマの奴隷は戦利品として存在したものの、原則として一代限りだったと補足します。肌の色で峻別された世襲奴隷は、それとはまったく異質な制度でした。
この特徴は、アメリカの人種へのこだわりにもつながっていると楊さんは語ります。スペイン語圏では白人と黒人の混血にムラートという呼称があったのに対し、アメリカには混血の呼称がありません。
混血は全員黒人なんですよ、アメリカだと。オバマ大統領って白人と黒人の混血なんですけど、黒人として出てきたでしょ。
楊さんは、その理由を奴隷として見分けをつけるためだと説明します。混血を自由人とすれば自由黒人が増え、なぜ自分は奴隷なのかと疑問を抱く奴隷が出てきて都合が悪いのです。
そのため、黒人の血が少しでも入っていれば有色人種として扱う。楊さんは、この徹底が今のアメリカの人種感覚の源流になっていると語ります。
黒人奴隷が支えた建国と、人種横断的な語り直し
楊さんによれば、プランテーションが南部に集中したのは気候的な理由です。タバコや綿花は温暖な気候でしか育たず、寒い北部よりも南部に奴隷が多くなっていきました。
一方で深井さんは、北部も奴隷制の経済的恩恵を直接・間接に受けていたと指摘します。奴隷が生む富は莫大で、奴隷貿易には造船、弁護士、保険業者など多くの業界が絡んでいました。
楊さんは独立戦争時の人口を挙げます。総人口約393万人のうち、黒人奴隷は70万人。およそ5、6人に1人が黒人奴隷だった計算です。
楊さんは、黒人奴隷が最初から建国に深く関わっていたと語ります。そのうえで、ブロードウェイで見たミュージカル『ハミルトン』の話を余談として紹介します。
建国期の英雄ハミルトンを、この作品ではあえて黒人やアジア人の俳優が演じます。楊さんが見たときはアジア人が演じており、アメリカの歴史を人種横断的に作り直す試みだと感じたといいます。
アメリカの歴史というものを人種横断的に作り直すみたいなことやってるんだよね。
楊さんはこれを、日本の古代を描くドラマで俳優の顔立ちを問わないことに例えます。ただし超一部の動きだと断りつつ、黒人がアフリカ文化にもっと目を向けてもよいのではという私見も添えています。
最初から矛盾に気づいていたアメリカ
ここから楊さんは、アメリカ理解の重要なポイントを示します。それは、奴隷制がおかしいと最初から気づいていたという点です。
リンカンの奴隷解放宣言まで誰も問題視していなかった、という理解は誤りだと楊さんは言います。建国当初から、自由と平等を掲げる国に奴隷がいることへの違和感はあったのです。
楊さんは、これをチャーチ型とセクト型 ── 理想と現実への向き合い方を分ける考え方。チャーチ型は現実に妥協して受け入れる姿勢、セクト型は理想を厳格に貫こうとする姿勢を指すの考え方で説明します。他の国なら現実に妥協するチャーチ型に寄りがちですが、アメリカは理念で見る性質が強いのです。
奴隷貿易したら儲かるし、奴隷労働させたら儲かる。だからやってますよ、実際。いますけど、ん?って思ってるわけ。
楊さんによれば、この奴隷制を解除できない現実と理念が常に衝突し続けている点こそ、極めてアメリカ的だといいます。
深井さんは、建国からリンカンまでに立場が細かく分かれていたと補足します。奴隷制は絶対必要という人、必要だが広げたくない人、絶対反対の人が、グラデーションを描いて存在していました。
その一例が第3代大統領トマス・ジェファソンです。彼はバージニア出身の大農場主で多くの奴隷を持ちながら、奴隷制はよくないのではと考えていた一人でした。
人間は皆平等で自由だと。だから俺らは自分たちを支配するやつを打倒するんだって言ってるんだけど、黒人見てて、ん?ってなってるわけですよ。
深井さんは、ここで結論を先出しします。リンカンは穏健派で、奴隷制はいつかなくすべきだが今すぐ全部はなくせないというのが長年のスタンスだったのです。
もっと穏健派、もっと柔らかい立ち位置のところで、両極端を調整するポジションを彼はずっと取り続けてたんです。
奴隷貿易は止めても、奴隷制は残った
楊さんは、南北独立戦争の時期に人間平等の理念から奴隷貿易を廃止しようという動きが出た経緯を説明します。1770年ごろには南部で奴隷人口が急増していました。
一方、北部ニューイングランド地方などでは、奴隷は小規模農家や家内労働が中心で、人口の7%ほどにとどまっていました。こうして南北の人口差が広がっていきます。
この状況を背景に、まず奴隷貿易をやめようという流れが生まれます。楊さんは、その最大の理由をすでに十分な数の奴隷がいたためだと見ています。
奴隷貿易は非人道的だとしてなくなっていきますが、奴隷制そのものはなくなりませんでした。楊さんは、この2つを混同しないよう注意を促します。
さらにフィラデルフィアのクエーカー教徒 ── キリスト教の一派。人間はみな平等だとする信仰から、建国期のアメリカで早くから奴隷制反対を主張したたちが奴隷制反対運動を始めます。啓蒙的な人道主義の高揚もあり、奴隷制はよくないという認識が国際的に広がっていきました。
やがて奴隷制自体をやめる州も現れます。楊さんによれば、それは主に奴隷が7%ほどしかいない北部でした。社会的影響が少なく、やめやすい経済構造だったのです。
ただし廃止は段階的でした。1777年のバーモントでは、女奴隷は18歳、男奴隷は21歳で自由身分にするとされ、1780年のペンシルベニアでは奴隷制を人類にとって恥ずべきものと批判しました。
楊さんが強調するのは、奴隷制の禁止と人種差別の廃止はまったく別だという点です。北部は制度としての奴隷制をやめても、黒人を劣った人種とみなす差別は続いていました。
めっちゃ差別してるけど、奴隷制はやめようって言ってるってことですね。
樋口さんは、これを制度だけが先に変わり、文化的にはまだ差別が根強い状態だと整理します。深井さんは、その克服は公民権運動まで待たねばならなかったと補足しました。
白人意識と時限爆弾としての奴隷制
楊さんは、フィラデルフィアで始まった奴隷反対運動が北部の港湾都市に広がり、アボリショニスト ── 奴隷制廃止を主張した人々。その思想はアボリショニズムと呼ばれると呼ばれる奴隷廃止論者が現れたと説明します。
憲法制定会議の時点で、すでに反奴隷制主義者は存在していました。しかし南部は経済構造ゆえに奴隷制を廃止できず、北部との間で立場が真っ二つに割れていたのです。
楊さんは、南部にとって奴隷制廃止は日本に製造業全廃を求めるようなものだったと例えます。それでも13の植民地は妥協して一つの国を作りました。
憲法では南部の利害を考慮し、20年間の猶予をつけて奴隷貿易の存続を容認しました。1808年に奴隷貿易は実際に禁止されますが、密輸は続いたといいます。
深井さんは、奴隷制の廃止が黒人差別の廃止ではなかった点をさらに掘り下げます。北部でも黒人は社会的・政治的な平等を得ておらず、投票権などで制度的差別が進みました。
19世紀初頭に白人男性の普通選挙権が拡大し、富裕層でない白人労働者や農民も政治参加できるようになります。深井さんは、彼らが黒人を自分たちの地位を脅かす存在とみなしたと説明します。
労働市場で黒人と競合するだけでなく、白人労働者は白人意識を構築していきました。奴隷制が廃止されても、黒人は奴隷だという観念が拭えなかったのです。
自分たちは劣った不自由な黒人とは違う、白人の自由な労働者だよっていうアイデンティティを自分たちで構築していったんです。
政治家にとっても、黒人を政治から排除することが白人労働者層の支持獲得につながりました。こうして黒人を政治から締め出す法律が次々に生まれていきます。
樋口さんは、この現象を番組がホモサピエンス史で繰り返し見てきた構図だと指摘します。仲間を規定し、仲間でないものを否定して自分の位置を確立する動きが、恐怖に駆動されて働いているのです。
楊さんは、こうしてアメリカがスーパー時限爆弾を抱えたと表現します。自由と平等を推し進める国が奴隷制を持つこと自体が、根本的な矛盾だったからです。
さらに楊さんは、北部が理念だけでなく利害からも奴隷解放を求めた点を挙げます。資本主義の下では、賃金ゼロの奴隷を使う産業とは自由市場で競争できません。
労働市場でも消費市場でも、奴隷の存在は不都合でした。奴隷は購買力を持たないため、消費者としても市場を広げないからです。理念と利害の両面から、奴隷制は北部にとって障害になっていったのです。
深井さんは、西部への領土拡大が新たな火種になったと予告します。新しく得た領土で奴隷制を認めるかどうかが、南北の利害の違いゆえに大きな論争になっていくのです。
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まとめ
リンカン編第4回は、奴隷制の起源と構造をたどりながら、自由と平等を掲げるアメリカが建国当初から抱えた矛盾を浮き彫りにしました。奴隷貿易は止めても� 隷制は残り、廃止と差別も別物だったという整理が、この回の核になっています。
- 新大陸での大量生産ビジネスが、何百万人規模という歴史的に異例の奴隷需要を生んだ
- 逃亡時の見分けやすさと管理のしやすさから、労働力需要が黒人の世襲奴隷制へと収斂した
- 肌の色で峻別された世襲的奴隷の法制化が、アメリカ的奴隷制の特徴を形づくった
- アメリカは建国当初から奴隷制を矛盾だと気づいており、理念と現実が衝突し続けていた
- 奴隷制の禁止は人種差別の廃止を意味せず、北部でも白人意識に基づく制度的差別が進んだ







