「アリストクラート」と「外国人」はなぜ敵の総称になったのか
フランス革命と陰謀論シリーズの第3回は、前回の「陰謀論はなぜ生まれるのか」という理論編を受けて、革命期に実際に流行した陰謀論の具体例を見ていく回です。楊さんは、陰謀論がどんな役割を果たしたかに注目すると予告します。
楊さんが最初に紹介するのは「アリストクラートの陰謀」です。アリストクラートは革命初期には貴族一般を指す言葉でしたが、次第に革命のあらゆる敵対者をひとまとめにする言葉へと変わっていきました。
(アリストクラートは)考え得るあらゆる手段を用いて、革命の希望を押し潰そうとしてくる、っていう使われ方をしてます。
アリストクラートの陰謀という言説では、食料の流通を混乱させる、ホームレスや野盗を雇って民衆に危害を加える、外国の軍隊を呼び寄せる、といった企みが語られていました。この陰謀論は、主にブルジョアや民衆の間で広まったといいます。
「外国人」という言葉も、同じような使われ方をしていました。本当に革命に反対するヨーロッパ諸国の人を指す場合もありましたが、革命に反対し妨害する者を罵る言葉としても使われていたのです。
なんかイメージとしては非国民の方が近いですね。
楊さんはこれを、今の日本のネット界隈で「お前日本人じゃねえだろ」と言うような感覚に近かったのではないかと説明しています。
宮廷政治はなぜ「陰謀の巣窟」に見えたのか
反革命勢力へのレッテル貼りの背景として、楊さんはまず政治文化の違いを挙げます。革命を進めたい議員、革命家、民衆、ブルジョアから見ると、旧体制の宮廷政治はそもそも陰謀の巣窟に映る構造がありました。
もっとも、宮廷政治で陰謀論的な見方がされていただけでなく、実際に陰謀もありました。楊さんは、陰謀論という説明様式はフランス革命で急に生まれたものではなく、人類が昔から持つ思考様式かもしれないと前回の話を振り返ります。
決定的な違いは透明性でした。旧体制の宮廷政治は透明性にあまり価値を置かず、非公式な議論や秘密の交渉、血縁や人脈の活用、派閥の利益のための動きが当たり前の、ウェットな政治だったといいます。
革命が打ち立てたい政治は、少なくともビジョンの上では透明性なんです。
公明正大な国を目指す革命側から見ると、誰にも見られずに進む旧体制の政治は、批判もレビューもできない遅れたやり方であり、陰謀がはびこっていると構造的に映ってしまいます。楊さんはこれを「OSがそもそも違う」と表現しました。
透明性に価値を置かず、非公式な議論や秘密の交渉、人脈や派閥で水面下に動く
少なくともビジョンの上では透明性を重視し、公明正大な国を作ろうとする
楊さんは、革命側にとって宮廷政治は時代劇の悪代官、「越後屋、お主も悪よのう」の世界のように見えていたと例えます。
勧善懲悪の時代劇と陰謀論は何が似ているのか
悪代官の例えから、楊さんは少し脱線して、勧善懲悪の時代劇と陰謀論に共通する世界観を指摘します。どちらも、諸悪の根源を倒せば善良な人たちが皆幸せになる、というプロットを持っているというのです。
我々がなんか勧善懲悪のコンテンツに求めるカタルシスと、陰謀論に求めるカタルシスって、実はちょっと似てるんじゃないかなと思うんですよね。
樋口さんは、その共通点を「諸悪の根源が人として存在しているかどうか」、つまりラスボスがいるかどうかだと整理します。
楊さんによれば、現実の社会問題の要因は複雑で複合的で予測困難です。それでも人間は、一人の悪人を叩けば全てが解決するという筋書きを求めてしまうといいます。
樋口さんも、自身の会社パレットの経営を例に、誰か一人を潰せば経営が良くなるならいいが、実際はそうではないと応じました。
革命側の恐怖には根拠があったのか
楊さんは話を戻し、アリストクラートの陰謀論が決して無根拠ではなかったと説明します。宮廷側には、実際に革命を潰そうとする動きがあったからです。
国王ルイ16世は、国民議会の成立後にパリやヴェルサイユへ軍隊を招集していました。議員たちは武力で議会が潰されることを恐れます。さらにオランダなどで、革命が軍隊によって潰された前例もフランスの人々に知られていました。
民衆には生活の不安もありました。都市の下層民衆は賃金の上昇が物価上昇に追いつかず貧困化が進み、パンの値段も高すぎて食べられない状況でした。改革を望んでいるのに国王は乗り気でなく、軍隊を集めて圧力をかけてくる。民衆には怒りと不安が同居していました。
楊さんが特に面白いと語るのは、ブルジョアと民衆に共通した「革命への期待の裏返しとしての不安」です。三部会が開かれ議会もできて期待が高まる一方、前例のないことだけに、貴族がおとなしく引き下がるはずがないとも感じていたといいます。
本当に幸せなんだ。でも怖いんだ。この幸せがいつかなくなってしまうこと。みたいなやつですね。
樋口さんは恋愛小説の一場面に重ね、楊さんもこのアンビバレントな感情こそ人間らしいと応じます。こうした感情が曲がりながら、アリストクラートの陰謀という考え方に結実したといいます。
表立った妨害まで「陰謀」と呼ばれたのはなぜか
ここで樋口さんが疑問を投げかけます。革命を抑えようとする勢力は軍隊を動かすなど表立って動いていたのに、隠れた謀を意味する「陰謀」と呼ぶのは妙ではないか、という問いです。
楊さんの答えは、当事者は今の価値観で細かく検証していたわけではない、というものでした。表に出ている国王や貴族の動きも陰謀として括られ、宮廷政治はそもそも陰謀の巣窟だというレッテルも貼られていました。
当事者からすれば陰謀ですよね。だって軍隊を動かしてる裏に、実は国王のなんか陰謀があるはずだみたいな。
だから陰謀っていうレッテルを貼ってるから全部陰謀になる。
楊さんは、陰謀かどうかの検証よりも、陰謀論とそれに刺激される感情が存在したという事実が大事だとまとめます。
バスティーユ襲撃は恐怖の暴発だったのか
アリストクラートの陰謀への恐怖が充満して暴発した事件として、楊さんはバスティーユ要塞の襲撃を挙げます。火種は、特権身分への課税など改革を進めたい側の官僚だった財務長官ネッケルが罷免されたことでした。
ブルジョアや民衆は、国王が改革を拒み、武力で議会を潰しパリを襲撃してくると受け止め、自衛のために4、5万人の群衆が蜂起します。
ネッケル罷免
改革派の財務長官が辞めさせられ、ブルジョアや民衆が激怒する
蜂起
国王が武力で来ると恐れ、4、5万人の群衆が自衛のために立ち上がる
アンバリッド
傷病兵の施設に押しかけて武器を入手する
バスティーユ
弾薬を求めて要塞を襲撃し、発砲から大事になる
バスティーユでは弾薬の引き渡し自体は問題なく進んでいましたが、些細なきっかけで群衆と守備隊が撃ち合い、司令官ロネが殺されて首を切られました。
事件を受けて国王は譲歩し、ネッケルの罷免を撤回し、パリから軍隊を退去させ、襲撃も不問にします。それでも民衆の興奮は収まらず、パリの食料不足の責任を問うとして宮廷の高官をリンチし虐殺しました。
俺たちは正義を執行してるんだと。自分たちの貧困を自分たちに強いている悪の根源の責任をね、自分たちの手で問いただしてるだけなんだという、そういったスタンスです。
陰謀論はどうやって制度になったのか
楊さんによれば、陰謀論は制度にも落とし込まれます。バスティーユ襲撃から2週間ほど後、憲法制定国民議会はアリストクラートの陰謀を取り締まるための調査委員会を設けました。
この委員会では貴族から押収した手紙の扱いが問題になり、議員の中から、今は戦争状態なのだから陰謀をくじくための手紙の開封は許されるはずだ、という主張が出てきます。
なるほど、もう緊急事態だから何でもありやと。
議論は途中で打ち切られ結論は出ませんでした。それでも楊さんは、革命という非常事態なら言論や人権の制限も許される、という意見が陰謀論ベースで出たこと自体に留意すべきだと話しています。
「大恐怖」はどう連鎖したのか
次に起きたのが「大恐怖」と呼ばれるパニックの連鎖です。バスティーユ陥落の知らせが地方や農村に伝わると熱狂が起き、農民は領主の館を襲って、納税の根拠である土地台帳などを燃やしました。
農民側の言い分は、国王が全国三部会を開いて人々の要求に耳を傾けている以上、自分たちを苦しめる税もいずれ廃止されるはずで、その国王の意思を先取りしているだけだ、というものでした。
ところが楊さんが面白いと語るのはその先です。農民たちは襲撃しながらも、貴族がおとなしく引き下がるはずがなく復讐してくると恐れ、村から周辺の村へ逃げ出す事件が連鎖的に起こりました。
人間ってさ、一旦自分が逃げ出すと、自分が逃げたことを正当化するために話を盛るんすよ。
逃げた先で「やばいぞ」と話を盛るため、噂は雪だるま式に大げさになりました。噂が根も葉もないとわかった場合でさえ、そのデマを広めたのもアリストクラートに違いない、という陰謀論のループが生まれたといいます。
熱狂
バスティーユ陥落の知らせで農民が領主の館を襲う
恐怖
貴族の復讐を恐れて村から逃げ出す
誇張
逃げたことを正当化するため話を盛り、噂が伝染する
再燃
デマと判明してもアリストクラートの仕業とされる
封建的特権の廃止と人権宣言は何を決めたのか
農民の暴動が続くため、議会は封建的特権の廃止を宣言し、条件付きながら貴族や聖職者の権利を放棄する決議をします。農民を落ち着かせる狙いで、反乱はいちおう収まったものの、楊さんは完全にではなくくすぶっていたと見ています。
続いて議会は、正確には「人と市民の権利の宣言」と呼ばれる人権宣言 ── 1789年8月に採択された文書。人は生まれながらに自由で平等な権利を持つとし、近代民主主義や人権思想の基礎となりましたを採択しました。自由と平等、圧政への抵抗、国民主権、神聖かつ不可侵な所有権などが明文化されます。
楊さんはこれを、革命の政治というゲームのオフィシャルなルールが決まった瞬間だと説明し、樋口さんも人類の歴史的な転換点だと応じました。
ヴェルサイユ行進で政治の中心はなぜパリへ移ったのか
次の大事件がヴェルサイユ行進です。パンが足りず食料価格も高騰する中、怒ったパリの女性たちが農具などを手にヴェルサイユまで行進し、国王にパンを何とかするよう迫りました。国王はパンを約束します。
翌朝6時頃、女性たちや野次馬が宮殿の鉄柵の外に集まり、開いていた部分から中庭に入ったことで近衛兵とトラブルになります。群衆はマリー・アントワネットの控えの間にまで乱入しましたが、騒乱はなんとか収まりました。
その後、国王一家がバルコニーに姿を見せると歓声が上がり、誰かが叫んだ「パリへ」という声がどんどん広がります。国王も議会もパリへ移るしかなくなり、それまでヴェルサイユにあった政治の中心がパリに移りました。
自分たちの近くにいてほしいんじゃないですか。
楊さんによれば、この時点で国王を倒したいと思っていた人はおらず、改革に同意している国王の象徴としての価値は認められていました。暴力の一歩手前の民衆の力で、政治の中心が引きずり込まれた出来事だといいます。
ヴァレンヌ逃亡事件で国王の権威はどう揺らいだのか
国王は革命を怖がり、パリ脱出を図ります。これがヴァレンヌ逃亡事件です。国王は議会の決定を強制されて承認していただけで、本心から革命を支持してはおらず、マリー・アントワネットは革命と妥協する意思がありませんでした。
民衆の暴力に加え、取り巻きの貴族や聖職者が追放されて宮殿が寂しくなったこともあり、国王一家は逃亡を試みましたが、ヴァレンヌ村で捕まります。これで国王の権威は一度失墜しました。
当時は革命家にとっても国王は象徴として必要で、立憲君主制を目指すのが多数派でした。国民議会は想定外の事態に戸惑い、条件付きで国王の責任を問わないことにします。
一方で、国王の権限は憲法採択まで停止し、憲法を承認すれば回復、署名を拒めば失う、国民に軍を差し向けたり憲法に忠誠を誓わなかったりすれば退位させる、と決められました。国王をすぐ裁判にかけるべきだという議員もいましたが、まだ少数派でした。
民衆の反応は「逃げるんかい」というもので、街では国王の肖像画が捨てられ、国王を豚の姿で描く風刺画も出回ったといいます。
亡命者の陰謀と検閲はどう広がったのか
ヴァレンヌ逃亡事件は新たな恐怖を生みました。他のヨーロッパの王国を刺激するのではないかという不安が強まり、地方ではすでにオーストリア軍が侵入したという噂でパニックも起きていたといいます。
もう一つ結びつけられたのが「亡命者の陰謀」です。バスティーユ事件以降に増えた王族や貴族の亡命者が、国内の貴族と手を組んで革命に反対する陰謀を企んでいる、という恐怖が沸き起こりました。
革命家たちも一枚岩ではなく、派閥同士の攻撃に「お前は外国と結託して陰謀を企んでいるのではないか」という言説が使われるようになり、陰謀論に外国や亡命者の要素が強まっていきます。
恐怖に煽られた結果、手紙の開封や検閲、貴族の館や革命に同意しない聖職者の居所の捜索が進められ、国内の旅行者を逮捕・尋問することまで始まりました。
ピルニッツ宣言はなぜ「攻めてくる確定」と受け止められたのか
革命側の恐怖をさらに加速させたのがピルニッツ宣言です。オーストリア皇帝レオポルド2世とプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世がピルニッツで会見し、共同宣言を発表しました。レオポルド2世はマリー・アントワネットの兄です。
宣言の内容は、フランスが危険なのでヨーロッパの君主は注意し、用意ができ次第行動をとってほしいという、ふわっとした警告でした。2人の君主に本気で介入する意思はなかったといいます。
ヨーロッパの君主たちへの注意喚起で、本気で介入する意思はなかった
外国が革命を潰しに攻めてくることが確定したと受け止めた
楊さんは、不安と恐怖がベースにあるとあらゆる現象がその枠組みで解釈されると指摘します。
特に集団では、集団心理が相乗効果を生んでそうなりやすいのが人間の特質かもしれない、と楊さんは話しています。
1791年憲法とエタンプ一揆は何を残したのか
議会はなんとか、フランス最初の憲法である1791年憲法の制定に成功します。国王は置くものの憲法と法に従う存在とする立憲君主制で、男子の選挙を定めつつ、選挙権は納税要件で制限されていました。
憲法制定国民議会は役割を終えて解散し、選挙を経て立法議会が作られます。楊さんはここで、アリストクラート陰謀論が発動した例としてエタンプ一揆を紹介しました。
エタンプはパリから離れた穀物の集散地でした。穀物が品薄で高騰する中、農民たちは自分たちの作った穀物が運び出されていくのを見て、特権階級や反革命派が買い占めて民衆を餓死させようとしているのだと考えます。
武装した近隣の村人たちはエタンプの役場に押しかけ、穀物価格の引き下げを求めました。市長シモノーが拒むと、怒った群衆は彼をサーベルで殴り、銃で撃って殺害しました。
またその何か市長に責任があるのかどうかとかも検証してないですからね。多分ね。
一方で楊さんは、農民たちが主張した「飢えない権利」、つまり生存権の論点が政治に持ち込まれたことに注目します。それを革命の目標として拾い上げたのがロベスピエール ── フランス革命期の政治家。ジャコバン派の指導者として、のちに恐怖政治を主導した人物として知られますでした。
陰謀論ドリブンの一揆が、今につながる生存権を政治に組み込むきっかけになったという点を、楊さんは面白いと語ります。身分制社会では、被支配階級にとって生きる権利は与えられたものではなかったからです。
戦争をめぐって革命派と国王の思惑はなぜ一致したのか
やがて立法議会はオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が始まります。議会の大半は、革命を守るため、そして革命の理念を他国に広めるために開戦を支持しました。
実は国王ルイ16世も戦争に賛成でした。革命側が負けて革命が潰されることを期待していたからで、正反対の目的を持つ両者の思惑が奇妙に一致したのです。
外国から革命を守り、理念を広めて革命を確かなものにしたい
革命側が戦争に負け、革命が潰されることを期待していた
数少ない反対派の一人がロベスピエールでした。戦争そのものというより今の開戦に反対し、最大の敵は国内の反革命勢力であり、革命に反対する国王を戴く政府に戦争を任せるべきではない、と主張しました。
最も危険な敵は我々の中にいると。まず我々の中にいる陰謀家たちを潰さねばっていう、ずっとブレないんですよね、この人。
「オーストリア委員会」は実在したのか
ロベスピエールの反対は無視されて戦争に突入しますが、フランス軍は敗北を重ね、プロイセンも参戦して戦争は拡大します。そこで新たに注目された陰謀論が「オーストリア委員会」でした。
オーストリア委員会は、議会と革命の転覆を狙って暗躍する謎の組織で、オーストリア政府がこの組織を使って反革命派を操っている、という物語です。楊さんは、今でいうスパイや工作員を動かす系の話だと説明します。
オーストリアが標的になった背景には、フランス王家とハプスブルク家が宿敵同士だった歴史があります。そこから嫁いだマリー・アントワネットは「オーストリア女」と呼ばれ、実家の利益のために動いているのではないかと疑われていました。
実際、マリー・アントワネットは実家のオーストリアと秘密裏にやり取りし、介入を期待していました。オーストリア大使宛ての手紙には、憲法を維持できないので他の国々が救いに来てくれることが必要だ、と書かれています。開戦後には作戦情報をリークしたらしいともいいます。
もうこれ陰謀やん。
それでも楊さんは、歴史学的にはオーストリア委員会という組織はなかったと説明します。存在したのは、マリー・アントワネットとオーストリア宮廷との連絡ルートでした。
ここでちょっと味わい深いのが、やっぱ陰謀と陰謀論の区別って時には難しいですよね。
楊さんによれば、陰謀と陰謀論の境界は曖昧で流動的です。全く根拠のないもの、本当に陰謀があったもの、組織的な陰謀ではないが疑惑は存在したもの、とさまざまなケースがあります。
| ケース | 内容 | 回中の例 |
|---|---|---|
| 根拠のない陰謀論 | 信憑性がなく検証もされていない | 大恐怖で盛られた噂 |
| 実在した陰謀 | 実際に計画・実行された | 宮廷政治での陰謀 |
| 疑惑はあったもの | 組織的陰謀ではないが疑わしい動きがあった | マリー・アントワネットの連絡網 |
ただし当事者にとっては、こうした区別はどうでもよく、オーストリア委員会は「ある」ものだったと楊さんは強調します。
ブラウンシュヴァイク公の声明はなぜ火に油を注いだのか
オーストリア委員会の存在を当事者に確信させたのが、プロイセン・オーストリア連合軍の総司令官ブラウンシュヴァイク公の声明でした。パリに迫る中、パリの住民はただちに無条件でルイ16世に服従せよ、従わなければ徹底的に弾圧する、と宣言したのです。
パリの民衆や革命家は、敵軍が国王を保護しようとしていることから、ルイ16世はやはりオーストリアとつながっていた、オーストリア委員会はあったのだと受け止めました。
これでね、ルイ十六世に対する信頼が崩壊しちゃいます。
ルイ16世は自分を守るためにブラウンシュヴァイク公を批判し、議会で憲法への忠誠を誓いましたが、無駄でした。声明はフランスを萎縮させるどころか、立法議会の全派閥の反発を買い、かえって一致団結させてしまいます。
樋口さんがこれを計算ずくだったらすごいと言うと、楊さんは情報の非対称性を指摘します。外国にいたブラウンシュヴァイク公は国内の熱量を正確に把握できず、声明で民衆が怯んで要求を引っ込めると甘く見積もったのだろう、という見立てです。楊さんはこれを日本の幕末の攘夷の熱気にも重ねました。
次回はシリーズ最終話として、8月10日事件とその後、そして並行して陰謀論がどう動いたかが語られる予定です。最後は「最終話というのも陰謀かもしれない」という冗談で締めくくられました。
まとめ
今回のエピソードでは、フランス革命の陰謀論が根拠のある恐怖と結びつき、レッテルとして敵を作り出しながら、暴力や制度、戦争の判断まで動かしていく過程がたどられました。楊さんは、陰謀かどうかの検証より、陰謀論が人を動かした事実に注目しています。
- 「アリストクラート」「外国人」は、革命の敵対者をひとまとめにするレッテルとして使われた
- 透明性を重んじる革命側には、旧体制の宮廷政治そのものが陰謀の巣窟に映った
- 大恐怖やエタンプ一揆のように、恐怖と陰謀論が連鎖して暴力を生んだ一方、生存権のような論点も政治に持ち込まれた
- オーストリア委員会は実在しなかったが、マリー・アントワネットの連絡網とブラウンシュヴァイク公の声明が当事者の確信を強めた
- 陰謀と陰謀論の境界は曖昧で、感情が濃いときほど出来事の解像度は下がる





