「自分、不器用なんで」で始まった第50話
番組の冒頭は、北爪寛孝さんが「不器用なので」と自己紹介を省く、高倉健さんのモノマネから始まりました。藤原隆充さんによると、このモノマネはリスナーからのリクエストだったそうです。
不器用。だって(高倉健のモノマネは)不器用ぐらいしかないでしょ。
北爪さんは高倉健さんのモノマネは難しいとこぼし、藤原さんも「場も温まらなかった」と認めます。北爪さんは早々に、ゲストにすべてを委ねると宣言しました。
ゲストとして紹介されたのは、暫定肩書イラストレーターの山本ひかるさんです。山本さんも第一声で「自分、不器用なんです」と乗っかりますが、高倉健さんにはジェネレーションギャップを感じていたようです。
ちょっとね、私わかんなかったです。ジェネレーションギャップで。
北爪さんが映画『鉄道員(ぽっぽや)』の駅員役だと説明すると、山本さんもようやく「ぽっぽやわかります」と反応しました。山本さんは、呼び出されたときは「松本でなんかやらかしちゃったかしら」と震えながら来たと笑います。
街に滞在して描く仕事は「イラストレーター」なのか?
藤原さんは、長野県外のリスナーにも向けて、山本ひかるさんに簡単な自己紹介を求めました。
普段、いろんな町に滞在しながら、主に街のマップとか、あと建物の図解とかを描く仕事をしております。
北爪さんが「イラストレーターってことですか」と聞くと、山本さんの答えは「一応」でした。肩書きはずっと「ふわふわしている」といいます。
イラストカットだけじゃなくて、現地に見に行くところから全部やるスタイルなので。どうしたらいいんでしょうね。
山本さんが「暫定肩書」を名乗る理由は、この仕事の範囲の広さにあるようです。絵を描く前に、まず現地を見に行くところから仕事が始まっています。
松本では、東アジア文化都市に関連するマップが公共施設に置かれています。藤原さんは、山本さんの絵の魅力を、描写の細かさと、描く対象への入れ込み具合や深掘り具合だと紹介しました。北爪さんが細かい絵は大変ではないかと尋ねると、山本さんは「でも細かい絵しか描けない」と返しています。
話の途中、藤原さんと北爪さんは、旅籠のゲストハウスで配られているマップを山本さんの作品だと思っていました。山本さんはこれを否定しています。山本さんが手がけたのは、リビセン ── 長野県諏訪市の古材・古道具店「ReBuilding Center JAPAN」の略称。解体される建物から古材や古道具を引き取って販売していますのマップや、東京・東長崎のマイアマイアのマップです。
山本さんの仕事のなかで最初の作品は、リビセンのマップでした。声がかかったのが2019年で、配布が始まったのが2020年です。山本さんにとって、これがフリーで受けた初めてのイラストの仕事でした。
それ以前の山本さんは、まったく違う仕事をしていたといいます。藤原さんはここから、この「傑物」がどんな環境で育ったのかを掘り下げていきます。
「上質な下町」阿倍野と、街づくりに関わる両親
山本ひかるさんの出身は大阪の阿倍野です。あべのハルカスがある地域で、山本さんは自分のことを「シティガール」と冗談めかして言います。生まれたときから阿倍野で育ち、家は両親が建てたものでした。
藤原さんが阿倍野を東京にたとえるとどこかと尋ねると、山本さんはまず「六本木」と答えました。その後、すぐに「大阪の人はみんな怒ってる」と言い直しています。墨田区や葛飾区、文京区と候補を挙げたあと、山本さんは「難波までチャリで行こうみたいな感じ」と土地の距離感を表しました。
山本さんの家族は、両親と2歳上の姉の4人です。家庭について聞かれた山本さんは、当時は当たり前だと思っていたものの、今振り返ると「意識高めな家庭」だったと話します。
山本さんの父親は、もともと都市や街づくり系のコンサルティング会社で働いていました。その後は、グリコの看板で知られる戎橋筋商店街 ── 大阪・難波の道頓堀川にかかる戎橋から南へ延びる商店街。グリコの看板のそばにあり、観光客の多い繁華街ですで、局長のような立場で街づくりに携わってきました。今年で引退する予定だそうです。
山本さんの母親は、もともとインテリア系の仕事をしていました。娘2人が生まれてからは専業主婦になり、現在はパートをしています。両親は同じ大学の出身で、内装や街づくりといった建築に近い分野の人でした。
ブルーチーズとフランボワーズで育った「ませがき」
習い事について聞かれた山本ひかるさんは、書道とスイミングだけで、あとは結構放任だったと答えます。その代わりに印象に残っているのが、家の食べ物でした。
ちっちゃい頃からなんかブルーチーズ、生ハムとか。マセガキでした。
山本さんの子どもの頃の好物は、フランボワーズとラ・フランスでした。学校ではとても言えなかったそうです。藤原さんは「いまだにフランボワーズってピンとこない」と言い、山本さんが「ラズベリー」だと説明する場面もありました。
山本さんの両親はとてもグルメでした。藤原さんは意外そうに、山本さんにはフレンチより赤提灯や町中華のイメージがあると言います。山本さんの答えは、そのどちらにも行っていたというものでした。
その両親、そういう高級志向とかじゃなくて、美味しいものを食べようっていう(感じでした)。
高いお金を払ってレストランに行くことが目的ではない
生ハムやワインも、赤提灯の居酒屋も、美味しければ行く
赤提灯の居酒屋にもよく連れて行かれたことで、山本さんの「グルメ偏差値」は「バカ上がり」したといいます。子どもの頃の楽しい思い出も、両親の好きなお店に行ったことでした。
一方で、山本さんは子どもの頃、自分の家は経済的に厳しいのではないかと思っていたそうです。10円でも安いスーパーへ行こうとする両親だったからです。藤原さんは、安いところは安く、という大阪らしい生活の知恵だと受け止めました。
テレビ禁止の家庭と「自主勉強ノート」の2年間
山本ひかるさんが通ったのは、家から歩いて10分ほどの地元の小学校です。住んでいたのは昭和町という長屋が残る町で、都会でありながら下町の雰囲気がありました。
昭和町のキャッチフレーズが上質な下町なんです。
藤原さんは「ちょいちょい上質が出てくる」と笑います。山本さんの小学校は2クラスで、1クラス28人ほどでした。友達とは公園で遊ぶような、ごく普通の小学生だったといいます。
そのなかで山本さんが特徴的な話として挙げたのが、小学5、6年生のときの自主勉強ノートです。宿題でもないのに、家にある百科事典などを模写して、毎日先生に提出していました。
小学五、六年生の時に私すごい真面目だったんですよね。自主勉強ノートっていう、宿題出されてもないのに、(百科事典とかを模写して)先生に提出してました。
山本さんは、自主勉強ノートのために「一生忙しかった」と振り返ります。藤原さんが自発的に宿題を作っていたのかと驚くと、山本さんは2年間それを毎日続けていたと答えました。
山本さんは書道とスイミングにも通っていました。スイミングは月額制で何日でも通えたため、「大阪人としては全部行く」と、書道以外の日はすべて通っていたそうです。
藤原さんは、カルチャーも勉強も運動も充実した毎日を「無敵」と評しました。山本さん自身も「今よりもすごいなんか頑張ってた」と話しています。
コナンだけOK、アニマックスはこっそり
山本ひかるさんの家庭は、漫画やアニメが一切禁止で、バラエティ番組も見られませんでした。そこで、母親が仕事に復帰して誰もいない時間に、アニマックス ── アニメを専門に放送するテレビチャンネル。衛星放送やケーブルテレビの契約で視聴できますを見ていたそうです。
うちあれなんですよ。厳しくて漫画とかアニメ一切禁止で、テレビもバラエティとかも全然見れなくて。
アニマックスを見られたのは、母親がWOWOWを契約していたからでした。山本さんはアニマックスで『エヴァンゲリオン』『スラムダンク』『HUNTER×HUNTER』を見ていました。
ただし、地上波でも『名探偵コナン』だけはなぜか許されていました。北爪さんが「頭使いそうだから」と推測すると、山本さんも「そういうことかな」と応じます。月曜日は『犬夜叉』からコナン、そして『世界まる見え』へと流れる時間でした。
テレビ禁止のなかで山本さんが苦労したのが、学校での会話です。当時は『エンタの神様』やドラマ『花より男子』の全盛期で、教室の話題はドラマやバラエティが中心でした。
あんま覚えてないんですけど、(バラエティの話題も)どうにか乗り越えてましたね。
北爪さんは、Aさんから聞いた話を自分が経由してBさんと話すように、情報をつないでいたのではないかと想像します。山本さんがはっきり覚えているのは、一度だけ親に頼み込んで、家族で『トリビアの泉』を見たときのことです。
一回その親に懇願して、トリビアの泉が見たいですって。一回だけよし、じゃあみんなで見ようかって言って。
(トリビアの泉は)そんな真面目に見るやつじゃないですから。途中でいたたまれなくなって、もういいやみたいな。
山本さんは阪神タイガースが好きで、野球はずっと見ていたそうです。少女向けでは『セーラームーン』を見ていて、今も少年ジャンプ系の作品のほうが好きだと話します。
顔はそっくり、性格は真反対の姉と「末っ子ムーブ」
山本ひかるさんと姉は、顔はそっくりなのに性格は真反対だそうです。姉はとても真面目で、部長のような「長」になるタイプでした。
私めっちゃ末っ子、もうなに甘えて乱暴なんですけど、お姉ちゃんはちゃんとこう、長になる系、部長とか。
真面目で部長になるタイプ。ずるができない。ずっと教師をしてきて、今は台湾に住んでいる
甘え上手な末っ子。勉強もするが、甘えるところでは甘える
山本さんの中学校には、小学校のメンバーがほぼそのまま進学しました。藤原さんは、保育園から中学校まで顔ぶれが変わらない長野の田舎の学校と同じだと重ねます。
山本さんが中学校で入ったのはバレーボール部です。本当は陸上部に入りたかったものの、人数が少なく、女子の運動部はバレー部かバスケ部しかありませんでした。
お姉ちゃんが(2個上で)バスケ部で、被っちゃうじゃないですか。同じ部活なんか入ったら絶対いじられるじゃないですか。
山本さんは、仲のいい友達にバレー部が多かったことも理由に挙げています。部活は毎日あり、スイミングは小学校で卒業しましたが、書道は続けていました。自主勉強ノートは終わったものの、授業は頑張っていて成績は良かったそうです。
影のある過去を探す藤原さんに、山本さんは「影ないですね」と答えます。以前のゲスト、ソノダさんの回にも話が及びました。
生徒会新聞を書きたくて入った生徒会
中学時代の思い出として、山本ひかるさんが挙げたのは生徒会です。生徒会にはずっと入っていましたが、動機は生徒会新聞を書きたかったことでした。
山本さんによると、その動機は先生に見抜かれていて、会長にだけはならないようにと言われていたそうです。山本さんは会長以外の役職を渡り歩きました。
結構やっぱり無責任なひょうきんな感じだったんで。勉強ができるひょうきんみたいな感じでしたね。
山本さんは自分のことを「先生にめっちゃ気に入られるタイプ」だったと話します。藤原さんが戦略的なのかと尋ねると、山本さんが挙げたのは授業ノートでした。
学校のノート取るのがめちゃめちゃ好きだったんですよ。勉強も好きだから。今とやってること一緒なんですけど、すごいイラスト描いたりとかで。
山本さんのノートは、ただの落書きではありませんでした。授業の内容を楽しい形にまとめたもので、先生たちがみんな読んでいたといいます。授業をイラストでまとめるノート作りは、今の街の図解と同じ作業だと山本さん自身も話しています。
藤原さんは、山本さんが以前「小6のときの自分のノートを超えられない」と話していたことを思い出します。山本さんは、それがまさに小学校時代の自主勉強ノートのことだと答えました。
物心ついた時から描いていた絵と、美術館の記憶
ノートに絵を描くようになった原点について、藤原さんは山本ひかるさんに尋ねます。山本さんは、子どもの頃から自分でキャラクターを作って漫画を描いていました。「猫のゆりりん」というキャラクターも覚えています。
山本さんが絵を描いていたのは、主に休みの時間です。チラシの裏に描いた絵を、ご飯の時間になると食卓のランチョンマットの下に入れていたそうです。幼稚園の頃も、描いた絵を持ち帰る量が一人だけ多かったと言われていました。
山本さんは、何かに影響されたわけではなく、もともと描く子だったといいます。ただ、両親がよく美術館に連れて行ってくれたことも関係しているかもしれないと話します。
ちっちゃい頃ってでもそんな美術館わかんないから。美術館ってよく真ん中に休憩の椅子あるじゃないですか。
山本さんは、画廊に連れて行かれたことも覚えています。藤原さんは、幼い頃の記憶に残っているものは強く影響を受けたものだけのはずだと指摘しました。北爪さんも、公園の中にある無料の美術館に涼みに入っていたという子ども時代の話を重ねています。
藤原さんは、両親が「この子は描く子だから」と描く環境を用意していた可能性も挙げます。山本さんはそれに同意したうえで、姉の色鉛筆の話をしました。
お姉ちゃんがもらってた36色色鉛筆とか横取りしてました。お姉ちゃんのものは全部私のものやと思ってましたね。
藤原さんは、色鉛筆の色数で教室のヒエラルキーが決まる、という小学生あるあるを持ち出します。山本さんも「それでしたね」と同意しました。姉から横取りした36色色鉛筆は、今も山本さんの家にあるそうです。
第1回の締めは「土系バイト」募集
藤原さんは、第1回はここまでとし、山本ひかるさんの「片鱗」が見えたとまとめました。話はまだ中学時代までで、藤原さんは、これまでのゲスト回のパターンから、過去の話が後からつながっていくはずだと話しています。
最後の告知で、山本さんはアルバイトを募集しました。ぶどう畑での収穫バイトが終わったため、次の「土系」のアルバイトを探しているそうです。
この間までぶどう畑のバイトをしてて、ぶどう収穫して終わっちゃったんで、次の土系のバイトをしたくって。
希望の条件は、松本市内で自転車で通えるところです。北爪さんが「砂利系」もあるかもしれないと茶化すと、藤原さんは重機を使う仕事は土木だと突っ込みました。山本さんは「植物の片鱗を感じるところがいい」と答えています。
まとめ
第1回では、山本ひかるさんの阿倍野での子ども時代から中学時代までがたどられました。グルメな両親による食の英才教育、テレビ禁止の家庭、毎日の自主勉強ノート、ずっと描いていた絵が語られ、いまの緻密な街の図解につながる原体験が少しずつ見えてきます。
- 山本さんは、街に滞在して現地を見るところから地図や建物の図解を描いており、最初のフリーの仕事は2019年に声がかかったリビセンのマップだった
- 大阪・阿倍野の「上質な下町」で、高級志向ではなく美味しいものを大事にする両親のもとで育った
- テレビやアニメが制限された家庭で、コナンとアニマックスを楽しみながら学校の話題を乗り切った
- 小学5、6年生の自主勉強ノートと、授業をイラストでまとめたノート作りが、今の仕事の原点になっている
- 物心ついた頃から絵を描き続けていて、姉から横取りした36色色鉛筆は今も手元に残っている





