福岡にとっての元寇と、二つのシリーズが交差する回
新シリーズのテーマは「甘く見んなよ モンゴル帝国襲来 〜海門わたる未曾有の国難〜」です。いわゆる元寇を扱う回だと、冒頭で発表されました。
元寇は、鎌倉時代にモンゴル帝国が兵力を派遣し、九州に2回攻めてきた出来事です。元寇 ── 13世紀後半にモンゴル帝国(元)が日本に侵攻した2度の襲来の総称。1274年の文永の役と1281年の弘安の役を指す。番組収録地である福岡がまさに舞台になっています。
生まれも育ちも福岡の樋口さんは、元寇を「九州がやばかった時」というイメージで習ったと話します。追い返した、という感覚も含めて地元では身近な出来事だそうです。
やっぱ九州の人そうやって習うんだ。九州がやばかったよつって。
楊さんによれば、母校の福岡高校の校歌にはモンゴル襲来を歌った歌詞があるといいます。「弘安以来六百年」という一節がそれにあたります。
(福岡高校の)校歌に、学校の歌にモンゴル襲来のことを歌われてるからね。
モンゴルは2回攻めてきており、1回目を文永の役、2回目を弘安の役と呼びます。福岡市の市歌にも「元寇十万」を思わせる歌詞が出てくるそうで、出演者たちも収録前は知らなかったと語られています。
今回のシリーズは、二重の意味で過去の番組の続編になっています。2020年配信の「チンギス・カン」編と、2022年配信の「鎌倉武士」編、その両方につながる回です。
実は今回のシリーズで二重の意味でかつての番組の続編になってるんですよね。
クビライ・カンの時代にモンゴル帝国が攻めてくる話であり、同時に日本目線の鎌倉武士編の続きでもあります。二つの流れが世界史上で本当に交差する点が、この回の面白さだと語られました。
神風と鎌倉幕府、イメージとの食い違い
この回では、いくつかの通説が問い直されると予告されます。たとえば、鎌倉幕府が実際どこまで日本中の武力を集約できたのか、なぜ勝てたのか、といった論点です。
楊さんは、元寇といえば「神風」というイメージが強いものの、学術研究では本当にそうなのか疑義も出されていると指摘します。
いわゆる神風ってね、よくイメージで言われるんだけれども、ほんまか?学術研究ではほんまかっていう。
深井さんは、モンゴルが襲来し、神風が吹いて運良く勝ち、鎌倉幕府も一丸となって戦った、という一般的なイメージが、実態とはかなり違うと話します。
さらに深井さんは、鎌倉幕府とは何かが改めて問い直されるとしつつ、先に結論を告げます。この幕府は、ずっとぐちゃぐちゃだったというのです。
ずっとぐちゃぐちゃなところに余計ぐちゃぐちゃさせにモンゴル来るからね。
楊さんは、鎌倉幕府に対する「武家政権最初の幕府だからちゃんとしている」というイメージを、鎌倉武士編の内容から補正します。乱暴で、すぐ刀を抜こうとする人たちが初めて会社を作ったような組織だと表現しました。
教育システムも統治システムも整っていない状態だったため、現代の国家と比べれば圧倒的にぐちゃぐちゃで、ほぼ機能不全に近かったと語られます。この前提のうえで、鎌倉幕府の歴史がたどられていきます。
鎌倉幕府の政治体制を3段階で整理する
鎌倉幕府の政治体制は、学者の佐藤信一先生が3段階に分類していると紹介されます。この区分に沿って話が進みます。
1つ目が将軍独裁政治時代です。これは初代将軍・源頼朝の時代で、逆に言えばその頃くらいしかない、とされます。
2つ目が執権政治時代です。ここで鍵になるのが御家人という存在で、将軍と御恩と奉公の関係で結ばれた家臣を指します。
御家人ではない武士、つまり非御家人もいました。朝廷や貴族、寺社をバックに動く武士で、将軍と主従関係を結んでいない人たちです。将軍の家臣でありながら寺に雇われている人までいて、その複雑さは西洋史の何倍にもなると深井さんは語ります。
執権について、深井さんは改めて説明します。初代執権は北条時政で、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では小栗旬さん演じる北条義時の父にあたる人物、北条政子の父です。
執権は本来、将軍を補佐する立場でした。しかし北条義時、つまり時政の息子の時代には、執権が事実上将軍を上回る権力を持つようになっていきます。将軍が傀儡化していく時代です。
3つ目が得宗専制政治時代です。前回のシリーズでは触れられなかった段階で、得宗とは北条家の嫡流のことを指します。
得宗とは何か、そしてなぜ北条は内紛し続けるのか
得宗は「得」に「宗」と書きます。深井さんは、なぜこう呼ぶのかにあまり意味はないので、まずは単語として覚えてほしいと促します。
北条家が執権を務め権力を握る状態が執権政治ですが、北条家には嫡流以外にもさまざまな家があります。兄弟や叔父から分派した家系が同じ北条家の中に存在し、その人たちと得宗家はずっと内紛していると語られます。
この後内紛の、ずっと内紛してるんです。
この内紛は鎌倉時代に限りません。深井さんは、室町時代もずっと内紛しており、江戸時代以外はずっと内紛していたと表現します。前回の西郷隆盛編でも内紛していた、と付け加えました。
得宗は具体的には、北条時政から始まり、義時、泰時、時氏、経時、時頼、そして今回の主人公である時宗、さらに貞時、高時の代を指します。今回は執権政治から得宗専制政治に入るあたりまでを扱う、と位置づけられました。
得宗という呼び名の由来には諸説あります。北条義時の追号「徳宗」に由来するという説があり、この「徳」は徳のある政治を執行する主体という意味を含むと説明されます。
徳のあるなしという概念は、中国から渡ってきた儒教由来の重要な考え方です。学校で習う永仁の徳政令の「徳政」も、徳のある政治という同じ意味だと補足されます。この言葉は後半の展開でも効いてくると予告されました。
楊さんは、得宗の存在感について補足します。得宗は北条の嫡流ですが、他の北条ファミリーが必ずしも得宗に従うわけではありませんでした。
例として、北条時政の孫にあたる北条朝時が挙げられます。朝時は名越北条氏という一つの家を形成し、苗字を「名越」と名乗りました。
自分らこそが本家だっていうふうな意識があったからなんですよね。
名越氏は「自分たちこそが本家だ」という意識から、得宗に対してよくない思いを抱いていました。これが後々の大きな争乱につながっていくと語られます。北条家は一枚岩ではなく、その中で得宗が本家として立ち、自分たちに権力を集中させようとしてきた、というのがこの時代の構図です。
承久の乱と六波羅探題、幕府が全国に広がる
ここから話は鎌倉武士編に遡り、モンゴル襲来までの流れが振り返られます。まず鎌倉武士編の最後に起こったのが、1221年の承久の乱です。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を目指して挙兵し、北条義時が率いる幕府軍が勝利した戦いです。敗れた後鳥羽上皇は流され、朝廷は政治的主導権を失いました。
この乱の前までは、おおまかに西日本が朝廷、東日本が幕府という勢力分布でした。承久の乱以降、幕府は西国、つまり西日本の武士まで監視するようになります。
西日本の武士や朝廷を監視・管理するため、京都に六波羅探題という組織が置かれました。軍隊を持ち、訴訟や裁判のようなこともする役所です。
そもそも将軍の重要な仕事の一つが裁判でした。御家人同士の争いを裁定し、土地を安堵して戦争にならないようにする役割です。ただ、西国の武士がわざわざ鎌倉まで裁判に来るのは大変なため、京都に拠点として六波羅探題が作られました。
武士が幕府に求めたもの、本物の万人の闘争状態
楊さんは、武士が幕府に求めたことを整理します。一つは自分たちの争いごとを裁いてほしいということ、もう一つは自分の土地を安堵してほしいということです。
何かあれば、(幕府が)安堵してくれたじゃないですか、自分に。今権利が侵されてるので何とかしてくださいっていう風に訴えられる存在がもう幕府なんですよね。
深井さんは、この時代がイメージしづらいとしつつ、本物の「万人の闘争状態」だったと説明します。誰もルールを守らず、いきなり攻められ、耕した田んぼを取られて「これは俺らの土地でした」と言われるような世界です。
自分が強くても土地を守り続けるのは大変で、鎌倉殿の13人のメンバーもバンバン死んでいったと語られます。人々はいつ自分が死ぬかにおびえ続け、他人の権利を侵し続けていました。
そこで、自分たちより優位な将軍が守ってくれる関係が意味を持ちます。守ってくれる代わりに、御家人は有事に命をかけて戦い、平時も警備に駆り出される。これが御恩と奉公と呼ばれる、将軍と御家人の最も重要な関係だと説明されます。
ただし楊さんは、御恩と奉公を美化しすぎない方がいいと注意を促します。もっと生々しく、実利的な関係だったというのです。
得になるんだったらやろう、で、得にならないんだったら裏切ろうみたいなのを繰り返しで、本当にウォーキングデッドとかみたいな、マジの万人の闘争状態ってこういう状態です。
深井さんは、武士が「人の土地を取りがち」であることを、繰り返し繰り返し土地を取ってしまう子どものように戯画化して語ります。何度言っても、少し目を離すとまた土地を取っている、という表現です。
ちょっと目離したらまた土地取ってるみたいな。あ、また土地取った。ダメだよ。
土地がないと生きていけない時代であり、部下を食わせる必要もありました。自分もいつ部下から殺されるかわからないため、部下を安堵させるためにも自分がしっかりしなければならない。こうして無秩序な争いが続いていったと整理されます。
さらに一段上には朝廷や貴族、寺社勢力も存在し、それぞれ土地を押さえていました。常に緊張関係にある、まさに万人の闘争状態だったと語られます。
鎌倉幕府は「超強い労働組合」だったのか
承久の乱以降、鎌倉幕府は本格的に全国を統治し始めます。ただし深井さんは、これは現代の感覚での統治とは違うと補足します。幕府が言うことを聞かせられる御家人が全国にいる、という状態です。
西日本の御家人は数が少なく、鎌倉幕府とのつながりも東の御家人より薄かったと語られます。西の御家人は貴族などとの関係も持ち、どちらにつくか選べるような立場でした。
西日本の御家人には、貴族に雇われて給料をもらう従業員でありながら、将軍の御家人でもある、という二重構造の人もいました。ヨーロッパで複数の主君に仕える例と似ていると指摘されます。
楊さんは、鎌倉幕府を関東の武士たちが集まって作った組織だと表現します。西の武士から見れば「関東のやつらが作っている団体」というイメージだったといいます。
スーパー強い武力持った労働組合みたいな感覚ある、僕は。
深井さんは、幕府は政府というより「超強い労働組合」に近いイメージだと語ります。ただし征夷大将軍として守護任命権を持つなど、政府の権限も併せ持っていた点が、通常のイメージとの食い違いだと補足しました。
将軍権威の失墜と、三代で断絶する源氏将軍家
ここから、将軍権威がどう変化していくかがたどられます。初代将軍・源頼朝は、実力ではなく血の尊さから将軍に躍り出た人物でした。
頼朝自身に実力はなく、北条家も特別な実力があったわけではありませんでした。しかし北条政子と結婚し、その父・北条時政の支援を受けて幕府を建てることに成功します。北条家はその功績で、筆頭の外戚として幕府中枢に入り込みました。
頼朝の存命中は将軍本人の権威が圧倒的でした。しかし頼朝は1199年に早くに亡くなり、将軍権力は急速に不安定化します。二代将軍・源頼家は若く、有力な御家人たちとの関係が悪化していきました。
この状況で北条時政は、十三人の合議制を整えます。ただしこれは制度に則ったものではなく、有力と見なした13人で合議しているだけのものでした。将軍単独の政治から、有力御家人の集団政治へ移っていったと整理されます。
北条時政は執権となり、本来は将軍を補佐する役職でありながら、政務の決裁権や御家人への命令権、人事権を握るようになります。こうして将軍より力を持つようになっていきました。
源氏の将軍家は、三代目で断絶します。1219年、三代将軍・源実朝が、二代将軍・頼家の子、つまり甥に殺されました。頼朝の直系男子はこれで絶えてしまいます。
この時点で北条氏、二代目の義時はかなりの力を持っていました。しかし、みんなの上に立てるような血統ではありませんでした。血統主義が強いこの時代、それは大きな弱点でした。
血統が説得力を持ってないんですよね、北条氏は。
摂関家から将軍を迎える、血統というナラティブ
血統で説得力を持てない北条氏は、自分が将軍になる道を選びませんでした。代わりに、京都の摂関家から将軍を迎えることにします。
摂関家はトップ5の貴族とも言える5つの家で、深井さんは、頼朝よりもさらに血のいい人を上に迎え入れる選択だったと説明します。全員をまとめるための判断でした。
この背景には、頼朝の直系子孫がいなくなっていた事情があります。三代将軍・実朝には実子がおらず、二代将軍・頼家の子たちは出家していて、いざこざもあったため継がせる選択肢がありませんでした。
源氏には足利氏や甲斐源氏など他の家もいました。しかし彼らを将軍にすると激しい派閥抗争が起こりそうだったため、抗争が起こりにくい人物を遠くから呼んできた、というのがこの時の決断です。
ここにね、血統っていう、なんかナラティブを使ってるのがすごいですよね。
血がよければ、実力で勝ってもしかたないと納得させられる、という論理でした。連れてこられたのは三寅という子どもで、この摂関将軍を将軍に据えて幕府を運営していきます。
その後、前シリーズの主人公の一人でもあった北条義時が、1224年に62歳で亡くなります。死因は、日頃患っていた脚気に加え、脚乱という病気を併発したためではないかと吾妻鏡は伝えており、今でいう急性胃腸炎だったとされます。
貧弱な統治機構と、三代目・北条泰時の宿命
義時の死後、その息子・泰時が跡を継ぎます。泰時は承久の乱で出兵し、六波羅探題にいた人物でした。次期執権を六波羅探題に派遣していたことになります。
深井さんは、当時の鎌倉幕府がいかに統治機構として貧弱だったかを想像してほしいと語ります。中央には国会にあたる場に13人程度しかおらず、西日本全体のためには京都に六波羅探題という役所が一つあるだけでした。
京都に一つ役所があるだけってことです。
樋口さんは、これでは九州も四国も治められないのではないかと反応します。官僚を育てているわけでもなく、行政する力そのものが乏しい、まさにスタートアップのような状態だったと整理されます。
義時の死のときにも北条家では血が流れており、代替わりのたびに血が流れる状態が続いていました。深井さんは、そのたびに人が死んでいくのが鎌倉時代だと語ります。
北条泰時は、鎌倉時代から数えて三代目の執権にあたります。深井さんは、三代目とは組織を立ち上げた人たちがいなくなる時代だと位置づけます。
三代目っていうのは立ち上げた人たちがいなくなる時代なんですよ。
新しい仕組みを作ったカリスマがいないまま、それでもなんとかしなければならないのが三代目の宿命です。幕府のブレーンだった大江広元や北条政子も亡くなり、初代のような「この人が言えばみんな聞く」という存在が失われていきました。
執権と連署、そして評定衆という合議のかたち
泰時にも御家人を従わせるだけの力はありませんでした。承久の乱で活躍した有力な御家人が多く、彼らに言うことを聞かせるのは難しかったからです。
そこで、執権に加えてもう一人、連署という立場が置かれました。実際に執権に連なって署名したことからこう呼ばれ、副執権のような役割です。学者によっては執権とあまり権力が変わらなかったとも言われます。
連署には、義時の弟にあたる年配の北条時房が就きました。深井さんは、これがスタンダードな形だと説明します。連署が得宗家ではない年配の北条、執権が若い得宗(嫡流)という組み合わせです。
若い得宗(北条家の嫡流)が就く。政務の決裁権や人事権を握る中心的な立場。
得宗家ではない年配の北条が就く。年長者として御家人の同意を得やすくする役割。
この体制で泰時が行ったのが、評定衆の設置です。かつての十三人の合議制がなし崩し的な集まりだったのに対し、評定衆は制度として作られ、最高議決機関に位置づけられました。訴訟もここで裁かれます。
評定衆で、今の政府で無理やり例えると国務大臣みたいな、なんかそんな立ち位置ですね。
執権を総理大臣、連署を副総理にたとえるなら、評定衆はそれぞれの大臣にあたる、と説明されます。彼らが物事を決め、将軍はまだ幼い三寅であり権力がない状態でした。あえて幼い人物を連れてきた狙いが、ここで効いています。
評定衆は発足当時11人で、そこに執権の泰時と連署の時房を加えて13人で合議していたとされます。またしても13人という数になった点に、樋口さんは反応しました。
十三人で合議しがちですよね、鎌倉幕府は。
中洲での大喧嘩、仕組みでは収まらない武士たち
楊さんは、仕組みを作ってもすぐには機能しなかったと語ります。紛争の解決手段として即座に相手を殺すことを選べる人たちだからです。それを示すエピソードが紹介されます。
北条泰時が執権の頃、ある年の10月末の午後、鎌倉のメインストリートにある下馬橋という繁華街が舞台です。女性の店員が酒や食べ物を提供する、今でいうキャバクラのような店が並んでいたといいます。
今でいうとね、歌舞伎町とか中洲みたいなところなんですけれども。
その一軒で、昼間から御家人最有力勢力の三浦一族が騒いでいました。三浦氏は源家に代々仕えてきた名門で、その集団の中には現役の評定衆、つまり国務大臣にあたる三浦泰村もいました。
向かいの店では、栃木あたりの最大の豪族で藤原氏の流れを汲む小山一族が、同じように騒いでいました。小山側の結城朝村が「遠笠懸けをやろう」と言い出します。
店を出た結城朝村は、道端を走る野良犬を弓矢で射ようとします。しかし酔っていて手元が狂い、矢が向かいの三浦一族の店に飛び込んでしまいました。
歌舞伎町のさ、往来でさ、酔って拳銃を放って、向かい側の店に打ち込んだっていうやつですよね。
当然、双方が店から出てきて罵り合い、睨み合い、縁者や無関係の者まで刀を持って集まってきます。喧嘩の知らせが執権の耳に入り、慌てて使者を派遣して騒ぎを収め、翌日に両家を呼び出して処分を下したといいます。
深井さんと楊さんは、両家とも名門中の名門であり、三浦義村クラスの国務大臣がこうした騒ぎに関わっていたことに驚きを示します。彼らは自分たちを勇士と称しましたが、朝廷の貴族からは「東に住む野蛮人」と蔑まれる存在でもありました。
御成敗式目、カリスマなき時代のルール化
こうした人々をまとめなければならないのが泰時の仕事でした。その中で最も有名なのが御成敗式目です。これは一言でいえば、御家人に対するルールでした。
ただし深井さんは、これを現代的な法律とは区別します。当時は中国由来の律令制という法もありましたが、御成敗式目は御家人に聞かせるためのもので、法律というより会社の制度に近いといいます。律令制も御成敗式目も、現代の法治国家に比べればほとんど機能していなかったと補足されました。
それでもルールを制定したのは、カリスマによって従わせる統治ができなくなったからです。三代目としてルール化していかなければならない、という危機感がありました。
御成敗式目の内容は、全体の3分の1が所領と裁判、つまり土地とその争いに関するものでした。承久の乱の後、西国を東国武士が治めるようになり、大量の土地が恩賞として分配されたことが背景にあります。
深井さんは、北条政子の名演説によって御家人が承久の乱に向かったという話を振り返りつつ、その一面を語ります。武士からすれば、勝てば多くの恩賞が得られると思えたからこそ参加した、という実利的な側面です。
実際、東国の武士は西国の土地の地頭職などを与えられ、好き勝手をしました。取れるだけ金を取り、年貢を納めた相手にも「領収書をもらっていない」と迫ってもう一度出させるような振る舞いまであったといいます。
西国にも立場は弱いながら御家人がいました。その人たちを守るためにも、やってはいけないことを東国の御家人に示す御成敗式目が必要だった、と整理されます。
同輩に気を使う執権、明文化という自衛
楊さんは、御成敗式目に至る泰時の判断基準を補足します。泰時には、自分は将軍にはなれず、北条政子のようなカリスマ性も持ちえないという自覚があったのではないか、といいます。
政子亡き後の鎌倉幕府では、将軍を除けばみな御家人でした。血筋や所領、兵力に違いはあっても、建前上は一律に御家人であり、北条氏にとっては同輩にあたります。だからこそ、彼らに気を使わなければなりませんでした。
お前調子に乗ってるな、執権だからっつって言われたらもう終わりですからね。
執権とはいえ、調子に乗っていると見なされれば殺されかねません。そこで、合議のプロセスをきちんと踏むために、ルールを文字に落とそうとしたのが御成敗式目だと説明されます。
深井さんは、これを組織を作るときの正当なプロセスだと語ります。スタートアップでも、人数が増えて判断の場面が増えると、判断のコストを下げ、担当者ごとの不整合をなくすために明文化が必要になる、という流れと同じだといいます。
それまでの鎌倉幕府は、先例や慣習に従って判断していました。よく言えばフレキシブル、悪く言えば場当たり的な運営です。泰時はこれをまずいと考え、共通の規範を作ろうとした、と整理されます。
樋口さんは、幕府設立を経験した人がいれば「そもそも幕府とは何のためにあるのか」と語れたが、それがいなくなったために名分に頼るしかなくなった、とまとめます。明文化は、泰時自身の身を守るためでもありました。
18年の安定と、モンゴル来襲直前の権力集約
泰時が頑張った結果、彼の治世である約18年間は、大きな抗争や内戦のない、比較的安定した時期になりました。1224年から1242年までのことです。
連署の時房も泰時の亡くなる2年ほど前まで生きており、この2人でおよそ16年間、安定した時代を出現させることができた、と語られます。
泰時の嫡子・時氏は28歳で病死したため、跡は孫が継ぎます。19歳で祖父の跡を継いだ北条経時が執権となりますが、わずか4年で病により亡くなります。
跡を継いだのが北条時頼、五代目の執権です。この時頼と、その息子・時宗の二代にわたって、北条得宗家は専制政治に向かっていきます。
散り散りだった多くの御家人がいる状態から、権力基盤を固め、中央集権化することにある程度成功します。そして、その成功した瞬間にモンゴルが来る、というのがこの回の核心です。
深井さんは、もう少しぐちゃぐちゃな時にモンゴルが来ていたら危なかったかもしれない、と語ります。一方で、モンゴルが来たからこそ中央集権化に成功した、という卵が先か鶏が先かの関係でもありました。
樋口さんは、外敵があるとまとまるのはホモサピエンスがよくやることであり、外敵への対抗という大義名分を政治的リソースとして利用できると補足します。緊急事態が権力集約を後押しした、という構図です。
若き時頼の粛清、仁義なき万人の闘争
覚えておくべき北条家の人物として、時政、義時、泰時、そして時頼と時宗が挙げられます。特に時宗はモンゴル来襲時の執権にあたります。
時宗は八代目の執権です。時頼が五代目でありながら、その息子の時宗が八代目という点はややこしく、間に何人かが挟まっています。
時頼は19歳で執権に就任します。泰時の時代はまだ得宗家が専制する体制ではなく、他の御家人が強かったのに対し、時頼は反対勢力を反乱直前にボコボコにして殺し、専制政治化を進めていきました。
たとえば、かつて三寅と呼ばれた将軍は九条頼経となっていましたが、この人物と、名越氏などの北条一門が結託し、得宗家より権力を高めつつありました。時頼は両者をともに叩き、九条頼経を京都に追放し、名越光時を流罪にします。
さらに、下馬橋の喧嘩に出てきた三浦家や、千葉家といった超有力御家人も排除しました。深井さんは、この排除の過程がいかに仁義のないものだったかを語ります。
当時は、裏切る意思の有無にかかわらず、力が増しただけで殺されかねない世界でした。三浦氏が「裏切る気はない」と言い、時頼がその家に泊まっていながら、怪しいと感じると別れ際の直後に攻める、という展開だったといいます。
全然裏切るとか思ってないですよとか言って、本当止めていただいてありがとうございますとか言って別れて行って殺しに行くみたいな。
樋口さんは、これを「仁義ねえ」と評します。深井さんも、もう少しコミュニケーションしようよ、と冗談めかしつつ、これが万人の闘争の実態だと語ります。
三浦氏や千葉氏の排除を裏で画策したのが、同じ有力御家人の足立氏でした。足立氏も鎌倉殿の13人の一人で、頼朝が流罪だった頃から仕えてきた付き人でした。北条家と外戚関係を結んで近づき、対抗馬を倒していった、と説明されます。
この時代を生き延びるには、そして次回モンゴルへ
楊さんは、もし自分たちがこの時代にタイムトラベルしても、会話すらできないだろうと語ります。ここまで万人の闘争の状態では、人文知よりも武力が大事だからです。
ここまで万人の闘争だと人文知より武力の方が大事ですよ。
一方で楊さんは、漢文が書けるという特殊スキルなら売り込めるかもしれない、と冗談を続けます。切られる直前に「漢文が書けて、しかも読める」と言えば、朝廷との窓口担当として採用されるかもしれない、というやり取りです。
時頼が若くしてライバルを倒し、専制政治を作り始めたところで、次回はモンゴルの側に話が移ります。深井さんは、これらがほぼ同時並行で進んでいたと語ります。
結論としては、モンゴルも「むちゃくちゃ」だと予告されます。楊さんは、モンゴルを鎌倉武士の上位互換だと表現しました。活躍のフィールドがユーラシア大陸だからです。
深井さんは、兄弟や親戚同士で殺し合い、叔父すら信頼できずに殺さなければならないこの時代に生まれなくてよかった、と語ります。モンゴルもそうした状態にあったとして、次回はチンギス・カンの復習から入ることが告げられ、第1話は締めくくられます。
まとめ
新シリーズ「モンゴル帝国襲来編」の第1話は、元寇そのものではなく、その舞台となる鎌倉幕府がいかに不安定な組織だったかを掘り下げる回でした。内紛が絶えず、統治機構も貧弱な幕府が、モンゴル来襲直前にようやく権力を集約していく過程がたどられます。
- 元寇はチンギス・カン編と鎌倉武士編という2つのシリーズが交差する出来事で、福岡にとっても身近な国難だった
- 鎌倉幕府の政治体制は将軍独裁、執権政治、得宗専制の3段階に整理され、得宗とは北条家の嫡流を指す
- 鎌倉時代は御家人が土地と裁判を将軍に求める「万人の闘争状態」で、御恩と奉公も実利的な関係だった
- 三代目・北条泰時はカリスマなき時代に御成敗式目を定め、合議と明文化によって組織を安定させようとした
- 時頼・時宗の二代で得宗家が専制政治へと権力を集約し、中央集権化に成功した瞬間にモンゴルが来襲する





