攻める側が城壁を築く?襄陽・樊城の包囲
モンゴル帝国は日本へ使者を送り続けるかたわら、同じ時期に南宋を激しく攻めていました。樋口さんは冒頭で、日本はその使者を「ずっとシカトしてる」と状況を振り返ります。
深井さんによると、モンゴル軍が狙ったのは、長江の支流である漢水の流域にある襄陽 ── 現在の中国湖北省にある都市。漢水をはさんで樊城と向かい合い、南北をつなぐ交通と軍事の要地として知られますと、その対岸の樊城という2つの都市です。南宋はこの地域を中国大陸中央部の軍事と交通の要衝とみなし、国力を集中させた最大の防衛拠点にしていました。
絶対取られたくないし、だからこそ取るのがめちゃくちゃむずいっていう場所になってたと。
モンゴル軍がとった作戦は、2つの大都市を取り巻く城壁を自分たちで建設し、丸ごと包囲して補給を断つというものでした。樋口さんは、城壁は普通は守る側が作るものだと驚きます。
普通は守る側が作るものですからね、城壁ってね。攻める側が作るもんじゃない。
モンゴル軍はまず襄陽の包囲を始め、坑道、堀、土塁、攻城兵器を使ってじりじり攻め寄せ、守備側の崩壊を待ちました。深井さんは、これが月単位どころか年単位で計画された作戦だったと説明します。
深井さんは、クビライが長期戦を得意とし、忍耐強く必ず勝つタイプの人物だったと話します。樋口さんは、中華王朝の城壁が頑丈で高いことに加え、クビライが漢民族の土木技術者を重用して工兵隊にしていたことが、この作戦を可能にしたのではないかと考えています。
包囲の具体的な形も語られます。襄陽の南側では山の稜線を基礎に陣地を築き、数十キロにわたる土塁の封鎖線を作りました。北側は川なので封鎖できると考えていたところ、南宋が襄陽と樊城を連絡橋でつなぎ始めたため、モンゴル軍は樊城の北側にも封鎖線を築き、2都市をぐるりと囲んでしまいます。
10万対10万の決戦と、城壁を砕く回回砲
包囲された2都市を救うため、南宋は水陸合わせて10万人の軍を送り出します。率いたのは范文虎 ── 南宋の武将。襄陽救援軍を率いたもののモンゴル軍に敗れ、のちに元に降った人物として知られますという将軍で、深井さんと樋口さんは日本語読みの「半分こ」に聞こえる響きでひとしきり笑い合います。
南宋にとってこの救援軍は、予備兵力や皇帝の近衛軍まで投入した、負ければ終わりの最後の賭けでした。ところがモンゴルはこの動きを早くから察知し、本国から増援を呼んで同規模の兵力で迎え撃ちます。
この人たちの恐ろしさはただ戦争に強いじゃないんです。普通に情報戦で世界最強レベルなんですよ。
深井さんは、鎌倉時代の日本の内紛が300対500程度で「大きな家同士の戦い」と言われていた中で、大陸では10万対10万で戦っていたと規模の差を強調します。この決戦に南宋は敗れ、将軍も捕らえられました。
それでも襄陽と樊城は、そこから2年間持ちこたえます。均衡を破ったのは、モンゴルがイスラーム圏から技術を導入した投石機、回回砲でした。深井さんは、回回の「回」がイスラームを意味すると説明し、約90キロの石を遠くまで飛ばしてくる兵器だったと話します。
城壁に命中すると2メートルもの大穴が穿かれたって書いてあるから。
回回砲で開いた穴からモンゴル軍が突入し、孤立無援の樊城が陥落します。モンゴル軍はさらに樊城の城壁内に回回砲を運び込み、襄陽へ4か月間撃ち続けました。家屋や防御施設が吹き飛ばされ、市民は恐怖に陥り、兵士の士気は失われたといいます。
メンタル死ぬわ、こんなんされたら。
襄陽・樊城の攻略の流れを整理すると、次のようになります。
包囲
2都市を囲む城壁と数十キロの土塁で補給を断つ
救援軍の撃破
南宋の10万の救援軍を、察知したモンゴル軍が同規模で迎え撃ち破る
籠城2年
両都市はなお2年間持ちこたえる
回回砲
約90キロの石で城壁に大穴を開け、樊城が陥落
襄陽陥落
樊城から4か月砲撃を受け、襄陽も落ちる
この戦いの後、南宋はまともに反撃できない国力になり、滅亡がほぼ確定した戦況になったと深井さんは語ります。
国号は元へ。大都と2500キロの大運河
南宋攻めの最中に、モンゴル帝国は国号を元と改めます。深井さんは、南宋を滅ぼしていく過程で中国王朝と入れ替わったとも言え、チンギス・カンから数えて5代目のクビライの代で中国王朝化したと説明します。
クビライは大元の皇帝として新たな首都・大都を建設し、さらに大都と現在の杭州を結ぶ1700キロの大運河を作り始めました。以前からある運河とつながり、全長は2500キロに及ぶといいます。深井さんは、日本でいえば北海道の富良野から鹿児島ぐらいまでの距離だとたとえます。
これ作れる国力もそうだし、作る必要があるっていう風に判断したのもすごい。なんかこう、経営者としての視座が違いすぎる。
深井さんは、この工事をおよそ30年で進めた動員力に驚きます。南宋の地域で産出される富や物資を運河で大都へ、さらにモンゴル高原へ運ぶインフラの描き方であり、この整備があったから今の北京が首都になれたのだと話します。
深井さんが読んだ本では、江南から年間300万石の米を運んでいたとされます。一度作ってしまえば陸上輸送より安くなるとはいえ、そんな巨大事業を仕掛ける相手を日本は無視していたわけで、二人は「逆に日本すげえってなる」と笑います。
高麗の2度の反乱と、三別抄からの手紙
同じ時期、モンゴルに一度恭順した高麗では2度の反乱が起きます。深井さんは、高麗の自立心の強さを語りつつ、これが日本侵攻までの時間稼ぎになったと位置づけます。
高麗国王の元宗は、人質としてクビライに会ったのち帰国を許されて王になった人物で、モンゴルとの宥和政策をとりました。当時の都は江華島にあり、モンゴルに従う以上は島を出ようという意見が出ます。これに強く反対したのが、江華島で実権を握っていた勢力でした。
反対派のリーダーとなった林衍は、元宗を排斥してクーデターを企てますが、元宗側がモンゴルの力を借りて打倒します。深井さんはこれを文臣と武臣の争いとし、日本でいえば朝廷と幕府の戦いで幕府側が負けたような構図だと説明します。
その後すぐに起きたのが三別抄 ── 高麗の武臣政権を支えた精鋭部隊。左別抄・右別抄・神義軍の総称で、元への抵抗を続けたことで知られますの反乱です。深井さんは、もともと反乱鎮圧のための精鋭軍だった彼らが、モンゴルの傀儡政権に反旗を翻し、徹底抗戦の構えをとったと話します。反乱は全羅南道一帯を制圧するまでに広がりましたが、モンゴルと高麗の連合軍に制圧されました。
三別抄は日本にも手紙を送り、モンゴルは必ず日本を攻めるから米と救援の兵を送ってほしいと求めていました。ところが、先に高麗の使者から服属したと聞いていた朝廷は混乱し、深井さんによれば「ん?ってなって終わりました」。
その、ん?と思ったら聞かんと。
樋口さんは、誰がどの立場で言っているのかわかりにくかったのかもしれないと理解も示します。三別抄の反乱は済州島への総攻撃で終わり、深井さんは、クビライにとってこうした同時多発の戦争や反乱は「業務の一環」のような日常だったのだろうと想像します。
使者を3度無視。朝廷を止めた幕府の判断
高麗の反乱で稼がれた時間の中で、幕府は九州に所領を持つ御家人に防備を固めるよう伝えます。ただし具体的な指示は出ておらず、深井さんは、準備には人によってグラデーションがあったと見ています。
そこへモンゴルの3度目の国書が届きます。三別抄の手紙が届いた直後、クビライの命を受けた使者の趙良弼が100名の従者を連れて今津に上陸し、大宰府に入りました。使者は都へ上り、国王に直接国書を渡すことを求めます。
国書には、日本がすぐに使者を送ってくれば親密な交際が始まり両国にとって美事だが、いたずらに日を費やして兵を動かす結果になるのを誰が好むだろうか、という趣旨が書かれていました。深井さんは、返事をしないと攻めるしかなくなるという念押しであり、クビライも海を越える遠征のコストを考えれば攻めたくはなかったのだろうと話します。
樋口さんは、この外交姿勢をクビライの平和的なアプローチと見る研究もあると紹介しつつ、番組としては「ん?違うかな」という判断だと述べます。深井さんも、言い方が柔らかいだけで、服属しなければ軍事力を使うという主張は一貫していると続けます。
今回ばかりは朝廷も本当に攻めてくると考え、会議を開いて返事を送ることに決めました。しかし幕府が「どうせ戦うのだから送っても仕方ない」と止め、使者は天皇に会えないまま帰国します。
こうして日本は、1700キロの運河を掘るような相手を3度無視した国になりました。深井さんは「面白いよね」と、その異様さを笑いまじりに振り返ります。
全員悪党?九州で見えた幕府の統治の穴
幕府は九州に所領を持つ御家人に異国の防御を命じますが、ここで問題が出てきます。当時の御家人は遠隔地に複数の所領を持つことが多く、関東の御家人が九州に土地を持っていても、本人が現地にいなければ戦えません。
さらに厄介だったのが悪党の存在です。深井さんによると、悪党とはもともとルールに従わず実力行使する人々のことで、貿易で儲かる港を奪うといった行為をしていました。
カツアゲなんよね、発想が。
しかも悪党と御家人の関係は単純ではありませんでした。御家人とズブズブの悪党もいれば、御家人自身が悪党の場合もあり、北条家の中にも他人の土地を勝手に奪う者がいたといいます。
全員悪党。
本当に全員悪党。
幕府にとって悪党が問題なのは、命令を聞かず軍事動員できない可能性が高いうえ、土地を奪われた御家人の兵力が弱まってしまうからです。深井さんは、有力御家人の多い東国と違い、肝心の西国、特に九州には幕府の勢力があまりないことがわかってきたと話します。
九州や西国では、御家人と非御家人の境界さえ曖昧だったといいます。承久の乱の後になし崩しに組み込まれた地域で、幕府のガバナンスの効き方が関東とはまったく違っていたことが、モンゴル襲来を前に改めて調べて初めてわかったというのです。
そこで幕府は、九州の守護 ── 鎌倉幕府が国ごとに置いた軍事・警察の責任者。深井さんは軍事動員権を持つエリアマネージャーのような存在とたとえていますに筑前・肥後の要害を守るよう命じ、大友氏などを通じて九州御家人に交代で警備にあたる警護番役を課しました。承久の乱から約50年、大きな戦争のなかった西国に、久しぶりの緊迫した空気が広がっていきます。
遺言を書いて大宰府へ。九州武士の覚悟
臨戦態勢に入った九州の空気を伝える例として、深井さんは薩摩の御家人の成岡忠俊が残した譲状を紹介します。当主の息子である忠俊は、代官として大宰府に赴く際に、息子の熊す丸に宛てて所領を譲る文書を書いていました。
譲状 ── 所領などの財産を譲るとき、その事実を証明するために所有者が譲る相手に宛てて作った文書。中世の相続を知る重要な史料ですには、航海には危険がつきもので、戦場に赴く自分に万一のことがあれば、所領を嫡子の熊す丸に譲り、子孫まで妨げられずに治めるべきだと書かれていました。海を渡って高麗やモンゴルと戦う可能性まで想定していたことがうかがえます。
なんかこれを書いて、つまり死ぬかもって思ってる。
深井さんは、こうした死を覚悟する感覚は九州の武士に強く、関東の人々はそこまで思っていなかったと話します。樋口さんは、返事を無視する朝廷がいる一方で、現場では死ぬ覚悟を固めている人たちがいる対比を面白がります。
朝廷、幕府、九州の御家人それぞれの受け止め方を並べると、温度差がはっきり見えてきます。
| 立場 | 受け止め方 | とった行動 |
|---|---|---|
| 朝廷 | どうしようと迷う | 国書への返事を送ろうとした |
| 幕府 | どうせ戦うことになる | 返事を止め、九州に防備を命じた |
| 九州の御家人 | 自分たちがやるしかない | 遺言を書いて警備に赴いた |
北条時宗の粛清と、ついに文永の役へ
使者が来ている間、10代半ばで連署となり、のちに執権となった北条時宗は、なお残る反時宗派の排除に動きます。深井さんは、モンゴル来襲への危機感から、近くの怪しい勢力を先に潰しておこうとしたのだろうと見ています。
名越氏の兄弟は、クーデターを企てているとして突然攻められ殺されました。ところがその後、間違いだったとして攻めた側が即日処刑され、名越氏の領地だけはそのまま奪われます。深井さんは、すべてが陰謀だった可能性があると話します。
その最高幹部をいきなり殺して、殺したやつも殺すみたいな。マジであのなんかマフィア映画で見たことあるやつやってますね。
4日後には京都にも波及し、六波羅探題の長官を務めていた時宗の兄・北条時輔も突然攻められて殺されます。樋口さんは、殺すこと自体に加え、反抗すればこうなると武家社会に見せつける「武威の発動」が目的だったとする研究を紹介します。
深井さんは、時宗が関与したかは史実としてはわからないと断ったうえで、土地を得して得をしたのが時宗であることから、裏で動いていたと推測されていると説明します。樋口さんは、鎌倉のトップが兄弟を殺すのは源頼朝が義経を殺して以来、約83年ぶりで、その衝撃も大きかったと付け加えます。
この結果、安達泰盛の安達氏が外戚として台頭し、北条と安達のツートップ体制ができたところで、クビライはついに日本を攻めると決めます。樋口さんは、時宗の行動をモンゴルが来る前に自分の地盤を固めるという単純な論理だとまとめ、深井さんも、モンゴルはモンゴルで服属しない者をすべて攻めているだけだと応じます。
こうして話は、1度目の元寇である文永の役を扱う次回へとつながっていきます。
まとめ
今回の回では、土木と投石機で南宋の要衝を落とすモンゴルの圧倒的な国力と、使者を無視し続けながら国内の粛清と九州の防備に追われる日本の姿が対比的に描かれました。朝廷、幕府、九州の武士の温度差が、文永の役直前の緊張を浮かび上がらせています。
- モンゴル軍は襄陽・樊城を城壁で丸ごと包囲し、回回砲で城壁を砕いて南宋を追い詰めた
- クビライは国号を元とし、大都と全長2500キロの大運河を整備した
- 三別抄の救援要請も3度目の国書も、日本は結局返事をしなかった
- 悪党の横行で九州の統治の弱さが露呈し、幕府は守護や警護番役で防備を急いだ
- 北条時宗は名越氏や兄の時輔を排除して権力を固め、クビライは日本攻撃を決断した


