侵攻前夜、幕府が最初に調べたのは土地だった?
前回、高麗の反乱を鎮圧したことで、クビライの側から見ると日本侵攻を阻むものはなくなりました。深井さんによると、クビライ側は1274年7月の攻撃を決めます。実際に元軍が来たのは、予定より3か月遅い10月でした。
日本の鎌倉幕府は、2回目の国書がかなり攻撃的な内容だったことから、早い段階で襲来を覚悟していました。その防衛準備の中で、幕府は新しいルールをいくつも定めています。
襲来のおよそ2年前から、幕府は諸国に大田文 ── 国ごとに、田地の面積や所有者を記した土地台帳。鎌倉時代に国衙や幕府が作成させ、課税や軍役の基礎資料として使われましたの提出を命じます。深井さんは、太閤検地と同じように、どの土地を誰がどれだけ持っているかを整理した基本台帳だと説明しています。
鎌倉幕府がわざわざ土地台帳を作らせたのは、土地の実態と記録が大きくずれていたからです。勝手に土地を奪う者がいたり、恩賞として与えたはずの土地が別の人のものになっていたりしました。
(土地がずれてると)御家人集まれって言った時に、土地がないやつが集まってきてしまって。土地がないってことは兵隊持ってないってことだから。
兄弟に財産分与を繰り返すと、一族の土地はどんどん細かくなります。生活のために土地を質に入れ、取り戻せないまま「御家人です」と名乗り続ける人もいました。こうした御家人は、御恩と奉公の「奉公」を果たせません。
借金を踏み倒してよし、という号令の危うさ
大田文の調査の結果、鎌倉幕府が恐れていた事態が実際に広く起きていたことがわかります。そこで出されたのが他人和与禁止令です。将軍から恩賞として与えられた土地を他人に譲ってはいけない、というルールです。
深井さんは、実態としては贈与というより売買か、勝手に奪われたケースだろうと補っています。
さらに思い切ったのが御家人所領回復令です。質に入れたり売ったりした土地を、御家人は無償で取り戻してよいと幕府が認めました。
そのなんか今までの取引を御家人に関しては踏み倒していいよ、もう幕府が認めるよと。もし文句言ってきたら幕府がボコすよって言ってるってこと。
いや、それ(土地を)買った人かわいそう。
深井さんは、こんなことをすれば誰も御家人にお金を貸さなくなると指摘します。実際にそういう現象が起きていったといいます。
深井さんはこの制度を、墾田永年私財法 ── 743年に出された、新しく開墾した土地の永久私有を認める法。のちの荘園拡大につながったとされますと同じように、中長期の合理性を踏まえた政治判断がまだできない時代の例として挙げています。そうした判断ができるようになるのは、江戸時代ぐらいからではないかという見立てです。
しかも御家人所領回復令には執行力がありませんでした。取り戻せた人もいたものの、全員がそうできたわけではないようです。言うことを聞いているかどうかも、鎌倉幕府には確かめようがありませんでした。
良くも悪くもというか、まあなんか要はガバナンスが全然効いてないっていう感じですね。でも言ってはおるみたいな。
楊さんは、幕府の号令が刺さる武士もいれば刺さらない武士もいたと補います。深井さんは、鎌倉から遠い武士ほど言うことを聞かなかったと付け加えています。
こうした号令は、のちの永仁の徳政令 ── 1297年に鎌倉幕府が出した法令。御家人が手放した所領を無償で取り戻させる内容を含み、日本史の教科書でよく知られていますにつながっていきます。深井さんは、近代以降の法とは性質の違う「法」だと断っています。
幕府がようやく把握できたのは兵力だけ
御家人所領回復令の翌年、鎌倉幕府は御家人に対して、3種類の土地を証拠書類とともに整理して出すよう命じます。これで幕府は、御家人がどんな土地を持っているかを体系的に把握できるようになりました。
| 種類 | 中身 |
|---|---|
| 本領 | 将軍の御家人になったとき、自分の土地として認められた土地 |
| 恩賞の土地 | 本領とは別に、手柄を立ててもらった土地 |
| 売買の土地 | 売買などで手に入れた土地 |
深井さんが重要だと強調するのが「本領」です。鎌倉幕府ができる前から土地を持っていた武士は、将軍に「その土地をそのまま持っていてよい」と認めてもらいました。これを本領安堵 ── 将軍が御家人の先祖伝来の所領を保証すること。御恩と奉公の関係の中で、御恩の代表的な形でしたといいます。
本領安堵がなければ、少しでも強い武士が実力で攻めてきます。幕府が「ルールを破れば許さない」と言ってくれることで、武士は毎回自分で土地を守らずに済みました。
承久の乱で天皇側についた西国の武士から奪った土地も、恩賞として配られていました。その土地が他人に奪われるなど混乱していたことが、北条泰時の時代の御成敗式目につながったと深井さんは整理しています。
ただ、他国が攻めてくる局面での準備が、自軍の兵士の数を把握しろという命令だけだった点を、深井さんは問題視します。
知らねえんだみたいな。現代の我々からしたらさ、あ、兵力わかんないんだみたいな。だから幕府がわかったの兵力だけだからね、この段階では。
楊さんは、孫子の兵法のような知識も活かされていなかったと話します。それでも、この鎌倉幕府がモンゴルを押し返すことになります。
神風で勝ったは本当か?通説と新説
元軍の出撃を語る前に、深井さんは前提を示します。モンゴル襲来には、みんながよく知る通説と、ここ十数年で出てきた新説の2つがあるといいます。
新説を出したのは九州大学の服部英雄先生で、COTENのメンバーも本を読み、直接話を聞いたそうです。深井さんはその内容を「かなり説得力がある」と評しています。
楊さんによると、通説と新説では、モンゴル軍の兵力、移動ルート、神風の扱いなどが違っています。まだすべての研究者が通説を否定しているわけではありませんが、結論として、神風については大半の研究者が否定しているといいます。
いわゆる神風で勝ったっていう、台風が来て勝ったっていうのは否定されてますね。
通説では、1274年(文永11年)5月、モンゴル軍2万、高麗軍1万数千、軍艦900隻が、朝鮮半島南端の合浦 ── 朝鮮半島南部、現在の韓国・馬山付近にあった港。元寇の際に元・高麗軍の出撃拠点になりましたに集結しました。
深井さんは、高麗の三別抄の乱をモンゴル軍が1万で鎮圧したことと比べ、3万ぐらいで来るのは本気だと話します。当時の日本では、北条氏と三浦氏の戦いのような大きな合戦でも、兵士は多くて千数百人でした。
楊さんは、元軍には金を建てた女真族も加わっていたことが研究で明らかになっていると補足します。女真族は、のちにヌルハチのもとで清を建てる人々です。
高麗にとって日本侵攻は迷惑なだけだったのか?
元軍の出撃は当初7月の予定でしたが、高麗の国王である元宗が亡くなったため、いったん延期されます。次の忠烈王が即位した直後に、元軍は出撃しました。
楊さんは、高麗にとって日本侵攻への協力は凄まじい損害と負担をもたらす迷惑なものだったと話します。ただ、忠烈王にとってはメリットもありました。
忠烈王とクビライの娘クトゥルク・ケルミシュとの結婚は、数年間止まっていました。それが文永の役の直前に許されたのは、日本侵攻への協力が評価された結果だったといいます。
だからその高麗視点に立ってみたら、すごく対日戦争っていうのは迷惑だけれども、一方でメリットもあったっていう話ですね。
兵力について、服部先生は実際は1万人ぐらいで、高麗を攻めた軍勢と同じ程度だったと見ています。通説とは3倍の開きがありますが、深井さんは、1万でも日本側にとっては十分にしんどい規模だと話しています。
最初の犠牲は対馬、300人で迎え撃つ
元・高麗の連合軍は、まず対馬の西海岸の佐須浦に来襲し、いきなり戦闘になります。出発したその日のうちに対馬に着いたといいます。
対馬の守護は少弐氏ですが、本人は現地にいません。代官の宗資国(宗馬允)が守っていました。
対馬勢は100騎いたかどうかという規模でした。当時は騎馬1騎に歩兵2人が付くのが基本なので、100騎なら軍勢は約300人です。
仮に一万人で来てるとしても三百人で迎え撃つことになります。
宗資国は奮戦し、深井さんはスパルタのレオニダスが300人でペルシアと戦った映画『300』の日本版だと例えます。しかし宗資国は家臣とともに討ち死にし、対馬は占拠されました。
元軍は佐須浦を焼き払い、多くの男たちを殺したり生け捕りにしたりしたと伝えられます。日蓮の書状には、女性たちの手に穴を開けて綱を通し、船に結びつけたという記録も残っています。ただし日蓮自身は現場を見ておらず伝聞で、そうしたことはなかったという説もあります。
楊さんは、ゲーム『Ghost of Tsushima』のオープニングが、この対馬の小茂田浜での戦いを描いていると紹介します。深井さんは、史実と半分フィクションだと補っています。
対馬はこの後、元軍の駐屯地や補給基地として扱われました。服部先生は、対馬の島民の多くはもともと高麗と親しかったため、島を挙げた激戦はなかったのではないかと指摘しています。宗資国の局地的な戦いはあったとしても、全島での抵抗は考えにくいという見方です。
壱岐の悲劇と、博多湾に流れ着いた馬の糞
元軍は対馬を拠点にし、1週間ほどかけて壱岐に来襲します。壱岐でも対馬と同じような悲劇が繰り返されました。
同じ頃、博多湾でも異変が起きます。北九州の海に黒い鞠のような小さな物体が大量に打ち上げられ、よく見ると馬の糞でした。九州の御家人たちは、これでモンゴルが来たと知ります。
こんな大量の馬の糞あるはずねえけど(大量にあるって)ことはモンゴル来たなってわかるんですよね。
楊さんは関連する小ネタとして、モンゴル兵の馬は糞で汚れないよう尻尾を拳のように結んでいたことを紹介します。これは竹崎季長が作らせた絵巻から、服部先生が調べた内容だといいます。深井さんは「コテン史上最も本編と関係ないTips」と笑っています。
非御家人まで動員した幕府の決断
対馬の守護である少弐資能からの報告を受けて、鎌倉幕府は各守護に号令を出します。国中の御家人だけでなく、非御家人にも戦えと命じました。深井さんは、これはすごいことだと強調します。
非御家人は、御恩と奉公の関係を幕府と結んでいない武士です。京都の公家や、比叡山、高野山のような寺社に雇われている武士たちがこれにあたります。
もしくはなんか野球部の甲子園になぜかバスケ部が駆り出されるみたいな。
深井さんは会社にたとえ、社員の仕事に業務委託やアルバイトまで動員するような、他人の従業員に仕事を命じる状況だと話します。楊さんは、COTENの社員である日夏さんが別の会社に呼び出されるようなものだと冗談を重ねています。
楊さんによると、源頼朝は、公家や寺社に属する武士と正式に御家人関係を結ぶことをためらっていました。無理に結べば、朝廷や貴族、寺社の勢力が消えてしまうからです。文永の役では、その境界線を乗り越えたことになります。
肥前国(今の佐賀・長崎あたり)には、武将格の侍の家が279家ほどありました。そのうち御家人は72家で、全体の4分の1ほどしかいませんでした。
72家。幕府と主従関係を結び、号令を出せる相手
残り200家あまり。本来は幕府が号令できない相手
実際には、幕府は公家などに圧力をかけて、非御家人への号令を頼んだようです。この手法は、良くも悪くも鎌倉幕府を中央集権的にしていくと深井さんは話します。
非御家人が幕府の号令で活躍すれば、御恩と奉公が成立し、幕府は恩賞を渡さなければなりません。活躍して御家人になれるかもしれないと期待する非御家人もいました。
一方で、これをやってしまったら何かあげないといけないっていうことも発生するっていうことを全部ぶっ飛ばして、(中略)しょうがねえつって集めてるという緊急事態であるという。
戦況を伝える史料は、実質1つしかない
対馬と壱岐を平らげた元軍は、北九州沿岸の鷹島や平戸にも来襲し、博多湾西側の百道原に上陸します。当時の海岸線は今の埋め立て地の百道よりずっと手前で、今の西新あたりだったといいます。
地元が福岡の出演者たちは、西新商店街やサザエさん通りがやばいと盛り上がります。ここからは、COTENの拠点のすぐ近所の話になります。
戦況を詳しく記した史料は2つしかありません。1つは蒙古襲来絵詞 ── 肥後国の御家人・竹崎季長が、文永・弘安の役での自らの戦いを描かせた絵巻。元寇の様子を伝える第一級の史料で、現在は国宝ですです。教科書に載っている、矢を射られた馬と弓を引くモンゴル兵の絵はここから来ています。
もう1つの八幡愚童訓 ── 八幡神の霊験を、愚かな子どもにもわかるように説いた書物。元寇の記述を含みますが、宗教的な宣伝色が強い史料ですは、神様のありがたさを広める目的が前面に出ています。荒唐無稽な描写も多く、信頼性は低いとされています。
竹崎季長が恩賞で自費制作した絵巻。個人視点だが主な手がかり
八幡神の神徳を説く宗教的な書物。荒唐無稽な描写が多く信頼性が低い
そのため、合戦の詳細は竹崎季長ひとりの視点で追うことになります。楊さんは「必然的に主人公になっちゃう」と話します。
主人公は、土地も兵も持たない御家人・竹崎季長
竹崎季長は、肥後国(熊本)の御家人です。父親の遺産をめぐる一門の訴訟に負けて相続できず、土地も兵士も持っていませんでした。
つまり幕府がこういう御家人がいたら困るねって言ってた御家人そのものなんですけど。
武士としての面目が立たない竹崎季長にとって、熊本から行ける距離でのモンゴルとの戦争は、千載一遇のチャンスでした。深井さんは、竹崎季長に限らず九州の御家人はやる気満々だったと話します。
元軍の中の高麗兵は、こんな戦争で死ねるかとやる気がありません。対して日本の御家人は、活躍すれば何がもらえるかと期待し、わくわくと恐怖の両方を抱えていたと深井さんは見ています。
実態としては彼ら(御家人)はこの国を守ろうとしたわけではないと思うんですよね。
楊さんによると、日本の研究者も、武士の究極のモチベーションは恩賞と土地を得たいという衝動だと指摘しています。モンゴル襲来の物語は美化されがちですが、国を守るためではなく御恩目当てで戦っていたというのが実態に近いようです。
5騎で先駆けを願い出た竹崎季長
西新に上陸した元軍は、今の福岡城のあたりの赤坂山に陣を築きます。当時の赤坂山には警固神社があり、福岡城を建てるときに今の天神へ移されたといいます。
博多側の大将は、少弐景資です。少弐景資は、赤坂あたりは干潟が多く馬で進みにくいため、博多の沖の浜で待ち構え、攻めてきた敵を射撃するよう武士たちに命じます。この干潟は、今の大濠公園のことだそうです。
この命令を聞いた竹崎季長は、みんなと一緒に弓を射ても手柄にならず目立たないと考え、先駆けの許可を求めます。先駆けは最初に敵に突っ込むことで、リスクが高く、認められた者しかできない極めて名誉ある行為でした。
蒙古襲来絵詞には、竹崎季長が馬上で少弐景資に伝えた言葉が残っています。深井さんが読み上げた内容は、本領を失った身で旗差を含めわずか4騎しか従えていない、大将軍の前で打ち込みの戦をしても目覚ましい働きは望めない、だから敵陣に駆け入って功名を上げたい、先陣を務めたことを鎌倉殿に伝えてほしい、というものです。
この4騎も竹崎季長の家臣ではありません。学者の指摘では、一人しかいない竹崎季長を見かねた親戚が付けてくれた人たちだといいます。
少弐景資は、自分も生きて帰れるかわからないが、生きて帰れば将軍に伝えると約束します。当時の日本軍は全体を統一して指揮するのではなく、武士団がそれぞれ自分の指揮系統でばらばらに戦っていました。
チーム竹崎は重装弓騎兵の5人組
深井さんと楊さんは、竹崎季長の一行を「チーム竹崎」と呼んで、蒙古襲来絵詞に残るメンバーと装備を紹介します。
| 人物 | 立場 | 装備 |
|---|---|---|
| 竹崎季長 | 本人(五郎兵衛尉) | 乗馬・弓矢・兜・大鎧 |
| 三井資長 | 姉婿 | 乗馬・弓矢・兜・大鎧 |
| 藤源太資光 | 姉婿の部下と思われる人物 | 乗馬・弓矢・烏帽子・腹巻 |
| 氏名不明の武士 | 同行者 | 乗馬・弓矢・烏帽子・腹巻 |
| 旗差 | 旗を持つ役 | 刀のみ |
大鎧は武士団の大将格しか着られない鎧で、重さは30キロほどあります。馬に乗ることが前提で、徒歩では歩けないほど重い代わりに、顔以外に矢が当たってもなかなか死なない防御力がありました。
深井さんは、これを「重装弓騎兵」と呼びます。遊牧民に多い軽装弓騎兵とは違い、山がちで野原の少ない日本ならではの兵科だと話しています。
旗差は、どの武士団の軍かを示す旗を持つだけの役です。楊さんによると、混乱する戦場で誰が戦功を立てたかを示し、後で証言をもらいやすくする意味がありました。
(旗差は)一番僕、この戦場の中でこれ一番やりたくないから。
目立つ旗差は弓矢で狙われやすく、片手が塞がるので刀しか持てません。本来は歩兵も付くはずでしたが、チーム竹崎は連れていく余裕がなく、全員騎兵のたった5人でした。
五人しかいない奴が私に行かせてください。よし行けみたいよし行けじゃねえ。
深井さんは、竹崎季長の根性と勇敢さは蛮勇と呼べるほどだと話します。一方で、戦略的には滑稽で、どうにもならないことを考えないのが鎌倉武士の特徴だと見ています。楊さんは、竹崎季長がこの場面を自ら絵巻に残したこと自体、当時の価値観で美しいとされた証拠だと指摘します。
負けて戻る菊池武房を横目に、なお急ぐ
竹崎季長の一行は、今の呉服町あたりの沖の浜から、元軍のいる赤坂へ向かいます。住吉神社の鳥居の前を過ぎ、中洲の川を渡ったあたりで、引き上げてくる100騎あまりの日本の武士団に出会います。
その大将は、紫の鎧に紅の母衣 ── 鎧の背につける布製の袋状の飾り。風をはらんで膨らみ、流れ矢を防ぐ役割や目印の役割があったとされますをつけ、太刀と長刀の先にモンゴル兵の首を刺していました。肥後国の名家の武将、菊池武房です。場所は、今の屋台が並ぶ春吉橋あたりだといいます。
菊池武房は少弐景資の指揮下ではないため、少弐軍の先駆けはまだ誰も果たしていませんでした。ただ、戦いはすでに始まっているので、竹崎季長は急がなければと考えます。
しかも菊池武房の300人ほどの軍勢は、だいぶやられて負けて帰ってきていました。それを見ても、5人で現場に急ごうとするところに、深井さんは鎌倉武士のメンタリティーの「バグり方」を見ています。
深井さんは、美化してすごいと見ることも、冷静に戦略的に見て愚かだと見ることもできると話し、その両方を持つことを勧めます。楊さんに「それが人文知ですか」と問われ、深井さんはこれを美化し続けた結果が神風信仰だと答えています。
深井さんは、竹崎季長を同じ日本人としても、同じ人間としても勇敢だとリスペクトする一方で、今これをやったら愚かだとも話しています。
楊さんは、チーム竹崎のような小さな武士団は珍しくないと補います。映画やゲームのような大規模な騎馬軍団は実際には少なく、親子や親族が片手で数えるほど集まった豆粒のような武士団も多かったといいます。
草ヶ江で落馬、命拾いした「先駆け」
菊池武房の攻撃で、元軍の一部は今の早良区西新の南にある祖原公園のあたりまで引いていました。今も古戦場跡が残っています。
竹崎季長がそちらへ向かおうとすると、従者が止めます。味方を待って証人を立ててから先駆けしないと、5騎で突っ込んでも誰にも見られずに死ぬだけだ、という進言です。
そしたら竹崎季長がいや、弓矢の道は先であることが称賛されるのだ。ただかけろと言って突撃していきます。
深井さんは、従者の言うことはもっともで、死ぬのは構わないが誰かに見てもらえなければ意味がないという主張だったと解説します。竹崎季長は、それを押し切って突撃しました。
両軍は、赤坂と祖原公園の中間にある今の草ヶ江公園のあたりでぶつかります。元軍は少なくとも数百から数千人、多くても1000人ほどと深井さんは推測しますが、竹崎季長側はたった5騎です。
日本の騎兵は、武将は大鎧で守られていても、馬には鎧がありません。そして大鎧を着たまま落馬すると、重すぎて歩けません。元軍は当然、馬を狙いました。
5騎で突撃
証人を待たずに元軍へ突っ込む
馬を射られる
鎧のない馬が狙われ、矢が刺さる
落馬
大鎧の重さで動けず、元軍に群がられる
救援
白石通泰の軍勢300人ほどが駆けつけ、命拾いする
この場面が、蒙古襲来絵詞の中でも最も有名な絵です。楊さんは、絵の左のモンゴル兵の目に矢が刺さっていることから、竹崎季長が走りながら騎射して当てたとみています。笠懸のような馬上の的当てを遊びにしていた武士の弓の腕は確かでした。
つまり竹崎末永は五騎で突っ込んで落馬して殺されそうになっただけっていう。
でもこれが先駆けっていう軍功なんだよね。
楊さんは、この戦い方のすれ違いを「異文化交流感」と表現します。モンゴル側からすれば、5騎で何をしに来たのかわからなかったかもしれません。
恩賞と命を天秤にかける鎌倉武士のメンタリティー
収録が1時間を超えたところで、話は鎌倉武士のメンタリティーのまとめに移ります。深井さんは、竹崎季長の勇気はほとんどの人間には無理だと話し、楊さんは当時の鎌倉武士の多くがこの心性を持っていたのだろうと応じます。
深井さんは、このメンタリティーを理解すると、北条氏の一族が殺し合っていたことや、モンゴル襲来に際して覚悟が早く決まったことも想像できると話します。楊さんは、土地にかける執念もそこにつながると付け加えます。
ちょっとこれだから命の捉え方みたいなのも全然違うんやろうな。
楊さんは、命と恩賞のバランス感覚が現代人とは違うと話します。深井さんは、たとえ死んでも、軍功を上げれば息子に土地を残せるという考え方があったのだろうとみています。
楊さんは恩賞への執着を示す例として、武士の矢羽の模様が一人ひとり違っていたことを挙げます。模様の種類や位置で、誰が射た矢かがわかるようになっていました。
深井さんは、チームで戦うのではなく、誰が首を取ったか、誰が矢を射たかで評価される様子を、営業成績のグラフになぞらえます。樋口さんは、現代にも通じる部分はあるとしつつ、それに命をかける点は違うと話しています。文永の役の続きは次回に持ち越されます。
まとめ
文永の役を前に、鎌倉幕府は土地台帳の整理や御家人所領回復令で兵力の把握を急ぎましたが、統治の力は限られていました。対馬・壱岐が陥落し、非御家人まで動員する緊急事態の中、博多では竹崎季長が恩賞を求めて5騎で先駆けに挑みます。その姿を、勇敢さと戦略的な無謀さの両面から見ることが、この回の軸になっています。
- 鎌倉幕府の防衛準備は、土地の実態を調べて兵力を把握する程度で、号令にも執行力がほとんどなかった
- 通説と服部英雄先生の新説では兵力や神風の扱いが異なり、神風で勝ったという説は大半の研究者が否定している
- 対馬では宗資国が約300人で迎え撃って討ち死にし、幕府は非御家人まで動員する異例の号令を出した
- 戦況を伝える主な史料は竹崎季長の蒙古襲来絵詞だけで、合戦は彼の個人視点から追うことになる
- 竹崎季長の突撃は、国を守るためではなく恩賞を求める鎌倉武士の個人実力主義を象徴している


