勝ったのに安心できない?「始まりの終わり」と異国警護番役
モンゴル帝国襲来編の第8回は、文永の役がひとまず終わった時点から始まります。深井さんによると、文永の役は対馬などを除けば、上陸からわずか1日で戦いが終わり、モンゴル軍は去っていきました。
深井さんは、文永の役の受け止め方が立場によって違ったと見ています。朝廷は神風だと考えた一方、戦った武士たちは自分たちが追い返したと思っていたのではないか、という見立てです。
まあ結論からいくと、めちゃくちゃ嬉しかったけど、次また(モンゴルが)すぐ来るって思います。
深井さんは参考にした本の表現として、文永の役は「始まりの終わりに過ぎない」と紹介しています。この先には、次の来襲に備える長く苦しい日々が続くという意味です。
幕府がまず取り組んだのは、異国警護番役 ── 鎌倉幕府が九州などの御家人に課した沿岸警備の任務。元寇をきっかけに制度化され、鎌倉時代の終わりまで続いたの本格化でした。文永の役の前から九州の御家人に警戒を命じていましたが、これを担当制の当番として組み直します。
異国警護番役では、九州の国々が3か月ずつ交代で防備にあたりました。各国の武士は、さらに1か月ずつの3交代で勤務していたそうです。
| 季節 | 担当の国 | 現在の地域 |
|---|---|---|
| 春(1〜3月) | 筑前・肥後 | 福岡・熊本 |
| 夏(4〜6月) | 肥前・豊前 | 佐賀・大分など |
| 秋(7〜9月) | 豊後・筑後 | 大分・福岡南西部 |
| 冬(10〜12月) | 日向・大隅・薩摩 | 宮崎・鹿児島 |
冬の当番が九州の南端の国々だったことに、深井さんは「寒いのが苦手そうな人たちを寒い時に呼んでね」と笑います。
防衛の範囲は九州だけにとどまりませんでした。使者が来ることのある長門国(山口県)にも防衛拠点がつくられ、守護の二階堂氏が兵力不足を訴えると、周防・安芸の御家人も警護に加えられます。その後は備後、さらに山陽道・南海道の各地へと動員が広がっていきました。
総領を飛ばす命令は、家の秩序をどう揺らしたのか
異国警護番役では、御家人ではない人たちまで動員されました。深井さんは、この動員が鎮西御家人 ── 九州に所領を持つ御家人のこと。鎮西は九州の古い呼び名の一族内部の人間関係にも波紋を投げかけたと説明します。
当時の武士の家は総領制 ── 一族の頭領である総領(多くは嫡男)が、庶子(次男以下)を率いる武家の仕組み。軍役も総領を通じて一族に割り当てられたで動いていました。ところが幕府は、異国警護番役で武士を出動させるとき、総領を飛ばして直接指示を出していたようです。
幕府と直接つながれば、手柄を総領に取られずに済み、分家や総領への道も開ける大きなチャンス
自分の指揮下から弟たちが離れ、独立していくように見える
深井さんは、この変化を「緊急事態によって従来のシステムがなし崩し的に変えられていく現象」の一つとして捉えます。こうした細かな変化の積み重ねで、鎌倉幕府の体制は崩れていくといいます。
深井さんによると、鎌倉幕府はモンゴル軍に直接滅ぼされたわけではありません。ただ、モンゴル来襲をきっかけに統治の状況が変わり、結果的に崩壊へ向かっていきます。
深井さんは、制度の土台がぐらつきやすいのは鎌倉幕府に限らないと話します。例として挙げたのが、現代の年功序列や終身雇用です。
(終身雇用は)二代しか続いてないじゃん。鎌倉幕府もそんな感じなんだよね。
生きている当事者は確固たる制度だと思っていても、歴史から見れば一瞬の制度だった。深井さんは、歴史を学んでいると「マジでよくある」話だといいます。
緊急事態はなぜ北条時宗に権力を集めたのか
楊さんは、文永の役のあと、鎌倉幕府の中枢でも大きな変化が起きたと補足します。文永の役の3年後には、北条時宗 ── 鎌倉幕府第8代執権。モンゴルからの国書を退け、文永の役・弘安の役の時期に幕府を率いたに権力が属人的に集中する状態ができあがっていました。
北条時宗は評定衆などの幹部人事を個人で決められるようになり、朝廷との交渉も直接行うようになります。所領の安堵は建前上は将軍の仕事でしたが、これも時宗が専属で担いました。
深井さんは、これまで合議制で行っていたことを一人でできるようになったと整理し、得宗 ── 北条氏の嫡流の当主のこと。得宗が幕府の実権を握る体制を得宗専制と呼ぶによる専制が確立されつつあったと説明します。
なぜ北条時宗に権力が集まったのかという樋口さんの問いに、深井さんは「緊急事態だから」と答えます。ヒトラーの時代、ローマのカエサルやアウグストゥスの時代にも同じことが起きたと例を挙げました。
外敵の来襲
言葉を交わしたこともない相手が攻めてくる
建前より実態を優先
御家人以外の動員にも誰も文句を言えなくなる
権力の集中
人事権なども時宗のもとに集まり、幕府がまとまる
後の反動
メリットでつながっただけの結託に、のちにハレーションが来る
深井さんによると、それまでは建前のほうが大事でしたが、緊急すぎて実態を優先せざるを得なくなり、そこにみんなが合意しました。外敵の侵入によって内部はある意味で結託しますが、本当に一枚岩になったわけではなく、メリットでつながっているだけでもありました。
樋口さんは、権力の集中が短期的には最適解だったのだろうと受け止めます。深井さんも、実際に危機を乗り越えたので良かったのかもしれないが、反動は後で来ると話しています。
返事もせずに使者を斬る?幕府の向こう見ずな外交
文永の役の翌年の1275年、クビライは再び日本へ使者を送ります。深井さんは、海を越える出兵はコストがかかるため、クビライとしてはなるべく平和的に日本を取り込みたかったのだろうと見ています。
使者は杜世忠 ── 1275年に元から日本へ派遣された使者。鎌倉の龍ノ口で処刑されたという人物で、高麗の通訳を従えて4月に長門の室津に着きました。杜世忠らは鎌倉へ護送され、9月7日に龍ノ口の処刑場で斬首されます。
他の国の外交官を殺したってことだよね・・・
深井さんは、当時は国際法という概念もなく、日本はまともに国交も結んでいないので「ルールはあってないようなもの」だとしたうえで、使者を殺すのは一番やってはいけないことだと話します。無視ですらなく殺すことは、幕府が「かかってこいや」と言っているに等しいという見方です。
僕はいろんなやれることあるんじゃないかなと思うんですけど、例えばその時間稼ぎもできるだろうし、
あとなんか妥協点を探すとかもできるじゃん。で、最後の最後で戦ってもいいじゃん、それで。
時間稼ぎや妥協点探しをせず、アクセル全開で使者を斬った鎌倉幕府の判断に、深井さんは「向こう見ずさはマジですごい」と驚きを隠しません。
幕府が高麗出兵を決めた?立ち消えた先制攻撃の計画
深井さんが「あんまり知られてなくてめっちゃすごい」と紹介するのが、幕府による高麗への出兵計画です。防備を固めて再来襲を待つか、大陸へ渡って先制攻撃するかを議論した末、幕府は先制攻撃を可決しました。
深井さんは、この判断の背景に、日本が伝統的に朝鮮半島を甘く見ていたことがあると指摘します。実際の高麗は強く、中華文明の評価軸で見れば先進国であり、朝鮮半島の人々はむしろ日本を野蛮だと見ていたのではないか、と話しています。
深井さんによると、他国を甘く見る傾向は秀吉の朝鮮出兵や、のちの植民地化にもつながっていきます。ただし日本だけの話ではなく、自分ではない人間を下に見てしまうのはホモ・サピエンスに共通する挙動だといいます。
出兵の準備として、使者処刑直後の11月から守護の大幅な人事交代が行われました。北条一門や側近を防衛ラインに置くことで、幕府は「用心しろ」以上の具体的な指示を出せるようになります。
| 国 | 現在の地域 | 配置された人物 |
|---|---|---|
| 豊前・筑後 | 大分・福岡 | 北条一門 |
| 肥後 | 熊本 | 安達泰盛(得宗の外戚) |
| 長門・周防 | 山口 | 北条宗頼(時宗の弟) |
| 播磨・備中 | 兵庫・岡山 | 北条時宗自身 |
12月には大宰府にいた少弐 ── 鎌倉時代に九州の大宰府で実務を担った武家。文永の役でも九州の御家人を率いた氏に高麗出兵が伝えられ、九州の国々に船と水夫の用意が命じられました。1276年からは本格的な動員が始まり、御家人は所領の面積、船の数、同行する人の数と年齢、武器などを報告させられます。
学者の調査によると、動員された人で一番多かったのは地元の中小御家人や非御家人でした。日頃抑圧されていた中小の武士が、この出兵に活路を見いだしたと考えられます。深井さんは、竹崎季長も手を挙げていた可能性が高いと見ています。
しかし高麗出兵計画は、リソース不足で立ち消えになります。元寇防塁を築くだけで精一杯で、守りながら攻める力は残っていませんでした。
深井さんは、これがこの時代に共通する特徴だとし、「戦う前に勝つ」と説いた孫子のすごさがよくわかると話します。
一方で、ビビらない相手は倒すコストが高い、と深井さんは続けます。クビライの側から見れば、日本からは一言の返事もなく、無視を重ねた末に撃退され、使者まで殺されたことになります。
マジ?ほんとや、一切コミュニケーションしてない。
出兵は実現しませんでしたが、外征の号令をかけ防衛ラインを北条一門で固めた過程で、得宗への権力集中は進みました。楊さんは、高麗攻めを大義名分に国内の軍事力へのガバナンスを強めることこそが得宗の狙いだった、とする学者もいると紹介しています。
恩賞がない防衛戦で、竹崎季長は何に賭けたのか
ここで話は、文永の役で先駆けの功を挙げた竹崎季長 ── 肥後国の御家人。文永の役・弘安の役での活躍を『蒙古襲来絵詞』に描かせたことで知られるに戻ります。文永の役で命をかけた九州の武士たちへの恩賞は、幕府にとって重大な問題でした。
楊さんが説明するように、侵略戦争なら敵の土地や人を分配できますが、防衛戦では新しく得たものが何もありません。樋口さんはこの状況を「売り上げ立ってないのにボーナスやらなきゃみたいな状態」とたとえます。
恩賞を取り仕切ったのは、北条家の外戚で有力御家人の安達泰盛でした。安達泰盛の立場では、頑張った人に誰でも何かを渡すことはできず、なるべく断らなければなりませんでした。
少弐氏と大友氏は、管轄下の御家人の戦功を報告書にまとめて関東へ送っていました。竹崎季長が期待して見た報告書には、「敵頭を被らせ給うこと神妙に候」とだけ書かれていました。つまり「怪我をして偉い」という内容です。
その怪我したとかじゃないんだと。先駆け書いてくれよってなるんすよ、タケちゃんは。
当時の勲功の代表は討ち死にで、戦局への貢献より、勇敢に死んだかや敵の首を取ったかが重視されていました。名のある御家人も多く亡くなっていたため、負傷しただけの竹崎季長に回す余力はありませんでした。
それでも竹崎季長は、恩賞を直接願い出るために鎌倉へ向かうと決めます。馬や鞍を売って旅費をつくり、失敗すれば出家する覚悟でした。一門の人々は見送りすらしてくれず、従者は2人だけだったといいます。
深井さんは、面会が実現したのは鶴岡八幡宮のご利益というより、長門国の守護だった烏帽子親のコネによるものだろうと見ています。
「先駆けの功」をめぐる安達泰盛との問答
竹崎季長と安達泰盛の面会は、鎌倉の安達泰盛の館で行われました。安達泰盛は最後まで竹崎季長を同格の御家人として扱い、丁寧な言葉遣いを崩さなかったといいます。
安達泰盛はまず、敵の首を取ったか、家臣が討ち死にしたかと尋ねます。竹崎季長が「ございません」と答えると、安達泰盛は、負傷のことはすでに報告に書かれているのに何が不足なのか、と反論しました。
竹崎季長の主張は一貫していました。先駆けの功が将軍に報告されていないことを問題にしており、疑うなら大宰府の少弐景資に問い合わせてほしい、というものです。
安達泰盛が現地への照会は先例がないと退けると、竹崎季長は、今回は異国との合戦で、そもそも先例のないことではないかと食い下がります。さらに、恩賞が欲しいのではなく武士の面目の問題であり、偽りなら首を切られてもかまわないとまで言い切りました。
最終的に安達泰盛は、竹崎季長の働きを将軍の耳に入れ、恩賞も間違いないだろうと約束します。深井さんは、これが史実なら、勝海舟の使者として西郷隆盛と会談した山岡鉄舟のように、武士同士で響き合うものがあったのかもしれないと話します。
あとちょっともう怖かったんじゃん。なんかもうこの人。
竹崎季長は恩賞の下文を手渡され、肥後国の海東郡(現在の熊本県宇城市小川町海東地区)の地頭になったとされます。ただし楊さんによると、これには諸説あります。
安達泰盛には地頭を任命する権限がなかったため、竹崎季長は地頭代に任じられたという説もあります。肥後の新しい守護になった安達泰盛が、九州に気骨ある配下を得たかったという思惑も考えられます。
恩賞を受けたのが弘安の役の後だという説もあり、その場合、この時点では馬をもらっただけとされます。深井さんは、弘安の役でモンゴル兵の首を取ったことで任命されたという説のほうが説得力があると見ています。
馬を受け取る場面は絵に残っていて、楊さんは竹崎季長の表情が「めちゃくちゃニヤニヤしてますよ」と紹介しています。もらえなければ武士を引退するところだったので、喜ぶのも当然でした。
南宋の滅亡で、元はどんな世界帝国になったのか
一方モンゴルは、すでに襄陽を落として南宋を追い詰めていました。バヤン率いる軍は長江を下り、1276年に首都臨安を占領。南宋の皇帝恭帝はモンゴルに降伏します。
降伏を拒んだ張世傑や陸秀夫らは、皇帝の幼い一族を立てて抵抗を続けました。しかし敗れ、陸秀夫は幼帝とともに海に身を投げます。深井さんは、壇ノ浦の安徳天皇のようだと重ねています。
1279年、南宋を併呑したモンゴルは中華統一を果たし、元朝 ── クビライが建てた中国王朝。モンゴル帝国の宗主国として大都(現在の北京)を都としたが誕生します。深井さんはこれを、草原の軍事力、中華の経済力、イラン系ムスリムの商業力を合わせた世界帝国だと説明します。
クビライは南宋の元官僚などの人材も積極的に登用していきます。日本にとって特に脅威だったのは、南宋の海軍まで手に入れたことでした。弘安の役では、その海軍を使って攻めてくることになります。
銀でつながる経済圏、モンゴル帝国のもう一つの顔
深井さんは、モンゴル帝国が銀を媒介に経済圏を成立させ、貨幣経済を発展させた帝国だと付け加えます。銀はそれ以前から通貨として使われていましたが、モンゴルの支配で安全な長距離交易ができるようになり、銀の発行と流通が加速しました。
イングランドの鋳造所のデータを見ると、モンゴル帝国の時代だけ銀貨が大量につくられているそうです。ヨーロッパの亜麻の布がモンゴルの貨幣でいくらになるか、といった換算もできるようになりました。
二度目の使者斬首と、14万の弘安の役遠征軍
南宋の軍事力と海軍力を手に入れたクビライは、再び日本攻めへ動き出します。深井さんによると、クビライは襄陽攻めで巨大な壁をつくるほど諦めの悪い、粘り強い人物です。
クビライは南宋から降った范文虎に命じ、再び日本へ使者を送らせます。使者は部下の周福と欒忠で、日本から宋へ渡った僧侶も通訳として同行していたようです。
ところがこの使者たちは、博多で斬り捨てられます。前回の杜世忠は鎌倉まで連れて行かれて処刑されましたが、今回は現場判断で殺されたと深井さんは説明します。
むちゃくちゃやん、マジで。
モンゴル側から見れば、前の使者は帰ってこず、次の使者も殺されました。クビライは再遠征を決意し、遠征の司令部として征東行省を設置します。
| 軍 | 中心となる兵 | 規模 | 出撃基地 |
|---|---|---|---|
| 東路軍 | モンゴル人・高麗人 | 4万 | 高麗の合浦 |
| 江南軍 | 南宋の降伏兵 | 10万 | 寧波 |
合計は14万で、文永の役の通説とされる3万をはるかに上回ります。寧波は上海よりさらに南にあり、二手に分かれた大軍が日本を目指す計画でした。
楊さんによると、日本遠征の総司令官には、ジャライル部出身のアラクカンが任命されました。祖父はチンギス・カンの親衛隊であるケシク ── チンギス・カンが組織した親衛隊。君主の身辺警護や側近の役目を担い、有力者を多く輩出したで、血筋の良い重臣の家から抜擢した人選に、クビライの本気度が表れているといいます。
江南軍は鋤や鍬などの農具を持参しており、占領後の移住や植民まで視野に入れていたことがうかがえます。高麗も年内に兵船900隻と兵1万の準備を終え、クビライに報告しました。
楊さんは、高麗の忠烈王の狙いを説明します。従属しても国としての体裁を残すため、征東行省の長官に就き、対日主戦論を積極的に唱えることで、元に役立つ存在であることを示そうとしました。
一方で、緊迫した状況でも日本と元の民間貿易は盛んに続いていました。深井さんは、国民国家の感覚とは違う点だと指摘し、楊さんも、当時は国の境界線をきっちり分ける意味があまりなかったと補足します。
次回は、弘安の役の舞台となった福岡・今津の元寇防塁を訪れたロケ編で、そのあとに弘安の役の話へ進む予定です。
まとめ
文永の役の勝利は終わりではなく、長い防衛体制の始まりでした。緊急事態のもとで幕府の仕組みと権力構造が変わり、竹崎季長は恩賞をめぐって鎌倉へ直訴に向かいます。その間にモンゴルは南宋を併呑し、14万の遠征軍で弘安の役へ動き出しました。
- 異国警護番役の本格化と総領を飛ばす動員が、武家の家の秩序を揺らした
- 緊急事態を理由に、北条時宗のもとへ権力が集中した
- 幕府は使者を2度処刑し、実現しなかったものの高麗出兵まで計画した
- 恩賞のない防衛戦で、竹崎季長は先駆けの功を認めさせるため鎌倉で直談判した
- 南宋を併呑した元は、海軍を加えた14万の兵で再遠征を準備した


