「てつはう」と毒矢、モンゴル軍は何を持ってきた?
文永の役で、竹崎季長は5騎でモンゴル軍に突っ込み、死にかけたところを助けられました。深井さんは竹崎季長の「先駆け」はこれで達成されたと振り返ったうえで、視点をモンゴル軍の戦法に移します。
モンゴル軍の武器で有名なのが「てつはう」です。鉄の半球2つを合わせて中に火薬を仕込み、手持ちの投石機で敵陣に投げ込んで炸裂させる兵器だったと紹介されています。
深井さんによれば、てつはうは殺傷力よりも、爆発で日本の騎馬武者の馬を止める効果が大きかったようです。引き金を引いて撃つ鉄砲ではなく、初期のグレネード弾に近いものとして説明されます。
閃光弾とかさ、そんな感じだろうね。
てつはうという呼び名は日本側の呼び方です。破片で人が死ぬこともありましたが、モンゴル軍は逃げるときなどに使っていたとされます。
モンゴル軍は弓矢も使っていました。握りの部分が凹んだ射程の長い短弓があり、矢じりには毒が塗ってあったといいます。
ただ、(毒も)矢じり自体が10センチぐらいあったらしいから、刺さっちゃったら毒が効く前にもうすでに致命傷みたいな状態なので、実際毒が効いたかどうかは諸説ある。
深井さんが注目するのは、こうした武器を南宋の攻略と同時並行で取り入れている点です。敵の優秀な武器を取り込む姿勢を、樋口さんは「ラーニング能力」と呼び、楊さんは将棋で取った駒を使うようなものだとたとえました。
ほかにも、握りに凹みのない長弓、羽が長く回転力で貫通力を高めたとされる矢、船に積んだ投石機などが紹介されます。
クロスボウとマニュアル化、武士とはまるで違う競技
モンゴル軍はクロスボウも持っていたようです。深井さんは、弓を引けば矢をつがえて狙うだけで済むクロスボウを、日本の武芸と対照的なものとして取り上げます。
日本の武士は、選ばれた者が一人ひとり技術を磨き、自分で功を上げるという世界観でした。楊さんはそれを「エリート」と表現します。
(モンゴル軍は)戦略的に統一的に動くしね。同じ戦争だけど、なんか違う競技してる人たちみたいな感じになってる。
モンゴル軍は音の合図で軍団全体を動かし、素人の兵でも数時間の練習で実戦に使えるようシステム側を整えていたといいます。兵には農民や学生のような人も徴兵され、高麗人、モンゴル人、女真族なども含まれていました。
戦い方の違いは、武士が単騎や5騎で突っ込んだときにも表れます。モンゴル軍はわざと隊列の真ん中を開けて中に通し、囲んで討ち取ったとされます。樋口さんはヌルハチの回でも出た狩りのやり方だと指摘し、深井さんはザマの戦い ── 紀元前202年、ローマのスキピオがカルタゴのハンニバルを破った戦い。突進してくる象兵を隊列の間に通して無力化したことで知られますでのスキピオの戦法と重ねました。
竹崎季長が残した絵巻では、蒙古軍の兵の多くが槍や矛を立てて持っています。八幡愚童訓 ── 八幡神の霊験を説く鎌倉時代の書物。蒙古襲来の様子を伝える代表的な史料の一つとされますには、矛や長槍が甲冑の隙間を外さず刺したと書かれており、日本側には脅威だったようです。
組織の成り立ちも違いました。日本の武士は家を前提に親戚まで連れて戦うのに対し、モンゴル軍は百人隊長・千人隊長のもと、血縁のない者がルールで統制されて戦っていました。
選ばれた者が個人で武芸を磨き、家や一族単位の小集団で戦い、個人の功を目指す
武器と動きをマニュアル化し、音の合図で軍団全体が統一的に動く。百人隊長・千人隊長の組織で血縁に依らない
太鼓とドラはマッドマックスと同じ?
モンゴル軍の陣には大きな太鼓が3つとドラが1つあり、それを鳴らしながら進軍していました。日本側は太鼓の違いを「攻め鼓」「逃げ鼓」と呼んだといいますが、それは日本人がつけた呼び名だと深井さんは補足します。
てつはうの炎と太鼓とドラの音がそろう光景を、深井さんは映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でイモータン・ジョーが進軍する場面と「完全に一致」だと話します。
(モンゴル軍のインスパイアというより、)ホモサピエンスはそうするってことだよね。
繋がりがなくても、人は太鼓を鳴らし、高い音を出し、炎を吹いて気持ちを高めるのではないかという見立てです。深井さんはラムシュタインのライブ、樋口さんはプロレスラーの入場曲を例に、人間と音の関係を語り合いました。
「やあやあ我こそは」はなぜやめられなかったのか
モンゴル軍の集団戦法に日本軍が戸惑ったというのが通説です。武士が「やあやあ我こそは」と名乗っているうちに弓で射られ、モンゴル兵に笑われるという描写は時代劇でもよく見られます。
深井さんは、さすがにやっていないという見方がある一方で、目の前で人が殺されても慣習として名乗ってしまった可能性もあると話します。どちらかはわからないとしたうえで、これは現代にも通じる話だと続けます。
これやって死ぬって分かってても、慣習でやって死んでる人たちいっぱいいると思うんですよ。
楊さんは自身の経験を挙げます。中国では家族や友人に会ってもお辞儀をしないと頭ではわかっていても、日本で身についたお辞儀の習慣をやめられないそうです。
深井さんは、今のビジネスでもやめたほうがいいのに続けていることは多いと述べ、名乗りの慣習は美学とも結びついていたと話します。一方で、この時代にはもう名乗りをするべきと思っていなかったと考える学者もいると紹介されます。
開戦の合図とみられる場面では、少弐家の少弐景資の息子または一族が音を立てて飛ぶ儀式用の鏑矢 ── 射ると風を切って音が鳴る矢。合戦の開始の合図などに使われましたを射たところ、モンゴル側からどっと笑い声が上がったといいます。深井さんは、モンゴル側の太鼓とドラも日本側には「うるせえな」と映っていたはずで、お互い初めて見る異文化だったと受け止めています。
一人も倒していない竹崎季長はなぜ称賛されたのか
当時の武士団は小規模で戦い、戦況全体にマイナスになりかねない冒険的な行動でさえも称賛しました。戦略にかなうか、勝ったかよりも、勇敢かどうかという精神性が重視されていたと深井さんは説明します。
竹崎季長はこの段階で敵の首を一つも取っておらず、突っ込んで馬を射られ、落馬して助けられただけでした。それでも、ひと悶着を経て称賛されることになります。
(大陸は)パフォーマンスが全てみたいな世界と、勇敢さを見せつけるだけでめちゃくちゃ評価されるみたいな。
深井さんは、頑張っただけで評価される日本の評価ロジックがこの時代すでにあったことを面白がります。樋口さんも自分の中にもあると認め、深井さんはそれをメタ認識すればよいと話しました。
通説の文永の役、博多占領から神風まで
文永の役の戦況について、竹崎季長の話と兵装以外の詳しいことは実はわかっていません。そのため深井さんは、通説と新説を分けて紹介します。
通説では戦況は日本軍にかなり不利で、少弐景資は日暮れ頃に博多を捨て大宰府まで撤退しました。迎撃の拠点とされたのは、白村江の戦いに敗れた大和朝廷が唐の侵攻に備えて築いた水城 ── 7世紀に築かれた土塁と堀による防衛施設。現在の福岡県大野城市などに遺構が残りますです。
モンゴル軍は博多を占領し、今津から百道原、赤坂にかけて略奪を行い、筥崎宮も焼かれたとされます。御家人の妻子を含む多くの人が捕虜になったと伝えられています。
ところが元軍は博多に宿営せず、船へ引き上げました。高麗軍の将の金方慶は大宰府攻撃を主張しましたが、総司令官の忻都は日本軍の矢を恐れ、副将の劉復亨が負傷していたこともあって帰船を選んだとされます。異民族連合軍で意見をまとめにくかったとも推測されています。
通説では、その夜に神風が吹いてほとんどの船が座礁し、翌朝には志賀島で座礁した1隻が残るのみでした。乗員120名は投降したものの鎌倉武士に殺されたとされ、楊さんは京都に連行された人もいるという説を補足します。
新説では日本側が押し返していた?
通説は、神風で勝った日本は神に守られているという物語につながり、それは第二次世界大戦まで続いたと深井さんは話します。そこから新説の紹介に移ります。
新説では、日本側は苦戦しながらも終始攻勢に出ていたと考えます。竹崎季長のように死を覚悟して突っ込む武士の頑強な抵抗に、モンゴル軍は怯んで後退しただろうという見方です。
モンゴル軍優勢という通説の根拠は八幡愚童訓ですが、これは武士が不甲斐なく神の力で勝ったと言いたい人たちが書いた本だと深井さんは説明します。占領地を捨てて手間のかかる船へ戻るのは不自然だという指摘もあります。
さらに関連資料を分析すると、その後も戦闘が続いていた可能性があり、船が一夜で消えた話も八幡愚童訓のドラマチックな演出ではないかと指摘されています。
モンゴル軍が圧勝し博多を占領。船に戻った夜に神風が吹き、翌朝には船がほぼ消えていた
日本側が攻勢に出て押し返し、モンゴル軍は事実上敗北。戦闘は翌日以降も続いていた可能性がある
神風は撤退前か撤退中か、2つの説
神風史観では、文永の役では敵が1日で引き返し、弘安の役では嵐で敵船団が全滅したとされます。深井さんが参照した2017年の本では、こうした記述の教科書が今もあると書かれていたといいます。
文永の役の風については2つの説があり、深井さんは「正直結構ややこしい」と前置きします。樋口さんの言葉を借りれば、暴風雨のタイミングが違う程度の差です。
1つ目は口邦男先生の説で、撤退は最初から予定どおりで、帰る途中に突風に遭ったというものです。威力偵察のような出兵で、後の弘安の役のように農具を持ってきた形跡がなく、長期占領のつもりはなかったと考えます。
2つ目は服部英雄先生の説です。風は台風ではなく11月26日の寒冷前線による強風で、モンゴル・高麗軍の日本滞在中に吹いたとされます。大宰府を落とせなければ帰国してよいと言われており、冬の北風で補給が途絶え退路を断たれる前に引き上げたと考えます。
嵐来たから帰ったって言ってんですよ。
服部先生の見立てでは、実際は日本に押し返されて逃げ帰り、大風を言い訳に使ったということになります。
撤退は予定どおりの威力偵察で、帰還途中に突風に遭った
押し返されて撤退を考える中、寒冷前線の強風が吹き、それを撤退の大義名分にした
神風史観を冷静にレビューする
樋口さんは、暴風雨がきっかけだったとしても「神風」と呼ぶには奇跡感が薄いと感じます。深井さんも、嵐がきっかけという点は大きく間違っていないとしつつ、問題はその後に育った神風史観だと話します。
深井さんによれば、神風史観は日本を戦争へ突入させる流れを大きく後押ししました。アメリカとの戦力差があっても、神の国だから負けない、勇敢なら勝てると考えた態度は、モンゴルに対する態度と同じだといいます。
文永・弘安の役
2度とも強風が吹き、モンゴル軍が去る
神格化
神が守ってくれたという物語として共有される
神州不滅
神々の加護で外敵に侵されないという思想へ
戦時下
戦局が不利でも奇跡で勝つという必勝の信念につながる
楊さんは、日本を神の国とする考え方は古事記にもあり、それが神州不滅の思想や戦時下の必勝の信念へつながったと補足します。神風特攻隊の名前もこの神風信仰から来ています。
深井さんはこれを日本人だけの話ではないとも述べ、2026年現在も各国の首脳が神の名を出して戦争を語っていると指摘します。だからこそ社会に対して科学的態度を取ることが大切だと話しました。
(神風の物語は)ナラティブとしてすごく用いやすかったし、全員が合意しやすかったし、すごく機能したんだよね。
こうした歴史を持っていることをメタ的に認識し、史実を知っておくことが大事だと深井さんは締めくくります。次回は、よくわからないまま勝った形になった日本が、弘安の役までの間に何を思いどう動いたかが語られる予定です。
まとめ
文永の役は、武器も組織も評価の仕組みも違う二つの軍がぶつかった戦いでした。そして「神風で勝った」という通説は、新しい研究によって大きく見直されています。
- モンゴル軍はてつはうや弓、クロスボウなどを取り入れ、マニュアル化と音の合図で集団として戦った
- 鎌倉武士は個人の武芸と勇敢さを重んじ、一人も倒していない竹崎季長も称賛された
- 新説では日本側が押し返しており、神風は撤退の途中か、撤退の口実として吹いたと考えられている
- 神風史観は神州不滅の思想を通じて近代の戦争を後押しし、史実をメタ認知する大切さが語られた


