「ホームレス3人」が語るホームの話とは?
「自分の肩書き、どう使ってますか?」をテーマにした室越龍之介さんとの対話は、この回で3回目に入ります。冒頭、渡邉康太郎さんが室越さんに、2回目までで印象に残った話を尋ねました。
室越さんが挙げたのは、ここにいる3人とも「ホームレス」である、という前回の話です。どこにも帰属しきれない3人が、ホームについて語り合っている構図そのものが面白かったといいます。
ホームレス3人でホームの話をしているっていうのが、ちょっと面白いなと思って。
続いて渡邉さんが前回までの論点を振り返ります。荒木博行さんは、名乗りには3つの方向性がありそうだと話していました。
3つが重なれば名乗りはわかりやすいものの、実際には外れがちです。さらに自我が「人類学者です」「デザイナーです」といったシンプルな名乗りを邪魔しがちで、所属名や肩書きの記号の力が大きすぎると、受け手も語り手も認識がバグる可能性がある、という話も出ていました。
室越さんは前回、名乗りには共時的 ── ある一時点での状態や関係に注目する見方。対になる「通時的」は、時間の流れや変遷に沿って見る見方を指しますな今ここの名乗りと、通時的な脈略の中での名乗りがあると指摘しました。師匠と弟子のような系譜の中で、自分が一人前の弟子だったかどうかが蓄積につながる、という見立てです。
荒木さんの実感は、仲間は持っていたいが所属はたくさん欲しく、1つの場所に縛られたくない、というものでした。室越さんは人類学者の立ち位置を、ホームとフィールドの組み合わせで整理し、フィールドに出るうちにどこもホームではなくなる「フィールドフィールド派」が、3人に重なると話していました。
肩書きの仮面が顔に癒着するとき
渡邉さんは前回の荒木さんの話を、肩書きを役柄と捉える視点から読み直します。肩書きは役柄であり、役柄を演じるうちに役柄自体が自分を作ってしまう、というゴフマン ── アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマン。日常の相互行為を演劇にたとえ、人は他者の前で役柄を演じているとする議論で知られます的な話です。
渡邉さんによれば、荒木さんが止めたかったのは、まさに役柄が自分と一体になってしまうことではないか、といいます。
例えばラグビー部の仮面をつけている、住友商事の仮面をつけている。で、仮面に過ぎないのに、それが自分の顔とくっついてしまうっていうことをどうしても許容できない。
だから、時に仮面を外して別の仮面をつけなきゃいけないんだけど、次の(所属)先を見つけても、同じように仮面が癒着し始める。
荒木さんの所属を移り続ける感覚は、仮面が癒着しては剥がす、という繰り返しとして描き直されました。
仮面をつける
ラグビー部、住友商事など所属の役柄をまとう
癒着する
仮面に過ぎないものが自分の顔とくっつき始める
剥がして移る
仮面を外し、別の仮面をつける
また癒着する
次の場所でも同じことが起き始める
火の鳥・太陽編に見る「帰属」と仮面の両義性
仮面が剥がれなくなる話から、室越さんはジョジョにそういう話があったと言い出します。渡邉さんが思い浮かべたのは、手塚治虫の『火の鳥』太陽編でした。
『火の鳥』太陽編では、顔の皮を剥がされて犬の皮をかぶせられた主人公が、それと一体化して犬男として生きます。渡邉さんは、7世紀と21世紀の日本を行き来しながら語られる構成を「やばい作品」と評します。
室越さんは、犬の仮面をかぶっている間、主人公は異形の神々とも人間とも話せたが、最後に仮面を剥がされて神々と話せなくなったはずだ、と振り返ります。一方、未来の日本では、仮面は国家への従属を強いる「人格矯正ヘルメット」として描かれているといいます。
日本という国家ができた時と、その国家が最終的に国民に何をしたかっていう話がパラレルに語られる。
そこでその国家に帰属するっていうのがどういうことかっていうのを描写したっていうのは、確かにめっちゃすごい話だな、あれ。
渡邉さんが「帰属とは仮面をかぶされて剥がせない状態にすること」というメタファーだとまとめると、室越さんはそれも両義的だと応じました。
マージナルな存在が異なる集団のどちらもホームにし、集団を調和させるために頑張る
仮面をかぶされることで没個性化し、匿名の個人にさせられていく
渡邉さんは、この構図を就職や転職に重ねます。新しい組織で違う自分を演じるとき、人は一度アイデンティティークライシスを迎え、過去の自分が死ぬような思いをするが、そこで初めての出会いと気づきがある、という見方です。
仮面を剥がした後、素顔の自分はどこにある?
荒木さんは、仮面とべったりしすぎると、脱ぐ瞬間がアイデンティティークライシスそのものになると話します。しかも大企業のように、仮面の記号が大きい場合があります。
最初の住友商事の同期と話すことあるんだけどさ、結構仮面剥がすみたいな話になるもんね。
やっぱ(仮面を)剥がした後に帰属は何なの?みたいな話ってさ、めちゃリアルな話だよね。
荒木さんは同年代の同期と話す中で、仮面を取った素顔の自分とは何なのか、というリアルな恐れを感じる機会が多いといいます。
渡邉さんはこれに対し、研究者や人類学者のような肩書きは所属ではなく態度に近いため、場所が変わっても名乗り続けられるのかもしれない、と返しました。
破門されても酒場で出てしまう「カンフー」
室越さんは、仮面の剥がしやすさにはレイヤーの違いがあると考えます。住友商事の仮面は取れば二度と名乗れないものの、日本人であることは、仮に国家が滅んで世界中に離散しても簡単には剥がせないだろうといいます。
室越さんの想定では、離散先で差別されればされるほど、日本人というスティグマ ── もともとは身体に刻む烙印の意味。社会学では、ある属性によって周囲から否定的な扱いを受ける「しるし」を指しますが自分の中に深く刻み込まれていくかもしれない、とのことです。
3つ目のレイヤーとして室越さんが挙げたのが、人類学者という仮面です。室越さんは31歳で大学を出たとき、もう戻ることはなく、人類学者になる未来もないと思っていました。
少林寺を破門された人みたいな感じで、酒場で酔っ払うとカンフー使っちゃうみたいな。
大分の市役所にいて、仕事してる時にずっとフィールドノートを取ってしまう。そういう時に、ああ、俺は破門されたのにって思うみたいな。
室越さんは自分を、ちゃんとした文化人類学者にちゃんと批判される運命にある「破門された弟子」として捉えているといいます。渡邉さんも、まっとうなデザイナーからはまっとうではないと思われているに違いない、と共感しました。
| 仮面 | 剥がしやすさ | 室越さんの見立て |
|---|---|---|
| 住友商事などの所属 | 剥がせる | 取ると二度と名乗れない |
| 日本人であること | 剥がしにくい | 差別されるほど深く刻まれる |
| 人類学者 | 剥がしたつもりでも残る | 破門されても使ってしまうカンフー |
仮面の下に素顔はあるのか?ゴフマンの劇場
荒木さんは仮面の癒着をさらに進めて、どこからが仮面なのかわからなくなっている可能性を指摘します。犬の仮面を剥がせば素顔がある気がするものの、その素顔すら一体化しすぎた仮面かもしれない、という見方です。
室越さんは、ゴフマンはむしろ本物の私はないと言っているのではないか、と応じます。社会に存在する以上、人は何らかの仮面をかぶって演劇をしている、という理解で、本人も「間違ってるかもしれない」と留保しています。
仮面と私みたいなのをこれまで切り分けて考えてきましたけど、仮面の下の素顔みたいなのは本来的に我々には存在しないのではない(か)。
渡邉さんは、ゴフマンの議論にはフロントステージとバックステージがあると補います。客前のウェイターや教壇の教師はフロントステージで役柄を演じ、厨房や楽屋では一度役柄を解きます。
役柄を演じる場所。客前のウェイター、教壇の上の教師
役柄を脱ぐ場所。厨房のウェイター、楽屋の役者
渡邉さんによれば、肩書きはしばしばフロントステージの役柄の話です。室越さんが肩書きを求められて困るのは、役柄を要求されても、それを演じるのに疲労があるか、承認が足りていないからかもしれない、と渡邉さんは推測します。
ポイントとしては、その演じるっていうのは別に嘘をついてるわけではないっていうのもあるじゃないですか。
演技は本物の社会活動であり、自分自身は演技の結果として構築される、と渡邉さんは続けます。荒木さんも、本物の私があるという前提に立つと、議論を変な方向に持っていってしまう可能性があると同意しました。
論語とゴフマンは同じ?台本をくださいという問い
室越さんは最近論語 ── 孔子とその弟子たちの言行を記録した書物。礼や仁など、社会の中で人がどう振る舞うべきかを説く儒教の基本文献ですを読み直し、ゴフマンと孔子の言っていることは基本的に同じではないかと考えたといいます。社会は劇場であり、人は振り付けられた役柄を演じる、という点です。
ただし室越さんの見立てでは、孔子はそれを倫理規定にし、振り付けられた役柄を本気で演じることを、それがあなた自身なのだと要請してきます。
儒教が十全に機能している社会ではそれが良かったのであるが、やっぱり21世紀の日本においては、役柄が振り付けられない人みたいなのが出てくる。
大きな会社の人や公務員には、こう振る舞うのが正しく倫理的でもあるという役柄が社会的に承認されています。けれどホームレス、つまりどこにも帰属しきれない人には、その台本がないと室越さんは話します。
大企業や公務員など、振り付けられた役柄があり、その振る舞いが倫理的にも承認される
ホームレス的な立場では台本がなく、常に即興を求められる
渡邉さんは、バックステージで落ち着きたいのにそれがなく、いろんなフロントステージで常に演技を求められ、「俺この役者だっけ?」と毎回思っている状態ではないか、と受け止めました。
まっとうな人類学者の台本ではダメなのか?
渡邉さんは室越さんに、まっとうな人類学者としての台本ではダメなのかと尋ねます。室越さんは、その台本を渡されたら、まっとうな人類学者に頼むべきだと一度押し戻すようにしているといいます。
ちゃんとした役者いますってやってるかもしれないですね。もうちょっと泥場なら僕行きますけど。
渡邉さんはむしろ「できます」と言ってほしいと返し、全部がバックステージなのではないか、つまり常に演じきれていないのではないか、という見方を投げかけます。
僕今39なんですけど、39でそれを言われると、えー、これからって感じがする。
室越さんはこの指摘を「鋭い解釈」と受け止め、ちゃんと演じろという話なのかもしれない、と自分の人生を振り返ります。渡邉さんは、室越さんをあまり知らない他者だからこそ乱暴に言えた解釈だと断っています。
室越さんは、自分の先生に謝りに行った際、ある先生から「お前結婚しろ」と言われたエピソードを明かしました。室越さんはそれを、本当に結婚しろというより、何かを決断して責任を取れという意味だと解釈しています。
室越さんにとって、ちゃんと演じるとは社会に対して責任を取ることです。どこの「ワン・オブ・アス」にもなれないのは責任を引き受けないからだ、と反省を口にしました。
縦ではなく横や斜めの責任の取り方はあるか?
荒木さんは、先生の言わんとすることはよくわかるとしながらも、責任を中途半端に引き受ける演技の仕方があるのではないか、と切り出します。それは荒木さん自身がそうありたいと思っているからだといいます。
荒木さんは、もっと専門領域を持ったらいいのではと言われているように勝手に解釈し、余計なお世話だと思うこともあると話します。世の中では、何かを深掘って専門まで行くことでようやく名乗れる、という「縦の思想」が強いという見立てです。
縦じゃなくて横っていうのもあるし、斜めっていうのもあると僕は思っていて。
いろんな領域をつなぐことができるみたいなことっていうのも、多分1つの役割だし、演技方法だと僕は思うわけですよね。
1つの領域を深掘りして専門まで行き、ようやく名乗りができる
いろんな領域をつなぐことも1つの役割であり演技方法になる
荒木さんは、先生が縦方向の文脈で責任を持てと言っていたのなら、必ずしもそうではないのではないか、と伝えたいと話しました。
「ここが外だ」すでに持っているものが専門
室越さんは、20年以上付き合いのある先生の言葉は、何者にも責任を持っていないという意味だろうと受け止めつつ、荒木さんの話にも共感します。そこで思い出したのが、人生の好きな3冊に挙げるという森博嗣 ── 工学博士で大学の研究者でもあった小説家。理系的な発想を盛り込んだミステリで知られますの『笑わない数学者』です。
『笑わない数学者』には、公園の地面に老人が円を描き、中に入った女の子に、線をまたがず円の外に出てくださいと言う場面があります。考え込む女の子に、数学者は円の内側を指して「ここが外だ」と言います。
室越さんから見ると、荒木さんも渡邉さんも、すでにそれぞれの名前がブランドになっています。専門を持てという話は、これから誰かのディシプリンを取るのではなく、弟子を取れ、系譜になれという話なのではないか、と室越さんは考えました。
荒木さんのすでに持っているものがすでに専門だろって思ったって感じかもしれないですね。
室越さんの答えは、外へ出る別の方法を探すのではなく、すでに立っている場所がもう外だという見方でした。
誤解を含む記号も引き受けるしかない?
渡邉さんは、自分たちの名前がブランドかどうかは自分ではよくわからないとしつつ、もしあるとすれば半分は仕事上好ましく、半分は好ましくないと話します。それは自分たちが逃れようとしてきた記号でもあるからです。
それでも、ある程度の記号をまとわなければ最初の仕事がやってこず、人にも認識されません。
荒木さんがこの話の延長で次回へ進むことを提案し、室越さんとの3回目の対話は締めくくられました。
まとめ
この回では、肩書きを仮面や役柄として捉え、仮面が顔に癒着する怖さ、仮面の下に素顔はないかもしれないという見方、台本のない即興を求められる苦しさへと議論が進みました。最後は、責任の取り方は縦だけではなく、すでに持っているものが専門であり、誤解を含む記号も引き受ける必要があるかもしれない、という地点にたどり着いています。
- 肩書きは仮面であり、長くつけるほど顔に癒着して剥がしにくくなる
- ゴフマン的には仮面の下の「本物の私」は存在せず、演技は嘘ではなく本物の社会活動である
- どこにも帰属しきれない人は台本がなく、常に即興を求められる
- 責任の取り方は1つの領域を深掘る縦方向だけでなく、領域をつなぐ横や斜めもある
- 仕事を得て認識されるには、誤解を含む記号も引き受けなければならない可能性がある





