中国の自転車が「ゴミの山」で止まっている問題
この回のテーマは「中国と自転車」です。家本さんによれば、この話題を出すと多くの人がまず思い浮かべるのは、7、8年ほど前に日本のテレビで流れた、シェアサイクルがゴミの山のように積み上がった映像だといいます。
家本さんはその反応に、毎回苛立ちを感じると話します。一般の人ならまだしも、自転車業界の人でさえ、隣国の情報をアップデートできていないと指摘します。
お隣中国の情報が、どんだけキャッチアップできてないのかと。一般の人はしょうがないんだけど。
やばい、今日俺これ怒られるやつだな。
今回話す軸は2つです。1つはシェアサイクルの話、もう1つは自転車がつなぐ日本と中国の歴史の話だと提示されました。
台湾ブランドも中国製?世界の自転車を支える工場
岡田さんが中国の自転車に抱くイメージは、天安門広場のような広い道路を自転車が大量に走る、いわゆる「銀輪部隊」の光景でした。加えて近年は、中国のロードバイクブランドが力をつけている印象があると話します。
いちユーザーとして欲しいなって思うもの、かなり増えてきてるんですよ。
家本さんはこれを裏づけます。グローバルな自転車ブランドのかなりの比率が、実は中国で作られているからです。アメリカやヨーロッパのブランドだと思っていても、中国の工場に行くと、よく知られたブランドの自転車がOEM生産で次々と流れてくるといいます。
街でよく見る台湾の有名メーカーのモデルも、実際には中国大陸で作られていると家本さんは明かします。世界の三大自転車製造拠点は、中国大陸、台湾、そしてカンボジアだといいます。
カンボジアが拠点になる理由はEU向けの関税にあります。中国や台湾から直接送ると関税が高くなるため、間にカンボジアを挟むことで安くなるという事情があると説明されました。
1936年、日本人が天津で始めた中国の自転車
ここで家本さんが「今日の一番大事なキーワード」として挙げたのが1936年です。この年、ある日本人が中国の天津に自転車を持ち込み、工場を始めたことが、中国の自転車史のスタートだといいます。
それまで中国では、アメリカやヨーロッパの人が持ち込む輸入品しかありませんでした。当時の天津は日本の統治時代で、日本人の往来も多かったといいます。
その後の歴史は複雑です。第二次世界大戦の終結、国民党と共産党の内戦を経て、日本人が関わった工場は国民党の、そして中国共産党の支配下へと移りました。さらに数十年後、国営企業の民営化を経て今に至ります。
家本さんによれば、日本のメーカーのOEM工場として、日本のホームセンターや大手チェーンに並ぶ自転車の多くが、今も天津で作られているといいます。
この歴史を前提に、家本さんはお互いはそんな喧嘩する相手じゃない、とても大事なパートナーとして続いてきたのだと強調しました。
黄色い自転車の正体と、日本に残された「墓場」
話はシェアサイクルへ移ります。中国のシェアサイクルで今もっとも数が多いのは黄色だと家本さんは言います。岡田さんは中国市場をまったく知らず、色すら想像できませんでした。
もともとオレンジ色のモバイクが一時日本にも進出しましたが、うまくいかず撤退。その後、グルメ検索サイトを手がけていた美団が買収し、黄色い自転車として街に広がったと説明されました。
家本さんはその黄色い自転車を作る工場にも潜入したといいます。完全オリジナルの自転車を工場に委託発注し、耐久試験も製造工程も一つひとつ丁寧に指示していると評価します。
一方で、日本には「墓場」の記憶も残っています。かつて北九州、滋賀県の大津市、和歌山などにも中国のシェアサイクルが来ていたと家本さんは振り返ります。
ところが、その会社が中国側で立ち行かなくなり、突然サービスが消えました。残された自転車は回収されず放置され、街の人にとって大迷惑だったといいます。
大阪の南の方のある中古の自転車屋さんに行ったら、その自転車が売られてた。名前も変わらず、そのまま置いてあるんだよ。
放置自転車が行政に回収され、めぐりめぐって中古市場に出た可能性があるものの、詳しい経路は不明だといいます。この時期、フランスやスペインなど各国に展開した中国のシェアサイクルはことごとく失敗し、その残骸がヨーロッパにも残りました。
そして、ドローンで撮影された「ゴミの山」の映像が日本で流れ、中国のシェアサイクルはダメだというイメージが定着したのだと家本さんは整理します。
コロナの間に進化。3社に集約された今の姿
ところが、日本人が往来しづらかったコロナ禍の間に、中国のシェアサイクルは急成長していたと家本さんは言います。かつては色が足りずレインボーカラーまで出るほど乱立していましたが、今は淘汰され、3社に集約されました。
この3社は各省や各市とコミュニケーションを取り、都市ごとの台数の総量規制を守っています。GPS情報でどこに停めてよいかを管理するジオフェンスも導入され、以前より大きく改善したといいます。
家本さんはこの背景に、日本と中国のやり方の違いがあると指摘します。中国はまず全員に自由にやらせ、問題が見えてから門を閉じていくといいます。
まず自由にやらせ、問題が見えてからルールを作り、門をくぐれた事業者だけが残る
先に起こりうる問題を潰し、落とし穴がないようにしてから運営を始める
岡田さんは、これは日本とは真逆で、日本は問題が発生しないよう先回りする印象があると応じます。家本さんは、どちらがイノベーションの加速に向くかと問いかけました。
岡田さんは、日本でも電動キックボードのループなどは「まず広めよう」の精神を感じると話します。一方で、慎重になりすぎて全部の穴を潰した頃には、すでにトレンドが過ぎてしまう危うさも語られました。
なぜ中国にシェアサイクルは必須だったのか
家本さんは、中国にシェアサイクルは必要だったと言い切ります。10年ほど前まで北京も上海もモータリゼーションが進み、自動車が大渋滞していたからです。
ナンバープレートの末尾一桁で走ってよい曜日が決まるほど車が増え、環境問題も深刻でした。加えて、駅と駅の間の距離が長く、「ワンブロック向こう」でも軽く2キロある環境だったといいます。
なるほど。東京だと考えられない。
こうした都市で、シェアサイクルが駅と駅の間をうまく埋めるインフラになったと家本さんは説明します。北京だけでも年間4回、5回と使われるほどの規模だといいます。
単独の都市での売上規模ではニューヨークが圧倒的で、シェアサイクル事業だけで年間400億円以上を売り上げていると紹介されました。日本のシェアサイクルを全部合わせても届かない規模です。
ただし利用回数ベースで見ると、断トツで中国だといいます。それだけ使われるからこそ、タイヤも一時はパンクしないカチコチのものになり、最近はスポークやホイールの耐久性を考えて、再びエアタイヤに戻り始めているそうです。
合いマークに見る、桁違いの品質管理と規模
家本さんが特に感激したのが、シェアサイクルに施された「合いマーク」です。工事現場や金属加工で、ボルトとナットにマジックで斜めの線を引き、緩みがひと目でわかるようにする印のことです。
売っている一般の自転車にはまず付いていませんが、中国のシェアサイクルは製造の段階からこの合いマークが入っていると家本さんは言います。過去に緩んで問題が起きたからこそ、それを目視点検で防ぐ工夫が反映されているのです。
すべての点検を人の目だけで行うのは簡単ではありません。パッと見て判断すべき場面で役立つこうしたナレッジがあることに、家本さんは価値を見出します。
規模の話も桁違いです。黄色い自転車の工場では、辺り一面が黄色い自転車で埋まり、製造ラインが同時に何本も動いていたといいます。
家本さんはかつて、中国の工場でシェアサイクル用に作られた自転車を譲り受け、オフィスの受付に飾っていたこともあると明かします。当時はまだ重く、乗りづらさもありましたが、今はレベルが格段に上がっているといいます。
「乗らずして語るな」現地を見ることの意味
家本さんがこの話をした背景には、ある原稿への悔しさがありました。中国のシェアサイクルの最新事情として書かれた原稿の下書きが、最新の状況をまったく反映しておらず、伝聞ベースだったといいます。
好き嫌いの問題ではなく、リアルなものを見て語らなければならない、というのが家本さんの一貫した主張です。
ネットの情報や、この番組の話だけで分かった気になるのではなく、実際に乗りに行ってほしいと家本さんは呼びかけます。中国のシェアサイクルは乗らずして片付けちゃいけないという一点です。
岡田さんも自転車技師として、進化した中国のシェアサイクルに強い関心を示し、いつか現地で乗ってみたいと応じました。
まとめ
この回は、テレビの「墓場」イメージで止まった中国の自転車像を、日中の自転車史と現地での観察から更新する内容でした。歴史的なつながりと、進化したシェアサイクルの現在地の両面から、「見てから語る」ことの大切さが語られました。
- 中国の自転車史は、1936年に日本人が天津で始めた工場に端を発し、日中は長く自転車のパートナーであり続けてきた
- 世界の有名ブランドの多くが中国大陸で生産され、中国・台湾・カンボジアが三大製造拠点となっている
- 乱立したシェアサイクルはコロナ禍の間に3社へ淘汰・集約され、総量規制やジオフェンスで管理される段階に進化した
- 利用回数は中国が断トツで、合いマークによる品質管理や桁違いの製造規模など、学ぶべき点が多い
- 家本さんの結論は「リアルを見てから語る」こと。中国のシェアサイクルは実際に乗って体験してほしいと呼びかけた






