ちいかわ全肯定の次に、なぜもののけ姫なのか
今回のエピソードは、映画『ちいかわ』を取り上げた前回の続きです。蛇さんは前回、映画『ちいかわ』を全肯定する立場で話しましたが、今回は「これでいいのかな」という別の視点を出すために、もののけ姫を持ち出します。
もちろんちいかわ(映画)は作品としてすごく面白いと思うんだけど、それに対して、「これいいのかな?」っていう視点も出したいわけなんですよ。
鼠さんはタイトルの「ちいかわVSもののけ姫」をエイリアンVSプレデターのようだと茶化しつつ、もののけ姫は対抗馬というより「もう一つのオルタナティブ」なのだと受け止めます。
前回の振り返りとして、蛇さんは映画の舞台である島にスケープゴートの構造があったことを確認します。島では無関係な者を生贄として差し出すことで祟りを回避していました。
ところが映画のちいかわは、真犯人がわかった時点でそれを告発せず、黙っていることを選びます。蛇さんはこれを単なる優しさではなく、真実を「知る者」と「語る者」を分断した積極的な不作為であり、スケープゴートを作り出さないという選択だったと読み解いていました。
この知りながら黙るって選択をね、もうちょっと掘り下げるとね、これ権力の話になるんじゃないかなと。
ちいかわが黙るかどうかを選べたのなら、ちいかわは権力を持っていたことになる。そこから今回は、環境アセスメントやSDGsといった現代の話題につなげていくと蛇さんは予告します。鼠さんはすかさず「俺が嫌いなやつ」と反応しています。
掟を発動するスイッチは誰が握っていたのか
蛇さんはまず、掟を発動するかしないかを選べること自体が権力だと切り出します。鼠さんは現代日本に置き換え、犯罪が認知されたときに警察という暴力装置を動かせるかどうかが権力の有無だと説明します。
蛇さんはこれを受けて、マックス・ウェーバー ── 19〜20世紀ドイツの社会学者。国家を「一定の領域内で正当な物理的暴力の独占を実効的に要求する共同体」と定義したことで知られますの国家の定義に触れます。うろ覚えだと断りつつ、限られた領域の中で合法的な暴力を実効的に支配するのが国家権力だという整理です。
ちいかわはだから暴力装置を発動するかどうかのスイッチをある意味握っていた第三者だったってこと。
鼠さんは、もしちいかわが真相を口にしていたら、一羽と双葉一羽と双葉の人魚という禁忌に対して村の暴力装置が動き、殴り殺されるような事態が起きていたかもしれないと補います。蛇さんは、精霊に差し出されていた可能性もあったと付け加えます。
蛇さんの見立てでは、ちいかわは島の神話的秩序を運用する代理人や管理者の立場に、否応なく立たされていました。だからこそ思慮深さが必要であり、この権力を思慮なく使えば非常に危ういというわけです。
鼠さんはここで、自分たちのラジオにたとえます。収録前に相方が人を殺したと打ち明けてきたら、それを放送で言うかどうかを選べる立場になる。狭い村で唯一の放送機関を担っていたら、なおさら危ういという想像です。
蛇さんによれば、ちいかわの世界には法律も国家もありません。そのため権力装置はより原初的な形をとり、個人に帰属しています。
知ってるか知らないか、言うか言わないかっていう選択そのものが政治になるわけですね。
もののけ姫は自然と科学技術の物語か
ここで蛇さんは、もののけ姫という補助線を入れると見えてくるものがあるとして話題を移します。蛇さんはジブリのもののけ姫を、はっきりと「自然対科学技術」の物語だと捉えています。
あらすじをうろ覚えの鼠さんが思い出したのは、火薬を作って銃を撃つ女性の姿でした。蛇さんはそれがエボシだと応じ、シシ神の森と、エボシが率いるたたら製鉄所という対立の構図を説明します。
自然側の象徴として最終的に登場するのがデイダラボッチです。鼠さんは、新海誠監督の『すずめの戸締まり』を観たときに、泥と虹が混ざったような怪物にもののけ姫のデイダラボッチを連想したといいます(最初は『天気の子』と言い間違え、すぐに訂正しています)。
結構自然のイメージの表象にもののけ姫って作品自体がかなり影響を与えてるんじゃないかって僕思ってて。
蛇さんは、人間は自然から恩恵を受ける一方で、地震や竜巻、土砂災害といった脅威にもさらされており、だからこそ自然を恐れてもいると整理します。
鼠さんが好きだという昔の自然観は、地震を日本列島の下にいる巨大なナマズのせいとし、その頭を押さえるために要所に大きな石を置くというものです。儀式的な理解だとわかっていても方法が雑すぎる、と笑います。
蛇さんは、何らかの物語を見つけることこそ人間の知性だと応じます。鼠さんも、因果関係を見出して操作しようとするのが神話の論理であり、嫌いな相手の髪の毛を燃やす遠隔魔術や丑の刻参りも、その因果が想定されるから呪術として成立するのだと続けます。
話を戻した蛇さんは、科学技術側の象徴をエボシの製鉄所だとします。製鉄で武器を作り、火薬を使えば銃も作れる。エボシの物語は、自然を支配して切り開いていく開墾の物語です。
開墾
エボシが製鉄所を率い、自然を支配して切り開いていく
暴走
開墾を進めるうちに、さまざまな暴走が始まる
自然の反逆
木々が枯れ、祟り神と呼ばれるものが生まれる
蛇さんはこの流れを、高度経済成長やダム開発、公害問題といった現代日本の開墾を象徴する神話として読めるのではないかと考えています。
開墾はなぜ神話になってきたのか
鼠さんは、同じジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』も多摩地区の開発で追い出された野山の生き物を描いた作品だと挙げます。ラストの開発前後の映像には、鼠さんが当時住んでいた家から徒歩3分ほどの場所が映っていたそうです。
蛇さんは、開墾という行為は人類のあらゆる文化圏で繰り返されてきたと話します。鼠さんは、カルチャーの語源が「耕す」という意味の言葉だと付け加えます。
開墾は神話のモチーフとしても繰り返し語られてきました。蛇さんは、中国で治水工事によって龍、つまり大水を鎮めるという話を例に挙げます。
鼠さんはそこから、ヤマタノオロチ ── 『古事記』『日本書紀』に登場する8つの頭と尾を持つ大蛇。スサノオに退治され、その尾から草薙剣が見つかったと伝えられます伝説を治水神話とみる説に触れます。女性を差し出す生贄の話を、川の氾濫を物理的にダムで鎮めた話として読み、川底からたまたま剣が見つかったと考えると、とてもリアルに感じるといいます。
さらに鼠さんは、イザナギとイザナミが矛でかき混ぜて日本列島を作る国生みの神話について、独自の仮説を語ります。祖先が大陸から渡ってくる間に、川が少しずつ広がって海になっていく様子を見ていたのではないかというものです。
最初は例えば槍で突いたかのように広がり始めてっていう比喩表現だったのが、槍で突いて広がったみたいな。
蛇さんは、人は妥当そうなことしか語れず、神話はその妥当そうなことの連続でできていると応じます。科学という新しい神話が生まれて否定されたものもあるが、昔の人は同じ現象を別の形で解釈していただけだという見方です。
そう考えると、開墾とは聖なるものとの戦いなのではないか、と蛇さんは続けます。もののけ姫では神であるデイダラボッチとエボシ、つまり科学技術が向き合っており、現代において聖なる自然と戦っているのは科学技術だというわけです。
セイレーンの首を取らなかったのはなぜか
蛇さんは、もののけ姫の構図を映画『ちいかわ』に置き換えます。科学技術が自然の首を取るように、もしちいかわたちがセイレーンの首を取れていたらどうなったのか、という問いです。
(映画の中で、セイレーンを)あと一歩でやっつけられるところまでいくんですよ。でもやっつけないんですよ。それやっつけたらまずかったからなんじゃないかなと思ってて。
ちいかわの世界でセイレーンは最強クラスの存在です。それでも映画のちいかわたちはとどめを刺さず、一方でセイレーンの思い通りにもさせず、自分たちに有利な選択を通していたと蛇さんは指摘します。
蛇さんはこれを、環境にどうアプローチするかを決めていたという意味で、ちいかわは環境アセスメントをしていたのだと結論づけます。
これには鼠さんも「途中まで真面目に聞いていたけど、ごめん違う、嫌い」と猛反発し、こじつけが過ぎると突っ込みます。蛇さんは、こういうのは誤読する瞬間が一番楽しいと返し、鼠さんは修士論文に書いたら落ちると笑っています。
アシタカが選んだ「第4の選択」とは
では、もののけ姫の主人公アシタカはどうしたのか。蛇さんは、アシタカはちいかわとある意味で真逆のことをすると話します。アシタカも聖なる自然をどう扱うかという権力を持つ人物ですが、自然にもっと寄り添います。
アシタカは徹底してどちらの言い分も聞き、知りながら黙るのではなく積極的に動きます。そして対立の構造を残して終わるのではなく、共存を目指そうとします。
真相を知りながら黙り、スケープゴートを作らない。セイレーンも倒さない
どちらの言い分も聞いて積極的に動き、痛みを伴っても共存を目指す
鼠さんは、人も森で生きられるとアシタカが語る名場面を思い出し、そちらの選択のほうが好きだと話します。蛇さんによれば、アシタカの選択は痛みが避けられないことを受け入れたうえでの「共に生きよう」です。
これはもう滅びでも村八分でも、そして隠遁でもない。
鼠さんが「第4の選択ってことですか」と問うと、蛇さんはそうだと答えます。サンは森で、アシタカはたたら場で、別々の場所にいながら共に生きようと言うのがアシタカのスタンスです。
蛇さんは、シシ神の森が最終的に元に戻らず、森の再生も描かれないことにも注目します。自然が人間を許したわけでも、人間が自然を克服したわけでもない、どちらの完全勝利でもない結末だという読みです。
環境アセスメントと、自然の「ツケ」
蛇さんはここで、環境アセスメントとは何かを説明します。正式には環境影響評価と呼ばれ、1997年に法律で定められたもので、たとえばダムを作るときに環境への負荷がどれくらいかかるかを事前に考える仕組みです。
鼠さんは、何も考えずに工場を建てまくって四日市ぜんそく ── 1960年代に三重県四日市市の石油化学コンビナートから出た大気汚染で多発した健康被害。日本の四大公害病の一つですのような事態を起こすことをやめろという話だと理解します。
蛇さんはセンシティブな話題だと迷いながらも、熱海で起きた土砂災害に触れます。原因は盛り土で、規定より多くの土を置いてしまったことが環境負荷を考慮しない行為だったと話します。蛇さんは、自分にはその当事者を裁くことはできないと断っています。
ある種断罪システムが、作動しなかったってことなんですよ。だから断罪システムを作動させないっていうことは、必ずしも正しくはない。
ちいかわの「黙る」選択は美しかった一方で、環境アセスメントの場面では断罪を働かせないことが正しくない場合がある。蛇さんは、自然にはツケが回ってくる仕組みがあるのではないかと考えています。
鼠さんは、自然と人間のあいだに報いや応報の関係を見る例として、ドルイド ── キリスト教伝来以前のケルト社会で祭祀や裁きを担った神官階級。その信仰はドルイド教と呼ばれることがありますや、最近読んだというゲルマン法の話を紹介します。そこでの罪は、個人の悔い改めではなく、壊した場の秩序を修復することが本質だったといいます。
鼠さんはさらに、東京西部の実家近くで87歳の女性が営む喫茶店で聞いた話を語ります。女性の母親の時代、駅以外は野原だったその土地では、帰りが遅くなると狐に化かされると言われていたそうです。
そのため女性の母親は油揚げを1枚多く買って帰り、家の近くのお稲荷様に「次も帰らせてください」と捧げていたといいます。鼠さんはこれを、貨幣による人間同士の交換とはまったく違う、自然と人間の互酬関係だと受け止めます。
蛇さんは、人間は常にそのルールを変えようとしており、ルールを変えるなら環境への知識、つまり環境アセスメントが必要になると話をつなげます。
SDGsは「みんなでやるちいかわ」になれるか
蛇さんは、映画で焚き火の前のちいかわが見せた逡巡を、個人ではなく社会全体でやろうという考え方があり、それこそ本来の意味でのSDGsではないかと話します。地域共同体ではなく世界全体で環境評価をしていこうという、一つの理想です。
蛇さんはSDGsの目標のうち、自然に関わる3つを、海の神様や陸の神様にたとえられるかもしれないと挙げます。
| 番号 | 目標 | 蛇さんのたとえ |
|---|---|---|
| 13 | 気候変動 | 環境と人間の関係を取り持つ目標 |
| 14 | 海の豊かさ | 海の神様 |
| 15 | 陸の豊かさ | 陸の神様 |
これを受けて鼠さんは、過言かもしれないと前置きしつつ、大きな見立てを口にします。蛇さんも「それは僕も感じます」と同意します。
鼠さんによれば、科学やマルクス主義が絶対視されたイデオロギーの時代が壊れつつあります。蛇さんは、科学をイデオロギーや宗教のアナロジーで捉えようとしてきたが、実は科学は単なる私たちの思考様式なのだと補います。
鼠さんはトランプ氏について賛否があると断りつつ、唯一神的に振る舞う科学や技術の一つの表象ではないかと述べ、関係を元に戻そうとする人が増えているのではと話します。
蛇さんは、単純に元に戻せばよいわけではないと応じます。SDGsへの批判の多くは、表向きは環境に配慮しつつサプライチェーンで大きな負荷をかけている「SDGsウォッシュ」に向けられたものだという見方です。
熱海の土砂災害も、みんなが思慮深さを持って取り組んでいれば違う形になったのではないか、と蛇さんは考えます。鼠さんが「人類総ちいかわ化計画ってこと?」と返すと、蛇さんは、ちいかわ一人に背負わせるのではなく、みんなで考えていくのが社会のあり方としてよいと答えます。
だからスケープゴートを作るのではなくて、もっと我々自身が住んでる土地に、こう、ある種、根を下ろすというか、世界に根を下ろすみたいな方向にやっていくべきじゃないかってことですよね。
蛇さんは、映画『ちいかわ』は物語としてとても美しかったが、アシタカ的な立場も考えていったほうがいいとまとめます。
小さな選択と「法則が宿る」自然観
締めくくりに蛇さんは、みんなが楽しめるアニメというエンターテインメントの中にも、いろいろな分析の方法があると脚本を書きながら改めて感じたと振り返ります。
鼠さんは、自然と人間の関係はアニミズム的な方向に還元せざるを得ないと語ります。すべてが一つの根本原因で起きているという見方は直感に反し、一人の小さな選択がバタフライ効果のように何かを起こすと考えるほうがリアルで、自分を変えようという気持ちにもなるからです。
鼠さんは、環境指標のような科学的な俯瞰を、人間一人ではできないことを可能にするすごいものだと認めます。そのうえで、実際の行動は道端のゴミを1つ拾うような細かいもので、「お天道様が見てるから一日一善」という論理のほうがしっくりくるといいます。
自然との関係を取り戻すっていう、まあちょっと言い方がオカルティックな言い方になっちゃいますけど、でもそっちの方がすごいしっくりくるなぁって今日聞いてて思いました。
鼠さんは「明日からちいかわになるよう努力していこうと思います」と笑い、蛇さんは物理学の側からの応答として、田崎先生の『熱力学現代的な視点から』の冒頭にある自然法則観を紹介します。
「私は自然界に法則が宿っているという言い方が好きだ。」
蛇さんの紹介によれば、田崎先生は、一つのマスターキーがすべての法則を支配するのではなく、自然界のいろいろな場所に法則が宿っていて、それを理性の力で捕まえるのだと書いています。
鼠さんは、火の神には火の神の論理を見出すような考え方に近いと受け止めます。蛇さんは、そうした思考が物理学者にも可能なのだと知り、強く印象に残ったと話しています。最後は鼠さんの「あぐらアゴラ教にぜひ入信して」という冗談に、蛇さんが「宗教ではありませんから」と念を押して幕を閉じます。
まとめ
今回の対話は、映画『ちいかわ』の「知りながら黙る」選択を権力として読み直し、もののけ姫のアシタカの共存という選択と並べることで、環境アセスメントやSDGs、そしてアニミズム的な自然観へと話を広げていきました。
- ちいかわは島の掟を発動するスイッチを握る第三者であり、黙ることはスケープゴートを作らないという権力の行使だった
- もののけ姫は開墾の神話であり、アシタカは滅びでも村八分でも隠遁でもない「第4の選択」として痛みを伴う共存を目指した
- 熱海の土砂災害を例に、断罪システムが働かないことが環境面では正しくない場合もあると蛇さんは指摘した
- ちいかわの逡巡を社会全体で行うのが本来のSDGsではないか、という見立てが示された
- 鼠さんは世界がアニミズムに戻りつつあると語り、蛇さんも「自然界に法則が宿る」という物理学者の言葉に共感を示した







