酒石酸からワクチンまで、パスツールは何を成し遂げたのか
「生命科学の冒険者」のルイ・パスツール編は、全10回で完結します。最終回の冒頭で、あきさんはこれまでの回で扱ったパスツールの歩みを振り返りました。
長かった。
長かったですかね。ただ10回だから。
若き日のパスツールは、ワインの樽の底にできる酒石酸の結晶を詳しく観察し、光学異性体 ── 原子の組み合わせは同じでも、立体構造が鏡に映したように左右反転している分子どうしのこと。性質や生体への作用が異なる場合があるが存在することを初めて示しました。化学式は同じでも、構造が左手と右手のように鏡写しになっている物質がある、という発見です。
あきさんは自身をバイオ系の人間だとして説明の拙さを詫びつつ、パスツールがこの発見で化学界のスターに上り詰めたと紹介します。一般に知られる「微生物研究で医学に貢献した人物」というイメージは、この後の転身によって形づくられていきました。
化学から転じたパスツールは、酵母がアルコール発酵を起こすことを発見し、乳酸菌などがその発酵を邪魔することも突き止めました。発酵をコントロールする方法を考え、フランスのアルコール産業に貢献しています。
続いてパスツールは鶏コレラを研究し、弱らせた菌がワクチンになることを見いだしました。ジェンナーが天然痘に対して牛痘を使ったのとはまったく違うアプローチで、あきさんは弱毒化した病原体をワクチンにする発想こそが大発見だったのではないかと話します。
(鶏コレラのワクチンは)これがパスツールにとってはすごい大発見なんじゃないかなと僕は今回ちょっと思いました。
その後パスツールは炭疽病と狂犬病に取り組みました。炭疽病では家畜へのワクチン接種で羊や山羊、牛が死ななくなり、狂犬病では発症した人間を救えるようにしたとされます。ただし、炭疽病と狂犬病の研究には、前回・前々回で伝えたとおり疑惑付きの部分もあるとあきさんは補足しています。
70歳の祝典で交わされたリスターとの抱擁
パスツールの最後の日々は、1892年12月27日の祝典から語られます。パリのソルボンヌ大学の大講堂で、パスツールの70歳を祝う盛大な式典が開かれました。
式典には当時のフランス大統領サディ・カルノーをはじめ、国内外の学術団体の代表団が集まり、国境を越えて敬意を表しました。あきさんは、フランスの英雄として国を挙げて祝われた式典だったと説明します。
この祝典の場には、イギリスの外科医ジョゼフ・リスターの姿もありました。リスターは、目に見えない微生物が物質を変化させるというパスツールの発酵研究から、傷口の化膿も微生物が引き起こしているのではないかと考えた人物です。
リスターは1867年、手術中や術後の傷口をフェノールで消毒する消毒外科 ── 手術器具や傷口を薬剤で消毒し、細菌感染を防ぎながら手術を行う方法。リスターが提唱し、外科手術の死亡率を大きく下げたを提唱し、手術の成功率を大きく高めました。
あきさんによると、それ以前は前の患者を切ったメスをそのまま使うことも日常茶飯事で、手術は半分ほどが亡くなる一か八かのものだったといいます。
汚れたメスや前の患者に使ったメスで手術し、半分ほどが亡くなる一か八かの状態
フェノールで傷口を消毒し、手術の成功率が大きく向上
ちなみにこのフェノールってすごい劇薬でですね、今だと手術とかで使う消毒って70%エタノールだと思うんですけれども。
リスターはパスツールに深い尊敬の念を抱いており、祝典では「あなたは何世紀にもわたって感染症を覆い隠してきたベールを取り払い、その微生物としての本質を発見し、証明されました」と祝辞を贈ったと伝わっています。
このころのパスツールは麻痺のため長く話すことが難しく、返礼は息子が代わりに読み上げました。それでもパスツールは不自由な体で立ち上がり、リスターとハグを交わしたといわれています。
その後もパスツールの体は衰えていきましたが、頭脳は死の直前まで明晰だったようです。自分で実験器具を扱えなくなっても、家族や弟子に指示を出しながらパスツール研究所の方向性を見守り続けました。日々の運営は、共同設立者の一人である弟子のエミール・デュクローが取り仕切るようになっていきました。
最後まで続いたコッホとの確執と、秘密主義の影
炭疽病の研究以来、パスツールとドイツのライバルであるロベルト・コッホの間には深い溝がありました。あきさんによれば、二人の対立は最後まで解けず、仲が悪いまま終わったようです。
コッホは炭疽病ワクチンに懐疑的で、ジュネーブでのパスツールの講演に反論する小冊子まで出版しました。そこでは、パスツールの検体が唾液や鼻汁など不純物の多いものであること、実験に使ったウサギがその病気にかかりやすい動物ではないことを挙げ、結果は信頼できないと批判しています。
コッホはさらに、実際にワクチン接種が失敗した例もそうした問題のせいではないかと指摘しました。加えて、パスツールが実験手順をあまり公開しない秘密主義だった点も、コッホは突いていったといいます。
今だとですね、論文にする際に実験手順を明かさないなんてありえないので、今の基準で考えると、パスツールはなんかここまですごくなってなかったかもしれないなとは正直ちょっと思います。
あきさんは、秘密主義の理由として、研究を盗まれたくなかったこと以上に、パスツール自身が他人の手柄を取っていた部分もあったのではないかと推測します。
とみーさんが、こうした騒動があったから実験手順を公開する文化になったのかと尋ねると、あきさんは、これだけが理由ではないと断ったうえで、科学界は失敗の積み重ねから論文の書き方を整えてきたのだろうと答えました。
確かに(パスツールは)秘密主義だった上に、自伝の中では結構綺麗な話が多かったみたいなのもあったもんね。
パスツールのやらかしが明らかになったのは、最近のことです。パスツールは実験ノートを燃やすよう言っていたものの、ノートはたまたまフランスの博物館に寄贈されており、歴史家が詳しく調べた結果、さまざまな問題が見つかったといいます。
それでもあきさんは、鶏コレラのワクチンや、微生物は微生物からしか生まれないことを示した白鳥の首フラスコの実験 ── 首を白鳥のように曲げたフラスコで煮沸した液を保存し、外から微生物が入らなければ腐らないことを示した実験。生物の自然発生説を否定したは、パスツールでなければわからなかった本当にすごい仕事だと評価しています。
コッホの弟子・北里柴三郎をなぜ温かく迎えたのか
コッホとパスツールは不仲のまま終わりましたが、コッホの弟子である北里柴三郎に対して、パスツールは温かく接しました。北里柴三郎は日本の近代医学の父と呼ばれ、新しい千円札の顔にもなった人物です。
北里はコッホの研究所に留学してさまざまな発見をし、ドイツ留学の最後にベルリンを離れて、パリのパスツールに面会しに行きました。パスツールはコッホの弟子だからと断ることなく、すぐにアポイントを与えて迎え入れたといいます。
パスツールは北里に「あなたの活躍を心強く思っていました。次に何を発表するか楽しみに待っていたのですよ」と声をかけたと伝わります。あきさんは、パスツールにとっても北里が注目の研究者だったのだろうと話し、日本人として嬉しいと語りました。
北里には、パスツールにどうしても聞きたいことがありました。普仏戦争でフランスが敗れる中、パスツールは疎開しながら研究を続け、イタリアから研究の誘いも受けていました。なぜイタリアに行かず、荒廃したフランスにとどまったのか、という問いです。
パスツールの答えは「悲劇に見舞われた祖国を見捨てることはできない。自分は逃亡者になりたくない」というものでした。別れ際には、自らの肖像写真に「北里博士へ、その素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて ルイ・パスツール」と書き添えて贈り、北里はこの写真を生涯大切にしたそうです。
あきさんは、この祖国にとどまって研究する姿勢が北里の人生にも影響したのではないかと考えています。北里は大発見を携えて帰国したものの、日本は研究ポストを与えませんでした。北里は福沢諭吉らの支援を受けて民間資金で小さな北里研究所を立ち上げ、欧米の大学からの多くのオファーを断って日本で研究を続けました。
これはちょっとパスツールの影響があったんじゃないかなというふうに僕はちょっと思います。
72歳の死、ノートルダムでの国葬とビザンチン様式の霊廟
1895年9月28日、パスツールはパリ郊外のヴィルヌーヴ=レタンにある、政府から提供された邸宅で息を引き取りました。72歳でした。
収録では、あきさんがヴィルヌーヴ=レタンを邸宅の名前だと思い込み、とみーさんに地名ではないかと指摘されて訂正する一幕もありました。
最期は家族が見守る中で、妻のマリーが「苦しいですか」と尋ねると、パスツールはかすかに「はい」と答え、そのまま意識を失ったと伝えられています。熱心なカトリック教徒だったパスツールは、亡くなる数日前から司祭による終油 ── カトリックで、死期の近い病者に司祭が聖油を塗って祈る儀式。現在は「病者の塗油」と呼ばれるの儀式を受けていたそうです。
息を引き取った後、妻がその手に十字架を握らせたとも伝わります。ただしあきさんは、これらは自伝や伝記の記述であり、敬虔なカトリックだったことを伝えるために誇張された可能性もあるとして、正直わからない部分だと断っています。
フランスの英雄であるパスツールは国葬で送られました。遺体はパリのノートルダム大聖堂へ運ばれて盛大な葬儀が営まれ、1年3か月ほど大聖堂に安置された後、パスツール研究所の地下に完成した霊廟へ移されました。
霊廟は建築家シャルル・ジローの設計で、イタリアのラヴェンナにあるビザンチン様式 ── 東ローマ(ビザンツ)帝国で発展した建築・美術様式。ドーム屋根や金地のモザイク画が特徴の霊廟に倣って造られました。金色のモザイク画が天井や壁を覆い、ブドウとホップ、桑と蚕、ニワトリ、羊、狂犬病の犬と立ち向かった若者、ウサギなど、パスツールの研究を象徴する絵柄が描かれています。
(フランスを)愛して、その祖国を見捨てられないって言ったパスツールなのに、霊廟はイタリア様式なんだなって。
とみーさんのこの疑問に、あきさんは、蚕の研究を依頼された時期に半身不随になったパスツールが療養を兼ねて過ごした場所が、イタリア北部の街だったことに関係しているのではないかと推測しました。
とみーさんが検索したところ、ラヴェンナは東ローマ帝国のイタリア支配の拠点として栄えた都市でした。二人は、蚕を救った思い出の地の建築様式をフランスで取り入れたのかもしれない、という推測で話をまとめています。
ペスト菌、食作用、BCG——弟子たちは何を受け継いだのか
パスツールの死後、その研究所からは多くの成果が生まれました。あきさんは、パスツールと直接関わった弟子たちを紹介します。
一番弟子ともいえるエミール・ルーは、狂犬病ワクチン開発の際、ウサギの脊髄を乾燥させる手法をパスツールに取られた人物です。ルーは別の弟子アレクサンドル・イェルサンとともに1888年にジフテリア毒素を研究し、パリでジフテリア血清療法の大規模な臨床試験を成功させて、多くの子どもの命を救いました。
血清療法そのものは1890年にドイツのエミール・ベーリングが発見したもので、ベーリングは北里柴三郎から多くの助言を受けていました。あきさんは、やり方を見つけたのはベーリング、実用化まで持っていったのがルーとイェルサンだと整理しています。
イェルサンは1894年、香港でペスト菌を発見しました。日本からは北里柴三郎が調査に送り込まれており、二人はほぼ同時にペスト菌を発見したライバルでした。
当初、手柄は二人のものとされていましたが、北里の発表に誤りがあったことなどから、現在はイェルサンの発見とされ、学名もイェルサンにちなんだ「イェルシニア」になっています。あきさんによると、以前は北里の名前も含まれていたものの、後に消されてしまったといいます。
ちょいちょい挟まれる宣伝がね。
宣伝というか、北里会がね、本当に面白かったんで、そこになんかこう被ってくるなと思って。
シャルル・シャンベランは、今も実験室や病院で使われる滅菌装置オートクレーブ ── 高温高圧の水蒸気で器具などを滅菌する装置。圧力鍋と同じ原理で、100℃を超える温度を保てるを考案した人物です。熱をかけられないものについては、細菌をろ過する陶器製のフィルターも考案しました。
エリ・メチニコフは、白血球が病原体を食べて処理する食作用という免疫の仕組みを発見し、1908年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。アルベール・カルメットとカミーユ・ゲランは結核を防ぐBCGワクチンを開発し、1921年に初めて人に使用しています。
| 人物 | 功績 | 年 |
|---|---|---|
| エミール・ルー、アレクサンドル・イェルサン | ジフテリア毒素の研究と血清療法の大規模臨床試験 | 1888年〜 |
| アレクサンドル・イェルサン | 香港でペスト菌を発見 | 1894年 |
| シャルル・シャンベラン | オートクレーブと陶器製の細菌ろ過フィルターを考案 | ― |
| エリ・メチニコフ | 食作用の発見でノーベル生理学・医学賞 | 1908年 |
| アルベール・カルメット、カミーユ・ゲラン | BCGワクチンを開発し初めて人に使用 | 1921年 |
パスツール研究所は今もフランスの名門として、優れた研究者を輩出し続けているとあきさんは締めくくりました。
常識を疑う力と政治力——10回を終えて二人が感じたこと
パスツール編を終えるにあたり、とみーさんは、途中で出産を挟んだことも長く感じた理由だったと振り返ります。収録中も赤ちゃんの声が入るかもしれない状況だったそうです。
とみーさんが最も印象に残ったのは、パスツールが常識に縛られず、自分の直感や違和感を信じ、それを観察で実証していく姿勢でした。光学異性体の発見も白鳥の首フラスコの実験も、地道な研究と観察で常識をひっくり返した例だといいます。
あきさんも、これが普通だと思い込むと見えているはずのものが見えなくなると応じ、パスツールはそうした思い込みを打ち破ってきたと語りました。そのうえで、他人の手柄を取ってしまった面もあると付け加えています。
名を残す活躍をするには政治力って大事ねみたいな気持ちもあります。
とみーさんは、良いものを作れば売れるという考えより、売れるための努力をするマーケティングに近い感覚もパスツールの話から感じたと話しました。あきさんは、良かれ悪しかれそういう面は避けられないのが人間の営みなのかもしれないと答えています。
次回からは別シリーズが始まる予定で、あきさんはテーマを検討中としつつ、もう少し近代の話にしようと考えていると明かしました。
まとめ
パスツール編の最終回は、70歳の祝典から死と霊廟、そして弟子たちの功績までを通して、栄光を追い求めながらも多くの命を救う技術を遺した科学者の姿を描きました。疑惑や秘密主義も含めて語られたことで、その偉大さと人間らしさの両面が浮かび上がります。
- 1892年の70歳祝典では、パスツールの理論から消毒外科を生んだリスターと抱擁を交わした
- コッホとの確執は最後まで解けず、秘密主義や手柄の問題は近年のノート調査で明らかになった
- コッホの弟子・北里柴三郎を温かく迎え、「祖国を見捨てられない」という言葉が北里にも影響したとあきさんは見ている
- 1895年に72歳で死去し、国葬の後、ビザンチン様式の霊廟に眠っている
- 弟子たちはジフテリア血清療法、ペスト菌の発見、食作用、BCGワクチンなどの成果を残した


