自然発生説の次に待っていた「カイコの死」という難題
前回、パスツールは白鳥の首フラスコの実験で、微生物の自然発生説に決着をつけました。
微生物が勝手に生まれてくるという当時の常識に対し、微生物は微生物からしか生まれないという説が、15年に及ぶ論争の末に勝利したのです。
しかしパスツールは、同じ時期にまったく別の仕事にも着手していました。それがカイコの病気の解明です。
蚕ってシルク?
シルクの蚕ですね。
当時、カイコの病気はフランスのシルク産業に大きなダメージを与えていました。生糸の生産を守ることは、フランスという国が強く求めていた課題でした。そこでパスツールに白羽の矢が立ちます。
推しだった科学者からの依頼と、日本が支えたヨーロッパの絹
話は1865年にさかのぼります。この仕事を持ってきたのは、ジャン・バティスト・デュマでした。
デュマは、パスツールが学生時代に憧れていた化学者です。まだ学生でなかった頃のパスツールが、大学で行われる科学の実演授業を見に行き、科学の面白さに目覚めるきっかけとなった人物でもありました。
その後パスツールはデュマの教室に入り、弟子となります。今回の依頼は、かつての師からの声がかりだったわけです。
当時、フランス南部では養蚕業が盛んでしたが、カイコが次々に死に、生糸の生産量が激減していました。フランス経済を支える産業が根底から揺らいでいたのです。
あまりの深刻さに、ヨーロッパの業者たちは日本から生糸やカイコの卵を輸入して、なんとか乗り切ろうとしていました。ちょうど日本では横浜が開港したばかりの時期でした。
前橋で作られた生糸は、その名のままロンドンやリヨンで大人気だったと語られています。幕末に開港した日本が、ヨーロッパの蚕の危機を助けていたという側面もあったようです。
「虫に触れたこともない」化学者が故郷へ向かうまで
デュマから依頼を受けたパスツールですが、最初は断っていたといいます。
私は蚕に触れたことすら一度もありませんという風に、ちょっともう断ってたそうです。
化学者であるパスツールにとって、人ならまだしも、虫の病気はまったくの畑違いでした。かなり難色を示したのです。
それでもデュマは一生懸命に説得を続け、パスツールはついにこの仕事を受けることにします。
向かった先は、南フランスのアレという町でした。アレはパスツールが生まれた町でもあります。自分の故郷の危機を、自分の力でなんとかしようという思いもあったと考えられます。
この時、パスツールは42歳。ここからパリとアレを行き来しながら、5年間にわたる長期滞在と泊まり込みの調査が始まります。
皇帝夫妻の厚遇と、特許の勧めをきっぱり断った理由
ここで少し当時の政治の話が挟まれます。この頃のフランスは、再び帝政に戻っていました。
君臨していたのはナポレオン三世です。英雄ナポレオンの甥にあたる人物で、二月革命後の共和制で大統領となり、その後クーデターを経て皇帝となって独裁権力を握りました。第二帝政の始まりです。
共和制になったり王政復古が起こったりと、フランスの政治体制はめまぐるしく変わっていました。そのナポレオン三世が、パスツールに招待状を送ります。
実は皇帝自身が、カイコの研究の解明を強く望んでいました。ぜひパスツールにやらせてほしいと、デュマに示唆したとも言われています。
パスツールは皇帝夫妻に招かれ、コンピエーニュ城に1週間滞在します。そこで手厚い接待を受け、皇帝夫妻のファンになったようです。
皇后のウジェニーはコレラや教育について意見を求め、パスツールは自分の指を針で刺して血の一滴を顕微鏡で観察させるなどして、科学の大切さを伝えたと語られています。
この滞在中、皇后はパスツールに、発見を特許にして研究資金を得てはどうかと勧めます。ところがパスツールは、これをきっぱり断りました。
産業応用の誘惑に負ける学者は、それによって純粋科学の人間であることをやめてしまう。
今なら大きな発見を特許にしてお金に変えるのは当たり前でしょう。しかし当時のパスツールには、純粋科学者はお金を稼いではいけないという信念があったようです。私は科学者だと言い切ったのです。
原因を突き止めたはずなのに、なぜかカイコは死に続けた
話をカイコに戻します。現地に入ったパスツールは、まず病気の観察から始めました。
病気のカイコの体には、黒い胡椒をまぶしたような無数の斑点が出ていました。これはペブリンと呼ばれる病気です。ペブリンとは黒胡椒を意味するフランス語だといいます。
この小さな粒を微小体と呼びます。顕微鏡で覗くとびっしり詰まっており、これが病気の病原体だろうと想像がつきました。
そこでパスツールは、母カイコの体に微小体が出ていた場合、その卵を捨てるという戦略をとります。病気を次の世代に引き継がせないためです。
微小体は蛾になってから体に現れます。そこでパスツールは、卵を産み終えた母蛾を一匹ずつ解剖し、顕微鏡で微小体が見つかればその卵を捨てるよう農家に頼みました。
これでうまくいくはずでした。ところが、この方法をとってもまたカイコが死ぬという報告が、あちこちから舞い込んできます。
いけるはずなのに、なぜ病気が残るのか。パスツールは四苦八苦することになります。
病気は一つではなかった――もう一つの敵「軟化病」
顕微鏡でカイコを解剖し、いろいろな部分を観察し続けたパスツールは、やがて一つの真相にたどり着きます。
病気は一つではなく、二つあったのです。一つは微小体が起こす微粒子病。もう一つは、それとは無関係の軟化病でした。
軟化病は、虫の消化器がやられて死んでしまう病気です。
軟化病は柔らかくなっちゃう病気って書くやつですね。
そうですね。柔らかくなっちゃう病気。溶けるように死んでしまうみたいな感じみたいですね。
微小体が原因で、顕微鏡で粒として見える。母蛾を調べ、卵を捨てることで対処できる
微小体とは無関係。消化器がやられ、溶けるように死ぬ。目に見える決め手がない
研究の最中に相次いだ家族の悲劇と、45歳での異変
この研究のさなか、パスツールをいくつもの悲劇が襲います。
依頼を受けたばかりの1865年6月、パスツールが深く尊敬していた父が息を引き取ります。
さらに同じ年のうちに、2歳の息子カミーユを肝臓の病いで、続いて12歳の娘セシルを腸チフスで失います。
それ以前にも長女ジャンヌを亡くしており、5人生まれた子どものうち3人が亡くなったことになります。この時期に立て続けに子を失ったのです。
ワクチンのない時代であり、病気になるとあっさり死んでしまう、子どもの死亡率が高い時代だったことがよくわかります。そんな中でパスツールはカイコの病気に立ち向かっていました。
軟化病はなかなか解決がつきませんでした。1868年には皇帝夫妻がソルボンヌの研究室を直々に視察するという栄誉もありましたが、その年、45歳のパスツールは脳卒中で倒れてしまいます。
だいぶ若いよね。
だいぶ若いですね。
当時は脳卒中を、脳に悪い血が溜まっているせいと考え、頭をヒルに吸わせる治療が行われていました。パスツールは一命を取り留めたと本には書かれていますが、治療との関係はおそらくないだろうと語られています。
結果として、左半身に麻痺が残りました。それでも研究意欲は衰えず、頭は相変わらず切れていたといいます。
半身不随でも止まらない――国の代表として託された研究
療養するパスツールを、皇帝夫妻が訪ねます。そして、アドリア海に面したヴィラ・ヴィチェンティーナという広大な地所を提供しました。
この地所は、元はナポレオン一世の妹の所有地だったといいます。皇帝夫妻は、ここで大規模なカイコの飼育実験をしながら病気を解明してほしいと勧めました。パスツールはこの申し出を受け、療養しながら研究を続けます。
ナポレオン三世夫妻のパスツール優遇は、国を代表する研究者という立ち位置ゆえのものなのか。
とみー さんからの質問
デュマをはじめとする研究者たちから、これを解明できるのはパスツールしかいないという推薦が数多くあったようです。皇帝自身も彼の業績を信頼しており、周囲の助言も相まって託されたと語られています。
周りがみんなパスツールが科学者の代表トップランナーみたいな。
トップランナーみたいな。なので半身不随になっても、いや頼むよと。休ませないよみたいな。
嬉しい悲鳴だね。
目に見えない敵にどう挑んだか――軟化病との格闘
この時点で、二つの病気のうち微粒子病は解決が見えていました。母が微粒子病を持っていれば、その卵を捨てることで完全に対処できたのです。
問題は軟化病でした。こちらには微小体のような、目に見える決め手がありませんでした。
軟化病の正体は、実はウイルス病だったことが今では判明しています。当時の顕微鏡ではウイルスは見えず、病原体を取り出す手段がありませんでした。
病原体そのものが取れないため、パスツールは卵を取る前の成虫の消化管を調べ、細菌の兆候を探しました。実際には細菌ではなくウイルスだったため、この方法は空振りに終わります。
観察を続けるうちに、軟化病にかかった親から生まれた卵の一部が、育てる途中、とりわけ4回目の脱皮の頃に同じ病気で全滅することがわかってきました。
そこで、環境が悪いのではないかという説にもなり、飼育小屋の換気を良くする、水のついた葉を食べさせないといった対策を試みます。
風通しを良くして綺麗な環境で育てることには、ある程度効果がありました。軟化病を完全になくすことはできませんでしたが、病気が広がらないという点では一定の成功を収めます。パスツールはこの成果を皇后ウジェニーに報告しました。
5年間の努力の果てに待っていた、皮肉な結末
1865年に依頼を引き受けてから、1870年に47歳を迎えるまでの5年間、パスツールはカイコの病気に力を尽くしました。
その功績に報いようと、ナポレオン三世は1870年7月27日、パスツールを終身上院議員に任命する勅令に署名します。政治家としてのポジションも与えようとしたのです。
ところが、これは叶いませんでした。普仏戦争が始まってしまったのです。
この戦争でフランスは大敗し、ナポレオン三世も捕らえられ、第二帝政そのものが崩壊します。皇帝の勅令も当然ながら無効となりました。政治体制がリセットされ、議員というポジションも消えてしまったのです。
政治に振り回され、せっかく得るはずだったポジションも失われてしまったのでした。
観察と論争、そして政治力――浮かび上がるパスツール像
ここまでの歩みを振り返り、とみーはパスツールの頭の良さに感心します。
まあ何でも精緻な観察が、観察力がすごいんだなって。
観察をしっかり重ね、そこから仮説を立てて原因を究明していく。その姿勢が一貫していると語られます。
一方で、パスツールには別の一面もあったといいます。あきによれば、彼はかなり論争好きで、論破したがる傾向がありました。
白鳥の首フラスコの時なんかも、別にそこまで喧嘩吹っかけられてないのにも関わらず、ガンガン議論しに行って潰しに行くみたいな。
負けん気が強く好戦的で、さらに弟子が見つけたものを自分のものにするような側面も、今後の回で出てくると予告されます。
同時に、アピール力や政治力の高さも際立っていたといいます。科学者にもある程度そうした能力は必要だろうとしつつ、権謀策略めいた面もある人物だと語られました。こうした一面も、今後少しずつ紹介されていく予定です。
まとめ
自然発生説に決着をつけたパスツールは、虫に触れたこともないまま故郷のカイコ研究に飛び込みました。原因を突き止めたはずでもカイコは死に続け、病気が二つあったこと、そして軟化病が目に見えないウイルス病であったことが、彼を苦しめました。相次ぐ家族の死と自身の半身不随を抱えながらも歩みを止めず、しかし努力の末に得るはずだった名誉は、戦争によって失われます。
- 化学者パスツールは、師デュマの説得と故郷への思いから、畑違いのカイコの病気に挑んだ
- 病気は微粒子病と軟化病の二つあり、目に見える微粒子病は卵の選別で対処できた
- 軟化病は当時見えなかったウイルス病で、環境改善である程度の抑制にとどまった
- 研究の5年間に父と3人の子を失い、45歳で脳卒中に倒れながらも研究を続けた
- 終身上院議員の勅令は普仏戦争と第二帝政の崩壊で無効となり、努力は皮肉な結末を迎えた



