家畜を襲った「呪われた牧草地」とは何か
今回のパスツールが向かうのは、人間ではなく家畜の病気です。1870年代後半、彼が立ち向かうことになったのが炭疽病でした。
炭疽病はフランス語でシャルボンと呼ばれます。これは石炭という意味で、感染した家畜の皮膚に石炭のように黒くただれた病変ができることに由来する名前だと説明されています。炭疽病 ── 炭疽菌によって起こる感染症。牛や羊などの家畜が感染し、人にも感染することがある。皮膚が黒く壊死する症状などが特徴。
19世紀のフランスで、この病気は牧畜業を営む人々にとって悪夢でした。地域によって被害は凄まじく、オーベルニュ地方では家畜の10から15%、ボース地方では20から50%が炭疽病で命を落としたとされています。
さらに厄介だったのが、一度炭疽病の家畜が出た牧草地は、何年経っても危険なままだった点です。病気の家畜を殺しても、同じ場所で羊を飼うとまた発病してしまいました。
農民たちはこうした土地を「呪われた牧草地」と呼んで恐れていたと語られています。パスツールは、この謎に乗り出していくことになります。
炭疽病の正体を突き止めた、21歳下の田舎医者
炭疽病の正体を最初に突き止めたのは、実はパスツールではありませんでした。1876年、ドイツの片田舎ボルシュタインで開業医をしていたロベルト・コッホが、炭疽菌の純粋培養に成功し、この菌こそ病気の原因だと実験で証明します。ロベルト・コッホ ── ドイツの細菌学者。結核菌やコレラ菌の発見で知られる。細菌学の基礎を築いた人物で、日本の北里柴三郎の師にあたる。
このときコッホは32歳、パスツールは53歳でした。およそ21歳年下の、当時はまだ無名だったドイツの田舎の医者に先を越された形になります。
今や相当有名ですよね。ロベルトコッホ。
(ロベルト・コッホは)もうかなり有名ですね。日本の微生物学の父である北里柴三郎の師匠にあたる方になります。
ただし当時のコッホは、研究者ですらありませんでした。ボルシュタインという小さな町の地区の医療官で、奥さんから贈られた顕微鏡を診察室の一角に置き、そこを実験室として研究に取り組んでいたと語られています。
コッホは牛の目から取った水晶体液を培養液にして炭疽菌を培養し、ガラススライドの上で顕微鏡を使って観察しました。菌が伸びて糸状になり、内部に芽胞という状態の丸い粒を作っていく様子をじっくり見ていたといいます。芽胞 ── 細菌が栄養のない過酷な環境で生き延びるために作る、硬い殻に囲まれた休眠状態。長期間、土の中などで生存できる。
コッホが作った「原因菌を特定する」証明方法
コッホの功績は菌の観察だけではありません。彼は、ある菌が本当に病気の原因だと証明する方法そのものを作り上げました。
この手順を繰り返し、いつも同じ病気になることを確かめて原因菌を特定します。後にコッホの三原則、四原則と呼ばれる考え方の基礎になりました。
コッホはこの成果を植物学者のフェルディナント・コーンに手紙で発表します。驚いたコーンはコッホをブレスラウ大学に招き、数日かけて手法を実践してもらいました。
この方法はコーンや病理学者たちを驚かせ、コーンの勧めで論文として発表されます。こうしてコッホは一躍、世界に知られる人物になったと語られています。
ミミズが運んだ芽胞と、パスツールらしい嫌味な反論
パスツールがこの分野に乗り出したのは、コッホの発見からおよそ数年遅れてのことでした。彼が着目したのは、炭疽菌が芽胞という頑丈な状態で土の中に潜んでいるという点です。
芽胞が何年も土の中で生き延びられることを、コッホはまだ証明できていませんでした。そこでパスツールは農家への聞き込みを始めます。
ある農民から、何年も前に炭疽病で死んだ羊を埋めた場所は土が黒っぽくなっていて、そこで放牧するとまた家畜が死ぬという話を聞き出します。パスツールは、ミミズが地中深くまで潜って土とフンを食べ、地表に排出することで炭疽菌の芽胞を運んでいるのではないかと仮説を立てました。
実際にミミズのフンに含まれる土をモルモットに与えると発病することを確かめ、炭疽病で死んだ家畜を牧草地に埋めないよう農家に助言し、この結果を医学アカデミーに発表します。
ところが、炭疽菌が土の中で何年も生き延びるという考え方自体に懐疑的な声がありました。年配の獣医学者ガブリエル・コリンは、以前からパスツールの説に異を唱えてきた人物で、この土壌生存説にも反対します。
これに腹を立てたパスツールは、彼らしい嫌味な調子で反論を展開しました。
私が土の塊を手に取った時に炭疽菌が見えるのは、そこにある炭疽菌に気づくからだ。同じことをコリンがやっても何も見つからないのは、彼が間違えているからだ。
真実に通じる道は一本で、間違える道は無数にある。コリンはいつも後ろの道を進む。
コッホからも批判が届きます。炭疽菌が原因だと証明したのは自分であり、パスツールの研究室は何も新しいことを見つけていないと主張しました。
さらにコッホは、ミミズの腸から芽胞は見つからず、パスツールの培養技術は自分より劣っているため、別のところから炭疽菌が混ざって土が汚染されたのではないか、と激しく反論したと語られています。
100年越しに正しさが証明された、農家の直感
次々と湧いてくる反論に、パスツールはその都度、弁明と反論を重ねていきました。
興味深いのは、パスツールのミミズ仮説が科学的にきちんと実証されたのが、ごく最近だという点です。ミミズの腸を通っても炭疽菌が生き延びられるかを確かめる実験が確認されたのは、2009年のことでした。
つまり、この論争はおよそ100年ものあいだ、決着のつかないまま残っていたことになります。
だってさっきの話だって(決着が)130年後に証明されたとかさ。気が長いよね。
パスツール自身も、なぜ農家の言うことが正しいのか厳密には証明できていませんでした。それでも、農家が経験から語ることは正しいのだろうと感覚的に信じて発信していたとされています。
偶然ではなかった「弱毒化ワクチン」の発見
炭疽病そのものに入る前に、もう一つ触れておきたい出来事があります。1879年、パスツールの研究室では鶏コレラの研究が進んでいました。
チームは鶏コレラ菌を鶏の肉汁を培地に培養し、綿栓をしたガラス容器で保存していました。綿栓は雑菌の侵入を防ぎながら、空気中の酸素は少しずつ内部に通すという役割を果たします。
ここで重要なのは、パスツールがジェンナー以来、2番目にワクチンを発見した人物だという点です。ただし、その方法はジェンナーとは違っていました。ジェンナー ── エドワード・ジェンナー。天然痘に似た軽い病気「牛痘」を接種することで天然痘を防ぐ種痘法を確立した、ワクチンの先駆者。
天然痘に似て症状の軽い牛痘という別の病気を接種し、本物の天然痘を防ぐ
同じ菌そのものを弱らせてから接種し、毒性の強い本物の菌に備える
パスツールのやり方は、菌としては同じものを弱らせるという点にミソがあります。この「弱らせる」という発想が、後の展開の核になります。
伝記でよく語られるのは、鶏コレラの培養液を夏の休暇中に放置し、古くなったものを鶏に注射したところ、本来なら死ぬはずの鶏が死ななかった、というエピソードです。
さらに毒性の強い培養液を同じ鶏に注射しても死ななかったことから、これはワクチンとして使えるのではないか、と偶然に気づいた、という美しい話です。
しかし実際は、こんな偶然の発見ではなかったことが後にわかっています。この種の逸話の多くは、パスツールが晩年、甥に書かせた伝記が元になっているためです。
(パスツールは)その甥に書いてもらった伝記に、美しい話ばっかりを書かせたんですね。
そのため品行方正なイメージが広まっていますが、実際のパスツールは、あちこちで喧嘩をし、弟子の手柄を横取りしたともいわれる、かなりドロドロした人物だったと語られています。
実験ノートが明かす、地道な試行錯誤
ただ、あきはこの鶏コレラの話を「ちゃんと調べるとパスツールはすごい」と感じるといいます。その根拠が、パスツールの残した実験ノートです。
パスツールはこのノートを「全て燃やせ」と言っていたとされますが、実際にはフランス国立図書館に寄贈され、後にドロドロした話が明らかになる資料の一つになりました。
ノートを詳しく調べると、パスツールがどの菌をどのタイミングでどう扱うべきか、手探りしていた様子がわかります。生き延びた鶏に8日後にまた毒性の強い菌を打ったら、今度は死んでしまったという記録も残っていました。
つまり一度の偶然で免疫がついたのではなく、条件を何度も変えながら菌を弱らせる試行を繰り返していたと考えられます。
そうした試行錯誤の中で、手順が体系化されていきます。培養液を1日から8日おきに新しい培地へ植え継ぐだけでは、毒性はほとんど落ちませんでした。
一方、3か月から8か月ほど、あるいはそれ以上、蓋を開けたまま空気にさらし続けると、菌の毒性がかなり落ちることがわかってきます。パスツールはこの現象を弱毒化と名づけました。
最後の仕上げとして、弱毒化した菌を打った鶏と何も打っていない鶏の両方に、新鮮で毒性の強い菌を注射しました。弱毒化した菌を先に受けた鶏だけが生き残るという、完璧な条件を決めることに成功します。これが、菌を弱毒化してワクチンとして使うという世界で初めての例になりました。
パスツールに先んじていた、忘れられた研究者
話は炭疽病に戻ります。パスツールは炭疽病でもワクチンを作ろうとしますが、実は彼より先に成果を出していた人物がいました。獣医師のアンリ・トゥーサンです。
トゥーサンは1880年8月、フェノールという薬品で炭疽菌を弱毒化する方法を考えつきます。フェノールはタンパク質を変性させる劇薬で、指にかかると白く変色し、すぐ洗い流さないと火傷するようなものです。フェノール ── 石炭酸とも呼ばれる化学物質。強い刺激性を持ち、タンパク質を変性させる。消毒や実験に使われる。
トゥーサンは26頭の羊のうち22頭にワクチン接種を成功させ、その羊は炭疽病にかからなかったと発表していました。
一方、パスツールが別の方法で炭疽病ワクチンを作っていたのは、その半年ほど後の1881年2月から3月ごろのことだといいます。
ところが、トゥーサンの功績は当時ほとんど知られず、後世も長らく正当に評価されませんでした。炭疽病ワクチンを作ったのはパスツールだと、長い間思われてきたのです。
パスツールは、鶏コレラで用いた「酸素で菌を弱らせる」という酸素法を炭疽病にも当てはめようとしていました。発表の場でも、この酸素法でワクチンを作り、羊の実験で成功したと説明します。
200人が見守った、白黒つける公開実験
こうした状況の中、パスツールにある勝負が持ちかけられます。相手は農園を営む獣医師のイポリット・ロシニョールと、地元の農業協会会長モロー・ド・ラ・ロシェットでした。彼らはワクチンの効果に懐疑的で、公開の場での証明を求めてきます。
提案されたやり方は、非常に分かりやすいものでした。
羊60頭を用意
うち10頭は何も処置しない対照群とする
接種と非接種に分ける
25頭にワクチンを接種し、残り25頭には接種しない
12日後に毒性の強い菌を注射
接種群と非接種群の両方に毒性の強い炭疽菌を打つ
背景には、当時ワクチンという発想がほとんど信じられていなかった事情があります。パスツールは小規模な実験で成功したと言うだけで、ワクチンの作り方を正確に公表していませんでした。
そのため多くの人は、医者でも獣医でもない、ただの化学者にそんなことができるはずがない、と嘘つき呼ばわりし、公開の場でパスツールを笑い者にしようとしたのです。
パスツールはこの勝負を受けて立ちます。後に彼は、ラテン語のことわざを引いて「勇気あるものに幸運は微笑む」と振り返ったと語られています。
ワクチンがない時代に、病気を予防できるものを専門家じゃない人が開発しましたって言ったら、それが違う分野の有名人だったとしても信じられる?
ノーベル賞を取った物理学者が、俺はエイズを治せるようになったって言われてもね。
あなた別にその分野の人じゃないやんって。
1881年6月2日、劇的な結末
公開実験の舞台は、ロシニョールの農園があるパリ南東のプイ・ル・フォールです。1881年4月28日から準備が進められました。
用意された動物は、羊58頭、ヤギ2頭、牛10頭です。羊は接種24頭と非接種24頭、対照群10頭、ヤギは接種1頭と非接種1頭、牛は接種6頭と非接種4頭という内訳でした。
このなんか動物の種類がいろいろいるのも、実験としては良さそうだよね。
5月5日に1回目のワクチン接種、5月17日により毒性の強い培養液で2回目の接種が行われます。そして5月31日、いよいよ猛毒の炭疽菌そのものが注射されました。
1881年6月2日、結果を見ようと農場に200人を超える見物客が詰めかけます。政府関係者、新聞記者、イギリスのタイムズの記者、獣医師や医師、近隣の農民までが固唾をのんで結果を待ちました。
結果は劇的でした。ワクチンを接種していない羊は24頭中21頭がすでに死亡。見物人の目の前でさらに2頭が息絶え、残る1頭もその日のうちに死にました。非接種のヤギも死に、非接種の牛は死ななかったものの高熱と大きな腫れに苦しんでいました。
一方、ワクチンを接種した羊、ヤギ、牛はすべて健康そのものでした。集まった人々は言葉を失うほど驚いたと伝えられています。
接種した羊のうち1頭が翌日に死にますが、解剖の結果、炭疽病ではなく妊娠中の事故が原因と確認されました。懐疑的だった獣医師の中には、その場でパスツールの熱心な支持者に転じた人もいたといいます。
この結果は瞬く間にフランス中に広まり、1890年代半ばまでに300万頭を超える家畜にこの炭疽病ワクチンが接種されました。パスツールは一躍、時代のヒーローになります。
何十年も隠された、公開実験の裏側
ところが、この成功にも裏話があります。パスツールは科学アカデミーで、炭疽菌を42度から43度の環境で酸素に触れさせ続けて毒性を弱める、という酸素法を発表していました。
しかし、実際にプイ・ル・フォールで使われたワクチンは、酸素法で作られたものではなかったことがわかっています。
そんなことある?
これを明らかにしたのは、歴史家のジェラルド・ガイソンです。彼がパスツールの実験ノートを調べたところ、酸素法での小規模な予備実験では、なかなか安定した結果が出せずにいたことがわかりました。
一方、弟子のシャルル・シャンベランは、先に成果を出していたライバル、トゥーサンが使った薬品による弱毒化法をヒントに、独自に重クロム酸カリウムという薬品を使う方法を試していました。そしてこちらはきちんとした結果を出していたのです。
42〜43度で酸素に触れさせて弱毒化する。予備実験では安定した結果が出なかった
弟子シャンベランが仕上げた重クロム酸カリウムを使う方法。安定した結果が出ていた
パスツールはこの薬品法が、トゥーサンが先に発表したやり方をヒントにしていることを知っていました。だからこそ「自分たちは酸素法でやっている」と強く主張していたのではないか、と語られています。
嘘つきのええかっこしいじゃん。
嘘つきのええかっこしいなんですよね。
本来なら脚光を浴びるべきはトゥーサンでしたが、公開実験でよい結果を出したパスツールが名声を得て、先に発見したトゥーサンは忘れられた存在になっていきました。
パスツールは何の発見者で、何の発見者ではなかったのか
ここで、あきはパスツールの功績を公平に振り返ります。鶏コレラでは、病原体となる菌を弱らせたものでワクチンを作れると、世界で初めて証明したのがパスツールでした。
この発想があったからこそ、パスツールは薬品で炭疽菌を弱らせるという方針にも進めました。トゥーサンにはこの「弱毒化ワクチン」という考え自体がなく、同じ地点にはすぐたどり着けなかっただろうと考えられます。
つまり、パスツールは鶏コレラワクチンの発見者ではあるが、炭疽病ワクチンの発見者ではないというのが、今わかっている事実です。
(炭疽病ワクチンの発見者ではないというのは)厳密にはね。
すごい発見と、パクリと隠蔽。その両方を抱えたまま、パスツールはさらにスターダムを駆け上がっていきます。次回、彼はついに人の病気に立ち向かいます。噛まれればまず助からないとされた狂犬病です。
まとめ
炭疽病ワクチンの公開実験は、パスツールを時代のヒーローに押し上げた歴史的成功でした。しかしその裏には、先んじた研究者トゥーサンの功績や、公表とは違う方法を使った事実が隠されていました。英雄譚の光と影の両方を知ることで、科学史の見え方が変わってきます。
- 炭疽病の正体を最初に突き止めたのは、パスツールより21歳下の田舎医者ロベルト・コッホだった
- 炭疽菌がミミズによって運ばれるというパスツールの仮説が実証されたのは、およそ100年後の2009年
- パスツールは鶏コレラで、菌を弱毒化してワクチンにする方法を世界で初めて確立した
- 1881年6月2日の公開実験は劇的な成功を収め、200人を超える見物客を驚かせた
- 公表された酸素法ではなく、ライバル・トゥーサンの手法をヒントにした薬品法が実際には使われていた

