カイコ研究の成功が、どれほど大きかったのか
前回まで、パスツールは5年越しでカイコの病気の解明に格闘してきました。今回はその成果が、いかに大きなものだったのかから話が始まります。
1870年の夏、パスツールは皇帝から勧められて、ヴィラ・ヴィチェンティーナで療養を兼ねてカイコ研究を続けます。ヴィラ・ヴィチェンティーナ ── ナポレオン3世が所有していた保養所。現在のイタリアにあり、当時パスツールはここでカイコの飼育実験を続けた。半身不随になりながらも、飼育実験を続けたと語られています。
この地でパスツールは、アルから運んだおよそ2.5〜3キロのカイコの卵で飼育を開始します。最終的に繭にしておよそ3トンの収穫を達成したと記録されています。
売上規模は2万2000フランで、ざっくり今の金額に直すとおよそ1億円ほどの総売上が出たとされています。当時のヨーロッパの養蚕業は最盛期の7割落ち込みという状態でしたが、この研究所ではこれだけの成果を上げました。
つまりパスツールは、病気にほぼ打ち勝つ飼育方法を提示できたということです。フランスのみならずヨーロッパの養蚕業が復活へ向かう道が、このやり方の踏襲によって見えてきました。
公表されなかった「終身上院議員」の勅令
この功績にフランス皇帝ナポレオン3世は大いに喜び、報いようとします。パスツールを終身上院議員に任命する勅令に、1870年7月27日付で署名しました。
ところが、この勅令が公表されることはありませんでした。理由は、パスツールを支えてきたナポレオン3世も、フランス帝国そのものも、このタイミングで崩れ始めることになったからです。
なぜ普仏戦争は始まったのか
パスツールがヴィラ・ヴィチェンティーナを引き上げてパリに戻ったのは1870年7月6日でした。その2週間後、事態は急変します。
1870年7月19日、フランスはプロイセンに宣戦布告します。これが普仏戦争の始まりです。普仏戦争 ── 「普」はプロイセン、「仏」はフランスを指す。プロイセンとフランスの戦争で、後のドイツ帝国成立につながった。
プロイセンは、当時いくつもの領邦に分かれていたドイツ諸国の中で最も強力な国でした。フランスを挑発して戦争に持ち込み、その勢いで周りの国々をまとめ上げ、戦後にドイツ統一を果たそうという狙いがあったと語られています。
(プロイセンは)フランスを挑発して戦争をして、その力を使って周りの国々をまとめ上げて、戦後にはドイツを統一しよう、ドイツ帝国を作ろうという狙いもあったみたいですね。
フランスはこの挑発に乗ってしまい、戦争を始めます。「プロイセンなど一撃で片付く」という楽観論を持ってこの戦争に挑んだとされています。
18歳の息子は従軍、47歳・半身不随の父にできたこと
パスツール一家も、この戦争と無縁ではいられませんでした。当時18歳だった一人息子ジャン=バティストが、東部方面軍に志願入隊します。
カイコ研究の間、パスツール一家には次々と悲劇が襲い、3人の子どもを亡くしていました。今度は長男を戦争に送り込むことになります。
パスツール自身はこの時47歳。2年前に脳梗塞で倒れ、左半身に麻痺が残ったままでした。戦場に立つことはできず、科学者として、そして父親として息子を送り出し、各地から届く戦況の知らせをただ聞くことしかできなかったと語られます。
それでも研究への情熱は止まらず、頭の中で研究を計画して文章を発表し続けたそうです。それを支えたのが妻のマリーでした。右手が思うように動かせないパスツールに代わって口述筆記を引き受け、実験記録の整理も手伝ったと伝えられています。
後に弟子のエミール・ルーは、マリーをパスツールの最良の協力者と評しました。戦争という非常時に、この夫婦は二人三脚で仕事を続けていたのです。
セダンの敗北と、一夜で消えた皇帝の地位
フランス国内の楽観論とは裏腹に、戦況はどんどん悲惨なものになっていきます。9月1日、フランス軍は北東部の街セダンで壊滅的な敗北を喫します。
さらに9月2日には、戦場に出ていた皇帝ナポレオン3世自身が捕虜となってしまいます。あきさんによれば、皇后はナポレオン3世に前線へ行くよう促していたとも言われています。
(ナポレオン3世が前線で)ここで死んでくれたら、息子がそれをその後継ぎにできると。
つまり、夫が人柱となって死ねば、息子を後継ぎにしてフランスをまとめ上げられる、という思惑があったのではないかと語られています。しかしナポレオン3世は突撃して死ぬことはせず、あっさりと白旗を上げて捕虜となり、皇后の思惑は外れました。
この知らせがパリに届くと、群衆が議事堂になだれ込みます。第二帝政の崩壊と、共和政の樹立が宣言されました。第二帝政 ── ナポレオン3世が皇帝として統治したフランスの帝政。1852年から普仏戦争での敗北まで続いた。
こうして、パスツールを終身上院議員に任命したはずの帝国も消滅しました。強力な後ろ盾を、パスツールは戦争の中で失ったことになります。
パスツール自身は皇帝に厚遇されながらも、若い頃には共和政を支持して全財産を寄付したこともある人物でした。皇帝への親近感と共和政への支持が入り混じり、この状況をどう見ていたのか気になるところだと、あきさんは話しています。
送り返した博士号――砲撃されたパリの博物館
皇帝が捕まってもフランスは負けを認めず抵抗を続けたため、プロイセン軍はパリを包囲します。やがて砲撃が始まり、市民は飢えと寒さの中で冬を過ごすことになりました。
砲弾はパリの自然史博物館にも撃ち込まれました。フランス科学の栄光を象徴するこの場所への砲撃は、パスツールにとって見過ごせない一撃だったようです。
パスツールはカイコ研究の功績を認められ、ドイツのボン大学から名誉医学博士号を贈られていました。しかし自国の科学の象徴が砲弾にさらされたことを知り、ボン大学の医学部長宛に博士号を送り返します。これは抗議の意思表示でした。
その後、医学部長からは記録には残っていないものの、無礼に満ちた罵詈雑言の手紙が送り返されてきたと伝えられています。
吹雪の中、最後の馬車で息子を探して
戦況が悪化するにつれ、パスツール一家は安全な場所を求めて移動を余儀なくされます。身を寄せたのが、パスツールの故郷アルボワでした。
ところがアルボワも戦場になってしまいます。プロイセン軍に追い詰められた東部方面軍が敗走する中で戦場となったのです。この東部方面軍は、長男ジャン=バティストが所属している軍隊でした。
1871年1月24日、パスツールは妻と娘のマリー・ルイーズとともに、街に残っていた最後の1台という馬車に乗り込み、雪の中を走り回ります。敗走する部隊のどこかにいるはずの息子を探し出すためでした。
一家がアルボワを離れた翌日の1月25日、プロイセン兵が街に押し入り、住民に手をつける事件も起きました。パスツールは、ほんの一日前に間隙を縫って脱出していたことになります。
雪でほとんど通れなくなった道を、馬車を壊しながら進むこと数日。1月27日、一家は一人の兵士を見つけ出します。それが息子ジャン=バティストでした。
一家はそろってスイス国境を越え、武装解除をしてスイスのジュネーブへ逃れることができました。なお息子はその後、再びフランスに戻って部隊に復帰したそうです。
講和条約で、思い出の地ストラスブールを失う
1871年1月、フランスは休戦協定を結び、敗北を認めます。同年5月10日にはフランクフルト条約が結ばれ、フランスは多額の賠償金とともにアルザス・ロレーヌ地方をドイツに割譲することになりました。
この地方がドイツ領になったことは、パスツールにとって非常に屈辱的なことでした。アルザスの中心都市ストラスブールは、彼が化学の助教授として最初に教壇に立った場所だったからです。
ストラスブールは、学長の娘マリーと出会い、一生懸命口説いて結婚した思い出の土地でもありました。自分が科学者として歩み始めた場所がドイツ領になってしまうのが、非常に悔しかったようだと語られています。
フランスは負けて、皇帝は捕虜になり。
(皇帝は)捕虜になり、賠償金を支払って、アルザス・ロレーヌ地方(を失う)。
なお捕虜となったナポレオン3世は、最終的にロンドンへ亡命したとされます。皇后と息子とも再会し、政治に返り咲こうとする動きもありましたが、それは叶わず亡くなりました。フランスはこの後、第三共和政が今日まで続いていくことになります。
共和政の国が忘れなかった、終身年金という栄誉
今回のエピソードで語られるパスツールの状況は暗いものが続きますが、少し嬉しい出来事も起こります。3月28日、国民議会がフランスの養蚕業にもたらした経済的功績を認め、年に1万2000フランの終身年金を贈る法律を可決しました。
この年金は後にさらに2万5000フランへと増額されます。皇帝が用意するはずだった終身上院議員の地位は帝政もろとも消えましたが、共和政となった新しい国は、パスツールの功績を忘れていなかったのです。
ただし、これはただ栄誉を受け取っただけではありませんでした。パスツール自身も、半身不随でありながら国に貢献したこと、働くのがつらいことを訴えて働きかけをしたと語られます。医学者出身の国会議員ポール・ベールが、裏で法律を通すために尽力してくれたそうです。
ドイツへの一矢――なぜビールだったのか
多くのものを失ったパスツールは、ドイツに何か一矢報いたいと考えます。そこで向かった先がビールでした。
(ドイツで)ビール産業をフランスで勃興させてドイツビールを潰してやろうと思ったんですね。
確かにそれができたら、すごいこう、鼻を明かす感じがありますね。
パスツールは、ドイツに間違いなく凌駕されているこの産業分野で我が国に貢献したい、と書き残しています。ワインはフランス、ビールはドイツというイメージへの対抗心があったのです。
もう一つの理由が、失ったアルザス地方でした。アルザスはホップの産地で、フランス有数のビール醸造地だったのです。ホップ ── ビールの苦味や香りづけに使われる植物。ビール醸造に欠かせない原料の一つ。
この地がドイツ領になった際、市民はフランス国籍かドイツ国籍かを選ぶことができたとされます。フランス国籍を選んだ人々は故郷を捨てて西へ移住し、パリなどでビール作りを再開したと言われます。パスツールには、こうした人々を支えたいという思いもあったのではないかと語られています。
ドイツが凌駕する産業分野で貢献し、鼻を明かしたかった
ホップの産地を失い、西へ移住した人々を支えたかった
低温殺菌法をビールへ――「国民の復讐のビール」
パスツールは、クレルモンフェラン近郊のシャマリエルにあった醸造所に足を運び、ビールの研究に着手します。手法はカイコやワインと同じく、顕微鏡でビールの中身を観察することでした。
発酵に必要な酵母と、ビールを酸っぱくしてしまう厄介な微生物を見分ける。こうしてビールの製造効率を上げ、腐る原因を取り除いていく研究を始めます。
そしてパスツールは、液体を一定の温度に加熱してから急速に冷やすことで、風味を損なわずに雑菌だけを死滅させる方法にたどり着きます。これはワインで編み出した低温殺菌法(パストライゼーション)をビールに応用したものです。低温殺菌法 ── パストライゼーション。液体を高温にしすぎず加熱して有害な微生物を殺す方法。パスツールが確立し、その名にちなむ。
同年、パスツールはこのビール保存法について特許を出願します。国内向けには国民の復讐のビール、国外向けにはフランスのビールと名付けたと伝記に記されています。
このやり方は本にもまとめられ、英語などにも翻訳されました。しかしドイツから翻訳の話が来た際には、絶対にドイツ語にはさせないと拒んだそうです。ドイツへの憎しみがいかに強かったかがうかがえます。
フランスでは実らず、アメリカで花開いたアイデア
ドイツへの反撃として始めたビールの製造法でしたが、結局そう広くは受け入れられませんでした。特許を活用するための会社まで設立されたものの、パスツールが考案した装置や手法はほとんど売れず、フランス国内では大した成果が残せなかったようです。
一方、加熱してビールを長持ちさせるアイデアは、後のアメリカで花開きます。バドワイザーで知られるアンハイザー・ブッシュ社が、パスツールの研究をヒントに瓶詰めビールの低温殺菌を導入し、遠距離輸送を可能にして急成長を遂げました。
バドワイザーの工場には、なんかパスツールの銅像が置いてあったりとかするみたいですね。
ただし、この特許はおそらく切れていたうえ、パスツールが生きていた時代の話ではないため、彼にお金が入ることはなかったとされています。
10か月ですべてを失った男が、次に向かう分野
1870年7月の開戦から1871年5月の講和条約まで、わずか10か月ほどの間にパスツールを取り巻く世界は一変しました。支えてくれた皇帝は捕虜となり、終身上院議員の地位は幻に終わりました。
思い出の地ストラスブールは異国の地となり、ボン大学の博士号は自ら送り返しました。カイコ研究で栄光の頂点にいたはずのパスツールは、一瞬ですべてを失ったかのようでした。それでもビールで一矢報いようとし、次の研究へと向かっていきます。
カイコ、ワイン、ビールの研究で磨き上げたのは、微生物を見分けてコントロールするという手法でした。この手法が、次回は全く違う分野で生きてくることになります。
(次に有益になるのは)医学で人間にとって有益になるわけではなくて、産業動物ですね。牛とか羊とかの病気に対して有益になるというところが出てきます。
今回のエピソードは、パスツールが激動のフランス近代史の中で私生活まで揺さぶられた10か月を描くものでした。次回は、その微生物を見分ける手法が牛や羊などの病気へと向かっていくことが予告されて、話は締めくくられます。
まとめ
普仏戦争の10か月で、パスツールは皇帝という後ろ盾、故郷ストラスブール、そしてドイツからの名誉を失いました。それでも彼は共和政の国から終身年金という栄誉を受け、ビールという意外な形でドイツへの反撃を試みます。
- カイコ研究の成功で栄光の頂点にいたパスツールだが、署名済みの終身上院議員の勅令は帝政崩壊とともに公表されなかった
- セダンの敗北でナポレオン3世が捕虜となり第二帝政が崩壊、パスツールは最後の馬車で従軍中の息子を探し出した
- 講和条約で思い出の地ストラスブールを失い、ボン大学の名誉博士号は自ら送り返した
- ドイツへの一矢としてワインの低温殺菌法をビールに応用し「国民の復讐のビール」と名付けたが、フランスでは実らずアメリカで花開いた
- カイコ・ワイン・ビールで磨いた「微生物を見分けてコントロールする」手法が、次回は牛や羊など産業動物の病気へと向かう





