なぜ今「働く意味」から問い直すのか
今回のテーマは、労働や働く意味です。田代さんは、最近メンタルヘルスやプレゼンティズムについて考える機会があったと話します。
堀さんは、労働は改めて考えると難しいテーマだと言います。多くの現代人が労働を賃金とほぼ同じものとして見過ぎているというのです。
労働イコール賃金というふうに見過ぎている部分が、現代の人たちにはあると思うんですよね。労働はそもそもなんで行うのか。歴史的な観点から見ると、現代におけるような労働はまさに現代に作られているわけであって、それ以前の労働はもう少し違ったんです。
そこで二人は、現代の労働と過去の労働を対比するところから話を始めます。
農耕から産業革命へ、労働はどう変わったか
比較的新しい千年ほど前をさかのぼると、多くの人は自分の田畑を持ち、魚を取り、物々交換で暮らしていました。子供を作るのも労働力が欲しいからで、家族や小さな村そのものが経済圏だったと堀さんは説明します。
当時欲しがられたのは、塩や鉄など、生活に必要なものが中心でした。余ったものを大量にやり取りする経済圏は、あまりなかったといいます。
それが産業革命を境に変わります。一人の資本家が大量に稼ぎ、分配し、多くのものを作ることで、物と富の余剰が生まれました。
その結果、特権階級による富の独占が起きたと堀さんは指摘します。産業革命でいったんなだらかに見えたものの、現代でも同じ状況が起きているというのです。
現代はどっちかっていうと、まさにこれなんですね。特権階級が富を独占しているという状況が改めて起きている。その代表が、僕は好きなんですけど、イーロン・マスクですよね。日本でもやはり一部の株主が富を独占するということが今も起きている。
田代さんは、フランス革命の貴族と市民の格差のような形でなくても、資本主義の中の格差が大きいと応じます。消費も生活必需品だけでなく、ブランドのような記号消費が出てきていると話します。
マルクスとアレントに見る「労働の意味」
産業革命や民主化の中で「これはおかしいのでは」と現れたのがマルクスだと堀さんは言います。富の搾取や労働の考え方へのアンチテーゼを、資本論として示しました。
マルクスの掲げた共産主義そのものはほぼ生き残っていないと堀さんは言います。ただ、その考え方は正しいと考えているそうです。
マルクスあたりは、労働を賃金を稼ぐためのものではなくて、我々が自然だとか世界に何を働きかけて、そして自分自身の形成の手段であると捉えている。だけど、そういうふうに捉えている人ってあまりいませんよね。
堀さんは、労働を通じて自分が社会インフラになっているという認識が大事だと言います。しかし現状では、それが「歯車として搾取されている」という感覚に反転しやすいと指摘します。
「自分は本当はこんな仕事したくないのに」ってよく言う若者に「じゃあ何がしたいんですか」って聞いたら、ないんですよ。要は現状だけが嫌だ、自分が社会に働きかけているという認識が非常に低いんです。
田代さんは、医療・介護・福祉や教育、第一次産業など社会インフラ的な仕事ほど賃金が低くなりがちで、いわゆるブルシットジョブの方が稼げてしまう歪みがあると応じます。
話は労働の分類にも及びます。田代さんが挙げたハンナ・アレントの「労働・仕事・活動」を、堀さんが整理します。
堀さんによれば、労働は生命活動に関わるもの、仕事は何かを制作すること、活動は他者と共に公共世界に触れることだといいます。自分がどう社会にコミットするかを、この三分法で見ると分かりやすいと話します。
嫌なことから離れる働き方と、賃金という「数字」
堀さんは、自分は生産性が高いと感じたことはあまりないと言います。むしろ「嫌なことはやらない」を徹底し、嫌なことが見つかると離れてきた人生だと振り返ります。
最初に嫌だったのは書類仕事でした。担当制で自分の症例を他人が見ることがほぼなかったため、カルテを短く割り切って書いていたといいます。
しっかり書く人たちが残業して書いて、残業している人の方がカルテ不備が多いんですね。なのにその上司から僕が怒られるんですよ。「お前は適当にやりすぎだ」って。「なんで不備の人を怒らないんですか」ってよく喧嘩してました。
田代さんは、個人にとっては合理的でも、組織や感情の面では「ちゃんと考えていなさそう」と見えてしまう、その食い違いがストレスになると受け止めます。
堀さんは、組織の合理性は適切な記録を残すことではなく、早く帰る人を「手を抜いている」と精査せずに見ることにあった、と語ります。
話題は賃金と数字の問題にも移ります。堀さんは、労働そのものは布団を畳むことや朝食を作ることも含み、必ずしも賃金に結びつかないと言います。
一方で、誰かのために行う労働が社会参加につながり、その対価の代表が賃金だと整理します。ただ、賃金が数字になった瞬間に問題が生まれると指摘します。
その賃金が数字になってしまうと、たんに数字になるわけですね。その瞬間に、人は誰かと比較ができるようになる。自分は能力がある、能力が低いというように変えられて、比較級的に自分が苦しくなったり、誰かにマウントを取ったりということがあり得るんです。
昔と今、どちらの働き方がしんどいのか
理学療法士の現在の働き方について、堀さんは、18単位を綺麗に入れていくこと自体が難しく、時間的余裕はないと言います。カンファレンスや自己研鑽の時間も取られるためです。
一方で、堀さん自身の若い頃は9時5時ではなく、9時8時や9時9時という前提で働いていたため、時間的余裕があったのだと振り返ります。
仕事量そのものは昔の方がしんどかったと堀さんは言います。四週六休で有給もほぼ使えなかったといいます。それでも続けられた理由がありました。
なんでそれができたかっていうと、将来的にこの修行が必ず賃金に結びつけられるという、ある種マントラのように捉えているものがあったんです。ここで頑張れば将来高い給与を得られるという確信があった。
堀さんは、その確信は最終的に裏切られることがほとんどだと言いつつ、当時は気持ちをつなぎ止めていたと語ります。今の人たちは、それが約束されないこと自体が辛さの原因になると指摘します。
田代さんは、仕事量の多さだけでなく、それが未来につながると確信できるかどうかでメンタルの状況が変わると受け止めます。中年危機や、現場から管理職への変化でも同じことが起こりうると話します。
仕事量や労働時間は多かったが、修行が将来の賃金につながるという確信が支えになった
残業を抑える方向だが、努力が対価として返ってくる保証を見せられないことが辛さの原因になりやすい
堀さんは、理学療法も酪農や農業と同じく同じことの繰り返しに見えて、実は人との対話で日々変化していると言います。同じことをやっていないと気づくことが重要だと話します。
臨床・教育・研究、それぞれの生産性の見え方
堀さんは、理学療法を即時効果と経時効果の二つで見ていると言います。運動器のように徒手療法で即時効果が出やすい現場が好きだそうです。
経時効果だけを見ると、狙いが当たったか外れたか分からないといいます。担当制でなくなると自分の効果がチームの効果になり、労働の中の自分の立ち位置が見えにくくなると話します。
教育になると即時効果は出ません。堀さんは、四年間の変化で満足度が高くなればいいという形で見ていると言います。授業そのものより、授業後に考え直すリフレクションの時間を重視しているそうです。
授業を聞くこと自体で何かを得るというより、授業後に机に座って考え直してもらう、そのリフレクションの時間をどれだけ持てるか。教科書を一冊綺麗に終わることより、その教科書を後で見直そうとすること自体に重きを置いているんです。
田代さんは、自分の関わりで価値があったか分かりにくい仕事ほど、自分の中での軸を持っておかないときつくなると応じます。
堀さんは、対象の中に何かしらの傷跡を残すことを目標にすると言います。自分の学生時代も、授業内容より、自分で疑問を持って質問した内容をよく覚えていると振り返ります。
単に歩いたではなくて、うまく歩かせた。単に膝を曲げたではなくて、痛くなく膝を曲げた。そういう意味の生成をいかに作り出していくかが、セラピストや教職員としてはすごく重要かなと思います。
研究については、堀さんは臨床・教育・研究の三本柱のうち研究が一番苦手だと打ち明けます。成果が出ていないと感じるからだといいます。
その理由を、堀さんはショートゴール型かロングゴール型かの違いで説明します。自分はロングゴール型のため、論文一本ごとの満足度が得られにくいと言います。
積み重ねてきたものをはっと振り返るといっぱいあって、そこに連続性はあるんですけど、なんか「自分ってすごいでしょう」って思うところはない。だから研究は得意じゃないよなと思いつつ、諦めたら終わりなので継続的にはやっていくんです。
堀さんは、研究費を取るのがうまい人はショートゴール型が多く、大風呂敷を広げる人ほど通らないと言います。自分は人の顔色をうかがった研究はしたくない、と言い添えます。
肩書きに縛られないための「積分的」な視点
堀さんは、自分の研究は一貫して哲学を土台にしていると言います。本質論という「OS」の上に何を載せるかは変わっても、根っこは変わらないから継続できると話します。
田代さんは、それは労働的な仕事でも同じだと受け止めます。自分の土台やOSがあれば、表面的な内容が変わっても意味を感じて働けると話します。
堀さんは、指示待ちで作られたアイデンティティは危ういと指摘します。「本当にこれ自分がやりたかったことなのか」と問うときにクライシスが起きるというのです。
「あなたはこういうことをやってみたらどう」と言われて繰り返されている人たちは、ある種指示待ちになりがちなんですよ。だから僕にはクライシスはないが、悔しさはある。どっちがいいのかですよね。
田代さんは、現代日本の教育では与えられたものに応える人が多く、既存のルートに沿って働く分だけクライシスになりやすいと応じます。
堀さんは、ルールに従いすぎると、そのルールが急に変わったときにクライシスが起きると言います。例として、理学療法の業界が世代でまったく違うことを挙げます。
堀さんは、かつて専門学校の方が難関で、金沢大学の医療短期大学や広島大学が「後回しの受験先」だった時代があったと語ります。今ではその価値観が真逆にひっくり返っているといいます。
昔は専門学校の方がずっと難しかったっていうのはなかなか信じてもらえない。だから価値というものが変化していっているので、そういうクライシスは起こりやすい。
そこで堀さんは、状況が変化しうると気づいたときに、違うアプローチに行けるかどうかがレジリエンスだと言います。
自分を中心に置いて、社会が変わるべきだとなったときに、社会は変わりませんよと。専門職だから大丈夫、高学歴だから大丈夫となってしまうと、かなり失敗してしまうケースがあると僕は思います。
堀さんは、自分もつい母校のランキングを見て一喜一憂すると正直に打ち明けます。ただ、それをひけらかすのではなく、その後どう生きたかを考えることが大切だと話します。
最後に堀さんは、労働を時間的な経過として見る大切さを提言します。
労働を微分的に見るんじゃなくて、積分的に見る。一つの長い時間性の中で、過去現在未来のつながりをどう見ていくか。そう捉えないと、メンタルはすごく影響がありますよ。
まとめ
労働は賃金と同じものではなく、歴史の中で大きく形を変えてきました。二人は、目の前の生産性や単位数だけでなく、過去から未来へのつながりの中に働く意味を置くことが、メンタルを保つ鍵になると話しています。後半では、より理想的な働き方や未来をポジティブに生きる形を模索していきます。
- 現代人は労働を賃金とほぼ同義に見過ぎており、農耕から産業革命を経て富の独占が生まれた歴史がその背景にある
- マルクスやアレントに立ち返ると、労働は自己形成や社会への働きかけとして捉え直せる
- 昔と今の辛さの違いは仕事量よりも、努力が将来の対価につながると確信できるかにある
- 臨床・教育・研究では効果の見え方が異なり、自分の中に土台となる「OS」を持つことが軸になる
- 肩書きや資格の価値は時代で変わるため、変化に合わせて動けるレジリエンスと、労働を積分的に見る視点が重要
