当たり前を疑い、ルールを提案する番組
初回はまず番組コンセプトの整理から始まりました。「絶賛懐疑中」は、世の中の当たり前や習慣を懐疑的な視点で捉え直す番組です。
安斎さんは、毎回テーマを一つ決めて疑いをかけていくと説明します。ただ疑うだけでは愚痴で終わってしまうため、最後に新しいルールを一つ提案するのがこの番組の型です。
最後いろんなことを話したことを振り返って、ルールを最後一個決めるという。
二人はMIMIGURIで組織づくりを研究してきた立場から、仕事だけでなく人間のコミュニケーションや生活にも疑いを向けていくと話します。
会議のモヤモヤはどこから来るのか
記念すべき初回のテーマは「結局、いい会議って何?」。会議のない会社はなく、かといって完璧な会議をしている会社もない、という前提から話が始まります。
ちょっとダレてきたなとか、なんかちょっとうまくいってないかもなって思う時はあるじゃないですか。
安斎さんは、40歳を過ぎてから会議そのものを減らしてきたと言います。意味がないと感じたら出ない、を続けた結果、社内でも会議への出席が少ない人になっているそうです。
一方で、そのことが「会議とはそういうものだ」という諦めにつながっていることに気づきます。モヤモヤが減ってしまったのは、良くも悪くもだと振り返りました。
諦めをね、今日ちゃんとダメだって今思ったんで。疑っていきたい。
話が進むと、会議のモヤモヤは次々に挙がってきます。まず人数の多さ。20人30人のような会議では喋れる人が限られ、大半が聞き役になってしまいます。
さらに、目的がわからない会議や、準備なしでいきなりメインアジェンダが提示される会議も挙がりました。
ただ安斎さんは、こうした問題への処方箋は自著ですでに示してきたと言います。それでも会議が非生産性の象徴のままなのはなぜか、という疑問が残ります。
定例化と、発言しない人をめぐる論点
東南さんは、会議が形骸化する構造として「定例化」を挙げます。最初は目的があって設定された定例が、話題が尽きても場だけが残ってしまうのだと言います。
安斎さんはこれを「賞味期限」と表現します。人数や参加者の必要性が変わっても見直されず、出席がなあなあになっていく。それを問い直す権限が誰にあるのか曖昧なまま走り続けると指摘しました。
ここで話題は、会議で全く発言しない人へと移ります。安斎さんは、東南さんが発言しない人に厳しいのではと問いかけます。
東南さんの中の「いい会議」って、全員がガンガン発言する会議なんですか?
東南さんは、会議は必要な人だけを呼ぶべきで、聞くだけなら後から議事録を読めばいいと考えていると答えます。それは自分にも言えることで、意見を言わなくていいなら時間を縛られない方がありがたいという立場です。
一方で、決まっていく空気感や、悩んだ末に結論に至るプロセスを共有できることの価値も認めていると付け加えました。
全員がバリューを出すべきか
安斎さんは、東南さんの考えに共感しつつも、自分が苦手なカルチャーがあると打ち明けます。それは、会議にいる全員がバリューを出さなければいけない空気です。
そうした態度が浸透している企業は強いと認めた上で、それでも人間として居心地の悪さを感じると言います。
背景にあるのは、安斎さんが長く手がけてきたワークショップの思想です。そこにいること自体が参加である、という考え方です。
今日は作品を作りたい気持ちがないから、グループワークの中でただそこにいるっていうのも参加の形だよねって認めるのがワークショップの民主性なんですよね。
安斎さん個人にとってのいい会議は、自分が何もしなくてもメンバーが回してくれる会議だと言います。形骸化した定例でも、全体が回っているならそれでいいと思える部分があるそうです。
この話を受けて、東南さんは自分のモヤモヤをリフレームします。気になっているのは発言の多さそのものではなく、その場のアジェンダに向かえていないことの象徴として発言しない状態なのではないか、と。
会議は非合理な儀礼を引き受けている
安斎さんは、ミーティングは単体では生産性を上げられず、上位の課題と結びついた構造的なものだと説明します。血管のように張り巡らされていて、整合性はいとも簡単に切れてしまうと言います。
ただ、全ミーティングで整合性を突き詰めるのは大変すぎるとも指摘します。ここで持ち出されたのが、毎日の食事のたとえです。
毎日のお昼ご飯とか晩御飯を、全力で健康に良くて、全力で美味しいもの食べる必要ないじゃん。
東南さんも、昼を納豆ご飯に固定すると楽になり、その分夜の献立に向かえると応じます。会議も同じで、力を入れる場と抜く場の塩梅が大事だという流れになりました。
さらに安斎さんは、30代の頃は会議をもっとよくできると考えていたが、合理的な論理を超えて人間は会議をしたがると気づいたと語ります。
例として、内容も対象も決まっている講演の依頼でも、一回打ち合わせしましょうとなること、対面で会っておきたいと言われることを挙げます。これは非合理だからと否定されるべきではない、と安斎さんは考えています。
会議の人数についても同じで、3人でできる会議を7人でやっておきたい人もいる、と話が展開します。呼ばれないと寂しい、自分だけ外されたと思われたくないという配慮が働くこともあるためです。
あの子誘わないとね、みたいな話の感覚の延長にある気がしていて。
東南さんは、3人で話せるのに7人でという発想がなかったと気づき、会議を合理的に考えすぎていたかもしれないと振り返りました。
安斎さんは取締役会も例に挙げます。全員が手を挙げて決議する行為に意思決定上の合理性はなくても、責任を分散する儀礼性があると言います。
ここで、文化人類学の知見が引かれます。人間の儀礼は、不確実性や不安に対処するために存在するという考え方です。
この見方から、集まって儀礼的に会議をするからこそ分かち合えるものや、後の団結力に影響するものがあるのではないか、と二人は考えます。
会議は65点を目指そう
最後に、安斎さんは前提を整理します。会議は生産性のポテンシャルが膨大にあり、カレンダーを見れば組織の状態がわかるほど、会議づくりは組織づくりそのものだと言います。
ただし、100%合理的であるべきかというとそうではない。7人でやっておきたい、呼ばれないと寂しい、みんなで手を挙げて決めたいといった非合理を、会議は引き受けているからです。
東南さんは、組織の縮図として会議を良くする前提と、それだけではないという視点の両輪が大事だとまとめます。
そこで提案されたルールが「会議の生産性を上げすぎない」です。低すぎてもいけないが、突き詰めすぎると人間にとって重要な何かが損なわれる、という考えからです。
ちょっと内職できるぐらいがいいんですよ、会議って。
東南さんは、料理で言えば一汁一菜のようなものだと重ねます。毎回ごちそうを作ろうとしなくていい、という感覚です。
最終的な点数は、食事のたとえを経て70点から65点へと下がりました。納豆ご飯にたとえながら、二人は着地点を見つけます。
リスナーへの投げかけ
番組は、リスナーがビジネスや生活で感じる違和感やモヤモヤを募集しています。番組概要欄のフォームから、エピソードや気になる慣習を寄せられます。
感想はXでハッシュタグ「絶賛懐疑中」をつけて投稿するよう呼びかけられ、初回は締めくくられました。
まとめ
初回のテーマ「いい会議」は、会議の生産性を上げる話から、会議が引き受けている非合理な儀礼性の話へと展開しました。二人はその両方を踏まえ、生産性を上げすぎないという逆説的なルールにたどり着きます。
- 会議は組織の縮図であり、良くしていく努力は前提として重要
- 定例化は、目的と実態がずれて形骸化に向かいやすい構造を持つ
- 全員がバリューを出すべきという空気は、その場にいること自体を参加とみなす見方とは相性が悪い
- 会議には、責任の分散や不安の緩和といった非合理な儀礼性が含まれている
- 提案されたルールは「会議は65点を目指そう」。生産性を上げすぎない塩梅が大事


