縫い針と墨汁から始まった両腕のタトゥー
後編は、王谷晶さんの両腕のタトゥーの話から始まります。収録前の休憩中に話題になっていたもので、岩井圭也さんがどれくらいの期間をかけて入れたのかを尋ねました。
王谷さんがプロにタトゥーを入れてもらったのは、40歳を過ぎてからだそうです。そのきっかけは、20代の頃に自分で入れた「落書きみたいな」タトゥーでした。
自分で、縫い針に墨汁つけて。本当にプリズンタトゥー、刑務所で彫るやつを。
王谷さんは、40歳近くになって「この年でこの落書きみたいなのを入れているのは恥ずかしい」と感じたといいます。選択肢は除去するか、プロにカバーしてもらうかで、王谷さんは後者を選びました。
王谷さんの両腕がタトゥーで埋まっていった流れは、次のように整理できます。
20代
縫い針と墨汁で、自分で落書きのようなタトゥーを入れる
40歳近く
この年で落書きのようなタトゥーは恥ずかしいと感じる
カバー
除去ではなく、タトゥーアーティストに上から綺麗なタトゥーを入れてもらう
拡大
1つ入れると隙間が気になり、両腕がびっちり埋まる
一個入れると他が隙間に見えてくるんですね。
岩井さんが「左手が終わると今度は右手も空いてるよな、となる」と応じると、王谷さんは「こっちだけ入れてるのもバランス悪いしな」とうなずいていました。
あらすじでは説明しきれない、神の誕生の物語
本題は、10月5日に刊行された王谷さんの新刊『令和元年生まれ ルリカ50歳』です。岩井さんはすごく面白かったとしたうえで、あらすじを説明するのがものすごく難しい作品だと話します。
岩井さんが読み上げた版元の公式あらすじによると、舞台は首都が埼玉に移転した近未来の日本です。大手派遣会社で清掃員としてつつましく暮らす下村ルリカは、50歳の誕生日の夜、親友でルームメイトのゆあから、定年制度を破壊するための集まりだという怪しげな集団と引き合わされます。
その夜中、部屋に突入してきた警察官らしき男たちから逃げる際に、ルリカは右腕と右足を失う瀕死の状態に陥ります。昏睡から目覚めると、ドクター天才と名乗る男によって臓物機械「オルガンマシン」と融合し、異形の姿に改造されていました。
あらすじによれば、ルリカの望みは国民の義務である定年まで元気に過ごすことだけでした。この作品でいう「定年」は括弧付きのもので、今の社会でいう会社の定年とは意味が違うと、2人は確認しています。
王谷さんはこの作品を、ディストピアものの設定で若干SFの入った近未来の話だと説明します。岩井さんはジャンルとして強いて言えばボディホラー ── 肉体の変形・損壊・改造などを通じて恐怖や不安を描くホラーの一分野。映画ではデヴィッド・クローネンバーグ作品などが代表例とされますやSFアクションだとしつつ、もっと大きく感じたことがあるといいます。
僕は王谷さんは神話を書こうとしたんだなって思ったんですよね。神の誕生を書こうとしたんだっていうのをすごく思って。
岩井さんは、作中でルリカが神と称されるかもしれないと思わせる描写があることにも触れ、最後まで読むと「日本誕生みたいな話」に思えたと語っています。
2年止まった最終話と、主人公に最後まで付き合う書き手
『令和元年生まれ ルリカ50歳』は、小説すばる ── 集英社が発行する月刊の小説誌。エンターテインメント小説を中心に、連載や新人賞の発表の場となっていますでの月刊連載から生まれた作品です。王谷さんによると、最終話の1つ手前あたりで完全に頭が止まってしまったといいます。
(最終話を上げるまでに)本当に2年ぐらい、頭の中がぐちゃぐちゃだったんですけど、ようやく、あ、書けるっていうのが、何かのタイミングで来て。
同じ書き手として、岩井さんもこの物語のラストはすごく難しいと感じていたそうです。残り10ページほどでどう決着をつけるのかと思いながら読み進め、結末を読んで、やはり神話だと思ったといいます。
王谷さんはラストについて、ここまで付き合ってくれた読者が納得し、ルリカ自身も納得できる人生を歩ませられる形を考え、いろいろなパターンを書いては消したと振り返ります。最終的に、これこそがルリカの人生だと思えるものを引き当てたそうです。
岩井さんは、王谷さんの作品には主人公の味方で最後までいてくれるという安心感があると話します。それに対して王谷さんは、自分の書き手としての構えをこう表現しました。
いいことになっても、ひどいことになっても、とにかく主人公とは最後まで付き合うのが、まあ義務というか、務め。
岩井さんは、紙の値段が上がり、編集者から短くしてほしいと言われることもある今は、途中で突き放してしまう方が都合がいい面もあるかもしれないと話します。それでも最後まで付き合う王谷さんは、口で言うより難しいことをやっているのだろうと語りました。
なぜ「おばさんが暴れる話」なのか?
『令和元年生まれ ルリカ50歳』を書くきっかけについて、王谷さんはもっとスケールの大きい、SFやファンタジーの要素が入った話を書きたかったと振り返ります。『ババヤガの夜』などそれまでの作品は、突拍子もないことはあっても現実で起こる範囲内の話だったからです。
もう1つの動機が、おばさんが暴れる話を書きたいという思いでした。王谷さんは、50歳ぐらいの女性が主人公の物語は意外と少ないと話します。
これがおばあさんとかになると、またちょっと違ったジャンルあるんですけれども。おばさんって結構ブルーオーシャンだなと思って。
王谷さんによると、不倫や恋愛ものでも、お仕事系でもなく、おばさんが強大な力を持って大暴れしたらどうなるかという「与太話みたいな発想」から書けると思ったそうです。
岩井さんが「しかも、いい人のおばさんですもんね」と言うと、王谷さんはルリカについて、普通でどちらかというと気が弱く、人を押しのける野心もない、地味で目立たないタイプの人物だと説明しました。
王谷さんは、前作『ババヤガの夜』との違いもはっきり語っています。2作の主人公の対比は次のとおりです。
戦おうと思っている人が戦う話。王谷さんは自分の中でがっつり書いたと話す
戦おうと思っていない人が、ものすごい力を手にしたらどうなるかを書いた話
最長の500枚と、読み飛ばせる文章
岩井さんによると、この作品は500枚以上ある長編です。普段は刈り込んで短くするタイプの王谷さんにとっても、これまでで最も長い作品になったそうです。
王谷さんは、単行本化にあたって連載時よりもさらに削ったと話します。それでも、物語の風呂敷を広げて閉じるまでには、これくらいの枚数が必要な話だったのかもしれないといいます。
私別に読み飛ばすの悪いことだと思ってないんで言っちゃうんですけど、読み飛ばせるような部分が多い文章になってるなとは感じられるかなと思いますね。
岩井さんは、『ババヤガの夜』の緊密な文章に比べて、ルリカの物語はより一般文芸寄りの文体だと感じたそうです。王谷さんは、主人公の視点で綴る話なので、ルリカの混乱や考えが脱線していく様子も含めてアクション小説に取り入れてみたかったと説明します。
岩井さんは、『ババヤガの夜』の新道依子に感情移入するのは難しいけれど、ルリカは多くの人が「自分にもこういう面がある」と思える人物で、感情移入しやすく読みやすいと話しました。
現実が最悪すぎて、悪役が書けない
連載後の直しについて、王谷さんは大きな変更はないものの書き込みはしたと答えます。表現をマイルドにしてほしいと言われた部分もいくつかあったそうです。
そこから話は、ディストピアを書く作家ならではの悩みに移ります。王谷さんは、ゆっくり書いているうちに現実の世界の方がどんどん最悪になってきたと話します。
あらゆるそのフィクションを作ってる人は今最も困ってるであろう、悪役を書くのがむずい。現実がめちゃめちゃすぎてっていう。
王谷さんによると、『令和元年生まれ ルリカ50歳』には、一個人として明確な悪意を持って悪をなす悪役は実は出てきません。ザ・悪役を出すのが今は難しいと考え、システムの悪さを書くことを意識したそうです。
岩井さんも、誰を書いても現実の誰かや何かに似てしまうという難しさを感じていると話します。この作品は現実のさまざまな問題を想起させつつ、結果的に程よい距離感になっていると評しました。
王谷さんは、書いているうちに制度や世の空気が変わり、離したつもりが現実の方から寄ってきてしまった部分もあると振り返ります。
私がやっているその不謹慎なことより、リアルの人のやってる不謹慎の方が結構度合いが強くないですか?って思ったりして。
王谷さんは、フィクションの悪はある程度筋が通っていないと読者に納得してもらえないのに、現実の悪は「そうはならんやろ」というものばかりだと話します。2人が語ったフィクションと現実の悪の違いは、次のように整理できます。
筋が通っていないと読者が納得しない。現実の悪人よりちゃんとした悪人を書かざるを得ないこともある
しっちゃかめっちゃかで筋がない。そのままフィクションにすると「めちゃめちゃすぎる」で終わってしまう
岩井さんは、大谷翔平選手のような二刀流が漫画に出てきたら編集者にダメ出しされるだろうと例えます。王谷さんも、将棋の藤井さんでも「ないない」と言われてしまうと応じました。
岩井さんは事件ものを書く立場から、現実の事件は最後まで理由がわからないことが大半なのに、小説では動機を書いてしまうと話します。何の論理もない悪に「背景がある」とお墨付きを与えているのではないかと、虚しくなることもあるそうです。
理由があった方が、まあお話としては綺麗にまとまるけど、これこれこういう理由があってこうなっちゃいましたよって、納得してもらうことが果たしていいことなのかっていうのは。
納豆が好きなのと同じように暴力が好き
悪役の背景を書きすぎることへの迷いから、話は『ババヤガの夜』の主人公に移ります。岩井さんは、主人公の暴力性に、幼少期のトラウマや血筋といった強い理由が書かれていない点を、ある種リアルで素敵だと評価します。
王谷さんは、その点は意識して書いたと話します。女性がアクションするフィクションでは、復讐のためなど具体的な理由がないと入り込みにくいとされがちだといいます。
王谷さんが目指したのは、男性もののアウトロー作品のように、妖怪や怪異のようにふらっとやってきて暴力を振るって帰っていく存在でした。
(主人公の暴力の)理由は、本当に生まれながらに、なんか納豆が好きなのと同じような感じで暴力が好き。
岩井さんは『令和元年生まれ ルリカ50歳』についても、全てが必然になっていると話します。「〜だわ」のような特徴的なセリフ回しのキャラクターも、単なる色付けではなく、そのキャラクターだからこそ展開が起こるという矢印ががっちり噛み合っていると感じたそうです。
純文学のフィールドは「怒られゼロ」?
今後も長いものを書きたいかと聞かれた王谷さんは、得意なのは短編だろうとしつつ、長編を書く楽しさも味わったので、また長めのものをやれたらと話します。
王谷さん自身は基本的にエンターテインメントの書き手でありたいと考えています。ところが、なぜか『文學界』や『文藝』といった純文学系の雑誌でも書いており、本人もその理由がよくわからないといいます。
『ババヤガの夜』も初出は『文藝』でした。王谷さんはプロットの時点で「これいいんすか?文藝で」と確認したものの、編集者が「いいっすよ」と言ったので、載せたのはそっちの責任だと笑います。
岩井さんは、王谷さんの作品はジャンルを軽やかに飛び越えるというより、「関係ないよ」とぶち破っている感じがすると話します。毎回何らかの仕掛けがあり、最近は純文学の方が書き方のチャレンジに積極的だと感じているそうです。
いろんな小説ジャンルありますけれども、純文が一番何やっても怒られないっていう。
王谷さんは、原稿が遅いことは別として、内容について純文学のフィールドで怒られたことはゼロだと話します。2人が語ったエンタメと純文学の編集の違いは、次のように整理できます。
セオリーやキャラの立て方、素材について編集者から指摘が入ることがある。NGもある
王谷さんの経験では、内容について怒られたことがゼロ
岩井さんは、『ババヤガの夜』がエンタメ系の雑誌だったら、いろいろもっと言われていた可能性があると考えます。王谷さんによると、『ババヤガの夜』は全体のトーン調整のためにグロテスクなシーンを少し削りましたが、ルリカのグロシーンについては何も言われなかったそうです。
男性中心だったスプラッターパンクを、いま自分で
『令和元年生まれ ルリカ50歳』には、人間が真っ二つになったり臓物がすりつぶされたりする場面も出てきます。岩井さんは、苦手な人もいるかもしれないと前置きしています。
王谷さんは、80年代から90年代に欧米で一時流行したスプラッターパンク ── 1980年代後半に英米で注目されたホラー小説の潮流。過激な流血や身体破壊の描写を特徴とし、クライヴ・バーカーらが代表的な作家とされますを読み手として好んできたといいます。クライヴ・バーカー ── イギリスの作家・映画監督。短編集『血の本』シリーズで知られ、映画『ヘルレイザー』の原作・監督も務めましたの『血の本』シリーズが今度復刊することにも触れています。
スプラッターパンクってやっぱり読み手も書き手も結構男性が多かったジャンルではあったと思うんで、それを今現代自分でやれたら楽しかろうなっていうのは。
岩井さんは、最近ボディホラーっぽい作品が増えていると話し、王谷さんも映画でも小説でも増えている気がすると応じます。特に、痛みなどをテーマとして扱う映画が増えたというのが2人の実感です。
各ジャンルのお作法を守らない書き手に届いた『anan』の依頼
岩井さんは、『君の六月は凍る』にも仕掛けがあると触れ、エンタメと純文学のちょうど真ん中でやっているからこそ書ける小説ではないかと話します。
王谷さんは、各ジャンルのお作法をあまり守っていないので、しっかりしたジャンルの場からはあまり声がかからないと話します。その代わり、ノンジャンルの場からは気軽に声をかけてもらえるそうです。
王谷さんが最近驚いた依頼が、雑誌『anan』の、年に一番売れるらしい「愛とセックス特集」の短編小説でした。王谷さんは、自分のような書き手でいいのかと確かめたといいます。
「愛とセックス特集」なんで、そのような内容にはしていただきたいですけど、組み合わせはどのようなものでも結構ですと。
王谷さんはこの気風のいい返事を受けて「ようござんす」と引き受け、楽しく書いたそうです。男性の裸体の表紙の号を田舎の両親が買ったらしく、王谷さんは「そっか、買ったか」と思ったと笑います。両親はとても応援してくれているそうです。
野球に興味がないのと同じ。男女の関係を書かない理由
岩井さんは、王谷さんが以前のインタビューで「クィアな話以外は意識しないと書けない」と話していたことに触れます。王谷さんは、言い方は悪いとしつつ、男女の関係に興味が薄いのだと説明しました。
その例えとして王谷さんが挙げたのが、スポーツへの興味の薄さです。コンビニのキャンペーンなどで見かける野球選手やサッカー選手の旗は、自動フィルターで透明にしてしまっているといいます。
王谷さんにとって、男女の関係は興味のランクがだいぶ下の方にあります。そのため、男女のカップルは次のような順番で物語に入ってくるそうです。
発想
男女の関係は、最初のアイデアとしては湧いてこない
ネタを練る
物語の展開を考えていく
必要に気づく
話の展開的に男女のカップルが必要かもしれないとなってから考え始める
なぜ女性同士、男性同士なんですか?って聞かれるのは、まあまだそういう過渡期なのかなっていう。
王谷さんは、村上春樹さんや渡辺淳一さんに「なぜ男女の話なんですか」と聞く人はいないと指摘します。岩井さんも、エンタメのプロット段階で「なぜ男同士なのか、意味がないならノイズになる」と言われた経験を明かしました。
王谷さんはこうした言われ方を、チェーホフの銃 ── 物語に登場した要素は必ず後で意味を持つべきだという創作上の原則。劇作家チェーホフの言葉に由来するとされますの良くない使い方だと話します。
現実はそうなってるので、小説のフィクションの世界でもそのように私はいたしますよというだけの。
岩井さんは、自分はストレートなので気持ちをどこまでリアルに書けるかというハードルはあるとしつつ、書かない理由はむしろないと話します。王谷さんは逆に、男女ものをいつかがっつり書くなら、ホワイトカラーの職場を書くときと同じぐらい異性愛者に取材をしなければと考えているそうです。
確定申告をするバクチ打ちという仕事
何を書くにも、まず調べることとリスペクトが基本だと王谷さんは話します。岩井さんは、書き手に覚悟を求めることは、対象を特別視していることの裏返しでもあると指摘しました。
王谷さんにとっての覚悟は、お行儀の良さではなく、間違った方に進んでも自分で責任を取ることだといいます。岩井さんも、全責任が著者にあるほうが気が楽なタイプの人が小説家になっているのだろうと話します。
王谷さんは、当たるにしろ外れるにしろ、卓に上がるなり馬券を買うなりしないと始まらないと続けます。岩井さんは、作家を8年ほど続けてきて、手応えと結果は本当に伴わないと最近感じていると明かしました。
手応えがあっても世間的には無風ということもあるため、2人の結論は、全部頑張るしかないというものでした。王谷さんはそれを麻雀の言葉で「全ツッパ」と表現しています。
話は締め切りに移り、王谷さんは担当編集者に向けて、甘やかさず、訴えられるぐらいリマインドしてほしいと呼びかけます。本当に忘れている場合があり、絶対に訴えないそうです。
次回作もバイオレンス。大藪春彦以来の「暴力作家」へ
今後の予定について、王谷さんは具体的に決まった刊行はないものの、書く約束をしている作品があると話します。いまは3つほどのネタをこね回している最中だそうです。
王谷さんは、どのネタも調べ物が必要そうで、まったく知らない分野の勉強を一からやらなければいけないかもしれないといいます。「学校真面目に行ってればよかった」とこぼすと、岩井さんも作家になってからの方が勉強すると共感しました。
(小説家に)なるだけだったら全然高卒でもなれるんですけど、なった後が結構大変な。
いまは資料を読んだり取材の計画を立てたりする時期だという王谷さんに、岩井さんは次回作にもバイオレンスがあるのかを尋ねます。王谷さんは、そろそろ違うものをとも思ったものの、やはり書きたくなってしまうと話します。
岩井さんは、王谷さんは王谷晶というジャンルを確立したのではないかと話し、それが羨ましいと語ります。王谷さんは恐縮しつつ、「変なバイオレンス作家」としてやっていけたらと答えていました。
まとめ
王谷晶さんの新刊『令和元年生まれ ルリカ50歳』は、戦うつもりのない普通のおばさんが強大な力を手にする物語であり、岩井圭也さんはそこに神の誕生を描く神話を読み取りました。対話からは、主人公に最後まで付き合う姿勢、現実に追い越される時代の悪の描き方、ジャンルにとらわれず責任を自分で引き受ける書き手としての構えが浮かび上がります。
- 新作は、戦おうと思っていない50歳の女性が異形の力を手にする、ディストピアSFとボディホラーの要素を持つ物語
- 連載の最終話前で約2年止まりながらも、王谷さんはルリカ自身が納得できる人生を探して結末を書き上げた
- 現実の悪が筋なく過激になるなか、王谷さんは個人の悪役ではなくシステムの悪さを書くことを意識した
- 男女の関係を中心にしないのは興味の濃淡の問題で、現実に多様な人がいる以上フィクションでもそう書くという考え
- 小説家は「確定申告するバクチ打ち」であり、結果が読めないからこそ全部頑張るしかないと2人は語った







